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横浜地方裁判所川崎支部 昭和57年(ワ)107号 判決

原告

大村森作

外一二七名

右原告ら訴訟代理人弁護士

矢島惣平

長瀬幸雄

久保博道

加藤満生

鈴木繁次

木村和夫

星山輝男

林良二

武井共夫

同(三次訴訟のみ)

小島周一

三野研太郎

横山國男

伊藤幹郎

三浦守正

岡田尚

飯田伸一

猪狩庸祐

岩村智文

篠原義仁

杉井厳一

西村隆雄

根本孔衛

村野光夫

児嶋初子

畑谷嘉宏

小林章一

平岩敬一

関一郎

森田明

馬場俊一

福田盛行

佐藤卓也

輿石英雄

岡本秀雄

畑山譲

川又昭

岩橋宣隆

同(二・三次訴訟のみ)

山田泰

山内忠吉

根岸義道

稲生義隆

堤浩一郎

小口千恵子

森卓爾

山本一行

大河内秀明

牧浦義孝

三竹厚行

同(二・三次訴訟のみ)

滝本太郎

岡村共栄

岡村三穂

中込光一

鈴木宏明

増本一彦

増本敏子

長谷川宰

野村正勝

中込泰子

同(三次訴訟のみ)

松本素彦

福所泰紀

池田純一

原希世巳

池田昭

同(二・三次訴訟のみ)

藤村耕造

同(二・三次訴訟のみ)

笹隈みさ子

前田留里

同(二・三次訴訟のみ)

宮田学

同(三次訴訟のみ)

間部俊明

同(三次訴訟のみ)

森和雄

原告ら訴訟復代理人同(一次訴訟のみ)

藤村耕造

同(一次訴訟のみ)

豊田誠

同(一次訴訟のみ)

鈴木堯博

同(一次訴訟のみ)

水野武夫

同(一次訴訟のみ)

木村保男

同(一次訴訟のみ)

滝井繁男

同(一次訴訟のみ)

久保井一匡

同(一次訴訟のみ)

長谷川正浩

同(一次訴訟のみ)

白川博清

同(一次訴訟のみ)

中村雅人

同(一次訴訟のみ)

犀川季久

同(一次訴訟のみ)

高橋勲

同(一次訴訟のみ)

白井幸男

同(一次訴訟のみ)

後藤裕造

同(一次訴訟のみ)

石井正二

同(一次訴訟のみ)

鈴木守

同(一次訴訟のみ)

千場茂勝

同(一次訴訟のみ)

竹中敏彦

同(一次訴訟のみ)

板井優

同(一次訴訟のみ)

内田茂雄

同(一次訴訟のみ)

吉野高幸

同(一次訴訟のみ)

高木健康

同(一次訴訟のみ)

鳥生忠佑

同(一次訴訟のみ)

中本源太郎

同(一次訴訟のみ)

斉藤義房

同(一次訴訟のみ)

高木輝雄

同(一次訴訟のみ)

榊原匠司

同(一次訴訟のみ)

松葉謙三

同(一次訴訟のみ)

谷口彰一

同(一次訴訟のみ)

滝本太郎

同(一次訴訟のみ)

前田留里

同(一次訴訟のみ)

宮田学

同(一・二次訴訟のみ)

間部俊明

同(一・二次訴訟のみ)

森和雄

同(一次訴訟のみ)

山田安太郎

同(一次訴訟のみ)

市川清文

同(一・二次訴訟のみ)

小島周一

同(一・二次訴訟のみ)

福田光宏

同(一・二次訴訟のみ)

山崎博行

同(一・二次訴訟のみ)

石田正也

同(一・二次訴訟のみ)

水谷賢

同(一次訴訟のみ)

南雲芳夫

同(一次訴訟のみ)

影山秀人

同(一次訴訟のみ)

中村宏

同(一次訴訟のみ)

山本英二

同(一次訴訟のみ)

鈴木義仁

山川元庸

村松昭夫

鈴木裕文

三木恵美子

折本和司

高橋宏

藤田温久

竹内浩史

三島健

竹内平

筧宗憲

西田雅年

中杉喜代司

関島保雄

松本篤周

井関和彦

古殿宣敬

渡部吉泰

佐藤知健

被告

日本鋼管株式会社

右代表者代表取締役

三好俊吉

右訴訟代理人弁護士

長島安治

伊集院功

大武和夫

内藤潤

藤枝純

岡村和美

井上澄夫

被告

東京電力株式会社

右代表者代表取締役

荒木浩

右訴訟代理人弁護士

西迪雄

成冨安信

向井千杉

高橋英一

庄司道弘

富田美栄子

小島俊明

被告

東燃株式会社

(旧商号 東亜燃料工業株式会社)

右代表者代表取締役

中原伸之

被告

東燃化学株式会社

(旧商号 東燃石油化学株式会社)

右代表者代表取締役

藤野芳郎

被告

キグナス石油精製株式会社

(旧商号 日網石油精製株式会社)

右代表者代表取締役

森利英

右被告三社訴訟代理人弁護士

畔柳達雄

花岡厳

手塚一男

阿部正幸

新保克芳

唐澤貴夫

被告

日本石油化学株式会社

右代表者代表取締役

犀川健三

被告

浮島石油化学株式会社

右代表者代表取締役

幸田重教

右被告二社訴訟代理人弁護士

武田正彦

阿部昭吾

雨宮定直

井窪保彦

片山英二

佐長功

北原潤一

被告

昭和電工株式会社

右代表者代表取締役

村田一

右訴訟代理人弁護士

板井一瓏

北原弘也

妹尾佳明

被告

ゼネラル石油株式会社

右代表者代表取締役

岡井政義

右訴訟代理人弁護士

奥平哲彦

舟辺治朗

湖山久

本橋美智子

被告

三菱石油株式会社

右代表者代表取締役

山田菊男

右訴訟代理人弁護士

田中慎介

久野盈雄

今井壮太

阿部隆

被告

昭和シェル石油株式会社

(旧商号 昭和石油株式会社)

右代表者代表取締役

鶴巻良輔

右訴訟代理人弁護士

梶谷玄

梶谷剛

永沢徹

大川康平

武田裕二

被告

東亜石油株式会社

右代表者代表取締役

八巻昭八

右訴訟代理人弁護士

矢野範二

坂本政三

被告

日本国有鉄道清算事業団

(元被告日本国有鉄道訴訟引受人)

右代表者理事長

西村康雄

右訴訟代理人弁護士

中川幹郎

齋藤健

水谷昭

右指定代理人

室伏仁

佐藤保明

被告

東日本旅客鉄道株式会社

(元被告日本国有鉄道訴訟引受人)

右代表者代表取締役

松田昌士

右訴訟代理人弁護士

中川幹郎

齋藤健

水谷昭

被告

右代表者法務大臣

三ケ月章

被告

首都高速道路公団

右代表者理事長

松原青美

右両被告指定代理人

鈴木健太

外一四名

被告首都高速道路公団代理人弁護士

奥毅

被告国指定代理人

伊藤勝則

外三三名

主文

一  被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同昭和電工株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社及び同日本国有鉄道清算事業団は、連帯して、後記の認容額一覧表記載一次訴訟原告番号1、同17及び同70の原告らに対し、同表認容額欄記載の各金員及び右各金員に対する同表遅延損害金起算日欄記載の各日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同昭和電工株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び同日本国有鉄道清算事業団は、連帯して、後記の認容額一覧表記載三次訴訟原告番号61の原告に対し、同表認容額欄記載の各金員及び右各金員に対する同表遅延損害金起算日欄記載の各日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

三  被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同日本石油化学株式会社、同昭和電工株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び日本国有鉄道清算事業団は、連帯して、後記の認容額一覧表記載一次訴訟原告番号6、同11、同31、同64―1ないし5、同71及び同78の原告らに対し、同表認容額欄記載の各金員及び右各金員に対する同表遅延損害金起算日欄記載の各日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

四  被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同キグナス石油精製株式会社、同日本石油化学株式会社、同昭和電工株式会社、同ゼネラル石油株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び同日本国有鉄道清算事業団は、連帯して、後記の認容額一覧表記載一次訴訟原告番号26、同85、同94―1ないし3及び同99の原告らに対し、同表認容額欄記載の各金員及び右各金員に対する同表遅延損害金起算日欄記載の各日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

五  被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同東燃株式会社、同東燃化学株式会社、同キグナス石油精製株式会社、同日本石油化学株式会社、同昭和電工株式会社、同ゼネラル石油株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び同日本国有鉄道清算事業団は、連帯して、後記の認容額一覧表記載の原告らの内右第一項ないし第四項記載一次訴訟原告番号1、同6、同11、同17、同26、同31、同64―1ないし5、同70、同71、同78、同85、同94―1ないし3及び同99並びに同三次訴訟原告番号61を除く原告らに対し、同表認容額欄記載の各金員及び右各金員に対する同表遅延損害金起算日欄記載の各日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

六  本件請求の内、次の請求をいずれも棄却する。

1  原告らの被告国及び同首都高速道路公団に対する金員支払請求。

2  原告らの被告浮島石油化学株式会社に対する金員支払請求。

3  後記の請求棄却原告目録記載の原告らの被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同東燃株式会社、同東燃化学株式会社、同キグナス石油精製株式会社、同日本石油化学株式会社、同昭和電工株式会社、同ゼネラル石油株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び同日本国有鉄道清算事業団に対する金員支払請求。

4(一)  後記の認容額一覧表記載一次訴訟原告番号1、同17及び同70の原告らの金員支払請求の内次の請求。

(1) 被告東燃株式会社、同東燃化学株式会社、同キグナス石油精製株式会社、同日本石油化学株式会社、同ゼネラル石油株式会社及び同東亜石油株式会社に対する金員支払請求。

(2) 被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同昭和電工株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社及び同日本国有鉄道清算事業団に対するその余の金員支払請求。

(二)  後記の認容額一覧表記載三次訴訟原告番号61の原告の金員支払請求の内次の請求。

(1) 被告東亜燃料株式会社、同東燃化学株式会社、同キグナス石油精製株式会社、同日本石油化学株式会社及び同ゼネラル石油株式会社に対する金員支払請求。

(2) 被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同昭和電工株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び同日本国有鉄道清算事業団に対するその余の金員支払請求。

(三)  後記の認容額一覧表記載一次訴訟原告番号6、同11、同31、同64―1ないし5、同71及び78の原告らの金員支払請求の内次の請求。

(1) 被告東燃株式会社、同東燃化学株式会社、同キグナス石油精製株式会社及び同ゼネラル石油株式会社に対する金員支払請求。

(2) 被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同日本石油化学株式会社、同昭和電工株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び日本国有鉄道清算事業団に対するその余の金員支払請求。

(四)  後記の認容額一覧表記載一次訴訟原告番号26、同85、同94―1ないし3及び同99の原告らの金員支払請求の内次の請求。

(1) 被告東燃株式会社及び同東燃化学株式会社に対する金員支払請求。

(2) 被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同キグナス石油精製株式会社、同日本石油化学株式会社、同昭和電工株式会社、同ゼネラル石油株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び日本国有鉄道清算事業団に対するその余の金員支払請求。

(五)  後記の認容額一覧表記載の原告らの内一次訴訟原告番号1、同6、同11、同17、同26、同31、同64―1ないし5、同70、同71、同78、同85、同94―1ないし3及び同99並びに同第三次訴訟原告番号61を除く原告らの被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同東燃株式会社、同東燃化学株式会社、同キグナス石油精製株式会社、同日本石油化学株式会社、同昭和電工株式会社、同ゼネラル石油株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び日本国有鉄道清算事業団に対するその余の金員支払請求。

七  本件訴えの内差止請求にかかる部分を却下する。

八  訴訟費用の負担は次のとおりとする。

1  原告らと被告浮島石油化学株式会社、同東日本旅客鉄道株式会社、同国及び同首都高速道路公団との間では全部原告らの負担とする。

2  後記の請求棄却原告目録記載の原告らと被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同東燃株式会社、同東燃化学株式会社、同キグナス石油精製株式会社、同日本石油化学株式会社、同昭和電工株式会社、同ゼネラル石油株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び日本国有鉄道清算事業団との間では全部右原告らの負担とする。

3(一)  後記の認容額一覧表記載一次訴訟原告番号1、同17及び同70の原告らにつき、右原告らと被告東燃株式会社、同東燃化学株式会社、同キグナス石油精製株式会社、同日本石油化学株式会社、同ゼネラル石油株式会社及び同東亜石油株式会社との間では全部右原告らの負担とし、右原告らと被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同昭和電工株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社及び同日本国有鉄道清算事業団との間ではこれを七分し、その一を右被告らの負担とし、その余は右原告らの負担とする。

(二)  後記の認容額一覧表記載三次訴訟原告番号61の原告につき、右原告と被告東燃株式会社、同東燃化学株式会社、同キグナス石油精製株式会社、同日本石油株式会社及び同ゼネラル石油株式会社との間では全部右原告の負担とし、右原告と被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同昭和電工株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び同日本国有鉄道清算事業団との間ではこれを四分し、その一を右被告らの負担とし、その余は右原告の負担とする。

(三)  後記の認容額一覧表記載一次訴訟原告番号6、同11、同31、同64―1ないし5、同71及び同78の原告らにつき、右原告らと被告東燃株式会社、同東燃化学株式会社、同キグナス石油精製株式会社及び同ゼネナル石油株式会社との間では全部右原告らの負担とし、右原告らと被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同日本石油化学株式会社、同昭和電工株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び日本国有鉄道清算事業団との間ではこれを七分し、その一を右被告らの負担とし、その余は右原告らの負担とする。

(四)  後記の認容額一覧表記載一次訴訟原告番号26、同85、同94―1ないし3及び同99の原告らにつき、右原告らと被告東燃株式会社及び同東燃化学株式会社との間では全部右原告らの負担とし、右原告らと被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同キグナス石油精製株式会社、同日本石油化学株式会社、同昭和電工株式会社、同ゼネラル石油株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び日本国有鉄道清算事業団との間ではこれを七分し、その一を右被告らの負担とし、その余は原告らの負担とする。

(五)  後記の認容額一覧表記載の原告らの内一次訴訟原告番号1、同6、同11、同17、同26、同31、同64―1ないし5、同70、同71、同78、同85、同94―1ないし3及び同99並びに同三次訴訟原告番号61を除く原告らにつき、右原告らと被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同東燃株式会社、同東燃化学株式会社、同キグナス石油精製株式会社、同日本石油化学株式会社、同昭和電工株式会社、同ゼネラル石油株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び日本国有鉄道清算事業団の間ではこれを七分し、その一を右被告らの負担とし、その余は右原告らの負担とする。

九  この判決の第一ないし第五項は仮に執行することができる。

認容額一覧表

原告番号

(一次訴訟)

原告名

認容額

遅延損害金起算日

1

大村森作

七四一万五〇八〇円

昭和五七年

五月二六日

2

相原タカ

六一八万四九九二円

同右

3

青木トミ子

六七二万二二〇四円

同右

4

浅里朋己

二〇五万六〇六八円

同右

6

伊藤豊秋

六五七万九六〇〇円

同右

8

苅部孫四郎

四六八万五〇四〇円

同右

9

川上幸作

六一二万七八六〇円

同右

10

倉持マチ

五九一万六六二〇円

同右

11

黒澤鉄三郎

三〇八万〇二二〇円

同右

12

黒沢トシ

三七〇万四六一二円

同右

13

佐野トミ

四六七万一五三六円

同右

14

渋谷ヤエ

五八六万二一〇〇円

同右

16

須藤フミ

一三八一万四五六〇円

同右

17

丹治ヤス

七〇三万一一〇〇円

同右

18

土屋登

四九七万〇三四〇円

同右

19

露木勇

七五万八四八三円

同右

20

服部末太郎

四六〇万五六八〇円

同右

22

前原徳治

五二一万六九九四円

同右

23

浦郷公恵

三四三万九二四〇円

同右

24

阿蒜愛子

六七二万九三七六円

同右

26

岩沢久子

二八一万九九八八円

同右

27

金井ふさ子

五一一万四三二〇円

同右

28

河合秀夫

八六万五三八四円

同右

29

木村しづ

六三四万三〇八〇円

同右

30

木村寅吉

五四七万六二四〇円

同右

31

小林ミヨ

三九〇万三九〇〇円

同右

32

佐々木綱之

八四四万五一六〇円

同右

34

佐々木ゆき

七二一万六七八八円

同右

35

佐藤實

六三九万七〇六〇円

同右

36

菅原きよ

一五〇万九二八六円

同右

37

田中音治

七七五万一五六〇円

同右

38

浜田美千子

六〇九万四二八八円

同右

39

深沢キク江

四一八万一二四四円

同右

40

布川キセ

一五三五万九二四〇円

同右

41

宮下良雄

三七四万二五六〇円

同右

42

山本正一

四八七万四六一六円

同右

原告番号

原告名

認容額

遅延損害金起算日

43

山本リヨ子

二〇六万七六四八円

同右

44

秋谷鉄五郎

八三四万〇二〇〇円

同右

45

阿部ふみ子

一五六万〇二八〇円

同右

46

色川キヨ

三六三万七六八〇円

同右

47

岩沢芳子

六六四万四八五六円

同右

48

宇井正

四八五万一〇〇〇円

同右

50

金時光

五六七万七八八〇円

同右

51

斎藤晴子

一〇三一万一〇四〇円

同右

52

柴原寿恵子

三〇五万五四四八円

同右

53

志村なつ子

一一八四万五二〇〇円

同右

55

中澤善之助

六四六万三五二〇円

同右

56

中澤セノ

七四八万三二〇〇円

同右

57

新妻トシ

三七二万二一一二円

同右

58

前橋カノ

三三二万三〇四八円

同右

59

横田ヤエ

五五五万四六六〇円

同右

60

吉永ソヤ

四五〇万二六一三円

同右

62

太田一彦

四四二万二三三六円

同右

63

川野一馬

七六五万四二九六円

同右

64―1

木村一郎

三八一万五三九〇円

同右

64―2

五十嵐浩子

九五万三八四七円

同右

64―3

木村光一

九五万三八四七円

同右

64―4

木村耕三

九五万三八四七円

同右

64―5

木村直司

九五万三八四七円

同右

67

坂上一子

四四九万九三〇〇円

同右

68

佐藤榮助

八三六万〇〇〇〇円

同右

69

佐原久子

五四七万六八一六円

同右

70

相馬喜徳郎

二二七万三〇八〇円

同右

71

滝沢正雄

一九二万〇五四〇円

同右

73

馬場ミツ子

四五四万五三八〇円

同右

74―1

増子玲子

四四〇万八七九九円

同右

74―2

石黒弘子

四四〇万八七九九円

同右

75

長沢ます

八四八万七九四〇円

同右

76

野田正

五八三万〇三〇四円

同右

77

野田美津子

六九三万七〇八四円

同右

78

野中八重子

七二〇万九七六四円

同右

80

我妻正一

一六五万二二八八円

同右

82

池田輝子

二三一万二二〇八円

同右

83

大橋昭二

一七八万二六八〇円

同右

84

柄沢富士子

一四七万四五四四円

同右

85

齋藤彦一

一九二万五九〇〇円

同右

86

櫻田與五郎

三九八万八〇四四円

同右

87

高世富子

二四三万七七八四円

同右

89

根岸善治

八三五万五三六〇円

同右

90

鈴木サツ

一三二万六八一一円

同右

91―1

浅里忠夫

一二八万七〇〇〇円

同右

91―2

平政子

一二八万七〇〇〇円

同右

92

土屋ツル

四一八万〇〇〇〇円

同右

94―1

干場よし

二二三万七七三三円

同右

94―2

江川康敬

二二三万七七三三円

同右

94―3

干場和子

二二三万七七三三円

同右

96―1

井田テル子

二三八万五五四〇円

同右

96―2

井田祐子

二三八万五五四〇円

同右

97

佐藤志津子

七万四二六〇円

同右

98―1

玉那覇トミ

三〇一万七〇二七円

同右

98―2

玉那覇栄徳

二〇一万一三五一円

同右

98―3

矢野エミ子

二〇一万一三五一円

同右

98―4

諏訪節子

二〇一万一三五一円

同右

99

高橋ミツ子

一〇九一万二〇〇〇円

同右

100―1

早坂良子

二三四万八〇六〇円

同右

100―2

大和田礼子

一一七万四〇三〇円

同右

100―3

早坂由美子

一一七万四〇三〇円

同右

100―4

早坂誠治

一一七万四〇三〇円

同右

100―5

早坂直美

一一七万四〇三〇円

同右

(二次訴訟)

21

牛山喜與司

二六二万二〇〇八円

昭和五八年

一二月二八日

29

藤田仁子

一二三万三四八〇円

同右

62

岩田綾子

一一八万一五九一円

同右

(三次訴訟)

7

早川きぬ子

一二八万〇三一四円

昭和六〇年

四月二日

48

石川晃

三〇二万一一八八円

同右

61

荻野公子

七六五万二三〇四円

同右

97

福原シマ子

三一〇万五一六〇円

同右

請求棄却原告目録

原告番号  原告名

(一次訴訟)

5   出浦智恵子

21   文鳳祚

25   伊藤公代

33   佐々木玲吉

49   エドワード・ブジョストフスキー

54   菅原公明

61   阿部喜八

72   田中孝作

79   皆川勉

81   永山善人

93―1 畑貞子

93―2 畑和夫

93―3 畑英宗

93―4 木下世津子

95―1 斎藤キミヨ

95―2 斎藤勝

95―3 下条恵美子

95―4 城間綾子

95―5 斎藤輝久

95―6 古谷晶子

(二次訴訟)

27   金泳奎

(三次訴訟)

46   宋﨎徳

事実及び理由

第一編原告らの請求及び事案の概要

第一章請求

一被告らは各自、

1  被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同東燃株式会社、同東燃化学株式会社、同キグナス石油精製株式会社、同日本石油化学株式会社、同浮島石油化学株式会社、同昭和電工株式会社、同ゼネラル石油株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び同東日本旅客鉄道株式会社は、第三分冊中の別紙被告企業事業所一覧表記載の各事業所において操業することにより、

2  被告国及び同首都高速道路公団は、第三分冊中の別紙道路一覧表(一)記載の道路を自動車の走行の用に供することにより、

それぞれ排出する二酸化窒素、浮遊粒子状物質につき、第三分冊中の別紙差止目録記載の原告らの居住地あるいは勤務地において左記の数値を超える汚染となる排出をしてはならない。

物質

数値

二酸化窒素

一時間値の一日平均値〇・〇二ppm

浮遊粒子状物質

①一時間値の一日平均値〇・一〇mg/m3

②一時間値〇・二〇mg/m3

二被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同東燃株式会社、同東燃化学株式会社、同キグナス石油精製株式会社、同日本石油化学株式会社、同浮島石油化学株式会社、同昭和電工株式会社、同ゼネラル石油株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び東日本旅客鉄道株式会社は各自、第三分冊中の別紙被告企業事業所一覧表記載の各事業所において操業することにより排出する二酸化硫黄につき第三分冊中の別紙差止目録記載の原告らの居住地あるいは勤務地において左記の数値を越える汚染となる排出をしてはならない。

物質

数値

二酸化硫黄

①一時間値の一日平均値〇・〇四ppm

②一時間値〇・一ppm

三被告ら(但し、被告東日本旅客鉄道株式会社を除く。)は各自、第三分冊中の別紙請求金額目録記載の各原告らに対し、同目録記載の各金員及びこれに対する同目録の遅延損害金の各起算日欄記載の日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

第二章事案の概要

本件は、川崎市川崎区又は幸区(右川崎区及び幸区を以下「本件地域」という。)に過去又は現在において居住又は勤務し、公害健康被害補償法(以下「公健法」という。)に定める指定疾病の認定を受けた患者ら又は死亡した患者の相続人らが、川崎市川崎区に事業所を有する被告日本鋼管株式会社、同東京電力株式会社、同東燃株式会社、同東燃化学株式会社、キグナス石油精製株式会社、同日本石油化学株式会社、同浮島化学株式会社、同昭和電工株式会社、同ゼネラル石油株式会社、同三菱石油株式会社、同昭和シェル石油株式会社、同東亜石油株式会社及び東日本旅客鉄道株式会社(以下「被告企業ら」という。但し、被告東日本旅客鉄道株式会社については、同被告に代えて被告国有鉄道清算事業団を指すことがある。)並びに本件地域内を走行する国道一号線、同一五号線、同一三二号線及び国道四〇九号線を設置・管理する被告国及び同様に神奈川県道高速横浜羽田空港線(以下「横羽線」という。)を設置・管理する被告首都高速道路公団(以下「被告公団」という。)に対し、被告企業らの操業及び右道路の供用により排出された大気汚染物質を原因として健康被害を受けたとして、被告らに対し、原告らの居住地あるいは勤務地(以下「原告ら居住地等」という。)に環境基準値(但し、窒素酸化物については後記の旧基準値)を超える大気汚染物質が到達することの差止め及び損害賠償を請求するものである。

第三章争いのない事実

第一当事者

一原告ら、

1 第三分冊中の別紙請求金額目録記載の原告ら(但し、右請求金額目録記載一次訴訟原告番号3番、同51番、同64番、同74番、同91番ないし100番〔枝番を含む。〕の原告らを除く。)は、公健法に定める第一種地域である本件地域に過去又は現在において居住又は勤務し、同法に定める指定疾病の認定を受けている者である。

2 右請求金額目録記載一次訴訟原告番号91番ないし100番の原告ら(枝番を含む。)は、本件地域に過去に居住し、同法に定める指定疾病の認定を受け、本件訴訟係属前に死亡した患者らの相続人であり、また、同一次訴訟原告番号3番、同51番、同64番、同74番(枝番を含む。)の原告らは、右同様に指定疾病の認定を受けていた者の内本件訴訟係属後に死亡した患者らの相続人であり、それぞれ法定相続分あるいは遺産分割協議により、右請求金額目録の「備考」欄記載の各相続分に従って権利義務を承継したものである。

二被告ら

1 被告企業ら

被告企業らは、第三分冊中の別紙被告企業事業所一覧表記載の事業所を有し、現在操業を継続し、あるいは操業していたものである。

なお、被告東日本旅客鉄道株式会社(以下「被告JR東日本」という。)は、日本国有鉄道改革法(昭和六一年法律第八七号)に基づき、日本国有鉄道(以下「国鉄」という。)が経営していた旅客鉄道事業の分割及び民営化が実施されたことに伴い、被告JR東日本が国鉄川崎発電所の施設の所有権並びに運営及び管理を引き継ぎ、また、国鉄は、被告日本国有鉄道清算事業団(以下「被告国鉄清算事業団」という。)に移行し、右被告JR東日本等承継人に承継されない資産、債務等を処理するための業務を行うこととなった(同法一五条)。

2 被告国及び同首都高速道路公団

被告国は、第三分冊中の別紙道路一覧表(一)記載の国道一号線、同一五号線、同一三二号線及び同四〇九号線を設置し管理しているものである(なお、右各道路の道路法上の管理者は、国道一号線、同一五号線及び同四〇九号線の内指定区間が建設大臣、国道一三二号線及び同四〇九号線の内指定区間以外が川崎市長である。)。

被告公団は、首都高速道路公団法に基づく特殊法人であり、右道路一覧表(一)記載の横羽線の本来の道路管理者(神奈川県{川崎市が政令指定都市に指定された昭和四七年四月一日以降は同市})に代わってその権限を代行し、料金を徴収している有料道路として建設及び管理を行っている(なお、国道一号線、同一五号線、同一三二号線及び同四〇九号線並びに横羽線を、以下「本件道路」という。)。

第二環境行政

一法律の制定・改廃の概要

1 ばい煙の排出の規制等に関する法律(ばい煙規制法)

ばい煙規制法は、昭和三七年六月、大気汚染防止に係る最初の立法として制定され、工場及び事業場からのばい煙の排出規制を図った。

ばい煙規制法は、条例の有無に拘わらず、著しい大気汚染が発生している地域を規制の必要な地域として指定し、同地域内において所定の煤煙発生施設を設置する場合には事前の届け出を必要とし、煤煙発生施設から排出される煤煙の濃度が一定の基準を超える場合には、同施設の構造改築等の措置を採るべきことを事業者に命ずることとして、規制の実現を図るものとして成立した。

同法による規制対象物質は、当時の代表的な汚染物質である「すすその他の粉塵」であり、施設の種類ごとに排出基準が定められていたが、同時に亜硫酸ガス及び無水硫酸についても規制対象とされた。

2 公害対策基本法

公害対策基本法は、昭和四二年八月に制定され、公害防止に関する事業者、国、地方公共団体、住民の責務等を明らかにし、国としての公害防止の基本的姿勢と公害行政についての共通の原則及び目標を初めて示した。

同法の制定により、後記の環境基準が設定されることになった。

3 大気汚染防止法

(一) 大気汚染防止法は、ばい煙規制法の廃止に伴い、昭和四三年六月に制定された。

同法は、ばい煙として、それまでの亜硫酸ガス及び無水硫酸を一括して硫黄酸化物として規制し、すすその他の粉塵についてもばい煙規制法と同様に規制対象物質とした。また、同法においては、自動車排出ガスを規制対象物質として取り上げるとともに、硫黄酸化物についてK値規制方式(排出濃度ではなく着地濃度の規制)の採用、指定地域の拡大、汚染の著しい地域について特別排出基準の設置、高濃度汚染の発生した緊急時における措置の強化等を図った。

(二) 大気汚染防止法は、昭和四五年一二月の改正により、改正前の同法に規定されていた調和条項(生活環境の保全につき、産業の健全な発達との調和が図られるべきこととする規定)が削除されるとともに、指定地域制の廃止、規制対象物質の拡大、都道府県の上乗せ基準・横出し基準制度の導入、直罰制度の導入、燃料規制制度の導入、粉塵の規制及び緊急時の措置の強化等が盛り込まれた。

(三) 昭和四六年六月、大気汚染防止法施行令の一部が改正され、ばい煙中の規制対象有害物質の範囲が拡大され、新たに窒素酸化物が規制対象物質として取り上げられるとともに、これに伴い、自動車排ガス中の有害物質として、新たに窒素酸化物が規制対象物質に加えられることとなった。

二環境基準

1 二酸化硫黄

(一) 旧基準

昭和四四年二月一二日、硫黄酸化物に係る環境基準が次のとおり閣議決定された。

(1)① 年間を通じて、一時間値が0.2ppm以下である時間数が、総時間数に対し九九%以上維持されること。

② 年間を通じて、一時間値の一日平均値が0.05ppm以下である日数が、総日数に対し七〇%以上維持されること。

③ 年間を通じて、一時間値が0.1ppm以下である時間数が、総時間数に対し八八%以上維持されること。

(2) 年間を通じて、一時間値の平均値が0.05ppmを超えないこと。

(3) いずれの地点においても、年間を通じて、緊急時の措置を必要とする程度の汚染の日数が、総日数に対しその三%を超えず、且つ、連続して三日以上続かないこと。

(二) 新基準

昭和四八年五月八日、二酸化硫黄に係る環境基準が改定され、一時間値の一日平均値が0.04ppm以下であり、且つ、一時間値が0.1ppm以下であることと定められた。

2 二酸化窒素

(一) 旧基準

昭和四八年五月八日、二酸化窒素に係る環境基準が、一時間値の一日平均値が0.02ppmであることと定められた。

(二) 新基準

昭和五三年七月一一日、二酸化窒素に係る環境基準が改定され、一時間値の一日平均が0.04ppmから0.06ppmまでのゾーン内又はそれ以下であることと定められた。

3 浮遊粒子状物質

昭和四七年一月一一日、浮遊粒子状物質に係る環境基準を連続する二四時間における一時間値の平均値が0.10mg/m3以下であり、且つ、一時間値が0.20mg/m3以下であることと定められた。

三神奈川県及び川崎市における環境対策の概要

1 神奈川県による規制

(一) 神奈川県公害防止条例の制定・改正の経緯

(1) 神奈川県は、昭和二六年一二月、神奈川県事業場公害防止条例を公布し、右条例は、事業者の自主的な調査請求に基づいて公害についての必要な指導を行うことを中心としていたが、同三四年四月の一部改正により、公害発生のおそれのある機械の設置や作業につき事前の届け出制が採用された。

その後、昭和三九年三月、神奈川県事業場公害防止条例の廃止とともに、公害防止に関する条例が公布され、右条例においては、規制の拡大、許可制度の導入、届け出を要する範囲の拡大、公害の防止に関して行う命令・勧告等の範囲の拡大、罰則の強化等が定められた。

(2) 神奈川県は、昭和四六年三月、良好な環境の確保に関する基本条例を制定施行するとともに、従来の条例を全面改定して神奈川県公害防止条例を公布し、同年九月から施行した。

右公害防止条例においては、指定工場の設置許可制の採用、硫黄酸化物及びボイラーから排出される煤塵などの排出総量を規制する総量規制方式の導入を行った。

(3) 神奈川県は、昭和五三年三月、従来の神奈川県公害防止条例を全面改定して、新たに神奈川県公害防止条例(現行)を公布し、同年九月から施行した。

現行の公害防止条例は、工場及び事業場の設置についての規制の充実強化を図るとともに、事業者の自覚を促し、工場の内部における自主的な公害防止の機運を高揚させることを骨子として構成されている。

(二) その他の公害対策

(1) 神奈川県においては、公害対策基本法一九条に基づき、昭和四六年五月に神奈川地域に係る公害防止計画策定の基本方針が示されたのを受けて、昭和四七年一二月、神奈川県地域公害防止計画を策定した。

その後、昭和五二年度から同五六年度までの第二次計画、昭和五七年度から同六一年度までの第三次計画、昭和六二年度から平成三年度までの第四次計画を策定実施した。

(2) 硫黄酸化物総量削減計画

神奈川県は、硫黄酸化物対策として、昭和四六年、条例により環境濃度と発生源の排出量データとの比例モデルによる総量規制方式を全国で初めて実施した。

また、昭和四九年六月の大気汚染防止法の一部改正により、法律上も総量規制が導入され、同年一一月、横浜市、川崎市等の地域がこの総量規制第一次指定地域として指定されたため、神奈川県は、環境基準の達成維持を目標に、昭和五一年三月、硫黄酸化物総量規制計画を策定するとともに、総量規制基準及び燃料使用基準を告示した。

(3) 窒素酸化物総量削減計画

昭和五六年の大気汚染防止施行令の改正により、川崎市等三市が窒素酸化物の総量規制の導入地域として指定されたため、神奈川県は、昭和五七年三月、窒素酸化物総量削減計画を策定するとともに、同計画及び総量規制基準を告示した。

2 川崎市における規制

川崎市は、昭和三五年一二月、神奈川県公害防止条例で除外した環境衛生面の公害を対象とした川崎市公害防止条例(旧条例)を制定した。

その後、川崎市においては、昭和四七年三月、新たに川崎市公害防止条例を制定した。右条例では、独自の環境目標値を設定し、この目標を維持するため、地域の汚染負荷量を勘案して川崎市を三地域に区分し、地区ごとに硫黄酸化物、窒素酸化物、煤塵について許容排出量を設定している。更に、この地区別許容排出総量が維持されるよう、工場等から排出される大気汚染物質の排出基準が定められた。

川崎市では、昭和四七年九月、右条例に基づき、硫黄酸化物、浮遊粒状物質に係る環境目標値、地区別許容排出総量基準、排出基準及び使用燃料当たりの排出基準が設定され、昭和四九年一月には、同条例に基づき、硫黄酸化物、煤塵に係る総量規制基準が、また、同年一〇月には二酸化窒素に係る目標値及び地区別許容排出総量基準が設定された。

四公害健康被害補償制度

1 公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法(以下「救済法」という。)

昭和四三年一〇月、中央公害対策審議会(以下、「中公審」という。)から「公害に係る紛争の処理及び被害の救済の制度についての意見」が政府に具申され、右意見具申を受けて、昭和四四年一二月一五日、救済法が制定された。右救済法は、事業活動その他の人の活動に伴って相当範囲にわたる著しい大気の汚染又は水質の汚濁が生じたため、その影響による疾病の多発した場合において、当該疾病にかかった者に対し、医療費、医療手当及び介護手当の支給の措置を講ずることにより、その者の救済を図ることを目的とし、その補償給付は、右のとおり、医療費、医療手当、介護手当の三種類であり、これらの支給に要する費用は、事業者が全体の二分の一、残る二分の一が国及び地方公共団体の負担とされた。

また、指定地域に係る大気の汚染の影響による疾病としては、慢性気管支炎、気管支喘息、喘息性気管支炎及び肺気腫並びにこれらの続発症とされた。

川崎市においては、大師及び田島保健所管内が救済法に基づく指定地域とされ、昭和四五年二月一日から右大師地区及び田島地区で支給を開始した(なお、昭和四七年二月一日から中央(現川崎)保健所管内の内東海道本線以東が追加指定された。)。

2 公健法

(一) 環境庁長官は、昭和四七年四月、中公審に対し、公害に関する費用負担及び環境汚染によって生ずる損害賠償費用の負担について諮問を行い、中公審は、昭和四八年四月、次の要旨の答申を行った。

① 本制度は、その対象とする被害の発生が原因者の汚染原因物質の排出による環境汚染によるものであり、本来的にはその原因者と被害者との間の損害賠償として処理されるものにつき制度的解決を図ろうとするものである以上、基本的には民事責任を踏まえた損害賠償制度として構成すべきである。

② 非特異的疾患といわれる大気汚染系疾病(閉塞性呼吸器疾患)にあっては、多くの場合、個々に厳密な因果関係の証明を行うことはまず不可能である。したがって、このような特性を有する大気汚染系疾病を本制度の対象とするためには、疫学を基礎として人口集団につき因果関係ありと判断される大気汚染地域にある指定疾病患者は、一定の暴露要件をみたしておれば因果関係ありとする、いわば指定地域、暴露要件、指定疾病という三つの要件をもって個々の患者につき大気の汚染との間に因果関係ありとみなすという制度上の取決めをせざるを得ない。

③ 損害賠償の費用は、汚染原因者がその寄与度に応じて負担するのが原則である。しかし、大気汚染系疾病にあっては個々の原因者の汚染原因物質の排出行為と大気汚染又は疾病との因果関係を量的に、かつ、正確に証明することもまた不可能に近い。したがって、この場合においても、汚染原因物質の総排出量に対する個々の排出量、又は汚染原因物質を含む原燃料の使用量の割合をもって大気の汚染に対する寄与度とみなし、これをもって賠償を要する健康被害に対する寄与度とし、費用負担を求めるという制度的割切りが必要である。

④ 非特異的疾患における補償費の給付水準は、公害裁判における判決にみられる水準、社会保険諸制度の水準等をふまえ、公害被害の特質、本制度における因果関係についての考え方、前述の慰謝料的要素等を総合的に勘案し、結果的には全労働者の平均賃金と社会保険諸制度の給付水準の中間になるような給付額を設定することが適当である。

公健法は、右答申を基に制定され、昭和四八年一〇月五日に同年法律第一一一号として公布され、同四九年九月一日に施行された。

右補償法による法給付は、後記の療養の給付及び療養費、障害補償費、遺族補償費、遺族補償一時金、児童補償手当、療養手当並びに葬祭料の七種類とされた。

(1) 療養の給付及び療養費

療養の給付は、被認定者の指定疾病について、公害医療機関で現物給付として支給されるもので、現物給付が困難であると認められる場合には、療養の給付に代えて療養費が支給される。

(2) 障害補償費

一五歳以上の被認定者につき、障害の程度(特級、一級、二級、三級)に応じて毎月支給される。

(3) 遺族補償費

被認定者が指定疾病に起因して死亡した場合、一定範囲の遺族に対して一定期間定期的に支給される。

(4) 遺族補償一時金

被認定者が指定疾病に起因して死亡した場合において、遺族補償費を受ける遺族がいないときは、一定範囲の者に対して支給される。

(5) 児童補償手当

一五歳未満の被認定者について、その障害の程度に応じて、その者を養育している者に対して支給される。

(6) 療養手当

被認定者が指定疾病について療養の給付を受けている場合に、通院に要する交通費や入院に要する諸雑費など実費的な費用を病状の程度に応じて支給される。

(7) 葬祭料

被認定者が指定疾病に起因して死亡した場合に、通常葬祭に要する費用として、葬祭を行う者に支給される。

(三) 硫黄酸化物の減少等の大気汚染の態様の変化を踏まえ、環境庁は、昭和五八年一一月、中公審に対し、今後における補償法の第一種地域の在り方について諮問を行い、中公審は、昭和六一年一〇月に答申を行い、公健法は、右答申に基づいて、昭和六二年九月二六日に公害健康被害の補償等に関する法律として改正公布され、同六三年三月一日から施行されたが、指定地域については、その指定が全て解除されることとなった。

3 川崎市における救済制度の実施

(一) 大気汚染による健康被害の救済措置に関する規則(川崎市規則第九一号)

川崎市は、救済法による給付が昭和四五年二月一日から施行されるに先立ち、昭和四四年一二月二四日、大気汚染による健康被害の救済措置に関する規則(川崎市規則第九一号)を制定し、昭和四五年一月一日から大師及び田島保健所管内の認定患者が受けた医療に伴う医療費の支給を実施した。なお、右規則による給付は、前記のとおり、救済法による給付が施行された昭和四五年二月一日から同法に基づく給付の支給に移行した。

(二) 大気汚染による健康被害の救済措置に関する規則(川崎市規則第二二号)

川崎市は、昭和四六年三月一一日、大気汚染による健康被害の救済措置に関する規則(川崎市規則第二二号)を制定し、同年四月一日から中央(現川崎)保健所内管内(東海道本線以西の区域を除く。)を認定地域に指定し、救済法に準じた医療費及び医療手当を支給を実施した。なお、右地域における右規則による給付は、前記のとおり、救済法による給付が施行された昭和四七年二月一日から同法に基づく給付の支給に移行した。

また、川崎市は、昭和四七年六月一日、右規則を改正し、幸区役所の所管区域(日吉出張所の所管区域を除く。)及び川崎区役所の所管区域の内提根(東海道本線以西の区域に限る。)を認定地域に指定し、救済法に準じた支給を実施した。

(三) 川崎市公害病認定患者死亡見舞金支給要綱

川崎市は、昭和四六年五月一日から川崎市公害病認定患者死亡見舞金支給要綱を施行し、救済法又は大気汚染による健康被害の救済措置に関する規則(川崎市規則第二二号)の認定患者が死亡した場合、遺族に対して見舞金の支給を実施した。

(四) 川崎市公害病認定患者療養生活補助費等助成条例

川崎市は、昭和四八年二月一五日、同四七年八月三一日当時で川崎市との間に大気汚染防止に関する協定又は覚書を締結し若しくは締結していた事業者からの申し出による拠出金を主な財源として、救済法又は大気汚染による健康被害の救済措置に関する規則(川崎市規則第二二号)に基づく公害病認定患者、公害病認定患者の保護者又は遺族に対し、療養生活補助費、療養手当又は弔慰金の支給等を行い、もって公害病認定患者及びその遺族の生活の安定及び福祉の増進を図ることを目的として、川崎市公害病認定患者療養生活補助費等助成条例を制定し(同年一月一日から遡及的に適用)、後記の療養生活補助費、療養手当又は弔慰金の支給等を実施した。

(1) 療養生活補助費

公害病認定患者の内一五歳以上の者に対し、生活の安定を助長する目的で病状の程度に応じ支給される。

(2) 療養手当

公害病認定患者の内一五歳未満の者を養育している保護者に対し、その養育を助長する目的で支給される。

(3) 弔慰金

公害病認定患者が死亡した場合、その遺族に対し支給される。

(五) 川崎市公害健康被害補償条例

川崎市は、昭和四九年一〇月八日、財団法人川崎市公害対策協力財団からの拠出金を主な財源として、大気汚染の影響による健康被害に係る補償を行うとともに、被害者の福祉に必要な事業を行うことにより、健康被害に係る被害者及びその遺族の生活の安定及び福祉の向上を図ることを目的として、川崎市公害健康被害補償条例を制定し、後記の療養補償金、医療手当、遺族補償金等の支給を実施した。

(1) 療養補償金

公健法及び右条例により市長が認定した者(以下「被認定者」という。)又は被認定者を養育している者が公健法による障害補償費又は児童補償手当を受けることができない場合に支給される。

(2) 医療手当

被認定者が公健法による療養手当を受けることができない場合に支給される。

(3) 遺族補償金

被認定者が死亡した場合、遺族に対し支給される。

(4) その他の給付

公健法の適用外の一部地域について、同法による補償給付(遺族補償金及び遺族補償一時金を除く。)の支給の例により措置する。

(六) 川崎市公害健康被害補償事業の内いわゆる過去分の補償に関する確認書及び財団法人川崎市公害対策協力財団公害健康被害補償事業実施要綱

川崎市は、昭和四九年一一月一一日、財団法人川崎市公害対策協力財団公害健康被害補償事業実施要綱を施行し、また、同日、川崎市公害健康被害補償事業の内いわゆる過去分の補償に関する確認書を作成して、過去の被害に対する補償として、後記の補償一時金及び遺族補償金(以下「過去分補償」という。)を支給した

(1) 補償一時金

救済法及び前記大気汚染による健康被害の救済措置に関する規則(川崎市規則第二二号)に基づき昭和四五年一月一日から同四九年八月三一日までに川崎市長の認定を受けた者(生存者)に対して支給される。

(2) 遺族補償金

右期間に認定を受け、死亡した被認定者について、その遺族に支給される。

第二編主要な争点

一本件地域における大気汚染の実態

二被告企業ら並びに被告国及び同公団による侵害行為

1 被告企業らによる大気汚染物質の排出量及び本件地域における到達量

(本件地域における寄与割合)

2 本件道路からの大気汚染物質の排出量

三本件地域の大気汚染と原告らの疾病の因果関係

1 大気汚染と本件疾病との関係

2 原告らの本件疾病罹患の有無

3 本件地域における大気汚染と原告らの罹患する本件疾病との関係

四共同不法行為

1 被告企業らの関連共同性

2 被告企業らと被告国及び同公団との関連共同性

五被告らの責任

1 被告企業らの責任

(一) 故意責任

(二) 過失責任

2 被告国及び同公団の責任

(一) 被告国の同企業らに関する責任

(二) 被告国及び同公団の本件道路に関する責任

六損害賠償請求

1 原告らの損害賠償請求の方式の適否

2 損益相殺

3 消滅時効

七差止請求の適否

第三編争点に対する判断

第一章本件地域の大気汚染の実態

第一全国的にみた大気汚染の推移(〈書証番号略〉)

一硫黄酸化物

昭和三二年度から同四二年度の主要都市における二酸化鉛法による硫黄酸化物濃度の経年変化は第五分冊中の別図1のとおりであり、硫黄酸化物濃度は右の間において概ね増加傾向にあった。

その後、溶液導電率法による測定が行われているが、全国で昭和四〇年度から二〇年間継続して測定を行っている一五測定局における昭和四〇年度から同五九年度の間の二酸化硫黄年平均値の経年変化は第五分冊中の別表1(以下「別表」、「別図」を引用するに当たっては、「第五分冊中の」を省略)のとおりであり、右一五測定局の単純平均値は昭和四二年度の0.059ppmをピークに減少を続け、昭和五九年度は0.012ppmとなっている。

なお、既汚染地域以外の代表的な平野部における大気の状況を把握する目的で、全国八か所に設置されている国設大気測定所における二酸化硫黄についての測定結果によると、我国の大気汚染が殆どないと考えられる地域における大気汚染物質の濃度(バックグラウンド濃度)は、二酸化硫黄濃度で0.005ppm前後である。

二二酸化窒素濃度

全国で昭和四五年度から一五年間に亙り継続して測定を行っている一五測定局における昭和四三年度から同五九年度の間の二酸化窒素の年平均値の経年変化は別表2のとおりであり、昭和四八年度までは増加傾向がみられるが、それ以降は概ね横ばいの傾向にあり、右一五局の単純平均値は0.025ppmないし0.028ppmの範囲で推移している。なお、二酸化窒素のバックグラウンド濃度は0.007ppmである。

三浮遊粒子状物質

東京及び大阪において昭和四一年度から継続して浮遊粒子状物質又は浮遊粉塵を測定している五局について、昭和四一年度から同五九年度までの間の平均値は別表3のとおりであり、浮遊粒子状物質又は浮遊粉塵濃度は、昭和四九年度までは減少傾向を示したが、その後は0.05mg/m3ないし0.07mg/m3であり、概ね横ばい傾向にある、我国の浮遊粒子状物質又は浮遊粉塵のバックグラウンド濃度は0.02mg/m3ないし0.03mg/m3程度で分布している。

第二本件地域における大気汚染の推移

一川崎市における大気汚染の測定(〈書証番号略〉)

川崎市における大気汚染測定は、昭和三一年の降下煤塵量の測定に端を発し、同三二年には二酸化鉛法による硫黄酸化物の測定が追加され、両汚染物質の定期的測定が行われるようになった。

その後、昭和四〇年に導電率法による硫黄酸化物の連続自動測定器が川崎保健所、大師保健所及び中原区役所の市内三か所に設置され常時測定が行われるようになり、昭和四二年には国設の測定所が田島保健所に、更に昭和四六年には幸保健所、多摩保健所及び高津区役所にも測定所が設置され、ほぼ市内全域に亙る大気汚染測定網が確立された。また、測定項目も当初の二酸化硫黄及び浮遊粉塵から逐次追加された。

一方、自動車排ガス測定所は、昭和四七年一二月に初めて市役所前に設置され、その後、昭和五〇年までに主要道路の交差点及び沿道等四か所に一酸化炭素及び窒素酸化物自動測定器を備えた測定所が逐次設置され、環境大気測定所の七か所と合わせ一二か所の測定所が設置されており、測定データは、公害監視センターにテレメータ装置で常時伝送され集中監視されている。

二硫黄酸化物濃度

1 二酸化鉛法による測定(〈書証番号略〉)

昭和三二年から同四四年までの間の扇町等田島地区、東門前二丁目等大師地区、川崎、中原、高津、及び稲田における二酸化鉛法による年平均値は別表4のとおりである。

2 昭和四〇年以降の導電率法による測定

(一) 一時間値の年平均値の経年推移(〈書証番号略〉)

昭和四〇年から同五五年までの間の大師、川崎、田島、幸及び中原の各測定所における導電率法による一時間値の年平均の経年推移は別表5のとおりであり、また、右期間の内昭和四〇年から同五二年までをグラフに表すと別図2のとおりである。

(二) 日平均値年間最高濃度の経年推移(〈書証番号略〉)

昭和四〇年から同五四年までの間の大師、田島、川崎、幸、中原、高津及び多摩の各測定所における導電率法による日平均値の年間最高値の経年推移は別表6のとおりである。

(三) 日平均値濃度出現頻度

(1)昭和四〇年から同四三年(一部は年度)による。)(〈書証番号略〉)

昭和四〇年から同四三年(但し、昭和四〇年は三月から)までの間の大師測定所における日平均値の濃度出現頻度は別表7のとおりであり、同様に昭和四〇年から同四三年までの間における川崎測定所、昭和四三年度の田島測定所及び昭和四〇年から同四三年までの間の中原測定所における各測定所の日平均値の濃度出現頻度は別表8のとおりである。

(2) 昭和四四年から同五五年における環境基準値との対比(〈書証番号略〉)

昭和四四年から同五五年までの間の大師、川崎、田島、中原及び幸各測定所における環境基準値との対比(一日平均値の二%除外値、一時間値が0.1ppmを超えた割合及び一日平均値が0.04ppmを超えた割合)は別表9のとおりである。

(四) 一時間値最高濃度の経年推移(〈書証番号略〉)

昭和四〇年から同五四年までの間の大師、田島、川崎、幸、中原、高津及び多摩の各測定所における一時間値最高濃度の経年推移は別表10のとおりである。

三窒素酸化物濃度

1 一般環境大気測定局による二酸化窒素濃度

(一) 年平均値の経年推移(〈書証番号略〉)

昭和四三年から平成二年(但し、昭和五二年までは年次、昭和五三年以降は年度である。以下同様)の大師、田島、川崎、幸、中原、高津及び多摩の各測定所における二酸化窒素年平均値の経年推移は別表11のとおりである。

(二) 年最高日平均値の経年推移(〈書証番号略〉)

昭和四三年から平成元年までの間(但し、昭和五三年から同五八年までは田島測定所のみ)の大師、田島、川崎及び幸各測定所における二酸化窒素年最高日平均値の経年推移は別表12のとおりである。

(三) 日平均値の二%除外の経年推移(〈書証番号略〉)

昭和四七年から平成二年までの間(但し、昭和五三年から同五八年までは田島測定所のみ)の大師、田島、川崎及び幸各測定所における二酸化窒素日平均値の二%除外値の経年推移は別表13のとおりである。

(四) 日平均値濃度別出現頻度(〈書証番号略〉)

昭和四七年から同五二年までの間の大師、田島、川崎及び幸各測定所における二酸化窒素日平均濃度が旧環境基準0.02ppmを超えた日の出現率(但し、ザルツマン係数0.72)、昭和五三年から平成元年までの間(但し昭和五三年から同五八年までは田島測定所のみ)の右各測定所の二酸化窒素日平均濃度が旧環境基準0.02ppmを超えた日の出現率、現行環境基準下限値0.04ppmを超えた日の出現率、同上限値0.06ppmを超えた日の出現率及び0.04ppm以上0.06ppm以下の日の出現率はそれぞれ別表14のとおりである。

(五) 一時間値最高の経年推移(〈書証番号略〉)

昭和四三年から平成元年までの間(但し、昭和五三年から同五八年までは田島測定所のみ)の大師、田島、川崎及び幸各測定所における二酸化窒素一時間値最高の経年推移は別表15のとおりである。

2 自動車排ガス測定局における二酸化窒素濃度

(一) 年平均の経年推移(〈書証番号略〉)

昭和四九年から平成二年(但し、昭和四九年、同五一年及び五二年は年次、同五五年以降は年度である。また、昭和五〇年、同五三年度及び同五四年度は一部の月につき測定結果がないため平均値の算出が不可である。)の池上、新川通、市役所前及び遠藤町の各自動車排ガス測定局における二酸化窒素年平均値の経年推移は別表16のとおりである。

(二) 一時間値の最高値の経年推移(〈書証番号略〉)

昭和四九年から同六一年(但し、昭和四九年ないし同五七年は年次、同五八年以降は年度である。)の池上、新川通、市役所前及び遠藤町の各自動車排ガス測定局における二酸化窒素一時間値の最高値の経年推移は別表17のとおりである。

(三) 一時間値の一日平均値の最高値の経年推移(〈書証番号略〉)

昭和四九年から同六一年(但し、昭和四九年ないし同五七年は年次、同五八年以降は年度である。)の池上、新川通、市役所前及び遠藤町の各自動車排ガス測定局における二酸化窒素一時間値の一日平均値の最高値の経年推移は別表18のとおりである。

四浮遊粒子状物質

1 浮遊粉塵

(一) 光散乱法(デジタル粉塵計)による測定(弁論の全趣旨)

昭和四四年から同五二年までの間の大師、田島、川崎及び幸の各測定所におけるデジタル粉塵計による年平均値及び一時間値最高の経年推移はそれぞれ別表19のとおりである。

(二) 濾過捕集法による測定(弁論の全趣旨)

昭和四七年から同五五年までの間の公害研究所及び公害監視センターにおける濾過捕集法による年平均値の経年推移は別表20のとおりである。

2 浮遊粒子状物質

(一) 年平均の経年推移(〈書証番号略〉)

昭和四九年から平成二年(但し、昭和五六年までは年次、昭和五七年以降は年度である。以下同様)の間の大師、田島、川崎、幸、中原、高津、宮前、多摩及び麻生における各測定所の年平均値は別表21のとおりである。

(二) 日平均最高値の経年推移(〈書証番号略〉)

昭和五一年から平成元年までの間の大師、田島、川崎及び幸の各測定所における日平均値最高の経年推移は別表22のとおりである。

(三) 一時間値最高の経年推移(〈書証番号略〉)

昭和五一年から平成元年までの間の大師、田島、川崎及び幸の各測定所における一時間値最高の経年推移は別表23のとおりである。

(四) 環境基準との関係(〈書証番号略〉)

昭和四九年から平成二年までの間の大師、田島、川崎及び幸の各測定所における一時間値が0.2mg/m3を超えた割合、日平均値が0.1mg/m3を超えた割合及び一日平均の二%除外値は別表24のとおりである。

第二章被告企業らの操業等の経緯及び道路の供用開始等の経緯

第一被告企業らの操業の経緯及び公害防止対策

一被告日本鋼管株式会社(以下「被告日本鋼管」という)(〈書証番号略〉、証人田治見昭、同南川万俊、同中村剛治郎)

1 設立及び操業の経緯

(一) 被告日本鋼管は、明治四五年六月に設立され、川崎海岸に所在する未完成埋立地である若尾新田を取得し、大正二年に平炉二基をもつ製鋼工場及び継目無鋼管をつくる製管工場が完成し、大正三年四月に営業を開始した。そして、昭和一一年に扇町地区工場の第二高炉の完成により銑鋼一貫体制に移行した。

(二) 昭和二六年から同二九年の三か年における第一次設備合理化計画により、川崎製鉄所第三高炉の復旧、鍛接管工場の新設等が行われた。

昭和三〇年からの第二次設備合理化計画等により水江製鉄所の建設に着手し、製鋼工場、分塊工場、熱延工場及び第一冷延工場を完成し、昭和三五年四月ころまでにそれぞれ操業を開始し、次いで昭和三六年からの長期設備計画により、水江製鉄所の第一高炉(日産二〇〇〇トン)、コークス工場、第二冷延工場及び表面処理鋼板工場の建設が行われ、右第一高炉は昭和三七年一一月に稼働を開始した。

また、川崎製鉄所においては小・中径電縫管工場が昭和三六年三月に新設された。右水江製鉄所の稼働により粗鋼生産量は当時の年産三〇〇万トンから五五〇万トンに大幅に増加した。

また、右長期設備計画により、昭和三八年一一月に福山製鉄所の建設に着手し、同四一年八月に第一高炉が稼働を開始した。

その後、昭和四三年四月に川崎、鶴見及び水江の各製鉄所を組織的に統合して京浜製鉄所が発足した。

(三) 被告日本鋼管においては、昭和四四年三月に扇島計画と称する抜本的な合理化計画を策定したが、右計画は、京浜製鉄所扇島原料センター地先海面約五一五m2を埋め立て、その大部分を取得し、右埋立地に大型高炉二基及びこれに対応する原料ヤード、コークス、焼結、製鋼、連続鋳造、分塊、厚板その他の付帯設備を新設し、京浜製鉄所そのものを全面更新して、既存地区においては扇島にリプレースした跡地を含めて、冷延鋼板、表面処理鋼板製造設備及び鋼管製造設備の集約再編成、環境対策を実施するものであった。

右計画に基づき、昭和五〇年八月に埋立工事が完了し、第一高炉関連工事として、第一高炉、焼結工場、コークス工場、製鋼工場、分塊工場及び厚板工場等が新設され、昭和五一年一一月に第一高炉の火入れが行われた。

次いで、第二高炉関連工事として、第二高炉の新設、コークス工場の増設、製鋼工場の増強、熱延工場の新設等が実施され、同五四年七月に第二高炉の火入れが行われた。

これにより、京浜製鉄所は、扇島地区における大型高炉二基を中心とした粗鋼年産六〇〇万トン規模の製鋼一貫体制を整えた。

なお、被告日本鋼管の粗鋼生産量の推移は別図3のとおりである。

2 公害防止対策

(一) 硫黄酸化物対策

(1) 原燃料中の硫黄分低減対策(主に扇島稼働前)

① 鉄鉱石の低硫黄化

昭和三〇年代においては、含有硫黄分一%程度のマルコナ鉄鉱石等を使用していたが、昭和四〇年代前半においては、含有硫黄分約0.1%の輸入鉄鉱石と同約0.5%の国内産鉄鉱石を使用することになり、その後、含有硫黄分の高い国内産鉄鉱石の使用量を漸次減少していき、昭和四九年には右国内産鉄鉱石の使用を全面的に取りやめ、現在においては、含有硫黄分は約0.03%である。

② 重油の低硫黄化及び副生ガスの使用

昭和四〇年代においては、燃料用の重油として含有硫黄分約二%の重油を使用していたが、最近では含有硫黄分は0.2%以下とするとともに、燃料として、硫黄分を殆ど含まない副生ガス(高炉ガス、コークス炉ガス、転炉ガス)を使用するようにし、京浜製鉄所における燃料比率は、昭和四三年度(京浜製鉄所の統合時)において、重油19.1%、副生ガス78.6%、LPG等2.3%、昭和五五年度(扇島本格稼働時)において、重油5.0%、副生ガス86.2%、液化石油ガス(以下「LPG」という。)等8.8%、昭和六〇年度において、重油1.3%、副生ガス97.5%、LPG等1.2%となった。

なお、昭和四一年以降、燃料として石炭は使用していない。

(2) 排煙脱硫装置

① 焼結排煙脱硫装置

被告日本鋼管は、昭和四二年ころから焼結排煙脱硫装置(焼結炉における脱硫装置)の研究に着手し、同年六月、川崎焼結工場に試験装置(処理ガス量は三〇〇〇Nm3/h)を設置し、その後、昭和四三年二月、同工場に中間規模装置(三万Nm3/h)、昭和四七年一月水江焼結工場に大規模装置(一五万Nm3/h)をそれぞれ設置し、更に昭和五一年一〇月、扇島焼結工場に大容量の脱硫装置(一二三万Nm3/h)を設置した。

(3) 高煙突化

本件地域においては、高煙突化は羽田空港の存在により航空法の制限を受けるが、昭和四四年八月、川崎三号焼結炉煙突を約50mから84.5mへ、同年一〇月、水江焼結炉煙突を約50mから97.75mへと高煙突化し、扇島焼結煙突は一五〇mとした。

(二) 窒素酸化物対策(主に扇島稼働前)

(1) 燃料対策

燃料として、窒素酸化物の発生量の少ない副生ガスの使用割合を右(一)(1)②のとおり漸次大きくしていった。

(2) 燃焼方法の改善

燃焼方法改善対策として、低空気比燃焼、排ガス循環法、多段燃焼法、低NOxバーナー等を採用しているが、右の内低NOxバーナーについては、昭和四八年に燃焼実験炉を設置し、昭和五〇年には水江旧熱延加熱炉で実炉テストを行うなどした。

(3) 脱硝装置

昭和四九年に水江焼結炉へ試験装置(一〇〇〇Nm3/h)を設置し、その後、昭和五一年に右水江焼結炉へ中規模脱硝装置(一万五〇〇〇Nm3/h)を設置した。また、同五三年に扇島地区焼結炉に大規模脱硝装置(一三二万Nm3/h)を設置した。

(三) 煤塵、粉塵対策(主に扇島稼働前)

(1) 原料処理工程における対策

昭和四三年四月には水江地区原料篩部に湿式の集塵機(ロートクロン)を、同四四年五月には扇島地区のアンローダー(陸揚機)にウォーターカーテン設備をそれぞれ設置し粉塵の飛散防止を行った。

更に、粉塵対策として、昭和四六年四月には扇島原料センターに散水設備を、同四六年六月には大島原料ヤードに散水銃を設置するなどした。

(2) 焼結工程における対策

川崎(大島)地区一号焼結炉には昭和一四年七月に、同二号焼結炉には昭和一九年七月に、右各焼結炉稼働当初から円筒型遠心力集塵機を設置し、昭和三一年二月に右一・二号焼結炉共用のマルチクロンへ変更し集塵能力を強化した。

川崎地区(大島)三号焼結炉には昭和三五年五月に、水江焼結炉には昭和三七年七月にマルチクロンを右各焼結炉稼働に合わせて設置した。

(3) 製鋼工程における対策

川崎(扇町、大島)地区の高炉には、昭和二四年ころからそれぞれ高炉附帯設備であるタイゼン式集塵機を設置し、そして、昭和三九年ころには電気集塵機に取り替えるなどした。

また、水江地区の高炉には昭和四三年四月に被告日本鋼管が開発した湿式集塵機による巻下集塵を行うとともに、高炉から出た溶鉄を鍋に落とし込む時に発生する煤塵等を防止するために湿式集塵機を設置した。

(4) 製鋼工程における対策

川崎地区の平炉には、昭和三九年八月に電気集塵機を、同地区の転炉には、昭和三三年一月の稼働当初から湿式集塵機を、水江地区の転炉には、昭和三五年三月の稼働当時から電気集塵機をそれぞれ設置した。

(四) 扇島移転に伴う環境対策

被告日本鋼管は、昭和四四年七月、扇島計画につき「京浜製鉄所リプレース計画の概要」を神奈川県、横浜市及び川崎市に提出し、その後、右神奈川県、横浜市及び川崎市で構成された扇島埋立協議会を窓口として右扇島計画による公害問題等が検討され、その結果、昭和四五年一二月、被告日本鋼管と神奈川県、横浜市及び川崎市との間において、硫黄酸化物、煤塵・粉塵関係及び排水関係その他につき公害防止協定が締結された。

扇島地区における環境保全対策の概要は別表25記載のとおりである。

二被告東京電力株式会社(以下「被告東京電力」という。)(〈書証番号略〉、証人小林料)

1 設立及び操業の経緯

(一) 被告東京電力は、昭和二六年五月一日、旧日本発送電株式会社の一部、旧関東配電株式会社の資産・負債の全部を引き継ぎ、栃木、茨城、埼玉、千葉、東京、神奈川及び山梨の各都県並びに静岡県の富士川以東を供給区域として設立された電気事業者である。

(二) 発電所の操業・廃止の経緯

(1) 潮田火力発電所

潮田火力発電所は、被告東京電力の設立時に日本発送電株式会社から引き継いだもので、一、二号機による総出力五万五〇〇〇キロワットの発電能力を有していた。その後、昭和二六年一二月に三号機(出力五万五〇〇〇キロワット)の増設工事に着手し、同二八年一一月に運転を開始した。右潮田火力発電所は、設備の老朽化と効率の低下に伴って、昭和四〇年一〇月に一、二号機が廃止され、また、同四七年一二月に三号機が廃止された。

(2) 鶴見火力発電所

川崎区大川町に所在した鶴見火力発電所は、その経緯において鶴見第一火力発電所と同第二発電所に区分される。

① 鶴見第一火力発電所

鶴見第一火力発電所は、被告東京電力の設立時に日本発送電株式会社から引き継いだもので、一ないし四号機を合わせた総出力一七万六〇〇〇キロワットの発電能力を有していた。その後、昭和四〇年に一、二号機が廃止され、同四七年に三、四号機が休止となり、同五九年に廃止された。

② 鶴見第二火力発電所

鶴見第二火力発電所は、同第一火力発電所に増設する形で計画され、昭和三〇年から同三三年の間に一ないし五号機が順次運転を開始し、総出力三三万五〇〇〇キロワットの発電能力を有するに至った。

右第二火力発電所は、昭和五〇年に需要との関係で一旦休止し、同五二年に運転を再開したが、逐次稼働率を低下させ、同五八年に再度運転を休止し、同五九年に廃止された。

(3) 川崎火力発電所

川崎区千鳥町所在の川崎火力発電所は、昭和三四年七月に一号機(出力一七万五〇〇〇キロワット)の建設に着工し、同三六年七月に右一号機の運転を開始し、以後、昭和三六年一〇月に二号機、同三七年一月に三号機、同三八年七月に四号機、同四〇年一〇月に五号機及び同四三年一一月に六号機(いずれも出力一七万五〇〇〇キロワット)の各運転を開始し、右一号機ないし六号機合計最大出力一〇五万キロワット、昭和四四年一一月にこれに併設されたガスタービン二基による三万キロワット(昭和五九年以降は、ガスタービン1基1.5万キロワット)の発電能力を有する発電所が完成し、現在稼働している。

潮田及び鶴見各火力発電所が被告東京電力設立時に引き継いだものであるのに対し、右川崎火力発電所は被告東京電力により建設されたものであるところ、右川崎火力発電所は、①火力発電所の機構上大量の冷却水が必要であることや発電設備等の重量物あるいは燃料の搬入のために港湾設備が必要であることなどから海岸埋立地であること、②発電設備等の設置のための必要な面積を得ることができること、③送電損失の減少等から需要地に近傍であること等の諸要件を考慮して、当時、川崎市が造成していた千鳥町の埋立地に立地したものである。

(4) 東扇島火力発電所

川崎区東扇島に所在する東扇島火力発電所は、昭和六二年九月に一号機が、平成三年三月に二号機が各運転を開始し、出力二〇〇万キロワットに至っている。

2 公害防止対策

(一) 燃料対策

(1) 川崎火力発電所

川崎火力発電所においては、石炭重油の混焼火力発電所として発足したが、昭和四四年から含有硫黄分0.2%のミナス原油を導入する(右ミナス原油は、常温では固体に近い高流動点重油であるため取扱いが困難であったが、設備を右高流動点重油使用可能な設備に改造した上使用した。)とともに、逐次重油の混焼率を上げ、昭和四七年には石炭の使用を終了し、また、右昭和四七年からナフサ(含有硫黄分0.05%以下、窒素分0.01%以下、灰分0.001%以下)の使用を開始した。そして、昭和五九年からは硫黄分、窒素分を全く含まないLPGの使用を開始した。

(2) 鶴見火力発電所

鶴見火力発電所においては、川崎火力発電所と同様に昭和四四年からミナス重油を導入するとともに、昭和四八年には石炭の使用を終了した。そして、運転を再開した昭和五二年からは含有硫黄分0.1%の脱硫重油の使用を開始した。

(二) 設備対策

(1) 高煙突化

川崎火力発電所においては、航空法により約五〇mに制限されているところ、関係当局との折衝の結果、建設当初から煙突を八五mとした。

また、鶴見火力発電所においては、同様に建設当初から煙突を七〇mとした。

(2) 窒素酸化物対策

川崎火力発電所においては、昭和四七年から排ガス混合通風機を設置して排ガス混合法(一度燃焼させた後の排ガスを燃焼用空気に混合して酸素濃度を低下させ、これを燃料と一緒にバーナーから吹き込むことにより燃焼温度の低下と燃焼を緩慢にする方法)を採用し、また、昭和五九年からオーバーエアポートを設置して二段燃焼方式(バーナーから燃焼用空気を少なめにして燃焼を不完全とすることにより燃焼温度の低下と燃焼を緩慢にし、次のボイラー上部のオーバーエアポートから不足分の空気を補充して燃焼ガスを完全燃焼させる方法)を採用した。

そして、被告東京電力は、炉内脱硝法(窒素酸化物を主バーナーの上部に付加された脱硝バーナーから投入された燃料の熱分解によって生じた炭化水素等の中間生成物のもつ還元作用により窒素あるいは水蒸気等に分解し、次にオーバーエアポートにおいて還元作用により生成された一酸化炭素等を完全燃焼させる方法)を開発し、昭和六〇年には全ボイラーを炉内脱硝方式に改造した。

鶴見火力発電所においては、運転再開後の昭和五三年から排ガス混合法及び二段燃焼法を採用した。

(3) 煤塵対策

川崎及び鶴見各火力発電所においては、運転開始当初から機械式及び電気集塵機を設置していた。

三被告東燃株式会社(以下「被告東燃」という。)、同東燃化学株式会社(以下「被告東燃化学」という。)、及び被告キグナス石油精製株式会社(以下「被告キグナス石油」という。)(〈書証番号略〉、証人高瀬昭夫、同鈴木洋一、同雨宮明生、同秋山克弘、同大柳昌一、同久保田建三、同中村剛治郎)

1 被告東燃

(一) 設立及び操業の経緯等

(1) 被告東燃は、昭和一四年七月、航空機用の燃料や潤滑油の生産を主な目的として設立された石油精製会社であり、戦後は一時操業を中止したが、同二四年二月、米国スタンダード・ヴァキューム・オイル・カンパニーと資本・技術・原油供給・製品販売等の提携を行い、昭和二五年一月から操業を開始した(当事者間に争いがない。)。

(2) 被告東燃は、静岡県清水市及び和歌山県有田市に製油所を有していたが、国内における石油需要の増大から関東地区に第三製油所を設置することを企図し、京浜地区を中心とした東京湾沿岸に工場用地を求め、昭和三四年九月、神奈川県から浮島地区の埋立地八一万二〇〇〇m2の分譲を受けた。その後、被告東燃は、昭和四一年一二月、神奈川県から新たに三六万一〇〇〇m2を買い受け、更に同四二年三月、三井化学工業株式会社から隣接地約一三万七〇〇〇m2を購入した。

(3) 昭和三七年三月、被告東燃及び東燃化学の川崎工場が完成し、第一常圧蒸留装置(原油処理能力日産六万バーレル。常圧蒸留装置は原油を沸点の差を利用して石油ガス、ナフサ、灯油、軽油及び塔底油分に分留する装置である。)の火入れ式が行われ、操業を開始した。

被告東燃は、昭和四六年七月、東日本地域における石油製品需要の急増等に対処するため、常圧蒸留装置の増設を計画し、第二常圧蒸留装置(日産九万バーレル)を設置した。その後、右第二常圧蒸留装置は、昭和四七年一〇月、原油処理能力日産一四万バーレルまで拡張され、以後、被告東燃川崎工場は原油処理能力二〇万バーレルの規模となった(当事者間に争いがない。)。

(二) 公害防止対策

(1) 燃料対策(主に硫黄酸化物対策)

被告東燃は、被告キグナス石油に含有硫黄分の少ないミナス原油の処理を委託するなどして昭和四四年ころから燃料として右ミナス原油の使用を開始するとともに、硫黄分を殆ど含まない副生油あるいは副生ガスの使用割合を増加させた。

その結果、被告東燃化学を合わせた重油及び燃料ガスの平均硫黄分を昭和四五年で約0.8%、その後、同四九年で約0.2%とした。

(2) 設備対策

① 脱硫装置及び脱硝装置

被告東燃は、昭和四六年ころ、硫黄回収装置燃焼炉からの排ガスについて湿式脱硫装置を設置し、昭和六〇年六月、ボイラーに排煙脱硫装置(処理能力三六万五〇〇〇Nm3/h)を設置した。

また、被告東燃は、昭和四九年にエクソン・リサーチ・アンド・エンジニアリングと共同で無触媒式排煙脱硝装置(比較的高温域の排煙中にアンモニアを注入すると一酸化窒素が窒素に還元される原理によるもの)の開発に着手し、昭和五三年二月、石油加熱炉二基及びボイラーに、昭和五九年九月、石油加熱炉に右無触媒式排煙脱硝装置をそれぞれ設置した。

② 煙突の集合化

被告東燃及び同東燃化学は、昭和四七年ころまでに、有効煙突高を高くするため二本の煙突に集合化させるとともに、従前四四m程度であった煙突高を四八m及び五五mにそれぞれ新設した。

2 被告東燃化学

(一) 設立及び操業の経緯等

(1) 被告東燃化学は、昭和三五年一二月、被告東燃の全額出資により設立された石油化学製品等の製造、販売等を目的とする会社であり、エチレン、プロピレン、ブタジエン等の石油化学基礎原料やポリプロピレン、ポリエチレン等の製品を生産している(当事者間に争いがない。)。

(2) 被告東燃化学は、被告東燃による石油化学企業化計画に基づき、昭和三七年三月、浮島地区に第一スチームクラッキング装置(エチレン生産能力当初年産四万トン。スチームクラッキング装置は、ナフサを高温のもとで分解、分離、精製し、エチレン、プロピレン、ブタン・ブチレン留分等の石油化学基礎原料を生産する装置である。)を設置し運転を開始した(当事者間に争いがない。)。

被告東燃化学は、石油化学製品に対する需要増加に対応するため、昭和四一年四月、第二スチームクラッキング装置(エチレン生産能力当初年産六万トン)を増設し、次いで、昭和四七年一月、第三スチームクラッキング装置(エチレン生産能力当初年産三〇万トン)を完成した。

昭和五七年一一月現在の被告東燃化学のエチレン生産能力は、その後の生産能力増加分を含めて年産五五万六〇〇〇トンである(当事者間に争いがない。)。

被告東燃化学は、昭和五四年一二月、被告昭和電工からポリエチレン製造装置及びその工場用地を譲り受け、千鳥工場として発足させ、ポリエチレンの製造を開始した(当事者間に争いがない。)。

(二) 公害防止対策

被告東燃と同東燃化学の各川崎工場は同一敷地内にあり、操業当初から同じような管理・運営をしていることから、被告東燃化学の公害対策は右記の設備対策の他はほぼ被告東燃と同一の方針によっている。

被告東燃化学は、昭和五〇年一一月、同五一年七月及び同六〇年一月、ボイラーに(但し、右昭和五〇年及び五一年の各設置は実用化試験の段階であり、本格的稼働は同五二年頃からであった。)、同六二年二月、ボイラー及びガスタービンに無触媒式排煙脱硝装置をそれぞれ設置した。

なお、被告東燃化学には排煙脱硫装置は設置されていない。

3 被告キグナス石油

(一) 設立及び操業の経緯等

(1) 被告キグナス石油(旧商号・日網石油精製株式会社)は、昭和三三年一一月、被告東燃五〇%、日本漁網船具株式会社(後にニチモウ株式会社と商号変更した。以下「日本漁網船具」という。)三三%、日本水産株式会社一七%の比率によるの共同出資により設立された石油精製会社である。

日本漁網船具は、昭和三〇年に原重油一本外貨制度が採用されるに至り、製油所を持たない純元売業者であった同社にも原油輸入外貨を割り当てられた結果、石油精製業に進出することになったが、石油精製に関する経験がなかったため右経験を有する被告東燃と提携することとなったものである。

その後、一部持株の譲渡が行われた結果、昭和三八年二月には、持株比率は被告東燃七〇%、日本漁網船具三〇%となり、現在に至っている。

(2) 日本漁網船具は、昭和三二年一二月、神奈川県から埋立地約二一万四〇〇〇m2(昭和三四年八月、追加割当を受けて約二六万m2になった。)の分譲を受け、これを被告キグナス石油(当時の商号は日網石油精製株式会社)設立と同時に右被告キグナス石油に譲渡した。

(3) 被告キグナス石油は、昭和三四年九月、工場建設に着手し、同三五年一〇月、第一常圧蒸留装置(当初日産二万一〇〇〇バーレル)の操業を開始し、右装置は後に増設され昭和四八年三月には日産三万五〇〇〇バーレルに拡張された。

次いで、昭和四二年一〇月、第二常圧蒸留装置(日産三万バーレル)が竣工稼働し、その後、右装置は昭和四八年三月に日産六万五〇〇〇バーレルに拡張され、以後、被告キグナス石油は日産一〇万バーレルの原油処理能力を有することになった(当事者間に争いがない。)。

(二) 公害防止対策

(1) 燃料対策

被告キグナス石油は、昭和四三年ころから重油中の含有硫黄分の低減、副生ガスあるいは燃料ガス等を導入した。

(2) 設備対策

被告キグナス石油は、昭和四三年七月ころから神奈川県工業試験所が開発した神工式試式排煙脱硫装置を設置稼働させた(但し、現在は稼働していない。)。

なお、排煙脱硝装置は設置されていない。

四被告日本石油化学株式会社(以下「被告日石化学」という。)及び同浮島石油化学株式会社(以下「被告浮島化学」という。)(〈書証番号略〉、証人塩路保夫、同秋山克弘)

1 設立及び操業の経緯

(一) 被告日石化学

(1) 被告日石化学は、昭和三〇年八月、日本石油株式会社(以下「日本石油」という。)の全額出資により設立された。

右設立の経緯は、まず日本石油が、第二次世界大戦後の昭和二五年、横浜及び下松両製油所の操業再開を機にカルテックスと合弁で日本石油精製株式会社(以下「日石精」という。)を設立し、右日石精横浜工場に流動接触分解装置を建設したが、右装置から出る副生ガスの有効利用を図るため、右副生ガス中のプロピレン留分を原料としてイソプロピルアルコール(以下「IPA」という。)及びアセトンを製造することとし、右目的のために被告日石化学を設立したものである。

(2) 被告日石化学の設立に当たっては、当初は日石精横浜工場近くに工場用地を求めたが、適当な工場用地を見付けることができなかったため、日本石油が東亜港湾外一社から購入した川崎市大師河原先(塩浜地区)の埋立地四万八五〇〇坪の内約八〇〇〇坪を被告日石化学が借り受け、昭和三二年五月、右川崎工場(塩浜地区)にIPA・アセトン第一製造装置を完成し、同年七月から生産を開始した。

その後、被告日石化学は、石油化学工業への本格的進出を企図していたところ、古河電気工業株式会社において高密度ポリエチレン、旭電化工業株式会社においてエチレングリコールとエチレンオキサイド、日本ゼオン株式会社において合成ゴムとスチレンモノマーの各企業化等が準備されており、これらの企業から被告日石化学に対し、原料であるエチレン及びブタジエンの供給の申込みがあったことから、ナフサ分解によるエチレン、ブタジエン等の生産販売を計画した。そこで、被告日石化学は、昭和三二年一一月、川崎市から千鳥町埋立地約四万九〇〇〇坪を購入し、同三四年五月、川崎工場(千鳥地区)にエチレン第一製造装置及びブタジエン第一製造装置を完成し、同年六月から生産販売を開始した。

その後、被告日石化学は、昭和三八年四月、エチレン第二製造装置、同四〇年六月、エチレン第三製造装置をそれぞれ川崎工場(千鳥地区)に完成させ、右昭和四〇年六月の時点において、エチレン第一製造装置の増強分も含めてエチレン生産能力を年産二〇万トンとした。

そして、被告日石化学は、昭和三五年ころから、生産の合理化、収益性の向上、更に同社においては取引先との間に資本的・人的関係がなかったことから需給の安定化を図ること等を目的として、原料から誘導品まで一貫して製造する総合的な石油化学会社を目指す計画を立案したが、右目的に基づき、昭和四一年一二月、神奈川県から川崎布浮島町の埋立地を購入し、同四三年二月、浮島工場に低密度ポリエチレン製造工場等を完成し、事業を拡大していった。

その後を含めた被告日石化学の製造設備の変遷は別表26の日石化学川崎工場(塩浜)、同(千鳥)及び浮島工場欄記載のとおりである。

(二) 被告浮島化学

(1) 被告日石化学は、前記のとおり、昭和四〇年六月の時点において、エチレン生産能力を年産二〇万トンとしていたが、更に浮島南地区に年産二五万トン規模のエチレン第四製造装置建設の計画を立案したが、昭和四二年五月、通産省からエチレンの生産規模を三〇万トンを基準とする構想が発表されたため、右計画は変更を余儀なくされ、他方、三井石油化学工業株式会社は、昭和四二年七月、同社千葉工場にエチレン年産三〇万トン規模の装置を建設する計面を立案していたが、原料のナフサの調達に不安があったことから、右両社が協議した結果、昭和四二年一一月、両社折半の共同出資により被告浮島化学が設立された。

被告浮島化学は、被告日石化学の浮島工場の一部を賃借し、昭和四五年三月、エチレン年産三〇万トンの第一エチレン製造装置を完成させ、同年五月から操業を開始し、右エチレンを被告日石化学と三井石油化学が折半で引き取っている。

その後を含めた被告浮島化学の製造設備の変遷は、前記別表26の浮島化学欄記載のとおりである。

なお、被告浮島化学の右第一エチレン製造装置の完成後、昭和四五年五月、被告日石化学は同社のエチレン第一製造装置の稼働を中止し、同五三年五月、同第二製造装置、同六〇年三月、同第三製造装置の稼働をそれぞれ中止した。

2 公害防止対策

(一) 硫黄酸化物対策(燃料対策)

被告日石化学は、川崎工場稼働当初から、石油加熱炉においては、一部の装置を除き燃料として硫黄分を含まない副生油及び副生ガスのみを、ボイラーにおいては、燃料として重油とともに右副生油及び副生ガスを使用しており、被告日石化学で使用する燃料中重油の占める割合は、昭和三五年ころにおいて二五%程度であり、平成元年当時においては一〇%に過ぎない。

また、被告日石化学は、日本石油から優先的に低硫黄重油の供給を受けて、昭和四四年七月からボイラーの燃料として含有硫黄分0.2%以下の低硫黄重油の使用を開始し、同年一〇月には浮島工場で使用する重油全てを低硫黄重油とした。

これらの燃料対策の結果、被告日石化学における使用燃料中の平均硫黄分は、昭和三五年当時で0.65%、同四四年当時で0.41%、同四九年以降は0.10%以下である。

被告浮島化学は、操業当初から副生ガス及び副生油のみを燃料として使用したため、これまで硫黄酸化物を排出していない。

(二) 窒素酸化物及び煤塵対策

(1) 燃料対策

被告日石化学及び同浮島化学においては、右(一)のとおり、窒素分を含まない副生ガス及び窒素分を殆ど含まない副生油を使用している。また、右副生ガスからは殆ど煤塵を発生しないし、副生油は重油に比較すると煤塵の発生量が低い。

(2) 燃焼技術の改善及び排煙脱硝装置

被告日石化学においては、昭和四八年から株式会社新潟鉄鋼所と燃焼技術に関する共同研究を行い、昭和四九年から川崎工場のエチレン装置の石油加熱炉八基に同社が開発したスチームアトマイジング技術(重油バーナーで重油の中にスチームを吹き込むことにより燃焼状況を改善して窒素酸化物を低減する方法)を、川崎及び浮島両工場において、昭和五〇年からボイラーで使用する重油に添加剤を加えることにより燃焼状況を改善して窒素酸化物を改善する方法(現在では使用されていない。)をそれぞれ導入し、昭和五四年から川崎及び浮島両工場の各装置の石油加熱炉一四基に約三〇〇本の低NOxバーナーを設置した。

また、昭和五〇年から三菱化工機株式会社と排煙脱硝装置の共同研究を行い、昭和五一年から浮島工場のボイラーに排煙脱硝装置を設置した。

被告浮島化学においては、昭和五六年からエチレン装置の石油加熱炉一〇〇基に排ガス再循環設備(排ガスの一部を燃焼空気の中に引き込むことにより燃焼空気中の酸素濃度を低下させ、燃焼空気温度を下げることで窒素酸化物を低減させる方法)を設置し、約二〇%の窒素酸化物に低減した。

五被告昭和電工株式会社(以下(被告昭和電工」という。)(〈書証番号略〉、証人大柳昌一、同西村潔)

1 設立及び操業の経緯

被告昭和電工は、昭和一四年六月、昭和肥料株式会社(昭和三年設立、以下「昭和肥料」という。)と日本電気工業(大正一五年設立)が合併して設立された会社である。

(一) 被告昭和電工川崎扇町工場は、当時の川崎地区が交通機関及び港湾施設が整備され輸送に便利であったこと、大消費地に近く、また、大容量の電気を受電することが可能であったこと、湾岸埋立地で人家からもある程度離れていたこと等の事情から昭和六年に合併前の昭和肥料により建設され、アンモニア合成法による硫安の製造を開始した。

被告昭和電工の生産設備は第二次世界大戦により潰滅したため操業を一旦停止したが、昭和二〇年末に硫安の生産を再開し、また、昭和二一年、大川町に水電解工場(川崎扇町工場)を建設した。右硫安の生産は、昭和二三年に年産二五万トン、その後の増設により同三二年には同四四万四〇〇〇トンとなったが、昭和四七年六月に生産は中止された。

これに対し、川崎扇町工場では、昭和三五年に苛性ソーダ、プロピレンオキサイド及びプロピレングリコールの製造を、同四二年七月、エピクロールヒドリンの製造をそれぞれ開始した。

(二) 被告昭和電工は、その後、総合石油化学への進出を企図し、昭和三一年七月、硫安の合理化並びにポリエチレンの生産計画を通産省に認可申請したが、当時、被告日石化学のエチレンセンターの建設計画が先行して認可されていたため、被告昭和電工の右申請は認可されず、通産省から被告日石化学のコンビナートへの参加を要請され、昭和三二年二月、被告日石化学との間で原料ガス需給に関する基本協定を締結した。

(三) 被告昭和電工は、昭和三二年六月、ポリエチレン生産の目的で関係会社とともに出資して昭和油化株式会社(以下「昭和油化」という。)を設立した(被告昭和電工の出資比率は五一%)。

右昭和油化は、川崎市から千鳥町南地区の埋立地約三〇万m2を購入して被告日石化学に隣接して工場を建設し、被告日石化学からエチレン供給を受けて、昭和三四年七月、ポリエチレンの生産を開始した。

昭和油化(後述の日本オレフィン化学を含め)のポリエチレン生産設備能力は、操業当初において年産一万トンであったが、その後、生産設備能力を増大させ、昭和四九年一月には年産一一万トンとなった。

昭和油化は、隣接して鋼管化学工業株式会社(以下「鋼管化学」という。)が同じ日石化学コンビナート内でポリスチレン及びスチレンモノマー等のエチレン系石油化学誘導品を生産していたことから、昭和三八年五月、鋼管化学(合併時の商号は日本オレフィン化学株式会社)と対等合併し、商号を日本オレフィン化学株式会社(以下「日本オレフィン化学」という。)とした。

その後、昭和四〇年不況によりポリスチレンの業績が不振になったことから、昭和四〇年四月、日本鋼管出身の常勤役員が全員が退任し、同四二年八月、被告昭和電工が同日本鋼管の持株を引き受けた結果、日本オレフィン化学は被告昭和電工の完全な子会社となった。

その後、被告昭和電工は、昭和四一年一一月、住友化学工業株式会社と折半出資で日本ポリスチレン工業株式会社(以下「日本ポリスチレン」という。)を設立し、日本オレフィン化学はポリスチレン及びスチレンモノマーの製造設備を右日本ポリスチレンに譲渡した。

日本オレフィン化学は、右日本ポリスチレンの設立により従前のポリエチレン生産のみを行うことになったため、昭和四七年に改めて商号を昭和油化に変更した。

その後、被告昭和電工は、昭和五四年七月、右昭和油化を吸収合併し、ポリエチレンの生産を大分工場に一本化するため、同年一二月、右ポリエチレン生産設備を被告東燃化学に譲渡した。

(四) 被告昭和電工は、昭和四〇年に日本オレフィン化学から千鳥町北地区の敷地を購入して千鳥町工場を建設し、昭和四一年からイソフタロニトリルの製造を、同四九年からグリシンの製造をそれぞれ開始した。

2 公害防止対策(昭和油化を含む。)

(一) 燃料対策

被告昭和電工及び昭和油化においては、昭和四二年以降、硫黄酸化物、窒素酸化物あるいは煤塵削減のための燃料対策を行った。

まず、昭和四二年、被告昭和電工が増設したアンモニア製造装置の燃料にナフサを採用するとともに、昭和四四年、昭和油化のボイラー燃料の一部を低硫黄重油であるロウサル重油に転換し、昭和四九年、被告昭和電工川崎工場ボイラー一基の燃料を重油から重油と殆ど硫黄分を含まない副生ガスの混焼に転換するなどその後も含有硫黄分の少ない燃料に転換していった。

(二) 燃焼方法の改善

被告昭和電工においては、昭和四九年、川崎工場主力ボイラーに低NOxバーナーを設置するとともに、燃焼方式を二段燃焼方式に改良し、また、同五〇年、川崎工場予備ボイラーを多段燃焼方式に改良した。

(三) 設備対策

被告昭和電工は、昭和三八年ころから排煙脱硫装置の研究を開始し、昭和四五年、川崎工場主力ボイラーに、同四九年、川崎工場新設予備ボイラーに同社が開発した昭和電工式排煙脱硫装置をそれぞれ設置した。

また被告昭和電工は、昭和六一年、ボイラー一基に排煙脱硝装置を設置した。

六被告ゼネラル石油株式会社(以下「被告ゼネラル石油」という。)(〈書証番号略〉、証人久保田建三)

1 設立及び操業の経緯

(一) 被告ゼネラル石油は、昭和二二年七月に設立され(当時の商号はゼネラル物産株式会社)、同二四年四月、石油元売業者としての指定を受けた。

その後、国の石油政策が原油輸入・国内精製を主とし、製品輸入を従とする国内精製主義となったため、製油所を有していなかった被告ゼネラル石油も石油精製業への進出を企図した。

(二) そこで、被告ゼネラル石油は、昭和三二年一二月、関東地区の製油所用地として神奈川県から川崎市浮島地区の埋立地約八万六〇〇〇坪を購入した。

ただ被告ゼネラル石油は、製油所の建設・運営等の経験がなかったため、当初、取引関係のあったスタンダード・ヴァキューム・オイル(以下「SVOC」という。)に対し、製油所の運営につき協力を依頼したが、結局、右SVOCから国内で石油精製専業会社であった被告東燃を提携先として紹介され、右被告東燃とそれぞれ五〇%ずつ出資して、昭和三三年一一月、ゼネラル石油株式会社(右ゼネラル石油株式会社は、本件被告ゼネラル石油とは別法人であり、右会社は、その後、昭和四二年一月、ゼネラル石油精製株式会社に商号変更した。以下「ゼネラル石油精製」という。)を設立し、右ゼネラル石油精製が川崎製油所の建設・運転をすることになった。その際、被告東燃の従業員がゼネラル石油精製に川崎製油所の建設、運転あるいは管理部門の要員として入社した。

ゼネラル石油精製は、昭和三五年一一月、前記浮島地区埋立地に原油処理能力日産三万八〇〇〇バーレルの常圧蒸留装置を有する川崎製油所を完成し、同年一二月から操業を開始した。

その後、昭和三七年一二月、原油処理能力を日産五万五〇〇〇バーレルに増強した。

なお、被告ゼネラル石油は、ゼネラル石油精製に石油輸入の外貨枠を譲渡するとともに、ゼネラル石油精製の製品全量を引き取って販売していた。また、右ゼネラル石油精製の生産計画は、被告ゼネラル石油とゼネラル石油精製との間で協議されていた。

(三) 被告東燃は、昭和三六年八月、同社が保有するゼネラル石油精製の株式全部をSVOCに譲渡した。

その後、被告ゼネラル石油は、昭和四二年一月、商号をゼネラル物産から本件被告ゼネラル石油株式会社に変更し、同五五年二月、ゼネラル石油精製を吸収合併した。

被告ゼネラル石油は、昭和六二年二月、川崎製油所石油精製装置の操業を全面的に停止し、石油精製設備を撤去している。

2 公害防止対策

(一) 硫黄酸化物対策

(1) 燃料対策

被告ゼネラル石油においては、燃料対策として、低硫黄重油の使用、硫黄分を殆ど含まないLPGあるいは原油精製過程で生ずる副生ガスの使用、また、副生ガスに含まれる硫黄分を燃料洗浄装置(MEAスクラバー)で硫黄酸化物を除去して使用するなどして、その結果、使用燃料中の平均硫黄分は、昭和四二年ないし同四四年には1.8%程度、その後も漸次減少し、同四七年には0.8%程度、昭和四九年以降は0.5%以下となっている。

(2) 設備対策

被告ゼネラル石油は、昭和四五年三月、硫黄回収装置燃焼炉及び産業廃棄物焼却炉にそれぞれ排煙脱硫装置を設置した。

(二) 窒素酸化物対策

被告ゼネラル石油においては、前記燃料対策とともに、燃焼方法の改善として、コンピューターにより燃焼に必要な空気量を管理する低空気燃焼方法を採用し、また、常圧蒸留装置加熱炉及び接触改質装置加熱炉に低NOxバーナーをそれぞれ設置した(但し、その時期は不明)。

(三) 煤塵対策

被告ゼネラル石油は、前記燃料対策とともに、燃料重油に必要に応じて煤塵防止重油添加剤を使用するとともに、産業廃棄物焼却炉に電気集塵器を設置している。

七被告三菱石油株式会社(以下「被告三菱石油」という。)(〈書証番号略〉、証人笠井重彦)

1 設立及び操業の経緯

(一) 被告三菱石油は、昭和六年二月、三菱合資会社、三菱商事及び三菱鉱業の三社合計で五〇%並びに米国アソシエーテッド石油五〇%の共同出資により、原油輸入及び石油製品販売を目的として設立された。

被告三菱石油は、原油輸入の必要上港湾施設が不可欠であり、また、石油精製施設の設置には相当な工場用地二万四五〇〇坪を必要とするため、これらの点に着目して川崎市扇町地区に用地を取得した。そして、右扇町地区に川崎製油所を建設し、昭和六年一二月、軽質油精製装置である常圧蒸留装置兼分解蒸留装置(軽質油原油精製能力日産三〇〇〇バーレル)を完成して操業を開始し、同七年二月、重質油真空蒸留装置(重質油原油精製能力日産一〇〇〇バーレル)を完成し、主としてガソリンと潤滑油を生産していた。

(二) 被告三菱石油川崎製油所は、第二次世界大戦により壊滅的打撃を受けたが、昭和二五年八月、常圧分解結合装置(能力日産四五〇〇バーレル)を復旧し、同年八月から操業を再開した。

被告三菱石油川崎製油所は、その後、原油処理能力を増強し、昭和三二年には日産五万四四〇〇バーレル、同三九年には日産七万四四〇〇バーレル、同四六年には日産一〇万五〇〇〇バーレルとなったが、昭和四八年の石油危機により石油の需要が激減したこともあって、昭和五八年及び同六二年にそれぞれ設備の一部を廃棄した結果、昭和五八年には日産七万五〇〇〇バーレル、同六二年以降は日産五万五〇〇〇バーレルに減少した。

2 公害防止対策

(一) 硫黄酸化物対策

(1) 燃料対策

被告三菱石油においては、燃料としてオフガス及び液化ガス(LPG)の気体燃料の混焼率を増加させ、昭和四五年ないし同四九年の右気体燃料の混焼率は三〇%前後であったが、同五〇年には約五〇%、同六二年には約七〇%とした。

また、低硫黄重油であるマーバン油(含有硫黄分約1.5%)を使用するなどして、川崎製油所使用の液体燃料中の硫黄分(重量)は、昭和四五年は約1.6%であったが、以後減少し、同五一年には約0.2%、同五四年には0.2%以下となった。

(2) 設備対策

被告三菱石油は、生産される製品中の含有硫黄分の減少を主目的として、昭和三三年ころから、灯油及び軽油の製造工程に水素化脱硫装置を設置して右灯油及び軽油中の硫黄分を水素ガスを使用して除去し、また、昭和五〇年代初めころから、重質ガソリンの製造工程に接触改質装置を設置してオクタン化を上昇させるとともに、その後の工程において、前記水素化脱硫装置により発生させた硫化水素をガス洗浄装置で捕捉吸収し、右硫化水素を硫黄回収装置で燃焼反応させて固形の硫黄として回収した上で、その際発生した排ガス中の硫黄分もテールガス処理装置で除去する方法を採用している。

なお、被告三菱石油では、加熱炉及びボイラーには排煙脱硫装置は設置されていない。

(二) 窒素酸化物対策

(1) 燃料対策

被告三菱石油では、前記(一)(1)のとおり、マーバン油の使用及び気体燃料の混焼率の増加により燃料の窒素分をも減少させた。

(2) 燃焼方法の改善

被告三菱石油では、全ての加熱炉において、運転空気比の変更及び炉内混合特性の変更により燃焼の際の酸素の調節を行い、また、設備の改善等により、一部の施設において、昭和五二年から排ガス再循環方式及び二段燃焼方式を、同五四年から低NOxバーナーを採用している。

(三) 煤塵対策

被告三菱石油では、前記(一)(1)の燃料の改善により煤塵の減少に努めるとともに、昭和五二年度からボイラー及び産業廃棄物焼却炉に電気集塵機を設置している。

(四) 高煙突化

被告三菱石油は、川崎製油所において高煙突化と煙突の集合化を図り、昭和四六年には航空法上限の九五mの煙突を建設した。

八被告昭和シェル石油株式会社(以下「被告昭和シェル石油」という。)(〈書証番号略〉、証人河野昌也、同柏倉六郎)

1 設立及び操業の経緯

(一)被告昭和シェル石油は、昭和一七年八月、当時川崎市及び新潟市に製油所をもつ早山石油株式会社(以下「早山石油という。)、新潟市及び秋田県に製油所をもつ新津石油株式会社並びに東京都、山口県及び和歌山県に製油所をもつ旭石油株式会社との合併により設立された昭和石油株式会社(以下「昭和石油」という。)が、昭和六〇年四月、シェル石油株式会社と合併して設立されたものである。

(二) 被告昭和シェル石油川崎製油所は、昭和六年一一月、早山石油川崎製油所として操業を開始したものである。そもそも早山石油は、従前、新潟市に本拠を置き、国産の原油を処理して主に機械用の潤滑油を生産していたが、石油業界の将来性を見越して、原料油の輸入の利便性及び大需要地への製品販売等の便宜性の観点から太平洋岸への進出を企図し、その結果、昭和五年五月、現在の被告昭和シェル石油川崎製油所敷地の一部であるいわゆる川崎区扇町の浅野埋立地を購入して右製油所を建設した。

(三) 被告昭和シェル石油川崎製油所は、昭和二〇年七月、第二次世界大戦における空襲により被害を受けて操業を停止していたが、同二五年一月、同製油所第一常圧蒸留装置(原油処理能力日産六〇〇〇バーレル)及び潤滑油製造関係装置をそれぞれ復旧して操業を再開した。

川崎製油所においては、昭和二六年七月に第二常圧蒸留装置の竣功、同二八年に第二真空蒸留装置の復旧、同三一年九月に第三常圧蒸留装置の竣功、同三六年九月には、第四常圧蒸留装置が竣功し、右昭和三六年九月において、川崎製油所の原油処理能力は日産五万二〇〇〇バーレルに拡大した。

その後、昭和三九年から同四〇年に第四常圧蒸留装置の増強、同四四年四月に集中合理化装置第一期工事及び同四五年七月に集中合理化装置第二期工事がそれぞれ完成し、また、その間に第三常圧蒸留装置の廃棄があったが、昭和四五年七月において、川崎製油所の原油処理能力は日産一四万九〇〇〇バーレルとなった。

その後、昭和六三年三月、第四常圧蒸留装置を廃棄した。

2 公害防止対策

(一) 硫黄酸化物対策

(1) 燃料対策

被告昭和シェル石油川崎製油所においては、昭和四五年ころから硫黄回収装置及びガス洗浄装置を増強するなどにより燃料中の硫黄分の削減を図り、また、昭和五〇年に揮発油異性化装置を新設する際、新設の各加熱炉をガス専焼にして全量ガス炊きにする措置を講じた結果、川崎製油所における燃料油硫黄分は、昭和四五年において1.0%であったが、同五一年には約0.2%に、現在では約0.1%に低下した。

また、右川崎製油所においては、前記1(三)のとおり、昭和四四年四月に集中合理化装置を完成させたが、右装置は各工程の効率化等を図った結果、エネルギー消費量を削減し燃料の使用量そのものを減少させた。

(2) 設備対策

被告昭和シェル石油川崎製油所においては、昭和四七年に集中合理化装置の硫黄回収装置に排煙脱硫装置(IFP式)を設置し、同五〇年に右排煙脱硫装置を改造した(SCOT式)。

(二) 窒素酸化物対策

(1) 燃料対策

燃料対策は、前記(一)(1)の硫黄酸化物対策と同様である。

(2) 燃焼方法の改善

被告昭和シェル石油は、昭和四九年に日本ファーネス工業株式会社と低NOxバーナーの共同開発を開始し、右低NOxバーナーを昭和五〇年に川崎製油所のボイラーに設置したのを初めとして順次各装置に設置した。また、昭和五〇年にはボイラーに排ガス循環式燃焼法を採用した。

更に、昭和五二年、集中合理化装置の加熱炉に燃焼管理対策を実施し、燃焼に必要な空気を自動的に調節することによって燃焼の過剰空気をできる限り削減し、燃焼温度を下げることにより窒素酸化物を削減した。

右対策は昭和五三年に他の加熱炉にも採用された。

(3) 設備対策

被告昭和シェル石油川崎製油所においては、昭和六二年、ガスタービンに排煙脱硝装置を設置した。

(三) 煤塵対策

被告昭和シェル石油川崎製油所においては、前記(一)(1)のとおり、ガス炊き等の採用により気体燃料を多く使用することにより煤塵の発生量を削減している。

(四) 高煙突化

被告昭和シェル石油川崎製油所は、昭和四四年に主力の煙突を六〇mとした。

九被告東亜石油株式会社(以下「被告東亜石油」という。)(〈書証番号略〉、証人甲斐種千代、同河野昌也)

1 設立及び操業の経緯

(一) 被告東亜石油は、大正一三年二月、日本重油株式会社として設立され、当初、三井物産株式会社の特約店として国産あるいは輸入重油の販売をしていたが、昭和一七年四月、日米礦油株式会社の一部を合併し、商号を東亜石油株式会社とした(当事者間に争いがない。)。

第二次世界大戦後、被告東亜石油は、昭和二四年四月、日本石油の特別販売店として石油販売業に復帰し、同二八年一月、燃料油輸入元売業者の指定を受けて燃料油の輸入外貨の割当を受け、重油等石油製品輸入元売業者となった。

(二) 被告東亜石油は、その後、石油精製業に進出することを企図し、当初、製油所用地として千葉県五井海岸の調査に着手したが、埋立てに時日を要することから断念した。

そして、被告東亜石油は、当時の川崎臨海地区が港湾条件に恵まれ原油の輸入及び製品の出荷に利便性があったこと、製油所の操業に不可欠な電力及び工業用水の安定的な供給を受け得ること並びに消費地に近接していたこと等の観点から、右川崎臨海地区に立地することとし、昭和二八年一〇月、日立造船株式会社から当時の川崎市水江町の土地約一万八〇〇〇坪を購入した上、同三〇年八月、第一常圧蒸留装置(原油処理能力日産六〇〇〇バーレル)等を完成し(第一工場)、操業を開始した。

右第一常圧蒸留装置は、その原油処理能力を昭和三二年七月に日産一万二〇〇〇バーレル、同三六年一月には二万バーレルに増強された。

被告東亜石油は、昭和三二年七月、日立造船から右第一工場の隣接地三万九〇〇〇坪を追加して購入し、同三七年三月、第二常圧蒸留装置(原油処理能力日産三万バーレル)等を完成して(第二工場)稼働させた。そして、右第二工場においては、昭和四三年九月、集中合理化装置(原油処理能力日産五万バーレル)等を完成させ、その結果、被告東亜石油の当時の原油処理能力は日産一〇万バーレルとなった。

その後、被告東亜石油は、右集中合理化装置及び第二常圧蒸留装置の増強をしたが、他方、昭和五四年四月には第一常圧蒸留装置を廃止し、更に、同六〇年六月には第二常圧蒸留装置等を廃止した。

一方、昭和六二年七月、流動接触装置を完成した。

(三) 被告東亜石油は、右(二)の操業の開始及び拡大の間において、昭和四〇年八月、日本鉱業株式会社及びアジア石油株式会社とともに共同石油株式会社(以下「共同石油」という。)を設立した上、被告東亜石油の販売及び運輸部門を共同石油に移管したことにより石油精製専業会社となった。

その後、昭和五四年一二月に被告昭和シェル石油(当時は昭和石油)が被告東亜石油の筆頭株主となり、被告東亜石油は、現在、受託精製専門会社である。

2 公害防止対策

(一) 燃料対策

被告東亜石油では、精製した硫黄分の少ないミナス原油(含有硫黄分0.2%)、洗浄装置で洗浄した後のオフガス及び分解脱硫した重質油を原料として使用し、その結果、燃料油平均硫黄含有量(副生ガスについても油に換算)は、昭和四一年に1.78%であったが、同四六年には0.82%に、以後も減少し、同四九年に0.20%、同五一年には0.07%となった。

(二)設備対策

(1) 被告東亜石油においては、第二常圧蒸留装置関連装置につき、昭和三七年にLPG洗浄装置を、同三八年にナフサ・灯軽油水素化脱硫装置をそれぞれ設置稼働し、昭和四三年には、集中合理化装置関連装置にMEAガス洗浄装置(副生ガス及びLPG中の硫化水素を除去する装置)、硫黄回収装置(MEAガス洗浄装置の再生系から発生する硫化水素を部分酸化させて硫黄を製品として回収する装置。但し、右装置は昭和五一年に廃止された。)及びナフサ・灯軽油水素化脱硫装置をそれぞれ設置稼働した。

(2) その後、被告東亜石油は、米国で開発された重質油分解装置(ガス化脱硫装置)を昭和五一年一〇月に完成して試運転を終え、同五二年から営業運転を開始した(世界で初めて導入された装置で我国では被告東亜石油のみの設備である。)。右重質油分解装置は、脱硫が困難なアスファルトあるいは重質油を分解して脱硫し易い形に変えるものであり、右装置による分解後のガスあるいは重質軽油留分等は既設の技術又は装置で脱硫する方法を採用した。

また、右装置に附帯して、重質軽油水素化脱硫装置、軽質軽油水素化脱硫装置、分解ナフサ水素化脱硫装置、硫黄回収装置、MEAガス洗浄装置、低カロリーガス脱硫装置(ストレット・フォード装置)及び排煙脱硫装置(テールガス処理装置)等を設置した。この結果、重質軽油の硫黄分(重量比)を0.1%以下にすることができ、また、水素化脱硫装置により窒素分を約五〇%、含有炭素分も削減することができた。

(3) 被告東亜石油は、昭和六二年の流動接触分解装置の建設に際して、脱硝装置及び電気集塵機を設置した。

(三) 燃焼方法の改善

被告東亜石油においては、燃焼方法の改善として、昭和四八年一一月、第二常圧蒸留装置の原油加熱炉を改造してバーナー全部を低NOxバーナーに変更し、同五七年七月、集中合理化装置の原油加熱炉を改造して全数NOxバーナーに交換した。

(四) 高煙突化

被告東亜石油においては、昭和四五年、第二常圧蒸留装置の従前16.7mの煙突を59mに、五号及び六号ボイラーの従前二〇mの煙突を各五九mにそれぞれ高煙突化し、また、昭和四三年に新設した集中合理化装置の煙突は五五m、同五一年に建設した減圧装置エリアの煙突は八一m、同年建設した新設ボイラーの煙突は82.3mとした。

一〇被告JR東日本(〈書証番号略〉、証人榎本龍幸)

1 被告JR東日本川崎発電所の建設及び操業の経緯

(一) 大正八年七月の閣議により国鉄の電化とともに自営発電の方針が決議され、その後、大正一四年帝国議会において東京近郊に火力発電所建設が議決された。

右方針に基づき、国鉄では、電力の需要地に近いこと、当時は石炭を燃料としていたことから石炭の搬入が容易であり、また、冷却水を得易いこと、地盤が良質であること及び地価が低廉であること等の観点から、川崎の東京湾埋立地が最適であると判断し、大正一五年一一月東京湾埋立会社から扇町の埋立地二万坪を買収し、昭和二年一二月に川崎発電所の建設に着工し、同五年八月、発電機二台(旧一、二号機。合計出力四万キロワット)の運転を開始した。

そして、昭和六年三月、発電機一台(旧三号機。出力二万キロワット)を増設した。

(二) 国鉄川崎発電所は、戦後の通勤輸送を中心とする輸送力増強対策の実施に伴う運転用電力の需要の急速な増加に対応して、既設の発電設備を順次発電能力の大きい設備に取り換えることとし、昭和三三年一月に一号機(出力六万キロワット)、同三五年一月に二号機(出力七万五〇〇〇キロワット)、同四二年二月に三号機(出力七万五〇〇〇キロワット)にそれぞれ取り換え、更に同四八年一〇月に四号機(出力一二万五〇〇〇キロワット)を増設し(この際、右一号機を廃止した。)、その結果、川崎発電所における右昭和四八年の総出力は二七万五〇〇〇キロワットとなった。

その後、国鉄川崎発電所においては、昭和五六年四月、大型複合サイクル方式の新一号機(出力一四万四〇〇〇キロワット)を新設した。

なお、日本国有鉄道改革法(昭和六一年法律第八七号)に基づき、国鉄が経営していた旅客鉄道の分割及び民営化が実施されたことに伴い、被告JR東日本は、昭和六二年四月一日、国鉄川崎発電所の施設の所有権並びに運営管理を引き継いだ。

2 公害防止対策

(一) 硫黄酸化物対策

(1) 燃料対策

被告JR東日本川崎発電所においては、昭和三三年に設置された一号機及び同三五年に設置された二号機は石炭・重油各五〇%の混焼(二号機は同四七年に重油専焼に改良された。)であり、同四二年に設置された三号機及び同四八年に設置された四号機はいずれも当初から重油専焼であった。

被告JR東日本川崎発電所における昭和四四年ころの使用重油の含有硫黄分は2.6%であったが、同四五年から低硫黄重油の使用を開始した結果、使用重油の硫黄分は、同年1.4%、同四七年0.8%、同四九年には0.2%以下と減少した。

また、昭和五六年に設置された新一号機は含有硫黄分0.005%以下の灯油を燃料として使用した。

(2) 設備対策

被告JR東日本川崎発電所においては、昭和五〇年、三号機及び四号機に湿式吸収法の一種であるウエルマンロードナトリウム法(亜硫酸ナトリウム水溶液と排ガス中の硫黄酸化物を化学反応させて硫黄酸化物を除去する方法)を採用した排煙脱硫装置を設置した。右排煙脱硫装置は脱硫率が九六%以上であった。

(二) 窒素酸化物対策

(1) 燃料方法の改善

被告JR東日本川崎発電所においては、昭和四九年から同五〇年にかけて、二ないし四号機に二段燃焼方式を採用するとともに、四号機を排ガス混合方式に改造した。

また、新一号機には水噴射装置(燃料と水とを噴射することによりボイラーの火炎温度を低下させて窒素酸化物の生成量を抑制するもの)を設置した。

(2) 設備対策

被告JR東日本川崎発電所においては、昭和五六年に新一号機、同五七年に乾式アンモニア触媒還元分解法(アンモニアと排ガスを混合して触媒により化学反応させて窒素と水に分解する方法)を採用した排煙脱硝装置をそれぞれ設置した。右排煙脱硝装置の脱硝率は八〇%以上であった。

(三) 煤塵対策

被告JR東日本川崎発電所では、一号機については、昭和三三年の新設時から機械式集塵機を、同四一年には電気集塵機をそれぞれ設置し、二号機については、昭和三五年の新設時から機械式集塵機及び電気式集塵機を設置した。また、三号機及び四号機は、前記(一)のとおり、当初から重油専焼とした上、各新設時から機械式集塵機を設置し、三号機には昭和五六年から、四号機には同五八年から電気式集塵機をそれぞれ設置した。

(四) 高煙突化

被告JR東日本川崎発電所では、昭和四六年三月、従前一〇〇mであった三号機の煙突を一二五mにするとともに、四号機の煙突は、昭和四八年の建設時から一二五mとしている。

第二本件道路の建設・拡幅等の経緯(〈書証番号略)、証人竹本雅俊、弁論の全趣旨)

一国道一五号線

1 国道一五号線は東京都中央区を起点とし、川崎市を経過して横浜市に至る路線である。そして、本件地域においては、旭町、榎木町、元木、池田を通過する約2.7Kmの区間であり、標準幅員五〇m(一部二〇m〔但し、事業化幅員五〇m〕)、上下六車線又は四車線の道路である。

明治一八年、太政官布達第一号に基づいて内務卿により国道表が告示され(明治一八年内務省告示第六号)、これによって東京から横浜に達する路線が国道一号線とされた。

その後、大正八年、道路法(大正八年法律第五八号。以下「旧道路法」という。)の公布に伴って国道表を再検討の上国道路線が認定され(大正九年内務省告示第二八号)、東京から伊勢神宮に達する路線(旧東海道)が国道一号線とされた。

そして、昭和二七年、旧道路法が改正(昭和二七年法律第一八号。以下「道路法」という。)され、これに伴って一級国道の路線を指定する政令(昭和二七年政令第四七七号)が公布され、旧国道一号線のうちいわゆる京浜国道が一級国道一五号線とされた。

その後、昭和三三年、一級国道の指定区間を指定する政令(昭和三三年政令第一六四号)により指定区間とされて、道路管理者が神奈川県知事から建設大臣に変わり、昭和四〇年、一般国道の路線を指定する政令(昭和四〇年政令第五八号)により一般国道一五号線と名称が変更された。

2 右道路は、交通の要路であることから、大正一四年、京浜国道改良事業により神奈川県内の大部分における既存の幅員の三倍に当たる一〇間(約一八m)が新設された。

その後、第二次世界大戦後の昭和二一年、川崎復興都市計画街路事業の一環として、右道路は、川崎市東一丁目六郷橋詰から横浜市境までの延長約2.6Kmについて幅員五〇mの計画決定がなされ、昭和四一年の川崎復興都市計画土地区画整理事業の竣功に伴って道路区域を変更し、拡幅部分を道路区域に取り込んで標準幅員約五〇m(昭和四一年建設省告示第一七一号)として現在に至っている。

二国道一号線

1 現在の国道一号線は東京都中央区と大阪市を結ぶ主要幹線である。本件地域においては、古市場、南幸町、柳町を通過する約3.1Kmの区間であり、標準幅員二三m、上下六車線の道路である。

大正九年、旧道路法の施行に伴って、東京から横浜港に達する路線が当時の国道一号線(現在の国道一五号線)に重複して国道三六号線とされた。

その後右国道一号線(現在の国道一五号線)の交通量が飽和状態になったことから、昭和九年、その西側に新路線が計画され、同一一年、内務省直轄工事として右工事が着工されたが、第二次世界大戦及び戦後の復興土地区画整理事業の遅れの影響のため、ようやく昭和二六年に右工事が完成した。

その後、昭和二七年、前記一級国道の路線を指定する政令の公布に伴い、従前国道三六号線とされていた路線が一級国道一号となった。

そして、昭和三三年、前記一級国道の指定区間を指定する政令により、神奈川県下の一級国道一号線のうち、指定区間に編入された大部分の区間について、管理者が神奈川県知事から建設大臣に変わり、その後、昭和四〇年、前記一般国道の路線を指定する政令により一般国道一号線と名称が変更された。

2 右道路は、前記のとおり、昭和一一年に内務省直轄工事として着工したが、昭和二一年、川崎復興都市計画街路事業の一環として、川崎市多摩川大橋詰から横浜市境までの延長約2.8Kmについて幅員五〇mの計画決定がなされるが、その後、計画幅員が順次縮小され、結局、右道路は神奈川県内の幅員が二三m(車道幅員一七m)となった。その後、昭和三六年、右道路につき車線構成の変更がなされ、車道幅員が一八mとなった。

三国道一三二号線

1 国道一三二号線は、川崎港から川崎市川崎区宮前町に至る路線である。本件地域においては、夜光、四谷下町、宮前町を通過する約4.6Kmの区間であり、標準幅員二五m(一部三六m)、上下四車線(一部六車線)の道路である。

国道一三二号線は、既存の市道を母体とし後に国道として指定されたものである。

昭和二一年、川崎復興都市計画街路事業の一環として、古川通から夜光を経て埋立地に至る幅員三六mの川崎停車場塩浜線が計画決定されたが、その後、都市計画変更により計画幅員が二五mとなった。

そして、昭和二八年五月、二級国道の路線を指定する政令(昭和二八年政令第九六号)に基づき、二級国道一三二号川崎港線として路線指定され、同年七月、川崎港から川崎市宮前町二三番地までの間につき道路区域の決定が行われた(昭和二八年神奈川県告示第三七一号)。なお、当時の幅員は5.5mから一八mとされた。

その後、昭和四〇年、一般国道の路線を指定する政令(昭和四〇年政令第五八号)に基づき、一般国道一三二号線と名称を変更し、また、同四七年、川崎市が政令指定都市となったことに伴い、道路管理者が神奈川県知事から川崎市長となった。

2 右国道一三二号線は、昭和四〇年から神奈川県が拡幅工事に着手し、同四〇年一〇月から同四六年六月の間において四回の道路区域の変更がなされ、右拡幅により川崎市塩浜から宮前区までの幅員は標準二五mとされた。

四国道四〇九号線

1 国道四〇九号線は、川崎港と川崎市中心部、更に川崎市西北部の住居地域を結ぶ道路であり、本件地域においては、浮島町、小島町、旭町、幸町、戸手、遠藤町、鹿島田を通過する約一三Kmであり、標準幅員二二mから二五m、上下四車線の道路である。

右国道四〇九号線は、県道川崎港及び県道川崎府中の一部が昭和六一年に国道の路線として重複指定されたものである。

2(一) 県道川崎港は、大正九年、川崎大師河原線及び大師河原羽田線として路線認定され、その後、昭和三五年に右両路線を廃止して再編成の上、川崎市大師河原から同市幸町までを大師河原幸線として路線認定され、同日付けで川崎市大師河原末広島八三三三イ号から同市幸町二丁目五八九番について区域決定及び供用開始がされた。

その後、昭和四〇年一〇月に川崎市本町二丁目三番地から同東門前一丁目六四番地までを区域変更の上供用開始し、この変更で最小幅員を7.5mから20.0mとするとともに延長が60mに短縮されている。

更に、同四一年一〇月に川崎市旭町で水路敷編入のための変更を行い、同四五年五月、同四六年四月に川崎市上殿町耕地から東門前、川崎市大師西町においてそれぞれ幅員に関して区域変更を行った後、同五九年一一月二〇日に県道大師河原幸線から県道川崎港に名称変更されたものである。

(二) 県道川崎府中については、大正九年に川崎府中線として川崎市砂子町から同市上菅までの路線認定を受けた後、昭和三〇年に路線変更の上、川崎市宮本町から同市堀川町までについて区域決定され、同三六年、川崎市幸町及及び宮本町から同市菅の区域変更を、更に同四五年、川崎市宿河原から同市生田間において区域変更が行われている。

その後、昭和五九年に川崎府中線から県道川崎府中に名称変更となり、同日付けで川崎市川崎区から東京都府中市について路線変更が行われたものである。

3 国道四九号線は、昭和五六年四月、一般国道の路線を指定する政令の一部を改正する政令(政令第一五三号)により、起点を川崎市、終点を成田市として路線指定され、同六一年三月、川崎市高津区溝口から同市川崎区浮島町までの区域決定(川崎市告示第九七号)を受けたものであり、昭和六二年五月、一般国道の指定区間を指定する政令の一部を改正する政令(政令第一七一号)により、川崎市川崎区浮島町四八〇番から木更津市永井作字鶴島前二八三番の三までが指定区間に編入されたことに伴って管理者が建設大臣となったものである。

五横羽線

1 横羽線は、起点を横浜市中央区本牧埠頭、終点を川崎市川崎区殿町(都県境)とする延長21.7Kmの神奈川県道であり、その道路構造の標準幅員は原則16.5m、上下四車線、設計速度六〇Km/時の自動車専用道路である。

前記のとおり被告公団は、道路整備特別措置法により本来の道路管理者である神奈川県(川崎市が政令指定都市に指定された昭和四七年四月一日以降は同市)に代わって、その権限の一部を代行し、横羽線を有料道路として建設・管理しているものである。

2 横羽線の建設計画は、昭和三六年を初年度とする第三次道路整備五箇年計画に取り上げられ、続いて昭和三九年六月に川崎区域について都市計画決定(建設大臣)がされ、同年九月、本来の道路管理者である神奈川県知事による路線認定、引き続いて自動車専用道路の指定を受けた後、建設大臣から基本計画の指示を受け、同四〇年一月、工事実施計画書の認可を経て、同年二月から工事に着工した。横羽線の川崎市域については、昭和四三年一一月に工事が完了し、本来の道路管理者(神奈川県)との協議及び建設大臣の同意を得て、建設大臣の認可を受け、同年一一月二八日、川崎市浅田四丁目から同市殿町一丁目までが供用開始された。

第三章被告らによる大気汚染物質の排出機序と排出量

第一大気汚染物質の排出機序

一被告企業らによる排出機序

1 製鉄業の製造工程(〈書証番号略〉、証人南川万俊、弁論の全趣旨)

製鉄業の製造工程には、焼結工程を含む原料に対する前処理工程、製銑工程、製鋼工程、圧延工程等がある。

(一) 原料に対する前処理工程

(1) コークスの製造

石炭は、粉砕された後、コークス炉に装入され、蒸し焼きにされコークスとなる。このコークスは、大部分が製銑工場に運ばれ、高炉に装入されるが、一部粉コークスは焼結工場に運ばれ、粉鉱石を焼き固めるために使用される。

また、石炭を蒸し焼きにしたときに発生するガスは、副産物を化工設備によって回収した後、製鉄所内のエネルギーとして使用される(コークス炉ガス)。

石炭の硫黄分はコークス炉内で硫化水素となり、その燃焼室における燃焼過程で硫黄酸化物、窒素酸化物が発生する。

なお、コークス炉の炭化室に石炭を装入する際、コークスを消火、粉砕する際、また、石炭・コークスを運搬する工程でそれぞれ粉塵が発生する。

(2) 鉄鉱石の前処理工程(焼結工程)

鉄鉱石には塊鉱石と粉鉱石とがあり、塊鉱石は破砕し、篩分けを行い、適当な大きさに粒を整えて高炉で使用する。

粉鉱石はそのままでは高炉に使用できないため、石灰石、粉コークスと混ぜ焼結炉で焼き固める。これを塊鉱石と同様に破砕し、篩分けを行い粒を整え焼結鉱として高炉に運び使用する。

焼結炉での高温燃焼(焙焼)により、鉄鉱石・コークスから硫黄酸化物が発生し、燃料やコーク中の窒素分の燃焼による酸化及び高温燃焼による空気中の窒素の酸化によりいずれも窒素酸化物が発生する。なお、原料・焼結鉱の輸送・整粒工程中や粉砕過程で粉塵が発生する。

(二) 製銑工程

塊鉱石、焼結鉱、コークス、石灰石等を高炉に装入し、高炉下部より高温の熱風を吹き込みコークスを燃焼させ、その燃焼ガスにより鉄鉱石、焼結鉱を溶かすとともに還元し銑鉄を作る。この銑鉄は炭素を多く含み堅くて脆いため、更に次の製鋼工程へと送られ鋼となる。

なお、高炉では多量のガスを発生するが、このガスは全量回収して除塵した後、製鉄所内のエネルギーとして使用している(高炉ガス)。

高炉に吹き込まれる摂氏一〇〇〇ないし一一〇〇度の熱風は、高炉に付帯している熱風炉でガス・重油を燃焼した耐火レンガとの熱交換で得られるが、その燃焼時に燃料中の硫黄分から硫黄酸化物が、その高温燃焼に伴って窒素酸化物がそれぞれ発生する。

高炉内においても、焼結鉱に含まれる硫黄分が酸化し、また、高温燃焼により窒素酸化物が発生する。なお、溶けた銑鉄が溶銑鍋に落とし込まれる際、高温の溶けた銑鉄が空気に触れることから酸化鉄分となったり、溶けた銑鉄が冷却し炭素の結晶粉となったりして粉塵も発生する。

(三) 製鋼工程

(1) 製鋼法

堅くて脆い銑鉄から粘りのある強靱な鋼を作るためには、更に精錬して炭素の量を減らす必要がある。

現在、この鋼の製造は、後述の純酸素転炉で行っているが、かつては平炉、トーマス転炉も使用されていた。また、主として鉄屑を原料とし、電気炉によって鋼を製造する製鋼法も現在行われている。

① 純酸素転炉製鋼法

右製鋼法は、高炉で製造された溶銑と石灰、鉄屑等を転炉と呼ばれる炉に装入し、上部より酸素を吹き込んで精錬し、鋼を作る方法である。このとき発生するガスは、回収、除塵して製鉄所内のエネルギーとして使用する(転炉ガス)。

② トーマス転炉製鋼法

右製鋼法は、転炉底部より空気を吹き込みながら銑鉄を精錬し、鋼を作る方法である。

転炉に装入する物は右純酸素転炉製鋼法の場合とほぼ同じである。なお、現在我国において右トーマス転炉は稼働していない。

③ 平炉製鋼法

右製鋼法は、箱型、平底の炉に溶銑、鉄屑、石灰石等を装入し、コークス製造の際に発生したガス等を燃料として加熱、精錬し、鋼を作る方法である。なお、現在我国において、右平炉は稼働していない。

④ 電気炉製鋼法

右製鋼法は、鉄屑を原料とし、電極に電流を通じ鉄屑との間に発生する電熱を利用して溶解、精錬し鋼を作る方法である。

(2) 鋼片、鋼塊の製造

右の方法によって製造された溶けたままの鋼は、連続鋳造機により連続的にスラブ、ブルーム等の鋼片にされ、また、鋼塊鋳型に注ぎ込まれて鋼塊となる。

右製鋼工程においては、右(1)①及び②の転炉は酸素(空気)を吹き込み、電気炉は屑鉄を溶解し、平炉は重油等を燃焼させて精錬を行うことから、いずれの場合も硫黄酸化物、窒素酸化物が発生する。

また、溶けた銑鉄を平炉や転炉に装入する過程で、高温の溶けた銑鉄が空気に触れて酸化鉄分となったり、屑鉄・銑鉄や副資材中の可燃物の燃焼により煤塵や粉塵が発生する。

(四) 圧延工程

(1) 鋼板

鋼板には熱間圧延製品と冷間圧延製品がある。前者は、加熱した鋼片を圧延したものであり、厚板及び熱延コイル等となる。後者は、熱間で圧延したコイルを常温で圧延したものであり薄鋼板等となる。

この冷間圧延製品を更に表面加工し、表面処理鋼板とする。

(2) 鋼管

鋼管には大別すると継目無鋼管と溶接鋼管の二種類がある。

継目無鋼管は、鋼片を加熱し穿孔機で孔をあけ、この孔に心金を入れたまま特殊な圧延設備で圧延して作る。溶接鋼管には鋼板又はこれを帯状に剪断した帯鋼を成形ロールに通し電気溶接して製造する電縫管と、帯鋼を加熱しロールで圧着して製造する鍛接管等がある。

鋼材の種類によって右のとおり圧延工程が異なるが、いずれの工程においても加熱炉、保熱炉での重油等の燃焼を伴うことから、硫黄酸化物と窒素酸化物が発生する。

また、鋼片の手入れの工程で、鋼片の表面の塵を取り除く作業等により粉塵が発生する。

(五) 付帯工程

原料の荷揚げの工程では、船舶から鉄鉱石、石炭等の原料を持ち上げホッパーに落とし込む際及び原料をベルトコンベアにより所定の置場へ送る際にいずれも粉塵が発生する。また、荷揚げされた原料の貯蔵中、風が吹くと当然に粉塵が発生し、更には鉄鉱石や石炭を岸壁からヤードへ、ヤードから熔鉱炉へとコンベアで運搬される過程でも粉塵が発生する。

2 電力業(火力発電)の工程と汚染物質の排出機序(〈書証番号略〉、弁論の全趣旨)

火力発電は、重・原油あるいは気化されたLNG(液化天然ガス)等を発電用ボイラーに送付し、右燃料を発電用ボイラーで燃焼させて高温高圧蒸気を発生させる。そして、右蒸気はドラムに集められて水と水蒸気に分離され、蒸気は過熱器を通って更に高い温度となって高圧タービンに送られ、タービン・発電機を発電する。

右工程においては、燃料に含まれる硫黄分や窒素分が空気中の酸素と化合して硫黄酸化物、窒素酸化物が発生し、高温燃焼により窒素酸化物が発生し、また、煤塵も発生する。

石炭を燃料とする場合においては、石炭の荷揚げ、運搬、貯蔵の際に粉塵が発生する。

3 石油精製業による生産工程(証人笠井重彦、弁論の全趣旨)

石油精製とは、原油を蒸留し、沸点の差により各種溜分を分溜することであり、ナフサ、ガソリン、灯油、軽油、重油等の石油製品を製造する。

石油精製の工程の概略は別図4のとおりである。蒸留工程における加熱は、加熱炉で重油及び燃料ガスを燃焼して行い、また、分解工程で必要とされる熱源のため分解装置内のボイラーで重油、燃料ガスが燃焼される。

このように分溜、不純物の除去改質合成工程において発電機、回転機、ボイラー、熱風ボイラーが設置稼働し、その稼働の際、重油・ガス等が燃焼し、また、廃棄物の燃却炉における燃焼によりいずれも硫黄酸化物、窒素酸化物が発生する。

4 石油化学工業における生産工程(〈書証番号略〉、証人塩路保夫、弁論の全趣旨)

石油化学の製造工程の概略は別図5のとおりである。つまり、石油精製から生じるナフサとLPGをスチームとともに約八〇〇度の高温で熱分解すると分解ガスが発生し、右分解ガスを圧縮工程で液化するものと液化しないものとに分け、液化しないものについては、低温蒸留部門で低温にして液化することによりエチレン、プロピレン、オフガス等を製造し、液化したものについては、高温蒸留部門で蒸留精製することによりB―B留分、分解油等を製造する。

そして、エチレンからはポリエチレン、エチレンオキサイド、アルデヒド等をプロピレンからはポリプロピレン、アクリロニトリル等を、B―B留分からはブタジエン等をそれぞれ製造する。

右製造工程においては、熱分解工程で石油加熱炉を使用しているため、また、スチームがボイラーで供給されるため、硫黄酸化物、窒素酸化物及び煤塵が発生する。

二自動車排出ガスの排出機序(弁論の全趣旨)

1 自動車エンジンの種類と排出ガス

現在使用されている自動車エンジンは、大別すると、ガソリン又はLPGを燃料とする火花点火式エンジンと軽油を燃料とする圧縮着火式エンジン(ディーゼルエンジン)の二つである。前者のエンジンを使用している自動車は、ガソリン車又はLPG車といわれ、乗用車、軽自動車、小型トラックの大部分がこれに当たる。なお、一般に走行しているそれらの車両の多くはガソリン車でLPG車は極めて限られている。後者のエンジンを使用している自動車は、ディーゼル車といわれ、小型車の一部及び大型のトラックやバスがこれに当たる。

エンジンの稼働によって排出される大気汚染物質は、ガソリン車では一酸化炭素、窒素酸化物、硫黄酸化物、炭化水素、鉛化合物及び煤塵であり、ディーゼル車では一酸化炭素、窒素酸化物、硫黄酸化物、炭化水素及び煤塵である。また、ガソリン車及びディーゼル車に共通して、自動車の走行に伴い、ブレーキ、クラッチ、タイヤ及び路面の摩耗によって粒子状物質が発生する。なお、大気汚染防止法では、一酸化炭素、炭化水素、鉛化合物、窒素酸化物及び粒子状物質を「自動車排ガス」と定めている。

2 大気汚染物質の発生機序

(一) 窒素酸化物

窒素酸化物は、霧化した燃料が空気と混合の上燃焼(完全燃焼)する際、空気中の窒素が反応して発生する。燃焼過程で生成される窒素酸化物の大部分は一酸化窒素であるが、排出後空気中で酸化して二酸化窒素となる。

(二) 硫黄酸化物

軽油には、0.4%程度の硫黄が含まれており、これが燃焼過程で酸化され、硫黄酸化物を生成する。

(三) 粒子状物質

粒子状物質には、燃料の燃焼過程で生じる無機鉛化合物の微粒子、ピレン類などの炭化水素、黒煙(煤)などと、走行中にタイヤと道路表面の摩擦によって生じる粉塵、ブレーキライニングやクラッチの摩耗によって生じるアスベストの微粒子、路面に堆積された粉塵(自動車の走行によって拡散する。)などがある。

(四) 一酸化炭素

一酸化炭素は、自動車から排出される汚染物質としては最も量が多く、燃焼室内における不完全燃焼によって発生する。

(五) 炭化水素

ガソリンや軽油などの燃料は、いずれも化学構造的には各種炭化水素の混合物であり、これらの一部はエンジンで完全に燃焼せず、未燃炭化水素として大気中に排出される。

未燃炭化水素のほかに、ガソリン車ではクランクケースからのブローバイガス、燃料タンク、気化器等からの蒸発によって放出される炭化水素もある。

(六) 鉛化合物

自動車のノッキングを防止するため、燃料にアンチノック剤としてアルキル鉛(四エチル鉛、四メチル鉛等)を添加している際に、アルキル鉛が燃焼によって数ミクロン以下の無機の鉛化合物の微粒子となって排出される。

第二被告企業らの排出量

一硫黄酸化物排出量

1 昭和四五年から同五六年までの間の排出量

昭和四五年から同五六年までの間における被告企業らの硫黄酸化物排出量については、被告日石化学の昭和四七年の排出量を除いて当事者間に争いがなく、被告日石化学の昭和四七年の排出量は、〈書証番号略〉により年間一九二〇トンと認められ、以上によると、昭和四五年から同五六年における被告企業らの硫黄酸化物排出量は別表27記載のとおりとなる。

なお、被告浮島化学は、昭和四五年の操業開始以来、使用燃料として硫黄分を含まない副生ガス及び副生油のみを使用しているので、硫黄酸化物を排出していないことが認められる(〈書証番号略〉、証人塩路保夫)。

2 昭和四〇年から同四四年までの間の排出量

(一) 昭和四〇年から同四四年までの間における被告企業らの排出量については、被告東京電力の昭和四〇年、同四二年から同四四年及び同日本鋼管の昭和四〇年の各排出量を除いて当事者間に争いがない。

(二) 原告らは、被告企業らが明らかにしない上記年(あるいは年度)の排出量につき、原燃料(石炭、重油及び鉄鋼石)の使用量、硫黄含有率(更に重油については比重)から硫黄酸化物排出量の算出式(〈書証番号略〉の算式)により排出量を推定(なお、原燃料の含有硫黄分については、川崎大手工場〔右大手工場とは、昭和四五年当時において硫黄酸化物排出量が一〇Nm3/h以上の工場〕の各年の平均的数値〔例えば、昭和四〇年の含有硫黄分は、石炭0.5%、重油2.56%、鉄鋼石0.29%〕を適用する〔〈書証番号略〉〕)するが、右推定ないし適用には一応の合理性があると認められる。

(1) 被告日本鋼管の昭和四〇年の原燃料使用量

被告日本鋼管の昭和四〇年の原燃料(石炭、重油及び鉄鋼石)使用量は不明であるが、同三八年のコークス炉原料炭の使用量が一九五万一四八三トン、同年の重油の用量が三四万六八〇三キロリットルであり(〈書証番号略〉)、被告日本鋼管が昭和三五年以降において設備能力(日産製銑能力等)と生産実績が拡大傾向にあること(〈書証番号略〉)から、昭和四〇年における石炭使用量を二一〇万トン、同重油使用量を五〇万キロリットルと推計し、鉄鋼石使用量については、昭和四〇年における川崎大手工場の鉄鋼石使用量が四三〇万トンであるところ(〈書証番号略〉)、川崎市においては被告日本鋼管以外に大手製鉄業者がないことから(〈書証番号略〉)、被告日本鋼管の鉄鋼石使用量は大手工場の九〇%を占めるものとして三九〇万トンと推計する。

(2) 被告東京電力の昭和四〇年度及び同四二年度から同四四年度の各原燃料使用量

被告東京電力の右年度における原燃料(石炭及び重油)使用量は別表28記載のとおりであると認められる(〈書証番号略〉)。

(三) 以上によると、被告企業らの昭和四〇年から同四四年までの間の硫黄酸化物排出量は別表29記載のとおりとなる。

3 昭和三五年から同三九年の排出量

(一) 昭和三五年から同三九年までの間における被告企業らの排出量については、被告日本鋼管、同東京電力、同昭和シェル石油及び国鉄の昭和三五年ないし同三九年の各排出量を除いて当事者間に争いがない。

(二) 原告らは、右被告企業らが明らかにしない上記年(あるいは年度)の排出量(但し、国鉄を除く。)については、右2(二)と同様に、原燃料(石炭、重油及び鉄鋼石)の使用量、硫黄含有率(更に重油については比重)から硫黄酸化物排出量の算出式により排出量を推定するが、右推定値には一応の合理性があると認められる。

なお、原燃料の含有硫黄分については、以下の数値を適用する。石炭については、右2(一)と同様に昭和四〇年の川崎市大手工場の平均的数値である0.5%の数値を適用する。

重油については、排出量を明らかにしている被告企業らの含有硫黄分等を参考にして三%の数値を適用する。

鉄鉱石について(被告日本鋼管のみ)は、被告日本鋼管においては、当時、ペルーのマルコナ鉄鉱石を多く輸入して使用していたところ、右鉄鉱石の含有硫黄分が平均一%程度であったこと(証人南川万俊)等を参考にして0.5%の数値を適用する。

(1) 被告日本鋼管の各原燃料使用量

被告日本鋼管の昭和三五年から同三九年までの間の原燃料(石炭、重油及び鉄鋼石)の各使用量は別表30「日本鋼管」欄記載のとおりである(〈書証番号略〉)。但し、昭和三九年の原燃料使用量は不明であるため、右2(二)(1)と同様の方法による推定値である。

(2) 被告東京電力の各原燃料使用量

被告東京電力の昭和三五年度から同三九年度までの間の原燃料(石炭及び重油)の各使用量は別表30「東京電力」欄記載のとおりである(弁論の全趣旨)。

(3) 被告昭和シェル石油の各原燃料使用量

被告昭和シェル石油の昭和三五年から同三九年度までの間の原燃料(重油)の各使用量は別表31記載のとおりである(〈書証番号略〉)。

(4) 国鉄の排出量

原告らは、国鉄の排出量につき、発電設備の増強等の経緯から、その排出量を昭和四〇年の排出量五二九九トンの二分の一とみなし、昭和三五年から同三九年までの排出量を右二六〇〇トンと推計するところ、右推計には一応の合理性があると認められる(弁論の全趣旨)。

(三) 以上によると、被告企業らの昭和三五年から同三九年のまでの間の硫黄酸化物排出量は別表32記載のとおりとなる。

二窒素酸化物排出量

1 昭和四九年度から同五五年度までの排出量

昭和四九年度から同五五年度までの間における被告企業らの窒素酸化物排出量については、被告日本鋼管の昭和五五年度、同日石化学の同五三年度及び同浮島化学の同五三年度の各排出量を除いて当事者間に概ね争いがなく、被告日本鋼管の昭和五五年度の排出量については弁論の全趣旨により、同日石化学の昭和五三年度の排出量については〈書証番号略〉により、同浮島化学の同五三年度の排出量については〈書証番号略〉によりそれぞれ認められ、以上によると、昭和四九年度から同五五年度までの間の被告企業らの窒素酸化物排出量は別表33記載のとおりとなる。

2 昭和四八年以前の年の排出量

原告らは、原燃料使用量及び施設別燃料別原単位表の単位(〈書証番号略〉)に基づいて、被告東京電力の昭和三五年度から同四七年度、被告昭和シェル石油、同キグナス石油、同東亜石油、同三菱石油、同ゼネラル石油及び同昭和電工につき昭和四〇年から同四四年の各排出量を推計するが、右推計には一応の合理性があるから、右排出量はそれぞれ概ね別表34記載のとおりとなる。

三浮遊粒子状物質

原告らは、浮遊粒子状物質につき被告企業らの排出量を主張立証しない。

第三本件各道路からの排出量

被告国及び同公団は、本件各道路からの窒素酸化物及び硫黄酸化物の排出量を明らかにしないところ、原告らは、川崎市が環境庁の総量規制マニュアルに準拠して実施した拡散シミュレーションにおける本件地域内の幹線道路等からの年間排出量の算出方法等に基づき推計値を以下のとおり主張しているところ、右推計方法には一応の合理性があるから、右推計値を排出量と認めるのが相当である。

一窒素酸化物

1 昭和五二年度(〈書証番号略〉)

昭和五二年度については、同年度川崎市シミュレーションの手法(〈書証番号略〉)に準拠して、建設省の実施した昭和五二年度全国道路交通情勢調査(道路交通センサス)及び川崎市の実施した同年度道路交通量調査から各道路それぞれの車種別、時間別交通量及び走行台キロメートルを推定し、これに車種別排出係数を乗じて排出量を算出するものである。

(一) 排出係数

各車種別の窒素酸化物排出係数については、規制年次別の車種比率等を考慮して設定されるが、昭和五二年度においては別表35(排出係数表)のとおりであり、右別表記載の「高速」の排出係数は本件地域内では横羽線のみに適用される。

(二) 走行台キロメートル

(1) 昭和五二年度の川崎市シミュレーションの算出例による各幹線道路について、ほぼ同一の自動車走行量があると判断される範囲を基礎に各道路を区分すると、その各区間の道路延長は別表36「区間分け」及び「区間長」欄記載のとおりとなる。

(2) 各道路区分の自動車交通量は、建設省の実施した昭和五二年度全国道路交通情勢調査(道路交通センサス)(〈書証番号略〉)及び川崎市の実施した同年度道路交通量調査(〈書証番号略〉)より算出する。

なお、右川崎市調査においては、「普通乗用自動車」と「小型乗用自動車」を区分して交通量を測定しているが、窒素酸化物排出係数はこれらを合わせて単に「乗用車」として設定しているので、走行台数については、この二車種を合計して単に「乗用車」とする。また、右川崎市調査においては、右道路交通センサス及び右排出係数表の「貨客車」と「小型貨客車」が区分されずに全体として「小型貨客車」として集計されており、「貨客車」と「小型貨客車」の比率が不明であるため、同一年度に実施された道路交通センサスのうち本件地域内の代表的な四地点を抽出し(例えば、国道一号線においては幸区小向仲野町)、この四地点における「貨客車」と「小型貨客車」の比率の平均を算出し、川崎市調査の「小型貨客車」をこの比率に比例させて「貨客車」と「小型貨客車」に区分する。右比率の計算結果によると、川崎市調査の「小型貨客車」のうち「貨客車」は54.8%、「小型貨客車」は45.2%となる。

(3) 昼夜率の算出

各交通量調査においては、その殆どの測定地点で昼間一二時間(午前七時から午後七時まで)の自動車交通量のみを測定しているので、車種別の昼夜率を算出して二四時間の交通量を算出する必要があるところ、昭和五二年度の道路交通センサスにおいては本件地域内の主要四地点で二四時間の測定を実施しているから、この各地点の車種別の昼夜率を算出し、これを平均して本件地域全体の車種別の昼夜率を算出し、これを基に二四時間交通量を算出する。

(三) 年間総排出量の算出

以上の区間の道路距離、車種別二四時間走行台数から一日当たりの車種別の走行台キロメートルを算出し、これに排出係数を乗じることにより、平日一日当たりの窒素酸化物排出量が算出される。

これを年間排出量に換算するには、休日の走行台数比を考慮する必要があるところ、川崎市シミュレーションにおいては、休日の平均交通量は平日の約七割と算定されていることから、これに基づいて休日と平日を平準化した全日の走行台キロメートルは平日の走行台キロメートルの0.94574倍となる。よって、年間の走行台キロメートルは、平日の走行台キロメートルに、一年三六五日を0.94574倍した345.19を乗ずることによって算出される。

しかして、右算出方法は相当として首肯し得るものというべく、その結果、昭和五二年度における本件各道路からの年間窒素酸化物総排出量は別表36「年間排出量」欄記載のとおりであると認められる。

2 昭和四九年度(〈書証番号略〉)

昭和四九年度については、同年度川崎市シミュレーションの手法(〈書証番号略〉)に準拠して、右1記載の昭和五二年度の排出量算出方法と同様の方法により(排出係数は別表32)算出すると、本件各道路等からの年間窒素酸化物排出量は別表37「年間排出量」欄記載のとおりであると認められる。

なお、横羽線については、道路交通センサス及び川崎市調査においても車種別交通量が測定されていないため、昭和四九年度第一一回首都高速道路起終点交通調査報告書(〈書証番号略〉)の本件地域内を含む右横羽線の方向別二四時間区間別自動車交通量によることとし、ただ、右調査報告書では、一日の交通総量の車種区分が不明であるから、右横羽線の昭和五二年度及び同五三年度の車種別走行台数を測定した結果から標準的な車種別走行量比率を算出し、昭和四九年度の一日交通総量に右車種別比率を乗じて各車種ごとの走行台数を算出するのを相当とした。

3 昭和四〇年度(〈書証番号略〉)

昭和四〇年度については、川崎市等によるシミュレーションが行われていないことから、昭和四九年度の川崎市シミュレーション等の算出方法等に基づいて算出すると、昭和四〇年度の本件各道路からの年間窒素酸化物排出量は別表38「年間排出量」欄記載のとおりであると認められる。

なお、排出係数は昭和四九年度の排出係数によっているが、これは、排出係数が年の経過により変動する要因が排ガス規制の実施により低排出量の車種の走行が徐々に増加することによるものであるところ、自動車からの窒素酸化物排出規制は昭和四八年に初めて一部車種について導入されたものであり、同四九年度においてはこの規制実施直後であるから、右排出規制の影響を殆ど受けていないと推定されるため、右排出係数によるのを相当とした。

4 昭和六〇年度(〈書証番号略〉)

昭和六〇年度については、川崎市公害対策審議会が同年度における川崎市内の窒素酸化物排出量を算出しているので、右算出方法に従って算出すると、本件各道路からの年間窒素酸化物排出量は別表39「年間排出量」欄記載のとおりであると認められる。

二硫黄酸化物

1 昭和四九年度(〈書証番号略〉)

昭和四九年度については、同年度川崎市シミュレーションの手法(〈書証番号略〉)に準拠して、窒素酸化物排出量の算出と同様に、車種別の自動車走行台キロメートルに二酸化硫黄排出係数(別表40)を乗じて車種別排出量を算出し、その総和を求める方法により推計するのが相当であり、それによると、本件各道路からの年間二酸化硫黄排出量は別表41「年間排出量」欄記載のとおりであると認められる。

2 昭和五二年度(〈書証番号略〉)

昭和五二年度については、川崎市等による硫黄酸化物に関するシミュレーションは行われていないが、同年度の幹線道路の範囲及び走行台キロメートルは右一1の認定のとおりであるから、これに基づいて算出すると、本件各道路からの年間二酸化硫黄排出量は別表42「年間排出量」欄記載のとおりであると認められる。

なお、排出係数については昭和五二年度の車種別二酸化硫黄排出係数が与えられていないので、同四九年度の排出係数によっているが、これは、二酸化硫黄については、窒素酸化物のように自動車単体からの排出規制が行われていないこと、また、自動車からの二酸化硫黄の排出はその殆どがディーゼルエンジンの燃料である軽油中に含まれる硫黄分の燃焼に起因するものであるところ、昭和四九年度から同五二年度の間において自動車、特に貨物車でディーゼルエンジンの占める割合が漸次増加しているのに対し、軽油中の硫黄分に変化がないことから、少なくとも右排出係数によるのを相当とした。

3 昭和六〇年度(〈書証番号略〉)

昭和六〇年度については、川崎市等による硫黄酸化物に関するシミュレーションは行われていないが、右一4と同様の方法に基づいて算出すると、本件各道路からの年間二酸化硫黄排出量は別表43「年間排出量」欄記載のとおりであると認められる。

なお、排出係数については、昭和四九年度の排出係数によっているが、前記2の認定説示のとおり、右排出係数によることには一応の合理性がある。

4 昭和四〇年度(〈書証番号略〉)

昭和四〇年度については、川崎市等によるシミュレーションは行われていないが、同年度の幹線道路の範囲及び走行台キロメートルは右一3の認定のとおりであるから、これに基づいて算出すると、本件各道路等からの年間二酸化硫黄排出量は別表44「年間排出量」欄記載のとおりであると認められる。

なお、排出係数については、前記2の認定説示のとおり、昭和四九年度の硫黄排出係数によるのを相当とした。

三浮遊粒子状物質

原告らは、浮遊粒子状物質につき本件道路からの排出量を主張立証しない。

第四章被告らの排出等に係る大気汚染物質の本件地域内への到達

第一原告らの主張に対する判断

原告らは、主に硫黄酸化物を指標として大気汚染物質の本件地域への到達を論じ、右到達に関し、①本件地域の地形的特徴、②本件地域の気象的特徴、③原告ら居住地等と被告企業らの事業所及び本件道路との近接性、④被告企業らの事業所からの排出量、⑤被告企業らの事業所からの排出量の増減と本件地域の大気汚染濃度の経年変化の対応、⑥風向と汚染濃度の相関関係、⑦等濃度線による大気汚染の状況からみた本件地域と汚染源の関係、⑧被告企業らの公害健康被害補償制度等への拠出金の負担の各事実に基づき、特に硫黄酸化物につき、原告居住地等に到達する大部分が被告企業らの排出によるものである旨主張する。

一本件地域の地形的特徴(〈書証番号略〉)

原告らは、本件地域は、南東に東京湾を臨み、北ないし北東を多摩川、南西を鶴見川及び多摩丘陵に囲まれた狭小な地域である旨主張する。

しかしながら、本件地域を含む川崎市は、神奈川県の東部に位置し、地形的には広大な関東平野の一部に属する。

関東平野は、東西約一四〇Km、南北約一一〇Km、総面積約一万五〇〇〇km2という我国最大の広大な平野であり、その殆どは平坦であり、筑波山を除けば標高数十から百数十m程度の台地、丘陵が所々に存在しており、きわめて開放的な地勢をなしている。

本件地域を含む川崎市周辺は、北は多摩川を挟んで東京都の平坦地に続き、南東は東京湾に向かって開け、南西部は鶴見川を挟んで横浜市、町田市方面に向かってなだらかな多摩丘陵になっている。多摩丘陵のうち川崎市内に属する部分は、大半が小起伏丘陵地であり、本件地域からなだらかな傾斜をなして徐々に一〇〇m程度の標高に達している。

また、気象学の分野では、問題の地点を中心として半径一五Kmの範囲内に高さ二〇〇m以上の障害物があるか否かを判定し、障害物のない開けている部分の角度の総和を「開放度」という指標で示し、地形条件から当該地点における平均風速を推定する手法として用いているが、川崎市に高さ二〇〇m以上の障害物がなく、この開放度を算定すると三六〇度となり、きわめて平坦な地形といえる。

二本件地域の気象的特徴

1 本件地域に出現する風系の実態

原告らは、本件地域が東京湾との関係で東京湾海風が吹き易い上、多摩丘陵あるいは多摩川の存在により一層東京湾海風を引き込み易い地形であり、また、多摩川等の河川は上昇流と下降流を伴う地域であるため、この河川の鉛直循環が本件地域と東京間の気象的な閉鎖性を高かめている旨主張する。

(一) 東京湾海陸風

(1) 証人関清宣は、原告らの主張に沿って、多摩丘陵の斜面が東向きであること、武蔵野台地の斜面が南向きであること及び多摩川が西から東に流れて海風の吹く方向に谷合が伸びていること等の地形的特徴から、本件地域は東京湾海風を呼び込み易い地域である旨証言するが、原告らは右東京湾海陸風の発生頻度につき特に主張立証しない。

(2) 南関東地方における海陸風の生成と構造に関する研究(〈書証番号略〉、証人千秋鋭夫)

証人千秋鋭夫は、昭和五三年度における地方自治体の観測局及び地方気象台の年間全時間(八七六〇時間)の毎時の全データを解析の基礎データに使用し、東京湾を含む南北約六〇Km、東西約八〇Kmを対象範囲として各種風系の出現実態をいくつかのパタンに分類解析し、南関東地方に出現し易い気流について次のとおりを報告した。

① 南関東地方の風系の実態

ア 総観気象場の気圧傾度の強い場合

強い西高東低の冬型気圧配置の場合などのように総観気象場の気圧傾度が強いと、関東平野全般に北ないし西寄りの一様な風向の強風が見られることが多いが、前線が存する場合であると、非一様流が生じる場合がある。

イ 総観気象場の気圧傾度の弱い場合

総観気象場の気圧傾度が弱く好天の日中においては、鹿島灘・房総沖から内陸に入り込む東寄りの風系(鹿島・房総海風)、相模湾から内陸に吹き込む南西の風系(相模湾海風)及び東京湾周辺に生じる海岸から内陸へ向かう風系(東京湾海風)の三つの風系が生じ易い。

a 広域海陸風

広域海風である鹿島・房総海風及び相模湾海風については、発生当初はそれぞれの海岸に対応した局地的なものであるが、午後になると関東全体を一続きとするような大きな規模の海風に統合される。

ここでいう相模湾海風は、当初相模湾沿岸に発生した海風が、午後にはその領域を広げ、東京湾海陸風系を統合して内陸まで達したものである。なお、夜間については、鹿島・房総海風及び相模湾海風に対応する陸風は少なく、むしろ関東北西部から南に向かう弱い北よりの風が全域を覆い、広域陸風と判断される場合が多い。

b 東京湾海陸風

東京湾海風は、午前中に発生しても午後には相模湾海風系が入り、広域化することが多く、東京湾海風のみが長時間継続するものは少なかった。

また、東京湾海風に対応する陸風は夜半から夜明けにかけて生じることがある。

気流パタン分類により東京湾海陸風の出現時間を考察すると、東京湾海風は、季節的には殆ど変化がなく、年間八七六〇時間の内四一四時間(年間約五%)であり、東京湾陸風は、年間八七六〇時間の内七二一時間(年間八%)であった。

② 本件地域の風系の実態

本件地域の風系実態は、前記①の南関東の風系実態と非常によく一致しており、本件地域に特異な風系は見られなかった。

(3) 東京湾海陸風の判定基準は確立したものはなく、どの範囲の風向を右東京湾海陸風と判断するか等困難な問題が多い。

そして、右千秋の解析においては、東京湾海風の海風方位を東、東南東、南東、南南東及び南と若干狭く設定している等批判の存するものの、それらの問題を差し引いたとしても、原告らの主張のように本件地域が特に東京湾海陸風が吹き易い地域とまでは認めることができないと解するのが相当である。

(二) 多摩川等の河川の影響

若松伸司は、風の垂直流の解明等を目的としてノンリフトバルーンによる観測を実施したところ、傾向としては、大きな川の近くや地表面の比熱の違いの大きい所でかなり強い上昇・下降流が局地的に観測され、例えば昭和四八年八月三〇日において、多摩川沿いで河川の影響と思われる急激な風の垂直循環が観測されたと報告している(〈書証番号略〉)。

右報告をも考慮すると、確かに多摩川沿いに上昇・下降流が認められるが、右(一)(2)の千秋の解析によると、本件地域において特異な風系が認められないことからすると、右一事から原告らの主張のような多摩川の存在による本件地域と東京都との気象的遮断をしているとまでは認めることはできない。

2 本件地域の風向・風速及び大気安定度

(一) 本件地域の風向

(1)① 昭和四二年度の風向(〈書証番号略〉)

川崎市川崎区宮本町に所在する川崎市役所屋上における昭和四二年度の月別主風向は、四月では北の風二三%、南の風二〇%であるが、相対的には北系の風が五三%と多く、南系の風が三六%でこれに続いている。

五月になると北の風と南の風が一八%で最多風向となり、北系・南系の風ともに三九%で同率になっている。

六月、七月及び八月では南の風が最多風向となり、南系の風が四三%から五六%を占めている。

九月以降は最多風向が北の風となり、北系の風が六〇%から八〇%を占めている。

② 昭和五六年の風向(〈書証番号略〉)

昭和五六年における川崎市所在の環境大気測定所の風向頻度は別図6のとおりであり、本件地域内の大師、田島、川崎及び幸の各測定所の風向頻度は右別図6記載各①、⑥、⑩及び⑮であって、年間を通じて北系の風の風向頻度が多い。

(2) 以上によると、本件地域においては、夏季は南系の風が多く、冬季は北系の風が卓越し、年間を通じては概ね北系の風向頻度が多いことが認められ、したがって、原告居住地等が被告企業らの立地する川崎臨海地域の風下になる風系が多いとは必ずしもいえない。

(二) 本件地域の風速(〈書証番号略〉)

(1) 川崎市役所屋上における昭和四二年度の年平均風速は2.8m/秒であり、月別に見ると、最高は九月の3.4m/秒で、最低は一二月及び一月の2.1m/秒であった。

また、昭和五三年度の本件地域の年平均風速はほぼ三m/秒であった。

本件地域の右風速は、全国の気象台の平均風速と比較すると、ほぼ平均的な風速であることが認められる。

(2) 本件地域の弱風・静穏出現頻度(〈書証番号略〉)、証人千秋鋭夫)

本件地域における弱風(0.9m/秒)の年間出現頻度は約一〇%、静穏(0.4m/秒)年間出現頻度は一ないし三%であり、本件地域周辺の東京湾西岸地域と比較して特異な傾向は認められず、また、本件地域の弱風及び静穏出現頻度は、全国の気象台の右出現頻度と比較すると平均よりも低いことが認められる。

(3) 排煙の拡散においては、原則として風速が強くなるほど地上濃度が減少する傾向にあるといえる(移流効果)が、本件地域は、右認定のとおり、風速が特に弱い地域とは認められない。

(三) 本件地域の大気安定度(〈書証番号略〉)

(1) 本件地域における昭和四九年度の大気安定度出現率(安定度分類は日本式パスキル安定度分類、日射量・雲量は東京管区気象台の測定データ、風速は大師測定所のデータによるもの。)は、年間を通じて中立の出現が多いことが認められ、これによると、排煙の拡散希釈を抑制する安定あるいは強安定はそれほど出現していないことになる。

(2) 逆転層の出現

ア 接地逆転層(〈書証番号略〉、証人千秋鋭夫)

接地逆転層については、放射冷却に及ぼす海洋の影響から一般に内陸部に生成し易く、海岸部に生成し難く、昭和五三年における本件地域に隣接して横浜市鶴見区に所在するTVK鶴見タワーにおける接地逆転層出現率は、本件地域を含む南関東地方の各地と比較しても高くはなく、したがって、本件地域において特に接地逆転層が発生し易いとはいえない。

イ 地形性逆転層(〈書証番号略〉)

地形性逆転層は、山を越えて下降流がある場合に、ある高さで気温の逆転が生じるものであるが、本件地域の多摩丘陵は高さも一〇〇m程度で勾配も緩やかなため、本件地域において地形性逆転層が発生し易いとはいえない。

ウ 沈降性逆転層(証人千秋鋭夫)

沈降性逆転層は、一般的に高気圧に覆われた日において高気圧の圏内では広い範囲に亙って沈降流があり、気塊が一〇〇m当たり一度ずつ気温が上昇し、ある高さで気温の逆転を生じるものであるが、時間的にも空間的にも非常に広いスケールで生じ、通常一〇〇〇m以上の高さであるから、大気汚染に影響は殆どないものである。

3 汚染機構に関する原告らの主張について

原告らは、本件地域における海陸風による汚染機構として、次のとおり主張する。

① 海風前線による汚染機構

海風が内陸に侵入していくとき、陸風との境界に海風前線と呼ばれる局地的な不連続面が形成され、不連続線のある地域では、不連続線の面に沿って上昇気流が生じるために風の収束地域となり、不連続線まで運搬されてきた汚染物質が盛り上がり、上空の汚染濃度は他の地域の上空よりも高くなり、一方、地上の汚染度は、上空も汚染されているために上下の混合による希釈作用が小さくなり、したがって、汚染濃度が高まり、更に局地不連続線近くでは上昇気流が生じるため、風速が弱くなり地上の汚染濃度を一層高めることになる。

② 海陸風循環による汚染機構

海風が吹く場合においては、海風前線付近では上昇気流になり、その後、上空で反流して補償流となり、右反流した大気は海上まで運搬されると、海上が高圧域となっているために、下降流となって海上の下層に運ばれ、再び陸上に流れるという循環系が形成され(陸風の場合にはこれと反対の現象が生じる。)、被告企業らが臨海部で排出した汚染物質は閉鎖的な右循環系の中で挙動し、一層汚染濃度を高めることになる。

③ 海陸風の吹き戻し現象による汚染機構

臨海部で排出された汚染物質は、海風によって内陸部へ運搬され、海陸風の交替期である凪の時に高濃度となり、その汚染物質が今度は陸風によって内陸部から臨海部、そして、海上へと運搬され、この時の汚染物質が再び戻って高濃度汚染をもたらす。

(一) 海風前線による汚染機構について

(1) 海風前線は二つの風系のぶつかり合う部分であるから、微細な構造としては、乱れが大きくなって部分的な下降流も生じ、また、安定な成層をした海上の大気が陸上に侵入すると、地表面からの加熱によって急速に不安定化し、その程度は陸上を進む距離と時間によって強くなると考えられ、当然、海風前線の付近で最も不安定となり、上下の混合も盛んになり、海岸線付近で排出された排煙が海風によって内陸方向に流される場合、最初は比較的安定な気層中をあまり拡散せずに進むが、海風前線に近づくにつれて下方から不安定層が発達し、乱流強度が増し、下方の拡散も大きくなる結果、高濃度汚染が地上に現れると説明され(〈書証番号略〉)、海風前線の通過時には、地上と地上数百メートルの上空でともに汚染度が高くなることが東京タワーの観測で確かめられたとの報告が存する(〈書証番号略〉)が、海風前線の全体的な構造と汚染変化を観測的に実証することは困難であるとされている(〈書証番号略〉)。

また、海風前線に伴う対流域では空気より比重の重いエアロゾルの落下速度と大気の鉛直流の相対関係によっては海風前線の付近に浮遊煤塵量が多くなることはごく普通に考えられるが、空気とほぼ同じ比重をもった二酸化硫黄では、この種の汚染物質だけがフィルターされるということはないから、右浮遊煤塵と同様には考えられないとの見解もある(〈書証番号略〉)。

(2) 原告らは、海風前線による汚染機構の例として、昭和四五年八月五日(〈書証番号略〉)及び昭和四八年五月二六日(〈書証番号略〉)を挙げるが、右の例については、海風前線の影響により高濃度が生じているものとは必ずしもいえない。

(二) 海陸風循環による汚染機構について

証人関清宣は、原告らの前記主張に沿い、海風が発達した場合において、海風が陸地に侵入していくにつれて摩擦で減衰し、乱流が発達して上昇気流が生じ、あるいは、多摩丘陵の影響により上昇気流が生じ、他方、海風が吹き出した東京湾中の瀬付近においてはそれを埋め合わせるために下降流が生じることにより海風の上空に反転した補償流が発生し、全体として輪になった風の流れができて海陸風還流となり、右補償流が収束域(上昇気流や下降気流が発生する場)にたまった汚染物質に加えて他の汚染物質も重合させながら運搬することにより高濃度汚染が生じる旨証言し、本件地域における補償流の根拠として、①昭和四三年度冬季の保土ケ谷地区気温垂直分布調査報告、②神奈川県の大気汚染調査報告(昭和三四年七月)における海岸からの距離と年平均風速との関係及び③多摩丘陵による影響を挙げ、また、本件地域における右海陸風循環の東京湾上の収束域として東京湾中の瀬上空に高濃度になっていることを根拠として挙げるので検討する。

(1) 補償流の存在(〈書証番号略〉)

まず、海風が発生すると、地面付近では海風が吹き、陸上では収束のため上昇流が、海上では発散のための下降流が生じ、境界層上部では、補償流として陸から海へ向かう風が生じて海陸風循環が形成されるとされている。

次に、本件地域における補償流について検討を加える。

① 保土ケ谷地区気温垂直分布調査報告(〈書証番号略〉)

右報告によると、海風と陸風が交互に三層になって存在している旨の報告がなされているが、右三層構造の海陸風も昭和四三年一二月から同四四年二月までの間における一五回の観測結果の平均値によるものであるから(証人関清宣)、現実の風がそのような三層構造であったものを示すものではなく、また、原告らの主張のように海風が上昇流になって反転したものを示すものでもない。

② 神奈川県の大気汚染調査報告(〈書証番号略〉)

右報告においては、海岸からの距離と年平均値風速との関係につき、海岸から一〇Kmの地点までの間に直線的に風速が減衰する旨の図が記載されているが、右図に記載されている観測データそのものからすると、海岸直近を除いて概ね三m/秒であって、海岸との距離に比例して直線的に風速が減衰するとまでは認められない。

③ 多摩丘陵の存在(〈書証番号略〉)

海風の及ぶ高さは五〇〇mないし八〇〇mであるところ、海風が一〇〇m程度の多摩丘陵により侵入を阻止されるとは考え難い。

以上によると、補償流自体は理論的に認められるものの、本件地域においては、1(一)の認定説示のとおり、偏西風等の影響も受けることからすると、補償流がどの程度存在し、また、原告ら主張のような汚染機構としての補償流が特異なものとまで明確に認めることはできない。

(2) 原告らが主張する収束域としての東京湾中の瀬

① ヘリコプターによる観測(〈書証番号略〉)

昭和四六年度の神奈川県臨海地区大気汚染調査において、ヘリコプターを利用して高度一〇〇〇mまでの上空の硫黄酸化物による汚染状況の調査を実施したところ、夏季調査で東京湾中の瀬上空において、高度三〇〇mで0.00ppm、四〇〇mで0.01ppm、五〇〇mで0.02ppmを示し、上空にいくにつれて若干高い濃度を示し、また、冬季調査でも夏季調査と同様に中の瀬で高濃度を示した。

② フェリーボートによる測定(〈書証番号略〉)

昭和四五年度の神奈川県臨海地区大気汚染調査において、横浜・木更津航路のフェリーボートに公害測定車を搭載し航路上の硫黄酸化物濃度を調査した結果、特に昭和四五年八月五日の午前中の観測において東京湾中の瀬付近において高濃度が観測されているが、他方、横浜港近くでもかなりの高濃度が観測されている。

右のとおり、確かに東京湾中央部の中の瀬において高濃度が観測された旨の報告が存するが、右②のフェリーボートによる測定においては横浜港近くでも高濃度が観測されたことに鑑みると、東京湾を航行する船舶からの排煙の影響も否定できないと考えられ、原告ら主張のように東京湾中の瀬付近が海陸風の収束域であるとまでは認めることはできない。

(3) 汚染物質の滞留(〈書証番号略〉)

二酸化硫黄及び二酸化窒素等は対空気比重が重い汚染物質であるが、空気を構成する物質(窒素、酸素、水素等)もそれぞれ対空気比重は異なるものの、地上二〇Kmまでの高度においては、その構成比率には大差がないこと、二酸化硫黄のように化学的に安定な物質では一定の気塊の濃度が上昇することは考えられないことからして、原告ら主張のように収束減に汚染物質が滞留することは考え難い。

(三) 海陸風の吹き戻し現象による汚染機構について

(1) 証人関清宣は、海風が発達しない場合において、夜、山が冷えて陸風が吹くと、山裾である南加瀬にたまった汚染物質が再び海岸に戻ってくると証言し、原告らは、右海陸風の吹き戻し現象の根拠として、本件地域における硫黄酸化物濃度の経時変化が日中及び日没後の二回高濃度となる二山型となっていることを挙げる。

(2) 右海陸風の吹き戻し現象は、南加瀬において汚染物質が滞留することが前提となっているが、右(二)(3)の説示のとおり、汚染物質の滞留は認め難く、硫黄酸化物濃度の二山型の経時変化については、昭和四二年一月から同四三年三月までの間の大師、川崎及び中原の各測定所の硫黄酸化物濃度の月別経時変化によると(〈書証番号略〉)、一部において、特に昭和四二年五月の川崎測定所等において午前と日没後の二回高濃度が測定されているが、右期間の年平均では大師測定所及び川崎測定所いずれにおいても必ずしも原告ら主張のような二山型とはなっていないことが認められる。

(四) 以上を総合すると、原告ら主張の本件地域による海陸風による汚染機構は、理論的に認め難い点が存するか、あるいは、理論的に認められるとしても本件地域で実証的に明確に観測されたものとまでは認めることができない。

三本件地域と被告企業らの事業所、本件道路との位置関係

1 被告企業らの事業所との位置関係(〈書証番号略〉)

被告企業らの事業所を含む川崎臨海工業地帯は、夜光、池上町、浅野町、浜町、南渡田町、白石町をはじめ、浮島町、千鳥町、水江町、扇町、大川町、東扇島、扇島等の臨海埋立地の上に形成されている。

昭和五九年当時における被告企業らの事業所と原告らの居住地等の位置関係は、概ね別図7記載のとおりであり、本件地域及び周辺地域には被告企業らの事業所以外の大気汚染防止対象工場・事業場も相当数存在している。

なお、昭和三五年一二月末日当時に遡ると、石炭、石油及び都市ガス等の燃料を使用する工場が川崎市に七二三工場、川崎臨海地区に二三二工場存在していた。また、昭和四〇年当時、石炭、重油等の燃料使用により煤煙を排出する排煙施設(煙突)が川崎市内に一一四〇本、同市南部に五八〇本存在し、内実煙突高が一〇m未満の煙突が川崎市内に五三〇本、右同市南部に一八一本存在しており、本件地域及び周辺地域には、右当時において相当数の低煙源が存在していた。

2 本件道路との位置関係(〈書証番号略〉、弁論の全趣旨)

本件道路の内横羽線及び国道一五号線は本件地域の内川崎区内において、国道一号線は本件地域の内同市幸区内において概ね南北に平行して縦断する位置関係にあり、これに対し、国道一三二号線及び同四〇九号線は、本件地域内において概ね東西に横断し、右国道一三二号線は国道一五号線及び横羽線と、また、国道四〇九号線は、国道一号線、同一五号線及び横羽線とそれぞれ交差している。

原告らの居住地等と本件道路の位置関係は、概ね別図8のとおりである。

四被告企業らの事業所からの排出量(〈書証番号略〉)

被告各企業の硫黄酸化物年間排出量は、前記認定のとおりであるが、被告企業らの事業所を含む川崎市大手四七工場の同排出量は、昭和四〇年において約一五万二一〇〇トン、同四九年において約二万一二〇〇トンであって、両年における右川崎市大手四七工場の硫黄酸化物排出量中に占める被告企業の排出量の割合は八割を越えている。

ただ、硫黄酸化物等大気汚染物質の原告ら居住地への到達の程度は、右物質の排出量が重要な要素ではあるが、排出条件及び気象条件等により左右されるものであり、また、前記三の認定のとおり、川崎市内においても右大手四七工場以外の排出源が存在するとともに、本件地域外からの移流をも考慮すると、排出量あるいは排出量割合のみによって原告ら居住地等への到達の程度を推定することは困難であるといわざるを得ない。

五被告企業らの排出量と本件地域の大気汚染濃度の経年変化(〈書証番号略〉)

原告らは、被告企業らの排出する硫黄酸化物排出量と本件地域の汚染濃度との間に高い相関関係があり、右相関関係から被告企業らの排出する汚染物質が本件地域の大気汚染の原因である旨主張する。

本件地域において導電率法による二酸化硫黄濃度の測定が開始された昭和四〇年以降同四〇年代についてみると、被告企業らの硫黄酸化物年間排出量は、前記認定のとおり、昭和四〇年が約一四万四〇〇〇トン、同四一年が約一一万トン、同四二年が約一二万八〇〇〇トン、同四三年が約一二万六〇〇〇トン、同四四年が約一二万トン、同四五年が約九万七〇〇〇トン、同四六年が約六万八〇〇〇トン、同四七年が約四万三〇〇〇トン、同四八年が約三万三〇〇〇トン、同四九年が約一万八〇〇〇トンであるところ、本件地域内の大師測定局の二酸化硫黄年平均濃度は、前記認定のとおり、昭和四〇年ないし同四二年が0.11ppm、同四三年が0.08ppm、同四四年が0.064ppm、同四五年が0.060ppm、同四六年及び同四七年が0.049ppm、同四八年が0.043ppm、同四九年が0.030ppmであり、これによると、特に昭和四〇年代後半における被告企業らの硫黄酸化物排出量の減少とともに、本件地域の二酸化硫黄平均濃度が低下していることが認められる。

また、本件地域の二酸化硫黄年平均濃度が、右のとおり昭和四三年以降漸次低下傾向を示しているのに対し、多摩川を隔てて本件地域の北側の工業地帯である東京都大田区の糀谷保健所の二酸化硫黄年平均濃度は、昭和四〇年が0.059ppm、同四一年が0.068ppm、同四二年が0.070ppm、同四三年が0.078ppm、同四四年が0.087ppmであって、昭和四三年以降においても低下傾向を示しておらず、本件地域と東京都所在の右糀谷保健所の二酸化硫黄年平均濃度の経年変化の傾向は必ずしも一致していない。

しかしながら、本件地域に近接する横浜市、東京都及び千葉県における二酸化硫黄排出量も、被告企業らの排出量と同様に概ね昭和四〇年代後半から減少している傾向にあり、昭和四〇年代後半以降の被告企業らの排出量の減少のみが本件地域の二酸化硫黄濃度の低下傾向と一致しているわけではない。

六本件地域における風向・風速と汚染濃度との相関関係

原告らは、本件地域においては南ないし東成分の風の時に硫黄酸化物が高濃度となり、これにより本件地域の主な大気汚染源が本件地域臨海部の被告企業らである旨主張する。

1 硫黄酸化物が高濃度になる風向範囲(〈書証番号略〉)

(一) 神奈川県、横浜市及び川崎市は、昭和三九年に汚染対策の企画立案の資料の充実を図るために神奈川県臨海地区大気汚染調査協議会を発足させ、また、昭和四九年には横須賀市がこれに加わり、昭和三九年度以降測定調査等を行った(以下「神奈川県臨海地区大気汚染調査」という。)。

右神奈川県臨海地区大気汚染調査によると、本件地域における硫黄酸化物濃度と風向との関係につき次のとおり報告している。

(1) 昭和四〇年度の神奈川県臨海地区大気汚染調査(夏季調査として昭和四〇年八月二〇日から同年九月二日までの一四日間、冬季調査として同年一二月三日から同月一六日までの一四日間)によると、風速が五m/秒以下のときの風向別平均濃度を算出し、他に比べて高い濃度の出た風向範囲を示すと別図9のとおりとなり、一般に臨海工業地帯の風下となったとき高濃度の出る傾向がある。

(2) 昭和四一年度の神奈川県臨海地区大気汚染調査(夏季調査として昭和四一年八月一九日から同年九月一日までの一四日間、冬季調査として同年一二月二日から同月一五日までの一四日間)において、各測定点の風向別の硫黄酸化物平均濃度を算出し、他に比べて高い濃度の出た風向範囲を示すと別図10のとおりとなる。

夏季における川崎臨海地域(大師河原、千鳥町、大師、大川町、扇島、砂子)の硫黄酸化物濃度は、昭和四〇年度と同様に他の地域と比較して最も高く、特に大師河原、千鳥町、大師、砂子は高い値を示している。しかし、本年度は昭和四〇年度と比較すると全般的に低い値を示している。

濃度を風向別にみると、大師河原では北北東ないし東南東の風向、大師及び砂子では南東ないし南西の風向での濃度が他の風向のときよりも高く、大師で南東の風向で最高0.222ppmを示している。海岸部の千鳥町、大川町及び扇島では北ないし東北東の風向で濃度が高いが、千鳥町を除いては大川町及び扇島は他の測定点と比較しても最も低い値である。千鳥町は北東の風向で0.145ppmであった。

以上のことから、この地域においては、海岸部の千鳥町、大川町及び扇島では北ないし東北東の風向、工場地帯で海岸に近い大師河原では北北東ないし南の風向、工場地帯に隣接した市街地の大師及び砂子では南東ないし南西の風向のときに高い濃度を示し、川崎臨海地域内であっても測定点によって高い濃度を示す風向がかなり異なり、汚染源の風下になったときに高濃度が出現することが明らかに分かる。

冬季においても、夏季と同様に硫黄酸化物濃度は他の地域と比較しても最も高い値を示し、また、濃度が高くなる風向も同様の傾向にある。なお、浮遊煤塵濃度と風向との間には明らかな関係は認められず、局地的汚染源の影響を強く受ける傾向にあるものと考えられる。

(二) 右報告によると、一般に臨海工業地帯の風下となったとき高濃度の出る傾向があるとしているが、前掲各図によると、例えば、昭和四一年度夏季・冬季調査における砂子の最高濃度は南西の風向、また、同年度冬季調査における大師の最高濃度は東北東の風向となっており、必ずしも被告企業らの所在する川崎臨海工業地帯の風下となったときのみ高濃度となっているとまではいえない。

2 風速と硫黄酸化物濃度との関係(〈書証番号略〉)

昭和四一年度の神奈川県臨海地区大気汚染調査報告の調査において、風速と硫黄酸化物濃度との関係について、次のとおり報告している。

硫黄酸化物濃度は、一般に3.0m/秒以下の風の弱いときほど高い値を示しているが、風速と硫黄酸化物濃度との相関の度合は場所及び季節により相違がある。

夏季の各測定点の風速と硫黄酸化物濃度をみると、川崎地区では内陸部の砂子及び中原では3.0m/秒以下の低風速のときに高い値を示し、海岸に近い大師及び大師河原並びに海岸部の大川町及び扇島では風速が6.1m/秒以上のかなり強い風が吹いていても高い濃度を示している。例えば、大師河原では6.1m/秒以上で0.26ppmを示し、風速と硫黄酸化物濃度との間には相関がない。

冬季は、夏季よりも風速と硫黄酸化物濃度の間の相関はよいが、海岸部の千鳥町及び大川町等では相関が悪い。

なお、風速と浮遊煤塵濃度との関係については、浮遊煤煙塵濃度は、夏季及び冬季とも各測定点で風速が三m/秒以下の低いときに高い濃度を示している。但し、海岸部の大川町等では6.1m/秒以上高い風速でも汚染の風下になったときは硫黄酸化物よりもはっきり高い濃度を示した。

七硫黄酸化物等濃度線等による大気汚染状況

原告らは、硫黄酸化物等濃度線が臨海部を中心に順次内陸部に及んでいることから、本件地域における主たる汚染源が被告企業らである旨主張する。

1 硫黄酸化物平均濃度分布(〈書証番号略〉)

(一)(1) 昭和四〇年度の神奈川県臨海地区大気汚染調査によると、夏季及び冬季の各硫黄酸化物平均濃度分布は別図11のとおりであり、夏季・冬季とも川崎臨海地区に最も汚染された区域がある。

夏季は、汚染の中心が海岸から少し入った大師河原夜光町付近にあり、ここから北西に伸びて中原方面に向かう汚染域と南西に伸びて横浜市中区に達する汚染地帯がある。

冬季は、最高濃度が川崎の臨海工業地帯にみられ、汚染の中心はおそらく海上にあるものと考えられ、汚染域はここから海上を南西に伸びて横浜市中区に向かい、また、北西へ中原方面へ伸びる汚染域もみられる。

(2) 昭和四四年度の神奈川県臨海地区大気汚染調査(夏季調査として昭和四四年八月一五日から同月二八日までの一四日間、冬季調査として昭和四五年一月九日から同月二二日までの一四日間)によると、夏季の亜硫酸ガスの平均的な濃度分布状況は別図12のとおりであり、最も高い濃度を示したのは川崎臨海地区の扇町周辺であり、総平均で0.05ppm以上を示し、一日の値では0.1ppmを超えた地域がかなりみられ、次いで、同じ川崎臨海地区の大師、浮島から羽田にまたがる地域が高く0.04ppmであった。

また、同年度調査における冬季の亜硫酸ガスの平均的な濃度分布状況は別図13のとおりであり、最も高い濃度を示したのは川崎臨海地域の扇島及び扇町周辺であり、総平均で0.08ppm以上を示し、一日の濃度では0.1ppm以上の地点がかなりみられ、次いで、この地域の周辺の鶴見臨海、川崎渡田及び水江浮島に跨る地域が高く、平均0.05ppm以上であった。

(二) 右硫黄酸化物濃度分布状況は、調査期間中の各地域の濃度を平均した結果に基づくものであるが、昭和四四年度の神奈川県臨海地区大気汚染調査の内冬季調査によると、右調査期間の内昭和四五年一月一四日、一五日、一六日、二〇日、二一日、及び二二日等では本件地域において北方向が主風向であるにも拘わらず、本件地域臨海部における硫黄酸化物が濃度になっていることが窺われ、右事実に鑑みると、本件地域より北側の汚染源からの影響も否定し得ないと解される。

2 風向・風速と硫黄酸化物濃度の経時変化(〈書証番号略〉)

昭和四三年度の神奈川県臨海地区大気汚染調査(夏季調査として昭和四三年七月二四日から同年八月七日までの一四日間、冬季調査として昭和四四年一月一〇日から同月二四日までの一四日間)において、冬季調査期間中に高い亜硫酸ガス濃度を示した昭和四四年一月一一日(総日平均濃度0.106ppm)の時刻別の亜硫酸ガス濃度の変化状況と気象変化につき次のとおり報告した。

朝八時までは二m/秒ないし三m/秒の北成分の陸風が吹いて濃度も0.1ppm以下であったものが、一〇時になって風速が0.3m/秒ないし1.2m/秒に弱まり、風向が乱れてくるとともに濃度が川崎臨海地域及び神奈川県庁等で0.2ppm程度まで上昇し、一二時になると風速は0.4m/秒ないし3.3m/秒で若干強まったが、風向は南成分の海風に変化し、濃度は急に上昇し、川崎臨海地域及び右県庁等で0.5ppmないし0.6ppmの高濃度になり、他の地域も高い値を示した。これは、川崎及び鶴見の臨海工業地帯から排出された大量の亜硫酸ガスが早朝北成分の風によって海上に移動したが、風向の南成分への逆転によって再び内陸部に移動し、逆転層の発生等によって十分な拡散が行われなかったために起こった現象と思われる。一六時ないし一八時になると再び微風速になって風向が乱れ始めるが、二〇時になると北成分の風に戻る。亜硫酸ガス濃度は東ないし南成分の微風が吹いている間はかなり高い値を示しているが、北ないし北西成分になって風速が早まると次第に減少してくる。なお、冬季調査期間中最も高い濃度を示した同年一月一七日(総日平均濃度0.122ppm)も右一一日と全く同じ傾向が見られた。

八被告企業らの補償制度への拠出金負担(〈書証番号略〉)

川崎市においては、昭和四八年一月から公害健康被害に係る救済措置として、企業拠出金を財源とした川崎市公害病認定患者療養生活補助費等助成条例を制定したが、右拠出金は、昭和四七年八月三一日時点で川崎市との間で大気汚染防止に関する協定又は覚書を締結していた事業者が昭和四五年から同四七年(右四七年は一部推定)までの三年間における硫黄酸化物排出量を按分比率して算出されたものであった。

そして、被告企業らの右拠出金割合は、被告東京電力22.7%、同日本鋼管22.3%、同東燃化学6.1%、国鉄5.5%、被告東燃3.6%、同東亜石油3.6%、同三菱石油3.2%、同日石化学2.8%、同昭和シェル石油2.7%、同昭和電工2.4%(昭和油化3.6%)、同ゼネラル石油2.3%、同キグナス石油1.4%であった(昭和石油化学を含めた右被告企業らの合計割合は82.2%となる。)。

昭和四九年一一月一一日、川崎市と関連企業との間で過去分補償、公害保健センター及び昭和四九年度補償条例に係る財源負担方法につき合意をしたが、各企業の負担金は、各企業の昭和四五年から同四八年までの間の硫黄酸化物排出量の按分比率により定められた。

また、公健法においても、各ばい煙発生施設等設置者から徴収する汚染負荷量賦課金の額は、当該ばい煙発生施設等設置者が排出する各物質ごとの単位排出量当たりの賦課金額に前年度の初日の属する年間排出量を乗じて得た額の合計額とするとされている(同法五三条一項)。

右認定のとおり、川崎市の補償制度に係る拠出金あるいは公健法による汚染負荷量賦課金は排出量を基準として算出されている。ところで、公健法等の補償制度においては、大気汚染系疾病が個々の原因者の汚染原因物質の排出行為と大気の汚染又は疾病との因果関係を量的に、かつ、正確に証明することが不可能に近いため、汚染原因物質の総排出量に対する個々の排出量又は汚染原因物質を含む原燃料の使用量の割合をもって大気の汚染に対する寄与度とみなし、これをもって賠償を要する健康被害に対する寄与度とし、費用負担を求める制度的割切りが必要であるとした上で排出量を基準としているのである。そうすると、例えば、右のとおり、川崎市公害病認定患者療養生活補助費等助成条例における被告企業らの拠出金割合の合計が八〇%を超えるものであったとしても、原告ら居住地等に到達する大気汚染物質の八〇%が被告企業らの排出したものに係るとまでは認め難い。

九以上の一ないし八の認定説示を総合勘案すると、被告企業らの事業所からの排出に係る硫黄酸化物が原告ら居住地等に到達していることは明らかに認められるものの、その到達の程度については、本件地域には被告企業らの事業所以外の排出源も少なからず存在し、気象条件等大気汚染物質の拡散条件によっては本件地域外からの移流も考慮する必要があることからすると、前記一ないし八の事実から原告ら居住地に到達する硫黄酸化物が概ね被告企業らの事業所から排出されたものであるとまでは認め難いといわざるを得ない。

なお、本件道路から排出される硫黄酸化物については、前記認定のとおり、昭和四〇年度において約一〇〇トン、同四九年度において約一五三トンであるところ、年次と年度の相違はあるものの、被告企業らの事業所からの排出量のみと比較しても一%未満であり、本件道路からの排出が車両という低煙源であることを考慮したとしても、本件道路から排出される硫黄酸化物の原告ら居住地への到達の程度はごく僅かであると認められる。

第二被告企業らの排出に係る硫黄酸化物の本件地域への到達の寄与割合

一被告企業らによる硫黄酸化物についてのシミュレーション

被告企業らは、昭和四九年に実施された川崎市シミュレーションと同一のシミュレーションモデルにより、被告企業らの排出に係る硫黄酸化物の原告ら居住地への到達の程度を主張するので、右主張を検討する。

1 昭和四九年度の川崎市シミュレーション(〈書証番号略〉、証人横山長之)

環境庁大気保全局大気規制課は、昭和四九年に大気汚染防止法が改正され、硫黄酸化物を対象とする総量規制制度が導入された際に、指定地域を有する自治体に対して、総量規制を行う指導書として総量規制マニュアル(以下「総量規制マニュアル」という。)を昭和五〇年に公表した。

そこで、川崎市は、同四九年を基準年度とし総量規制マニュアルに基づき、硫黄酸化物及び窒素酸化物に関するシミュレーションを行い、昭和五三年三月、その結果を報告した。

右報告においては、川崎市全域と隣接する東京都、横浜市域を含む東西四四Km、南北三六Km並びに千葉県臨海部及び横須賀市の一部を対象地域とし、うち硫黄酸化物に関するシミュレーションにおいては、硫黄酸化物の排出量を工場等から提出された燃料使用実績報告書により算出した別表一記載の数値を使用したものである。

右硫黄酸化物に関するシミュレーションによる地域発生別二酸化硫黄寄与濃度及び寄与率は、別表二記載のとおりであり、これによると、川崎市の固定発生源による寄与率は、大師保健所で37.4%、田島保健所で35.2%、公害監視センター(川崎測定局)で32.3%、幸保健所で23.8%であった(以下「川崎市シミュレーション」という。)。

そして、計算値と実測値の季別時間帯別平均値及び年平均値について照合することにより拡散シミュレーションモデルの適合性の検討を行ったところ、年平均値においては回帰係数0.905、相関係数0.929、季別時間帯別にみても暖房期の夜中を除ききわめて良好な結果が得られ、硫黄酸化物総量マニュアルの判定条件である回帰係数0.8から1.2の範囲、相関係数0.71以上を満たした。

なお、原告らは、①右シミュレーションは、あくまで将来における対象地域の環境濃度を予測し、同時に総量規制実施後の効果を予測するシステムであるから、仮に昭和四九年度を基準年としてシミュレーションを実施しても、直ちに昭和四九年度における各煙源の寄与濃度が正確に示されることにはならない旨、また、②右シミュレーションは、あくまでも定常状態における大気汚染を基本モデルとして、それに多くの大胆な仮定を設定して計算を積み重ねて結果(しかもそれは平均濃度にすぎない。)を得るものであり、したがって、それは到達の過程を知る一資料とはなり得ても、それのみでは複雑な非定常の現実の姿を正確に解明し得るものではない旨主張する。

しかしながら、まず右主張①については、総量規制は将来における環境濃度の改善を目的としており、そのため拡散シミュレーションも将来予測の場面で機能することは否定できないが、そもそも現状の汚染濃度を再現できることを前提とするものであるから、右主張を採用することはできないし、また、右主張②については、右シミュレーションは、計算の過程で、仮定に基づき拡散条件を定型化、単純化しているため、計算値による推定値であることは否定できないものの、拡散バラメーター等の値が適切に選ばれるならば、十分に高い精度で長期平均濃度を予測することが可能であるところ、川崎市シミュレーションは、総量規制マニュアルにほぼ準拠しており、また、右シミュレーションが定常状態を仮定しているとしても、気象資料が入手可能な各一時間内で定常であるという意味であって、一年間といった長期にわたる平均濃度を予測する目的のためには、一時間値内では気象条件が一定とみなしても年平均濃度の予測に大きな誤差をもたらすものではないと考えられるから(但し、右シミュレーションは長期平均濃度であるため、短期間の汚染濃度を全て再現しているものとまではいえない。)、右シミュレーションは、長期平均濃度の予測手法として基本的に信頼性の高いものということができ、その結果は昭和四九年当時における各煙源の寄与割合を概ね反映しているものと認められる。

2 被告企業らによる硫黄酸化物のシミュレーション(〈書証番号略〉、証人長岡正治)

被告企業らは、川崎市シミュレーションと同一の拡散シミュレーションモデル及び同一の気象資料等に基づき、右シミュレーションの基準年度である昭和四九年度の被告企業らの各発生源について硫黄酸化物の拡散シミュレーション(以下「昭和四九年度被告企業シミュレーション」という。)を行ったところによると、大師保健所、田島保健所、公害監視センター(川崎測定局)及び幸保健所における被告各企業の到達濃度及び寄与率は別表三記載のとおりであり、被告企業らの各寄与率は、大師保健所で16.3%、田島保健所で11.2%、公害監視センターで9.2%、幸保健所で8.4%であった。

なお、原告らは、総量規制マニュアルに基づく拡散シミュレーションによって得られる全煙源の重合値が実測値と適合しているからといって、それを分解した各煙源ごとの計算値が同程度の精度であるとはいえない旨主張するが、総量規制マニュアルに基づく拡散シミュレーションは各煙源ごとに行った拡散計算の結果を全煙源について重合させたものであるから、右のとおり、昭和四九年度被告企業シミュレーションが、川崎市シミュレーションと同一のモデル及び気象資料等を使用して行ったものである以上、その計算結果が川崎市シミュレーションに示された長期平均濃度の中に占める割合を反映するものであると解するのが相当である。

二被告企業らの硫黄酸化物についての本件地域における寄与割合

1 昭和四九年における被告企業らの寄与割合

右一の認定説示によると、昭和四九年における被告企業らの事業所からの排出に係る硫黄酸化物の原告ら居住地等への到達の程度は、昭和四九年度被告企業シミュレーションを基に推測することが相当であると認められるところ、前記認定のとおり、右被告企業らシミュレーションの基礎とする総量規制マニュアルによるシミュレーションは、長期平均濃度であるため、短期間の汚染濃度を全て再現しているものとまではいえないことからすると、ダウン・ウオッシュ(煙突からの吐出が風速より小さい場合、煙が煙突の背後に生じる渦や付近の建造物によって発生する渦に巻き込まれ急激に地上へ降下すること)等による局地的に発生する高濃度汚染等が右シミュレーションで考慮され尽くされているとまではいえず(〈書証番号略〉)、右事情等を総合勘案し、昭和四九年当時の本件地域に到達した硫黄酸化物の内被告企業らの事業所からの排出に係る硫黄酸化物の程度は、概ね一五%であると認めるのが相当である。

2 昭和四〇年代初頭頃の被告企業らの寄与割合

被告企業らは、排煙が地上に到達する濃度が気象条件と排出条件が同一ならば排出量に比例するという大気拡散理論に基づき、昭和四九年度被告企業シミュレーションによる被告企業らの硫黄酸化物の到達量に排出量の増加率を乗じて、昭和四一年における被告企業らの硫黄酸化物の本件地域への到達量を推定することができるとし、これによると、本件地域の内大師保健所において28.4%、公害監視センター(川崎測定局)で24.8%である旨主張する(別表四)。

拡散シミュレーションに用いられる拡散式からすると、気象条件及び排出量以外の排出条件が同一であるならば、排煙の地上への到達濃度は排出量に比例する。

ところで、排出条件の一つである有効煙突高(実煙突高と排煙上昇高の和)はそれが高いほど排煙の到達濃度が低くなるところ(〈書証番号略〉)、被告企業らの昭和四一年当時の実煙突高は必ずしも明らかになっていないが(昭和四九年度における被告企業らの事業所等の煙突本数及び実煙突高等は別表45記載のとおりである[〈書証番号略〉]。)、前記認定事実からすると、例えば、被告東京電力は昭和四一年と同四九年当時の実煙突高に変化がなく、これに対し、被告日本鋼管では、昭和四四年八月に水江焼結炉煙突を約50mから97.75mに高煙突化しているなど被告企業によって異なるものの、少なくとも被告企業らの内一部の企業においては、昭和四一年と同四九年の実煙突高を比較すると、昭和四一年当時の実煙突高が低かったことが認められ、これによると、被告企業ら主張のように昭和四一年と同四九年の排出条件は必ずしも同一であるとまでは認めることができない(気象条件については、昭和四一年と同四九年において特に大きな変化があったことを認めるに足りる証拠はないから同一であると解することに一応の合理性が認められる。)。

そこで、前記認定によると、昭和四一年における被告企業らの硫黄酸化物の排出量(一〇万九六六六トン)が同四九年における同排出量(一万七九八五トン)の約6.1倍であること、右説示のとおり、昭和四一年当時は同四九年当時より実煙突高が低かったこと等の事情を総合勘案して、昭和四〇年初頭頃における本件地域に到達した硫黄酸化物の内被告企業らの事業所からの排出に係る硫黄酸化物の程度は、概ね四〇%であると認めるのが相当である。

第三道路からの二酸化窒素の到達

一本件地域における調査

1 横浜市及び川崎市による自動車排気ガスによる道路周辺での大気汚染に関する研究(〈書証番号略〉)

横浜市及び川崎市の各公害研究所は、昭和五二年度冬季に横浜市神奈川区三ツ沢中町(以下「横浜市調査」という。)及び川崎市川崎区貝塚(以下「川崎市調査」という。)において、自動車排気ガスによる道路周辺での大気汚染に関する研究を実施した。

なお、横浜市調査及び川崎市調査双方の測定期間中の風向は九〇%近くが対象道路の風下であり、右期間中の平均風速は、横浜市調査で1.8m/秒、川崎市調査で2.2m/秒であった。

(一) 横浜市調査は、国道一号線(この付近の一日当たりの交通量は四万台であり、大型貨物の混入率が高い。)を対象道路とし、調査対象付近は右対象道路に面して商店があるものの、その後背は住宅地である。右横浜市の調査においては、二酸化窒素につき道路端から三〇m付近まで減衰が著しく、同六〇m付近では減衰がみられなくなった。

川崎市調査は、国道一五号線(一日当たりの交通量は二万七〇〇〇台)を対象道路とし、調査対象付近は、右対象道路のほか車の殆ど通らない幅員の狭い道路が入り組んでいる商業地域である。右川崎市調査においては、横浜市調査の等距離の地点と比較すると二酸化窒素濃度値は高かったが、右二酸化窒素の減衰については横浜市調査と同程度の距離まで減衰がみられた。

(二) 両調査における共通な特徴として、道路に対して直角な風の時に各測定点とも最も低い値を示しており、道路に対して平行方向に吹く風になるほど最遠地点まで濃度が高くなる傾向がみられた。

また、風速が一m/秒未満の時には全測定点で顕著に高濃度となっており、風速が汚染物質の濃度に与える影響が明確であった。

2 川崎市公害局による自動車排出ガス影響調査(〈書証番号略〉)

川崎市公害局は、昭和六〇年一一月、川崎市遠藤地区、同新川地区及び同池上地区において窒素酸化物等の道路からの距離減衰、二酸化窒素への転換等の調査を行った。

右調査対象地区の内池上地区は、東京大師横浜線と横羽線が高架する川崎市川崎区池上町一丁目七番地付近であり、右池上地区の二酸化窒素の距離減衰は次のとおりであった。

(一) 道路に対してほぼ直角の風向、1.26m/秒の風速下における二酸化窒素濃度は、車道端の地点で五九ppb、車道端から五mの道路敷地境界地点で五五ppb、敷地境界線から六mの地点で四二ppb、同12.5mの地点で五四ppb、同二五mの地点で五〇ppb、同37.5mの地点で四五ppb、同四五mの地点で五二ppb(いずれも高度二m)であった。

(二) 道路に対してほぼ平行の風向、3.06m/秒の風速下における二酸化窒素濃度は、車道端の地点で六四ppb、車道端から五mの道路敷地境界地点で六一ppb、敷地境界線から六mの地点で五四ppb、同12.5mの地点で五一ppb、同二五mの地点で五〇ppb、同37.5mの地点で四六ppb、同四五mの地点で四五ppb(いずれも高度二m)であった。

二本件地域外における調査

1 三重県公害センターによる調査(〈書証番号略〉)

三重県公害センターは、昭和四八年五月三一日から同年六月一日までの間、三重県桑名市において道路からの自動車排ガスの拡散を実測調査したところ、その結果は別図14のとおりであり、一酸化窒素及び二酸化窒素とも道路周辺の濃度が高く、特に一酸化窒素にこの傾向が著しく、これによると、測定点における採取口の高さにもよるが、ある程度以上の交通量の幹線道路の場合、道路から一〇〇m程度以内の位置では、自動車排ガスの影響はかなり強いものと考えられるとしている。

2 兵庫県生活部環境局による調査(〈書証番号略〉)

兵庫県生活部環境局は、昭和四九年八月から同年九月の間、尼崎市及び西宮市において国道四三号線からの自動車排出ガスの影響を測定したところ、その結果は別図15のとおりであった。

窒素酸化物については、尼崎市において、道路端の濃度に対して、四〇mで七五%、八五mで五〇%、一五〇mで二四%となり、一五〇mを越すと余り減衰がみられなくなっている(四三号線以外の影響を差し引いた四三号線のみの自動車排出ガス濃度)。

また、二酸化窒素は、二〇mないし五〇mの地点で増大する傾向がみられるが、これは一酸化窒素として排出されたものが空気中で二酸化窒素に酸化されるので、この酸化された量が加算されるために生じた現象と考えられるとしている。

3 日本道路公団による高速道路大気質長期定点測定(〈書証番号略〉)

日本道路公団は、昭和五二年四月から同年七月の間、東名高速道路の平面部(路面が周囲の地盤とほぼ同じ高さ)、盛土、切土、高架、トンネル坑口及び本線上料金所を対象箇所として測定したところ、その結果は次のとおりであった。

高架構造における二酸化窒素の距離減衰については、平均風速2.7mの風下の場合、道路端で四〇ppb、道路端から三六mの地点で二九ppb、同六三mの地点で二五ppb、同九一mの地点で二六ppb、平均風速3.9mの平行風の場合、道路端で五四ppb、道路端から三六mの地点で三六ppb、同六三mの地点で三〇ppb、同九一mの地点で三〇ppb、平均風速3.0mの風上の場合、道路端で一五ppb、道路端から三六m及び同六三m、同九一mの各地点いずれも九ppbであった。

平面構造における同じく二酸化窒素の距離減衰については、平均風速3.3mの風下の場合、道路端で四九ppb、道路端から二四mの地点で四六ppb、同六四mの地点で三六ppb、平均風速3.2mの平行風の場合、道路端で六ppb、道路端から二四mの地点で二九ppb、同六四mの地点で三〇ppb、平均風速2.8mの風上の場合、道路端で二二ppb、道路端から二四mの地点で一九ppb、同六四mの地点で二〇ppbであった。

4 建設省土木研究所によるトレーサーガスを利用した自動車排出ガスの拡散に関する実験(〈書証番号略〉)

建設省土木研究所は、平面、切土、盛土及び高架各構造の道路につき、風上側道路端から地上一mから放出されたトレーサーガスを風下側測定点において捕集分析したトレーサーガス実験を行い、風速や排出量を同一条件とした基準化濃度(測定濃度に風速を乗じ、排出量で除した濃度)を用いて道路構造別の拡散現象を比較した。

その結果、濃度距離減衰は、各構造の道路いずれも道路端から指数関数的に減衰している。

平面構造の道路では、路端から約二五mで路端濃度の半分、道端から一五〇mで一割ないし二割になっており、また、高架構造の道路の場合には、平面構造とほぼ同様の減衰を示すとともに、地上1.5mの濃度と地上9.1mの濃度は、道路から離れるにしたがって近い値となり、路端から七〇mないし八〇m以遠でほぼ等しくなっている。

三以上の調査結果を総合勘案すると、自動車から排出された二酸化窒素の距離減衰については、風向による影響があるものの、道路端から三〇mないし五〇mまでの距離減衰が著しく、一〇〇mないし一五〇mまで緩やかな距離減衰が認められる。

第五章本件地域の大気汚染と原告らの疾病との因果関係

第一本件疾病

公健法においては、慢性気管支炎、肺気腫、気管支喘息及び喘息性気管支炎が指定疾病とされているが、本件原告らの関係では、右指定疾病のうち、慢性気管支炎、肺気腫及び気管支喘息が問題とされることから、右三疾病につき検討する。

一慢性気管支炎

1 定義及び病態等(〈書証番号略〉)

慢性気管支炎の基本的な病理形態変化は、気道分泌構造の肥大、すなわち、気管支腺及び気管支上皮の杯細胞の肥大に基づく気道分泌の亢進が慢性に存在することであり、フレッチャーによる臨床的な診断基準としての定義は「肺・気管支及び上気道の限局性病巣によらないで起こる反復的な咳嗽・喀痰を主症状とする疾患であるが、慢性あるいは反復性とは一年のうち少なくとも三か月間、殆ど毎日、少なくとも二年間連続して咳嗽・喀痰が存在する状態を意味する。」とされている。

慢性気管支炎は、最初に粘液の過分泌があり、その過分泌によって気道閉塞が生じたり、粘液クリアランスが減少し、その結果、感染に対する気管支の防御機構を損傷して気道壁のコンプライアンスが上昇し、気管支の閉塞や気腫化を起こすと考えられている。他方、病態の基本に様々の気道の過敏症があるとし、その結果としての粘液の過分泌があり、気道クリアランスが減少して二次的に感染を起こすという考え方も存する。

2 病因(〈書証番号略〉)

病因としては、加齢、性、人種、喫煙、大気汚染、職業性暴露、気候、細菌・ウィルス感染、遺伝的素因、アレルギー素因、既往歴等が挙げられている。この中では、環境要因として喫煙、大気汚染、職業的因子及び感染が従来から注目されてきた。

(一) 喫煙(〈書証番号略〉)

(1) 喫煙時に生ずる煙草の煙は、煙草自体を通過して喫煙者の口腔に達する主流煙と点火部から立ち昇る副流煙とから成り立っている。

喫煙者本人の生体影響に専ら関与するのは主流煙であり、非喫煙者には吐き出された主流煙と副流煙とが混り合った剰余煙が受動的喫煙の形で影響を及ぼす。

紙巻煙草の喫煙時に発生する煙中物質には四〇〇〇種以上の化合物が判明しており、その中には、ニコチン、ホルムアルデヒド、シアン化水素、アセトアルデヒド、アンモニア、窒素酸化物及び一酸化炭素等の多くの有害物質が含まれている。

ところで、紙巻煙草の原料となる煙草葉の種類や巻き上げの硬軟、巻紙の通気性等により主流煙中の各物質の収量に差異があるとともに、フィルター・チップの使用の有無の影響が大きく、一般の紙巻煙草について、ニコチンの主流煙中への移行率は、フィルター・チップ付き煙草は両切り煙草に比較して低くなる。

また、喫煙時に主流煙を肺まで吸い込むか(肺喫煙)あるいは吸い込まず口から吐き出す(口腔喫煙)により著しい違いが生じ、口腔喫煙時のニコチン、一酸化炭素等の吸収率は、肺喫煙時と比較して激減する。

そして、喫煙は、肺機能障害を起こすとともに、気道の防御機能を障害する。すなわち、気道粘膜の線毛運動を阻害して気道分泌物や侵入した異物を排除し難くし、肺末梢領域において異物を貪食する役割を有する肺胞マクロファージの作用を低下する。また、肺胞を膨らませ、安定させている肺胞界面活性物質の性状を変化させる。これらの影響により、呼吸器が疾病にかかり易くなり、感染に対する抵抗力を弱めることになる。

(2) 喫煙による影響に関する調査報告(〈書証番号略〉)

喫煙と慢性気管支炎の関係についての調査報告には次のものが存する。

① ブリンクマンによる報告

デトロイト周辺の工場労働者一三一七名を対象とした調査において、一日喫煙本数×喫煙年数を指標(ブリンクマン指数)として、○を非喫煙者、一ないし一九九を軽度喫煙者、二〇〇ないし五九九を中等度喫煙者、六〇〇以上をヘビースモーカーに区分し、過去六か月間以上毎日、咳、痰が続いている者を慢性気管支炎と定義して検討したところ、慢性気管支炎はヘビースモーカーでは非喫煙者のほぼ三倍にも達すると報告した。

② ゴリによる報告

二四九二名を対象として前記フレッチャーの定義に基づく慢性気管支炎患者の頻度の調査によると、非喫煙群では、三〇歳未満0.8%、三〇歳以上五〇歳未満3.6%、五〇歳以上10.9%であるのに対し、喫煙群では、それぞれ12.1%、25.1%、35.5%と増加し、慢性気管支炎における加齢と喫煙の影響を報告した。

③ 常俊義三による報告

後記第二、二、5の大阪・兵庫調査において、フレッチャーの定義に基づく慢性気管支炎の有症者率は、男女とも年齢及び喫煙量とともに増加し、男子の一日二一本以上喫煙者、女子の一日一一本以上の喫煙者の有症率は、同年齢群の非喫煙者に比べ、それぞれ三倍ないし四倍、五倍ないし六倍の値を示すと報告した。

(3) 右報告を総合勘案すると、喫煙は、煙草の種類及び喫煙方法により影響の差異があるものの、長期の喫煙は、慢性気管支炎の発症等に少なからず影響を与えていると考えられ、また、影響の程度については、喫煙本数と喫煙期間を考慮する必要があると認められる(なお、日本人においては、欧米と比較すると、肺喫煙が少ないことにも注意を要する。)。

(二) 職業性暴露(〈書証番号略〉)

塵肺が典型的に起き易い職場あるいは粉塵があって高温多湿な職場での作業は、慢性気管支炎の発病の要因に係わると考えられている。

二肺気腫

1 定義及び病態等(〈書証番号略〉、証人滝沢敬夫)

肺気腫とは、米国胸部疾患学会(ATS)によると、「肺胞壁の破壊的変化によって、終末細気管支から末梢の含気区域が異常に拡張したことによって特徴づけられる肺の解剖学的変化」と定義されており、その病態は、肺弾性異常とこれに基づく呼気時の気道閉塞、すなわち、肺の弾性を担っている肺胞が破壊されることにより、肺の弾性、収縮力が低下し、気道の壁の肺組織による支持がなくなって気道が非常に潰れ易くなり、肺胞内圧を高めて気道を介して空気を吐き出そうとすると、気道が圧し潰されて空気が吐けなくなる状態である。

そして、身体所見の特徴としては、労作時の息切れや口すぼめ呼吸がみられる。

肺気腫は、気腫の形態により汎小葉性気腫と小葉中心性気腫に分類され、汎小葉性気腫とは、呼吸細気管支より末梢の肺構造、すなわち、呼吸細気管支、肺胞道、肺胞嚢が肺胞壁の破壊を伴って小葉全体に瀰慢性に気腔の拡大をきたしたもので、壁の薄い微細な気腫空腔が相接して密に分布しているものであり、小葉中心性気腫とは、細葉構造のうち呼吸細気管支領域の選択的な破砕断裂により惹起された気腫型で、通常、小葉中心部に一致して比較的粗大な気腫空胞が存在し、小葉周辺部の気腔には特に有意の気腫性変化を認め難いものである。そして、汎小葉性気腫は、内的因子が大きく関与していると考えられ、高齢者に多いのに対し、小葉中心性気腫は、外的要因が関与していると考えられ、若年者に多い。

また、気腫性変化の機序としては、例えば、肺の末梢部に炎症が起こると、好中球、白血球あるいはマクロファージ等の異物を食べる細胞が活性化し、プロテアーゼ(蛋白分解酵素)を放出する。生体においては、プロテアーゼの活性を抑制するアンチプロテアーゼ(蛋白分解抑制酵素)を放出して、プロテアーゼの作用に拮抗するが、両酵素のバランスが崩れてプロテアーゼの活性が強くなると、肺胞構造の蛋白が破壊されて肺気腫が生ずると考えられている。

2 病因(〈書証番号略〉)

病因としては、性、加齢、α1―アンチトリプシン欠損、幼小児時代の呼吸器疾患、喫煙、ウィルス感染、職業性暴露、大気汚染等が考えられている。

(一) 喫煙

(1) 喫煙による影響に関する調査報告(〈書証番号略〉)

喫煙と肺気腫の関係についての調査報告には次のものが存する。

① 山中晃による報告

剖検肺の検索によると、非喫煙者及び喫煙本数(一日本数×喫煙年数)四〇〇以下では、肺気腫との間に殆ど有意の差が認められないが、四〇〇以上、八〇〇以上、一六〇〇以上と喫煙量の増加とともに慢性肺気腫の各基本型及び肺気腫症がいずれも明らかに増加すると報告した。

② アウアバッハによる報告

男一五八二例、女三六八例の剖検肺について、厚さ一mmの全肺切片を作り、組織学的に検索を行い、喫煙者肺では非喫煙者肺に比し、胞隔の破壊(肺気腫)、繊維組織の増殖、小動脈細小動脈壁の肥厚が明らかに強く、且つ、その程度は喫煙量に比例することが認められ、死亡の一〇年以上前に禁煙した者の肺の変化は、死亡一〇年以内に喫煙した者の肺の変化より軽度であり、また、一〇年以上前に喫煙した者の中でも一日二〇本以上の喫煙者と二〇本以内の喫煙者の間に変化の程度の差を認めたと報告した。

(2) 右報告を総合勘案すると、長期の喫煙は、肺気腫の発症等に少なからず影響を与えていると考えられ、また、影響の程度については、慢性気管支炎と同様に喫煙本数と喫煙年数を考慮する必要があるというべきである。

(二) 加齢(証人滝沢敬夫)

加齢により、肺の胸廓に老化が起こって呼吸筋力が弱くなり、肺の弾性収縮力が弱くなること及び人生生活の過程において、多様な因子が肺に蓄積され、肺胞構造の破壊を起こすことが原因と考えられている。

(三) α1―アンチトリプシンの欠損(証人滝沢敬夫)

我国においては非常に少ないが、前記のとおり、蛋白分解酵素に拮抗する蛋白分解抑制酵素であるα1―アンチトリプシンが先天的に欠損している症例があり、右症例においては肺気腫が若年時にみられると考えられている。

三気管支喘息

1 定義及び病態等(〈書証番号略〉)

気管支喘息とは、米国胸部疾患学会(ATS)によると、「種々の刺激に対する気管及び気管支の反応亢進を特徴とし、広範な気道狭窄により症状を生じるが、その程度は自然にあるいは治療により変化する疾患である。しかし、広範な気管支の感染、例えば、急性及び慢性気管支炎、肺気腫など肺組織の破壊、心血管性疾患により生じる気道狭窄は含まない。」と定義されている。

気管支喘息の基本的な病態は気道が過敏であること(気道反応性の亢進)であり、そのため種々の物理的、化学的な刺激に対して気道が異常に反応して気道壁の平滑筋攣縮、分泌物、浮腫によって閉塞状態を起こし、その結果、喘鳴が生じ自覚的に呼吸困難を認めるようになり(広範な気道狭窄)、しかもこの閉塞状態は可逆的で自然に又は治療により短期間で改善する疾病である。

主たる症状としては、喘鳴を伴う発作性の呼吸困難であり、時に咳や痰の増量を伴うことがある。

気管支喘息の病因は多因子であるため、ある分類法で全ての患者を明確に分類できる方法はないが、一般的にはアレルギー反応を基盤として発症するアトピー型とそれ以外の非アトピー型に分類されることが多い。

2 発症機序及び病因等(〈書証番号略〉、証人宮本昭正)

気管支喘息は、前記のとおり、気道反応性の亢進を基礎として可逆性の気道狭窄が起こることを特徴とする。

(一) 気道反応性の亢進

気道反応性の亢進は、種々の刺激に対して気道が収縮反応をし易くなった状態であるが、前記のアトピー型・非アトピー型の喘息いずれにおいても認められるものである。右気道反応性の亢進の原因については、アレルギーによって起こるとする説、細菌やウィルスなどの感染が原因であるとする説、自律神経の失調が原因であるとする説、ベータ受容体が遮断状態にあるからであるとする説、精神的な要因によるとする説などがあるが、最近では、先天的な要因(アレルギー体質)に後天的な要因が加わって気道反応性の亢進がもたらされると説明されることが多い。そして、右気道反応性の亢進の後天的要因としては、アレルギー反応の繰返し及び感染が重要である旨指摘されている。

(1) アレルギーの機序

アレルギー反応はⅠ型からⅣ型までの四型に分類されているが、アレルギー機序による喘息は殆どはⅠ型アレルギーに基づくものである。Ⅰ型アレルギー反応による機序は、生体内にアレルゲンが侵入すると、IgE(血清免疫グロブリンE)抗体が産生され、これが肥満細胞あるいは好塩基球などの細胞の表面に固着する。そして、再度、同じアレルゲンが生体内に侵入すると、細胞の表面でアレルゲンがIgE抗体と結合し、細胞が脱顆粒を起こしてヒスタミン等の化学伝達物質が遊離し、右化学伝達物質の作用によって平滑筋の攣縮、毛細血管の透過性の亢進あるいは分泌腺の分泌亢進がもたらされ、これにより気道狭窄を惹き起こし喘息の発症につながると考えられている。

(2) 感染

感染によって気道が刺激されて反応性を増し、非常に敏感になったり、粘液の増加や粘膜の浮腫がもたらされ、気道反応性の亢進の原因となる。また、感染が原因となってアレルギーの機序が現れる場合があるとも考えられている。そして、大気汚染物質は、気道の上皮細胞を破壊して過分泌を起こし、気道の易感染性をもたらすと考えられている。

(二) 気道の狭窄

気管支喘息は、気道反応性の亢進の存在を基礎として、特異的刺激あるいは非特異的刺激により広範な気道狭窄が生じる。

アトピー型気管支喘息では、特異的刺激であるアレルゲンにより気道狭窄を起こすが、気管支喘息に関連するアレルゲンとしては、ハウスダスト、花粉、カビ等の吸入性抗原、牛乳、鶏卵等の食餌性抗原、アスピリン等の薬物性抗原が挙げられる。また、非特異的刺激としては、感染、気象的要因及び精神的負担等が挙げられる。

第二大気汚染に関する調査・研究報告等

一疫学総論

1 疫学の意義等(〈書証番号略〉、証人香川順)

(一) 疫学とは、疾病やその他の事象の分布を人間の特徴(性、年齢、職業その他)や場所(地理的)や時間(時間、日、月、年など)等によって分け、どんな要因が関与してそのような結果をもたらしたかを論理的に考究する学問、言い換えれば、集団に起こる事象(主として疾病)の因果関係について検討する学問である。

(二) 疫学調査における研究手法としては、①記載疫学的方法、②分析疫学的方法、③実験疫学的方法がある。

(1) 記載疫学的方法とは、疫学的現象、すなわち、集団中における健康障害の発現状況を観察し解析する方法であり、具体的には死亡率・罹患率や有症率といった指標で表される健康障害の発生・分布状況を、時間的、空間的、人の属性別に観察し、対象集団について、環境、宿主、病因に関して総合的に評価し、どの要因が健康障害に関与しているのかを検討することにより、健康障害の発生要因に関する仮説を設定するものである。

右記載疫学の段階においては、どの要因が一番重要であるかは判明していない。

(2) 分析疫学的方法とは、記載疫学的方法によって設定された健康障害の発生要因に関する仮説を、分析的な観察によって吟味検討し、仮説要因と健康障害との間の関連性の有無を明らかにするものである。

右分析疫学的方法には、患者対照研究と要因対照研究とがある。

患者対照研究とは、集団中で問題の疾病を持つ患者群がその疾病を持たない群(対照者群)に比べて、仮説要因をより高率に保有しているかどうかを調べる方法であり、要因対照研究とは、仮説要因を持つ集団と持たない集団あるいはそれが多い集団と少ない集団について、問題の疾病の発生状況や有病状況を比較するものである。

また、分析疫学的方法を調査時点から分類すると、横断研究と縦断研究とに分けられる。

横断研究とは、ある時点における要因の保有状況を断面的に調査する研究のことをいい、通常行われる一つの時点で捉えた調査を断面調査という。

これに対し、縦断研究とは、要因と結果を異なる時点で捉える研究であり、観察の時間的関係から、調査時点より過去に遡って要因の作用状況を調査する後ろ向き研究と問題の健康障害が新しく発生する状況を追跡的に調査する前向き調査とがある。

ところで、大気汚染に関する疫学研究においては、仮説要因である大気汚染の程度の異なる集団を取り上げた要因対照研究で、且つ、横断(断面)研究が多く行われているところ、右横断研究においては、原因とその結果の測定が一時点において行われるため、仮説要因と健康障害の発生の時間的前後関係を明らかにすることが困難であるという欠点を有している。

(3) 実験疫学的方法とは、分析疫学の段階で関連性が確認された要因について、それを与えれば問題の疾病が発生し、それを与えなければその疾病は全く発生しないか、与えた場合に比べて有意に低い割合でしか発生しないことを実験的に確かめる方法である。

右実験疫学的方法には、介入実験、人体暴露実験や動物実験がある

(三) 動物実験

動物実験は、暴露条件及び一定の限界があるものの実験動物の条件を正確に、且つ、広範囲に制御し得る点に最大の利点を有する。しかし、動物実験の結果を人に外挿又は適用する場合には、動物差に留意する必要がある。

右動物差としては、実験動物と人では、①固体全体としての絶対的な大きさが異なるのみならず、臓器重量の体重比等体の各部の比率も異なっていること、②同じ時間であっても、実験動物と人ではその意味が異なっていること、③体に含まれる物質の量についても、絶対量が異なるばかりか体重に対する比率等相対量も異なること、④危害要因に対する反応等が異なること等であり、大気汚染の呼吸器影響に限れば、呼吸器大気汚染物質量と気道・肺胞表面積の比、呼吸器におけるこれらの汚染物質に対する防御又は解毒能の種差の解明を要するところ、現時点においては多くの問題が残されている。

また、呼吸器疾患の臨床診断では、多くの場合、症状や主訴が一定の役割を果たしているが、動物実験からはこうした知見は殆ど求められないことも問題となる。

ただ、後記昭和六一年専門委員会報告においては、哺乳動物においては、解剖学的・生理学的・生化学的に類似しており、その暴露実験結果は、人における影響の機構の解明や量・影響関係の存否の判断の助けとなり、更には人における量―反応関係の推測を可能とすると評価されている。

(四) 人への実験的負荷研究

人への実験的負荷研究の結果は、直接人を対象としていることから、分析疫学研究等の結果から見出された大気汚染と健康影響の関係を、短期間の暴露下ではあるが直接的又は間接的に観察することが可能である。

しかし、暴露される人々が限定された志願者で、様々な大気汚染に暴露されている年齢層や健康状態の異なる地域住民や大気汚染の影響を受け易いと考えられる慢性閉塞性肺疾患者群を代表していないこと、暴露環境も現実の大気汚染物質や気象因子との組合せや様々な生活環境を代表していないこと、また、通常の大気汚染の状態とは違い、一般に温湿度一定の清浄空気に特定の大気汚染物質を希釈した空気に暴露された急性の影響であること等に留意して評価すべきである。

2 大気汚染疫学を評価をする上での留意点(〈書証番号略〉、証人香川順)

大気汚染疫学の結果を評価する上においては、次の点に留意する必要がある。

(一) 調査計画

大気汚染疫学調査においては、計画段階時に、①研究目的(実態調査であるのか、仮説を検証するものであるのかなど)、②疫学的接近方法の確定、③調査集団の選択、④暴露量の把握、⑤反応量の把握、⑥交絡因子の修正方法等が定められ、病因と疾病の関連性の有無の検証が可能となるようにデザインされたものでなければならず、仮説の検証が可能となるようにデザインされていない疫学研究の結果から関連性の有無を評価することは不可能である。また、計画設定段階における目的を越えて調査結果を評価することはできない。

(二) 調査対象の選択

疫学調査においては、集団の中で、ある事象が存在する率を評価するものであるから、第一に母集団を明確にする必要がある。そして、母集団の全員を調査対象とした全数調査もあるが、通常は、母集団から一部を抽出した標本調査が行われることが多い。この場合においては、抽出された標本が母集団を代表していることが重要であり、調査者等の偏りが入り込むことを避けることが必要である。

(三) 反応量の把握

大気汚染疫学においては、目標とする疾病の診断基準あるいは健康影響指標の定義及びその測定方法が標準化されている必要がある。

そこで、大気汚染疫学においては、健康障害の頻度を把握するために、英国医学研究協議会が開発した質問票(以下「BMRC質問票」という。)と米国で開発された質問票(以下「ATS―DLD質問票」という。)が使用されている。

(1) BMRC質問票

BMRC方式は、一九六〇年に疫学用に作成され、主としてBMRC質問票に基づき、慢性気管支炎の基本症状である咳・痰の状況、喘鳴・息切れの頻度、呼吸器疾患の既往歴、喫煙歴、職業及び居住歴につき面接者を介して調査し、更に喀痰検査及び肺機能検査を行い、持続性せき・たんの有訴率を調査することにより慢性気管支炎の有症率を把握するものであるが、一九六六年及び一九七六年に改定され、右一九七六年版においては喀痰検査が削除された。

(2) ATS―DLD質問票

BMRC質問票が主として成人の慢性閉塞性肺疾患の頻度を調べるために開発されたものであることから、右質問票を小児に応用することが不適当であると考えられ、我国には小児の呼吸器疾患に関する標準的な質問票がなかったこと、成人のBMRC質問票は調査対象者に面接して質問を行わなければならないために調査の実施に比較的多大な労力と費用を必要としたこと等の事情の下において、昭和五四年三月、富永祐民らは、米国のEpidemiology Standardization Projectにより開発されたATS―DLD質問票に改良を加えた上で日本語版を作成して我国の疫学調査に導入した。右ATS―DLD質問票の特徴は、成人と小児用の質問票が別々に作成されていること、面接質問の外アンケート用にも使用し得ること、追加質問として、家庭暖房の種類、厨房の熱源の種類、小児用では更に保護者の喫煙習慣についての調査項目等が含まれていることなどにある。

(四) 暴露量の把握

従来から行われてきた大気汚染に関する疫学調査においては、概ね環境大気測定局における大気汚染物質の濃度測定結果をもって汚染物質への暴露量の指標としている。ところで、環境大気測定局における測定濃度は、地理的条件、気象的条件及び測定場所の設置状況等の影響を受けることから、右環境大気測定局の測定濃度が調査対象地域に居住する住民の暴露量を代表しているといえるか否かを検討する必要がある。また、大気汚染物質の内特に二酸化窒素については、家庭内のガス暖房器具等の使用により屋内の二酸化窒素濃度が環境大気中の濃度よりも高濃度に上昇する場合があるため、右屋内における暴露量も考慮する必要がある旨の指摘がなされている。

(五) 交絡因子のコントロール

疫学においては、仮説要因として取り上げた要因を独立変数、研究の対象とする疾病を従属変数という。しかし、疾病の発生に影響を及ぼす因子は仮説要因以外にも多くの因子が存在し、ある因子が独立変数と相関関係にあり、且つ、従属変数にも影響を及ぼす場合、右因子を交絡因子という。交絡因子は、大気汚染疫学でいうと、大気汚染とひじょうに密接な動きをし、且つ、当該疾病にも影響を及ぼす因子であるため、これを正確にコントロールする必要があり、したがって、疫学調査においては、交絡因子の有無を詳細に検討し考慮に入れて、コントロールできるものについては十分コントロールして調査を行わなければならない。

3 疫学的因果関係の判断基準

疫学調査の結果を総合的に評価してある因子と疾病の因果関係を判断することになるが、疫学調査結果から因果関係の評価を行う場合の判断基準としては、コッホの三原則、米国公衆衛生局長諮問委員会の五条件、ヒルの九視点などが提案されている。これらの判断基準は基本的には大きく異なるものではないが、右判断基準の内ヒルの九視点は、①強固性(当該因子がどの程度強く作用しているか)、②一致性(誰が、どこで、いつ調査しても同じような結果が得られるか)、③特異性(疾病に必ずある因子が介在しているか〔但し、非特異的疾患の場合、複数の因子が存在するが、当該因子の寄与度という意味である程度の特異性が評価され得る〕)、④時間性(疾病が起こる前に当該因子に暴露されているか)、⑤生物学的勾配(量―反応関係を示し得るか)、⑥妥当性(現在の生物学的な知見で説明できるか)、⑦整合性(調査結果に基づく原因、結果の解釈が自然史及び疾病生物学の一般に知られた事実と著しく矛盾しないか)、⑧実験(実験的又は半実験的証拠が存在するか)、⑨類推(調査結果に対して類似の証拠があるか)である。但し、ヒルの九視点も因果関係の判断のためにはすべての基準を満足しなければならないものではないとされている。

二疫学調査等

1 四日市における調査

(一)(1) 罹患率調査(〈書証番号略〉)

本調査は、昭和三六年から同三九年の間、四日市市内の一三地区において、国民健康保険診療報酬請求書による罹患率の調査を行ったものであるが、右調査結果によると、感冒、気管支喘息、咽喉頭炎(扁頭腺炎・アンギーナを含む。)の気道性三群及び前眼疾患(結膜炎・角膜炎・トラコーマ・眼異物など)で受診率に強い地域差が認められ、これらの疾患の年間累積受診率と降下煤塵総量及び二酸化硫黄との間に極めて高い相関が認められた。

(2) 厚生省による「ばい煙等影響調査」(〈書証番号略〉)

本調査は、厚生省が昭和三九年から同四〇年の間、四日市市及び大阪府において汚染地区と非汚染地区を選定し、調査地区に居住する四〇歳以上の住民を対象として、本調査の企画判定委員会で採用された質問調査票による自記式による調査及び一部の者に対する医学的検査を行ったものである。

なお、調査対象地区における環境測定結果は、降下煤塵については、大阪汚染地区八ないし一三トン/km2/月、同非汚染地区三ないし四トン/km2/月、四日市汚染地区七ないし一八トン/km2/月、同非汚染地区二ないし六四トン/km2/月、浮遊粉塵については、大阪汚染地区487.7μg/m3、同非汚染地区187.5μg/m3、四日市汚染地区260.8ないし399.2μg/m3、同非汚染地区211.4ないし234.2μg/m3、硫黄酸化物については、大阪汚染地区1.05mg/100cm2日、同非汚染地区0.57mg/100cm2/日、四日市汚染地区0.5ないし2.3mg/100cm2/日、同非汚染地区約0.2mg/100cm2/日であった。

右調査結果によると、慢性気管支炎症状群は、性別、年齢階層別、喫煙の有無別に分けて汚染・非汚染地区間の比較をすると、いずれも汚染地区において高い有症率を示し、更に、これらの因子の地区差を除くために、昭和三五年国勢調査による年齢別標準人口構成及び全調査対象者の平均喫煙率等によって地区間の差を補正して有症率を求めると、男女とも非汚染地区に比して汚染地区の有症率が高く、カイ二乗検定により一%以下の危険率で有意の差が認められた。

また、息切れについては汚染地区で高い有症率を示し、喘息様発作の地区別頻度についても明らかに地区差が認められ、汚染地区が高率であった。

(3) 学童検診(〈書証番号略〉)

本調査は、三重県立大学医学部附属産業医学研究所が昭和四〇年に四日市地区で汚染の最も著しい地区の小学校二校(亜硫酸ガス平均濃度0.68ないし0.73mg/100cm2/日、降下煤塵12.9ないし13.5トン/km2/月)、全く汚染されていないと考えられる地区の小学校二校(亜硫酸ガス平均濃度0.05ないし0.07mg/100cm2/日、降下煤塵4.4ないし5.0トン/km2/月)の児童を対象として、質問調査、問診及び呼吸機能検査等を行ったもので、右調査結果によると、汚染校において眼痛、咽頭痛、はきけ、咳、痰を訴える者が増加しており、非汚染校に比して咽頭痛で3.5倍、痰3.2倍、はきけ2.7倍、咳1.9倍、眼痛1.8倍を示し、ボディープレチスモグラフによる気道抵抗の測定では、汚染校の方が気道抵抗が高く、一%の危険率で有意の差が認められた。

(二) 四日市における特殊性(〈書証番号略〉)

右調査においては、二酸化鉛法により硫黄酸化物濃度を測定しているが、右二酸化鉛法では二酸化硫黄とともに硫酸ミストをも捕捉することから、両者を区別することができない。ところで、硫酸ミストの有害性は、労働衛生学上の許容度で二酸化硫黄の二〇倍とみなされ、また、動物の吸入性致死量で一〇五倍、気道抵抗の増大で三七倍ないし一一〇倍と評価されている。そして、燃料中の硫黄は、通常の条件では、硫黄酸化物の九五%以上が二酸化硫黄であり、硫酸ミストは三%ないし五%であるところ、四日市においては、昭和三九年から同四〇年の間の調査で硫酸ミストが二酸化硫黄に対して平均五三%と大幅に高く、これは、濃硫酸ミストを排出する酸化チタン工場による影響が指摘されている。したがって、四日市における右調査による結果については、右事情を考慮して評価する必要がある。

2 ばい煙等影響調査報告(五か年総括)(〈書証番号略〉)

(一) 右報告は、近畿地方大気汚染調査連絡会が成人を対象とした慢性気管支炎住民調査、学童を対象とした肺機能検査等を行い、昭和四四年七月にまとめたものである。

(1) 大気汚染の住民に及ぼす影響

本調査は、昭和三九年から同四四年の間、大阪府下の大気汚染度既知の二五地区において、右地区在住の四〇歳以上の九万五二五三人を対象として、BMRC標準質問票に準拠した質問票による自己記入式の調査及びそのうち主に自覚症状のある者について問診、胸部X線検査及び呼吸機能検査等を実施したものであり、そのうちの一部のグループが担当した地区の対象者二万五二一〇人について慢性気管支炎の有症率を解析した結果は次のとおりである。

なお、解析対象地区の二酸化硫黄濃度は、調査前年度が1.22ないし3.87mg/100cm2/日、調査前三年間の平均値が0.90ないし3.34mg/100cm2/日であった。

① 医学的検査受診者二四〇六人から無作為に抽出した八二九人について、質問票による自覚症状と問診による自覚症状を比較したところ、高い一致率をみた。

② 慢性気管支炎の有症者率は、男女とも、年齢及び喫煙量の増加とともに高率となった。また、慢性気管支炎の地区別の年齢・喫煙量訂正有症者率は亜硫酸ガス濃度の高い地区ほど高率であった。

③ 慢性気管支炎有症者率に対する年齢、喫煙量、大気汚染度の関係を数式化することができ、大気汚染が慢性気管支炎の有症率に相加的な影響を与えていることが明らかにされた。慢性気管支炎の有症率は二酸化鉛法による亜硫酸ガス濃度1.0mgの増加により約二%増加する。なお、本調査で解析の対象とされなかった一地区の調査結果及び解析対象とした地区の内の一地区の本調査後四年目の調査結果が右数式に合致するか否かを検討したところ、ほぼ合致する結果となった。

④ 慢性気管支炎の閉塞性障害者率は年齢、喫煙量とともに高率となった。右障害者率の地区間の比較では著明な差はみられなかった。

⑤ 慢性気管支炎、肺気腫、喘息等非特異性呼吸器疾患患者の症状悪化の頻度は亜硫酸ガス濃度(日最高値及び平均値)の増加とともに高率となった。また、自覚症状の悪化だけではなく、亜硫酸ガス濃度の変動につれて呼吸機能の悪化するもののあることが明らかにされた。

(2) 大阪市内大気汚染の学童の肺機能に及ぼす影響

本調査は、昭和三八年から同四〇年の間、大阪市内の工業地区、商業地区及び住宅地区の小学校学童を対象として肺機能測定を行ったものであり、次のとおり報告されている。

① 年間を通じて概ね2.0mg/100cm2/日以上の二酸化硫黄濃度を示す工業地区においては、年間を通して概ね1.0mg/100cm2/日以下を示す住宅地区に比して寒期に肺機能の低下が認められる。

② 大気汚染の年間平均値に著しい差は認められないが、年間を通じて、0.5ppm以上の二酸化硫黄濃度の汚染ピークがしばしば出現する工業地区と寒期にしばしば0.5ppmに近い汚染ピークが出現し暖期には概ね0.3ppm以下の汚染ピークが認められる商業地区の学童の肺機能を比較した場合、工業地区に低下する者が認められ、この場合その肺機能低下は慢性的傾向を示した。

③ 肺機能低下時には、最大呼気流量と肺活量比の関係から検討して、閉塞性様肺機能低下の傾向を示す異常低下者の出現率が増大する。

④ 最大呼気流量の指標は肺機能測定時の二酸化硫黄濃度と逆相関の傾向を示すが、浮遊粉塵濃度との相関は明らかでない。

⑤ 以上の結果により、大阪市内の大気汚染度ことに二酸化硫黄濃度の著しく増大している工業地区においては、寒期に学童の肺機能が低下し、その影響は急性的な影響のみならず慢性化の傾向を有するものと考える。

(二) 右報告の問題点(〈書証番号略〉、証人行方令)

右報告に対しては、①統計解析に使用しなかった地区についても回収率の高い地区があり、セレクション・バイアスが生じた可能性があること、②対象地区の対象人口に対する調査標本数の割合に幅があり、代表性の度合が地区ごとに異なっていること等の問題点が指摘されている。

3 六都市調査

(一) 環境庁環境保健部による「複合大気汚染健康影響調査」(〈書証番号略〉)

本調査は、環境庁が硫黄酸化物等による複合大気汚染の地域人口集団の健康への影響を把握し、汚染の態様に即応した地域的健康管理体制を確立するなど公害防止行政を推進するための資料を得ることを目的として、昭和四五年度から同四九年度までの間、千葉県の市原市、佐倉市、大阪府の東大阪市、南河内郡太子町及び福岡県の大牟田市、福岡市の六市町において、各調査地区内に三年以上居住している三〇歳以上の女子及び六〇歳以上の男子を対象として、BMRC質問票による呼吸器症状等に関する面接質問調査、呼吸機能検査、喀痰検査、胸部レントゲン検査、一般理学的検査及び尿検査を実施したものであり、その結果を同五二年一月に次のとおり報告している。

なお、調査地区の各汚染物質の濃度は、昭和四五年度ないし同四九年度平均値で、二酸化硫黄0.012ppmないし0.03ppm、二酸化窒素0.013ppmないし0.043ppm(但し、ザルツマン係数0.72)、浮遊粉塵濃度一〇九μg/m3ないし四一五μg/m3であった。

① 大気汚染の程度については、本調査の対象となった六地区間において差があり、五か年間の大気汚染の程度を経年的にみると、硫黄酸化物、浮遊粉塵及び降下煤塵は漸次低下傾向が認められたが、窒素酸化物はこのような傾向は認められなかった。

② 呼吸器症状(せき、たん及び持続性せき・たん)の有症率については、六地区間において差があった。同一の質問票を用いて質問を行った年度の女子についての有症率を経年的にみると、昭和四五年度から同四九年度にかけて低下傾向が認められた。

なお、右呼吸器症状の有症率を喫煙習慣別にみると、男女ともに喫煙者(一日平均一本以上喫煙している者)は非喫煙者の二ないし三倍以上の有症率を示した。

③ 各大気汚染物質の濃度(又は量)と呼吸器症状の有症率の関係を統計学的に分析したところ、一部の例外を除き両者の間には順相関がみられた。これらの相関のうち、いくつかの組合せについては、統計学的に有意であったが、大部分は有意でなかった。

一方、大気汚染と本調査で行った呼吸機能検査の結果との相関については、一部の年度の一部の項目を除いて統計学的に有意な関係はみられなかった。

(二) 「大気汚染と家庭婦人の呼吸器症状及び呼吸機能との関係について」(〈書証番号略〉)

右論文は、国立公衆衛生院次長鈴木武夫らが環境庁による右複合大気汚染健康影響調査のうち女子に関する資料に分析を加え、昭和五三年にまとめたもので、その概要は次のとおりである。

① 持続性せき・たんの有症率と大気汚染との間の単相関係数について昭和四五年度と同四九年度を比較すると、二酸化硫黄、硫黄酸化物、一酸化炭素、浮遊粒子状物質が同四五年度に、一酸化窒素、二酸化窒素、窒素酸化物については同四九年度が大きかった。

大気汚染の指標が調査期間の間に硫黄酸化物、浮遊粒子状物質から窒素酸化物へと変貌していることが人口集団への影響との関係からもみられると解釈した。

② 持続性せき・たんの有症率と大気汚染との関係の有無について、カイ二乗検定を各年度について行ったところ、昭和四七年度は二酸化硫黄、二酸化窒素、窒素酸化物、浮遊粒子状物質及び降下煤塵、同四八年度及び同四九年度は一酸化窒素、二酸化窒素及び窒素酸化物と有症率との関係が統計学的に有意であった。

③ 年間六五〇〇時間以上測定された二酸化窒素及び二酸化硫黄の濃度と、月一回二四時間測定された浮遊粒子状物質の濃度についての年平均値が得られた地区は一一か所であったが、それに対応する成人女性の持続性せき・たんの有症率をそれぞれの濃度について総合して考察すると、二酸化窒素、二酸化硫黄及び浮遊粒子状物質の年間平均濃度がそれぞれ約0.02ppm、0.03ppm及び一五〇μg/m3以下であれば、持続性せき・たんの有症率は二%以下であり、それを越すと有症率は四ないし六%であった。

(三) 右調査及び分析の問題点(〈書証番号略〉)

環境庁による右調査及び鈴木らの分析に対しては、①断面調査として報告されているにも拘わらず、途中で追加された者以外は同一の対象者につき調査を実施していること、②対象者の抽出率にばらつきがあること、③生態学的資料についての回帰分析は少なくとも四〇ないし六〇の資料が必要であるところ、本統計解析においては六地区の生態学的資料について相関及び回帰分析を行っており、回帰分析としての精度が低いこと等の問題点が指摘されている。

4 千葉調査(〈書証番号略〉)

(一) 昭和四六年から同五〇年の間、千葉県下二一地区において、四〇歳以上五九歳以下の男女を対象にBMRC質問票を用いた面接調査等が行われ、千葉大学医学部教授吉田亮らが右調査を基礎に解析したものである。

なお、大気汚染濃度(年平均値)は、二酸化硫黄0.009ppmないし0.042ppm、二酸化窒素0.013ppmないし0.041ppm、一酸化窒素0.005ppmないし0.043ppmであった。

① 持続性せき・たんの性・年齢・喫煙訂正有症率あるいは呼吸器症状指標と二酸化硫黄、一酸化窒素、二酸化窒素、窒素酸化物の年平均値との相関をみると、汚染物質単独においても相関を示したが、重回帰分析を行った結果、更に相関が強まった。

②持続性せき・たん有症率が自然有症率とされている三%以下に維持されるためには、二酸化硫黄及び二酸化窒素が相加的に作用していると考えれば、両者の環境基準がともに達成されることが必要であり、これを年平均値としてみると、たとえば二酸化硫黄0.018ppm以下、二酸化窒素0.009ppm以下という組合せが考えられる。

(二) 吉田らの解析の問題点(〈書証番号略〉)

吉田らの解析に対しては、①BMRC質問票による面接調査において、右質問票の使用指針が遵守されていないこと、②解析の基礎資料とされた大気汚染濃度に関し、硫黄酸化物濃度については、原則として各調査対象区内のほぼ中心にある大気汚染測定局のBMRC調査実施年、その前年、前々年の溶液導電法による硫黄酸化物濃度の年平均値の三年平均値、窒素酸化物濃度については、調査地区内あるいは至近の測定局の右調査年度の年平均値を使用するとされているところ、二酸化硫黄、窒素酸化物濃度の濃度に関する資料のうち過半数が右原則に合致しておらず、右原則に即した濃度資料を用いて統計解析すると、二酸化硫黄及び二酸化窒素において有意の相関関係が存在しなくなること等の問題点が指摘されている。

5 大阪・兵庫調査(〈書証番号略〉)

(一) 本調査は、昭和四六年度以降、大阪府及び兵庫県下七地区に居住する四〇歳以上の全住民を対象に呼吸器に関するアンケート調査を実施し、調査票に咳・痰の症状の記載のあるものを対象としてBMRC標準質問票を用いた面接調査、呼吸機能検査を実施したものである。

宮崎医科大学公衆衛生学教室の常俊義三らは、右調査に基づく慢性気管支炎あるいは慢性気管支炎以外の呼吸器症状の有症率と各地区の大気汚染常時観測局の昭和四七年度ないし同四九年度の二酸化硫黄、二酸化窒素及び浮遊粉塵の各年平均濃度との三年平均値との相関を解析し、同五二年四月に概要次のとおり報告した。

なお、対象地区における大気汚染の推移(年度平均値)は、昭和四七年度において、二酸化硫黄0.024ppmないし0.037ppm、二酸化窒素0.016ppmないし0.09ppm、浮遊粉塵二四μg/m3ないし一六〇μg/m3、同四九年度において、二酸化硫黄0.018ppmないし0.029ppm、二酸化窒素0.019ppmないし0.057ppm、浮遊粉塵四一μg/m3ないし一〇九μg/m3であった。

① 慢性気管支炎有症率と大気汚染指標との関係については、単独汚染指標よりも複合汚染指標の方が慢性気管支炎有症率との間に高い相関があり、とりわけ二酸化硫黄、浮遊粉塵の相加的な汚染指標が慢性気管支炎有症率によく対応することが明らかにされた。

なお、一般的に硫黄酸化物は上部気道に、窒素酸化物は下部気道に影響を与えるとされているが、もし、そうだとすれば、線毛上皮、粘液腺が存在しない下部気道、特にsilent zoneが窒素酸化物の影響を受けたとしても、線毛の退縮、粘液腺の分泌過剰といった病的変化は起こり得ない、すなわち、慢性気管支炎の病像はみられないことになる。そして、重回帰分析の結果、慢性気管支炎有症率に及ぼす窒素酸化物の影響が硫黄酸化物、浮遊粉塵に比べて少ないことが示されたことは、右のように窒素酸化物の影響が下部気道であるとすれば、これを説明し得るものである。

② 地区の慢性気管支炎有症率を推定するには、複合汚染指標を用いた重回帰分析による回帰式を用いるのが最も妥当であると考えられた。

③ 持続性たんの有症率は、他の呼吸器症状に関する有症率よりも各種大気汚染指標との間に相関関係が最も強く対応することが明らかにされた。この結果は、慢性気管支炎の初期の病像が粘液腺の肥大・増生、分泌過剰であり、症状としては痰の喀出であることからすると、進展した他の症状あるいは慢性気管支炎としての病像が完成する以前の変化が大気汚染によって惹起され易いことは生体の防衛機能上当然であり、他の進展した症状の有症率に比べて大気汚染に鋭敏である点も十分に説明し得る。

(二) 常俊らの解析の問題点

常俊らの解析においては、慢性気管支炎症状と昭和四七年度ないし同四九年度の二酸化硫黄、二酸化窒素及び浮遊粉塵の各年平均濃度との三年平均値との相関を解析しているが、一部で健康調査より後の年度の測定値を使用しており、時間の関連性に齟齬が生じている等の問題点がある。

6 岡山調査及び坪田信孝らの解析(〈書証番号略〉、証人坪田信孝)

(一) 岡山調査

本調査は、岡山県が、昭和四九年度及び同五〇年度に岡山県南部一二地区において、三年以上居住している四〇歳以上六〇歳未満の男女を対象として、BMRC質問票に基づいて岡山県が作成した質問票を用いて個別面接方式で実施したものである。

(二) 坪田信孝らの解析

(1) 「岡山県における呼吸器症状に関する疫学的研究(特に持続性せき・たん有症率を中心として)」(以下「第一論文」という。)

右論文は、岡山大学医学部公衆衛生学教室の坪田信孝らが昭和四九年度及び同五〇年度の右岡山調査の結果につき解析したものである。

① 単回帰分析により、窒素酸化物(二酸化窒素濃度、二酸化窒素の日平均値0.02ppm超過率、二酸化窒素+一酸化窒素濃度)及び硫黄酸化物(二酸化硫黄濃度、二酸化硫黄の日平均値0.04ppm超過率)を指標とした大気汚染と持続性せき・たん訂正有症率及び平均呼吸器症状点数(MRSS―A・B。これは米国で用いられている指標でより軽度の症状を考慮したものである。)を指標とした呼吸器症状との間における解析結果において、両者間に関係がないとは言えないとの成績を得た。

② 重回帰分析の変数選択法により、第一位には一八例中一六例で窒素酸化物に関する指標が、二例で硫黄酸化物に関する指標が選択された。第二位には前者の一六例中一〇例で硫黄酸化物に関する指標が、五例で浮遊粒子状物質に関する指標が、一例で光化学オキシダントに関する指標が選択され、後者の二例では窒素酸化物に関する指標が選択された。

また、これらの第二位まで変数を使用した場合の母重相関係数はすべての例(一八例)でゼロとみなされなかった。

③ 以上の一連の成績は、大気汚染と呼吸器症状との間に線型関係があるとの仮説をたて、この仮説が実際のデータより認容できるか否かを検討するために、線型関係は存在しないという帰無仮説を検証し、帰無仮説が棄却された成績である。

このときの線型性仮説の第一種の過誤は五%以下である。したがって、呼吸器症状に与える大気汚染の影響は統計疫学的見地からは否定できないものであると考えられた。

④ 呼吸器症状に大気汚染が寄与しているとの仮説は、その内容を詳細に検討すれば、岡山県における呼吸器症状に対する汚染物質ごとの寄与の程度は、窒素酸化物、硫黄酸化物の順と考えられた。

(2) 「大気汚染と持続性せき・たんの有症率の関係(無作為再抽出によって有症率を訂正しカイ二乗による回帰分析を応用した成績について)」(以下「第二論文」という。)

右論文は、坪田信孝が昭和四九年度及び同五〇年度の前記岡山調査の結果について、大気汚染以外の因子(性・年齢、喫煙歴)の地区ごとの分布に差が有るか否かをカイ二乗検定を行った上、差のある因子と有症率とに関係が有るか否かをカイ二乗検定を行い、その結果、訂正の必要があると考えられた因子につき、従来の加重平均による訂正有症率ではカイ二乗統計量による回帰分析を適用できないので、無作為抽出法によって訂正し、カイ二乗統計量による回帰分析を行ったものである。

① この回帰分析により、一般的な回帰分析に比べてより詳細に大気汚染と有症率との関係を把握することができた。すなわち、岡山県南部地域の地区ごとの有症率には有意な差が認められ、この差を説明する因子として、窒素酸化物、硫黄酸化物を指標とした大気汚染が考えられた。また、これらの指標で表わされる大気汚染の増加に伴って有症率が増加するという傾向は有意であり、かつ直線的なものとみなすことができた。

② 以上の成績は、窒素酸化物、硫黄酸化物を指標とした大気汚染と有症率に関係があると考えられた第一論文の成績と矛盾しないものであった。

(3) 大気汚染と持続性せき・たん有症率の関係(特に低濃度汚染地区を含むデータによる用量―反応関係について)」(以下「第三論文」という。)

本論文は、坪田信孝が大気汚染と持続性せき・たん有症率の関係を用量―反応関係と把握するためには、従来の回帰分析で行われていた直線モデルの仮定より、他の化学物質と同様にS字状の曲線(プロビットモデル)を仮定する方がより論理的であると考え、昭和五二年度に実施した低濃度地区を含む五地区の調査を加えて、従来の解析とともにプロビットモデルを仮定した解析を行ったものである。

① カイ二乗統計量によって検定した結果、地区ごとの有症率には有意の差があり、窒素酸化物(二酸化窒素、二酸化窒素+一酸化窒素)を大気汚染の指標とした場合には、直線モデル・プロビットモデルともに容認され、その際に、大気汚染の増加に伴って有症率が高くなるという傾向は有意であった。したがって、窒素酸化物と有症率の間には他の多くの化学物質と生体反応に認められると同様の用量―反応関係があると考えられた。このときの二酸化窒素濃度は0.006ppmないし0.030ppm(一ないし三か年平均値、ザルツマン法、ザルツマン係数0.72)であった(なお、右0.006ppmないし0.030ppmの数値は、0.006ppmを越すと用量―反応関係が始まるというものではなく、右範囲の濃度の地区を対象として検討した趣旨である。)。

② 硫黄酸化物と有症率の関係は有意であった。しかしながら、この検定の基礎となったモデルは、直線モデル及びプロビットモデルともに適合性が否定された。したがって、硫黄酸化物によって現状の地区ごとの有症率の差を説明することは困難と考えられた。さらに、以上の成績により、有症率の地区差を説明する指標として、窒素酸化物の方が硫黄酸化物より、よりよい指標と考えられた。

(三) 坪田らの解析についての問題点(〈書証番号略〉)

坪田らの解析に対しては、(1)対象母集団の設定に関して、①調査対象地区の地区割りが一部不相当であること、②各地区の抽出率に大きな差異があること、(2)解析に用いられた環境濃度に関し、①一測定局のデータを複数の地区に重複使用していること、②環境濃度データの取り方に均一性がないこと、③回答された症状より後の濃度データを一部使用していること、(3)第二論文における無作為再抽出法は、取り扱う標本数を減少させ、その結果、有症率推定の誤差を広げることになること、(4)第三論文におけるプロビットモデルにつき、集団現象である大気汚染の健康影響、特に非特異的な症状を反応として集めたデータの解析に厳密な条件設定下において成り立つプロビットモデルを適用することは認容し難いこと等の問題点が指摘されている。

7 環境庁環境保健部による「質問票を用いた呼吸器疾患に関する調査」(〈書証番号略〉)

本報告は、環境庁環境保健部が群馬県から宮崎県までの太平洋側を中心とした九都道府県二八地域において、ATS方式に準拠した質問票を用いて、昭和五六年度から同五八年度の間につき小学校に通学する全児童、同五七年度・同五八年度につき同居する成人(父母及び祖父母)を対象とした調査を行い、居住歴六年以上の児童四万三六八二人及び居住歴三年以上の三〇歳ないし四九歳の成人三万三〇九〇人について解析し、その結果を同六一年四月にまとめたものである(以下「環境庁a調査」という。)。

(一) 成人

調査区域における当該年度の一般環境大気測定局の年平均値は、二酸化窒素3.0ppbないし38.0ppb、二酸化硫黄4.0ppbないし13.5ppb、浮遊粉塵20.0μg/m3ないし63.0μg/m3であった。

(1) 持続性せき・たん

持続性せき・たんの年齢・喫煙訂正有症率と大気汚染との相関をみると、当該年度の年平均値の二酸化窒素では男女とも有意な相関はなく、当該年度の年平均値の二酸化硫黄、浮遊粉塵では男女とも有意な相関が認められた。

ただ、大気汚染濃度を過去三年の平均値でみた場合、二酸化窒素においても男で有意な相関が認められている。また、持続性せき・たんの粗有症率を二酸化窒素を指標として一〇ppb間隔の濃度別に集計してみると、男女とも濃度の高い階級ほど有症率が高く、カイ二乗検定の結果、有意であることが認められている。

調査校を都市形態別に人口密度五〇〇〇人km2以上の地域(U・Urban)、一〇〇〇人以上五〇〇〇人/km2未満の地域(S・Suburban)及び一〇〇〇人/km2未満の地域(R・Rural)に分け、持続性せき・たんの有症率を比較すると、Uで最も高く、Rで最も低い値を示したが、年度・性ごとにみると、統計的にも有意な差が認められる場合は少なかった(昭和五八年度の男及び男女計のみで有意であった。)。

また、家族数、部屋密度、室内汚染、既往症、職歴及び喫煙に関する因子と有症率との関連をみたところ、既往症に関する因子については有意な相関が認められ、喫煙に関する因子等については一部に有意な関連がみられたが、室内汚染に関する因子等については有意な関連は殆どみられなかった。

(2) 喘息様症状・現在

喘息様症状・現在の有症率と大気汚染物質との有意な相関は男女とも認められていない。

喘息様症状・現在の有症率を都市形態別に比較すると、Uが最も高く、Rで最も低い値を示したが、年度・性別ごとにみると、昭和五七年度の女及び男女計のみ統計的に有意であった。家族数等に関する因子と有症率との関連は持続性せき・たんの結果とほぼ同様であった。

(二) 児童

調査区域における当該年度の一般環境大気測定局の年平均値は、二酸化窒素3.5ppbないし34.0ppb、二酸化硫黄4.0ppbないし16.0ppb、浮遊粉塵13.0μg/m3ないし69.0μg/m3であった。

喘息様症状・現在の有症率と大気汚染との相関をみると、二酸化窒素では男女とも、二酸化硫黄では女のみ、浮遊粉塵では男のみ有意な相関が認められた。

また、喘息様症状・現在の有症率を二酸化窒素を指標として一〇ppb間隔の濃度別に集計してみると、個々の濃度階級に属する各地域の有症率にはかなりのばらつきがみられるが、男女とも濃度の高い階級ほど有症率が高く、カイ二乗検定の結果、男女とも有意であることが認められている。

持続性ゼロゼロ・たんの有症率と大気汚染との相関をみると、二酸化窒素、浮遊粉塵では男のみ、二酸化硫黄では男女とも有意な相関が認められた。

都市形態別に喘息様症状・現在、持続性ゼロゼロ・たんの有症率を比較すると、いずれもUで最も高く、Rで最も低い値を示し、統計的にも有意の差が認められた。

また、体質、過去の病気、現在の病気、過去の栄養、家族構成、部屋密度、室内汚染、遺伝的要因及び居住環境に関する因子と有症率との関連をみたところ、体質、過去の病気及び現在の病気に関する因子については有意な関連がみられた。そこで、これらの因子によって有症率の都市形態間の差を説明できるか否かをみるため、これらの因子を有している群と有していない群に分けて有症率の都市形態間の差を検討すると、いずれもU、R、Sの順に高くなる関係がみられ、少なくとも他にも有症率の差をもたらしている因子があることを示唆した。但し、この差は年度、性ごとにみると、必ずしも有意なものではなかった。一方、室内汚染に関する因子等については、有症率と有意な関連は殆どみられなかった。

なお、この調査では、一部の小学校について全員を対象にIgEの検査が行われているが、右IgEの分布に学校間の差がみられなかった。

8 環境庁大気保全局による「大気汚染健康影響調査報告書」(〈書証番号略〉)

(一) 本報告は、環境庁大気保全局がATS方式に準拠した質問票を用いて、昭和五五年度から同五九年度の間において北海道から鹿児島県までの日本海側を含む二八都道府県五一地域の小学校(一五〇校)の全児童及び同居の父母・祖父母を対象とした調査を行い、居住歴三年以上の児童九万八六九五人及び成人一六万七一六五人について解析し、その結果を同六一年三月にまとめたものである(以下「環境庁b調査」という。)。

なお、調査地域の一般環境大気測定局の三年平均値は、二酸化窒素五ppbないし四三ppb、二酸化硫黄五ppbないし二四ppb、浮遊粉塵二〇μg/m3ないし九〇μg/m3であった。

(1) 成人

① 持続性せき・たん

持続性せき・たんの年齢訂正有症率と大気汚染との相関をみると、女で二酸化窒素及び二酸化硫黄との間に有意な相関が認められているが、男では有意な相関は認められていない。

また、持続性せき・たんの年齢訂正有症率を二酸化窒素を指標として一〇ppbの濃度別に集計してみると、女では濃度の高い階級ほど有症率が高かったが、男ではそのような結果は得られていない。

② 喘息様症状・現在

喘息様症状・現在の有症率と大気汚染との有意な相関は、二酸化硫黄で女において、浮遊粉塵で男において認められたが、二酸化窒素との間には男女とも認められなかった。

また、五〇歳以上と五〇歳未満とに分けると、女で五〇歳以上でのみ二酸化硫黄との間に、男ではともに浮遊粉塵との間に有意な相関が認められている。

(2) 児童

喘息様症状・現在の有症率と大気汚染との相関をみると、二酸化窒素で男女とも、二酸化硫黄で女のみに有意な相関が認められた。

また、喘息様症状・現在の有症率を二酸化窒素を指標として一〇ppb間隔の濃度別に集計してみると、個々の濃度階級に属する各地域の有症率にはかなりのばらつきがみられるが、男女とも三一ppb以上の地域で三〇ppb以下の地域より有症率が高率であり、カイ二乗検定の結果、有意であることが認められている。

持続性ゼロゼロ・たんの有症率と大気汚染との相関をみると、二酸化窒素、二酸化硫黄で男女とも有意な相関が認められた。持続性ゼロゼロ・たんでは男女とも、喘息様症状・現在では男で、両親の喘息、本人のじんましんの既往等でみたアレルギー素因ありの群は、なしの群に比べ二酸化窒素と二酸化硫黄との相関が有意となる傾向が認められている。

(二) 福富和夫による「学童の呼吸器症状と大気汚染(環境庁大気保全局調査資料についての検討)」(〈書証番号略〉、証人福富和夫)

国立公衆衛生院衛生統計学部衛生統計室長福富和夫らは、環境庁b調査の結果のうち児童の健康影響を取り上げ、右調査において認められた児童の有症率の地域差が大気汚染以外の関連因子の交絡によるものかどうかにつき解析・検討した。

環境庁b調査で対象とされた大気汚染以外の関連因子―家族歴(父母の喘息様症状等)、アレルギー性疾患の既往歴、アレルギー素因(家族歴あり又はアレルギー性疾患の既往歴あり)、既往症、栄養方法、家族の喫煙歴、家屋構造、暖房方法―につき因子の有無別に有症率を検討したところ、家族歴、既往歴、アレルギー素因と既往症の一部について、あり・なし群の間に有意差が認められ、その他の因子については有意差が認められなかった。

次に、有意差が認められた右家族歴、既往歴、アレルギー素因と既往症の一部について、それぞれの因子の有無別に分けて、各地域の有症率と大気汚染との間になお有意な相関が認められるか否かを検討したところ、二酸化窒素との関連につき、喘息様症状・現在につき、家族歴、既往症、アレルギー素因について、男ではいずれも各因子のあり群において、女では家族歴とアレルギー素因のなし群において、なお有意な相関が認められた。

更に、環境庁b調査で対象とされていないその他の因子について既存の知見を踏まえて検討したところ、ハウスダスト・花粉等の特定アレルゲン、気象条件、動物性たんばくの摂取量及び社会経済的因子などにつき、大気汚染と有症率との関連についての交絡因子となり得ないとし、都市化因子につき、前述の因子の中には右都市化因子の中に含まれるものがあり、これらの因子以外に具体的な因子を明らかにした報告はなく、因子としての位置付けは保留されるべきであるとした。

9 石崎達らによる「喘息発作に及ぼす大気汚染の影響」(〈書証番号略〉、証人宮本昭正)

本報告は、東京大学医学部物療内科学教室の石崎達らが、東京都目黒区に所在する病院において、病院内に大気汚染自動記録計を設置して亜硫酸ガスと浮遊粉塵量を測定した上、病院から二km以内に居住する同病院通院のアトピー型喘息患者を対象とした昭和四四年一一月一八日から同四五年二月六日の間の喘息日記により、右患者の喘息発作出現率と大気汚染との関係について比較検討したものである。

これによると、亜硫酸ガス日内変動の最高値が0.02ppm以上の日には発作出現率が高く、浮遊粉塵量が高度(吸光度五〇%以上)になれば発作出現量は更に高くなる傾向が認められた。

10 大気汚染健康影響継続観察調査報告(〈書証番号略〉)

右報告は、環境庁大気保全局が大気汚染健康影響継続観察調査検討会を設置し、二酸化窒素、浮遊粒子状物質を中心とした大気汚染の推移と学童の喘息等呼吸器症状・疾患との関連性を検討し、環境基準の妥当性を科学的に検討することを目的としたものであり、昭和六一年から平成二年の五か年、年一回、同一調査方法を用いて対象者の継続観察調査を行い、また、同一対象者を長期間追跡調査することにより新規発症、喘息様症状の予後についても検討し、同三年一二月にまとめられたものである。

調査方法は、埼玉県朝霞市、京都市、大阪市及び大阪府羽曳野市所在の計八地区の小学校の学童約五〇〇〇人(五年間で延べ二万五七八六人)を対象に、ATS―DLD標準質問票を基に作成された質問票(環境庁改訂版)を用いた質問調査、呼吸機能検査及び血清中の非特異的IgE抗体の測定を行った。大気汚染濃度は、昭和五六年から平成元年の年平均値の平均値(以下「九年間平均値」という。)を用い、調査地区の右九年間平均値は、二酸化窒素については16.1ppbから38.0ppb、浮遊粒子状物質については27.1μg/m3から52.8μg/m3の範囲であった(なお、二酸化硫黄については最も高い地区でも11.2ppbで、いずれも環境基準を満たしていた。)。

(一) 大気汚染状況と喘息様症状有症率について

調査前三年間の二酸化窒素濃度年平均値と調査年毎の喘息様症状有症率との関係では、昭和六三年の女及び男女計、平成元年の女で有意な相関が見られた。しかし、大気汚染状況と喘息様症状有症率の関係を全体的に見ると、有意な相関が見られなかったものの方が多く、大気汚染濃度の九年間平均値と五年間の喘息様症状有症率の平均値についても、二酸化窒素濃度との間に有意な相関は見られなかった。

(二) アレルギー疾患の既往等と喘息様症状との関係

各地区とも喘息様症状の有症率は、アレルギー既往歴がある者はアレルギー既往歴がない者に比べて極めて高く、両者の間には有意差が見られた。

また、アレルギー素因を有すると考えられる非特異的IgE抗体陽性者の分布には、二酸化窒素濃度による地区差が見られなかった。これは、今回の調査及びこれまでの各種調査結果を考え併せると、喘息様症状の発現に大気汚染以外の因子の介在を示唆するものである。

(三) 喘息様症状の新規発症について

調査開始時症状なし群の男及び男女計では、概ね二酸化窒素濃度が高い地区では、喘息様症状の新規発症率が高率になる傾向があり、両者に有意な相関が見られた。

また、男及び男女計では、二酸化窒素濃度の九年間平均値が三〇ppbを超過する地区は、喘息様症状の新規発症率が増加していない地区も見られたが、三〇ppb以下の地区より喘息様症状の新規発症率が高い傾向が見られた。一方、女では二酸化窒素濃度と喘息様症状の新規発症率との間に有意な相関は見られず、また、二酸化窒素濃度の九年間平均値が三〇ppbを超過する地区の喘息様症状新規発症率と三〇ppb以下の地区の喘息様症状新規発症率との間に有意差は見られなかった。

また、全追跡対象者については、男で喘息様症状新規発症率と二酸化窒素濃度及び浮遊粒子状物質濃度との間に有意な相関が見られた。

(四) 喘息様症状群の予後

喘息様症状有症者で発作回数及び症状の程度が軽減した者を「軽快」とし、二年間に発作が起こらなかった者を「寛解」として、軽快率及び寛解率を検討したところ、軽快率及び寛解率とも地区間に差が見られるものの、二酸化窒素濃度が低い地区で高率になる傾向は見られなかった。

11 東京都衛生局による「複合大気汚染に係る健康影響調査総合解析報告書」(〈書証番号略〉)

右報告書は、東京都が東京都複合大気汚染健康影響調査検討委員会を設置し、昭和五三年度から同五九年度のまでの間、窒素酸化物を中心とする複合大気汚染の健康影響を科学的に解明することを目的として、症状調査、疾病調査、閉塞性疾患患者調査、死亡調査及び基礎的実験的研究が行われ、同六一年五月にまとめられたものであり、その概要は次のとおりである。

(一) 幹線道路の健康影響に注目した調査

(1) 昭和五七年一〇月に東京都板橋区・北区両区内の環状七号線及び国道一七号線の周辺地域において、同五八年一〇月に東京都杉並区・練馬区・保谷市・田無市の青梅街道周辺地域において、同五九年一〇月に同五七年の調査対象地域である板橋区と同五八年の調査地域である杉並区において、主として満三年以上居住している四〇歳以上六〇歳未満の女性を対象としてATS―DLD質問票に準拠した質問票を用い、呼吸器の自覚症状に関する質問調査を実施した(なお、症状項目としては、持続性せき、持続性たん、持続性せき・たん、せき・たんの増悪、喘鳴、喘息様発作、息切れ〔重度〕、呼吸器の病気〔ひどい風邪等〕、たんを伴う呼吸器の病気〔ひどい風邪等〕である。)。

ア 昭和五七年調査においては、道路端からの距離によって、〇mから二〇mの地区、二〇mから五〇mの地区、五〇mから一五〇mの地区の三地区に分割して対象者を選び、有症率の比較を行ったところ、二〇mから五〇mの地区では〇mから二〇mの地区と同程度か、もしくはやや高率を示す症状項目があった。

昭和五八年調査においては、道路端からの距離によって、〇mから二〇mの地区と二〇mから一五〇mの地区の二地区に分割して対象者を選んで、有症率の比較を行ったところ、一部の項目を除いて〇mから二〇mの地区において有症率が高くなっていた。

昭和五七年調査と同五八年調査における結果を総合すると、同五七年調査の二〇mから五〇mにおける有症率が高率である点や統計的にみて有意差が認められた症状項目が一部に限られる点など、依然として考慮すべき点が残っているものの、多年度にわたり、複数の地域で一貫した結果が得られたことから考えて、幹線道路からの距離に依存して有症率に差が生じているとみなすのが妥当である。

また、年齢、居住年数、喫煙状況など呼吸器症状に関連するとみられる要因別に検討しても有症率は同様の傾向を示していたことから、得られた有症率の差をそれらの関連要因の差によって説明することは困難である。

昭和五九年に実施した同五七年調査及び同五八年調査と同一対象者に関する調査結果を見ると、第一回目の調査症状のあった者の内第二回目の調査でも引き続き同一症状を訴えた者は約半数であった。

このことは、本調査で取り上げた各症状は個人レベルで見た場合にはある程度変動していることを示すものと考えられる。

イ 一酸化窒素濃度については距離減衰が明らかに認められ、二酸化窒素濃度については一酸化窒素ほどではないが、全般的に距離減衰の傾向が認められた。

また、浮遊粉塵濃度は、特に粒径0.65ミクロン以下の微小粒子側と11.0ミクロン以上の粗大粒子側で距離減衰が認められた。

(2) 幹線道路と居住地の関係に注目した調査として、昭和五七年度から同五九年度の間、東京都杉並区と狛江市において、乳児を対象とした前向き研究と三歳児を対象とした後ろ向き研究を実施した。

その結果は、乳児調査で、幹線道路から五〇m以内は「発熱ありの上気道炎」と「上気道疾患」の罹患率が高い傾向が見られたが、杉並区の男では、幹線道路から五〇m以内よりも「その他」の方が「発熱なしの上気道炎」の平均治療日数が長かった。

また、呼吸器疾患の高頻度罹患者の占める割合において、幹線道路から五〇m以内に多い傾向が見られた(但し、対象者数が少なかった。)。

三歳児を対象とした調査でも、幹線道路から五〇m以内の者が呼吸器疾患の罹患率が高く、罹患回数も多い傾向が見られた。

(3) 幹線道路に注目した調査として、日交通量一万台を越える環状七号線、日光街道、甲州街道、川越街道の主要幹線道路を調査対象とし、道路から二〇〇mまでの地域を二五mごとに八区域に分別して粗死亡率を検証したところ、〇歳、一ないし五歳、四〇ないし六四歳の昭和四八年から同五一年の全病死の粗死亡率は道路の距離に拘わらず、ほぼ一様の死亡率分布を示し、道路に近いほど粗死亡率が高くなるという現象は観察されなかった。

(二) 学童を対象とした疾病調査

東京都中野区、中央区及び青梅市の小学校五年生の学童を対象として、昭和五八年九月から同六〇年一月の間、室内暖房使用期と非使用期に区分し尿中のヒドロキシプリン(HOP)を測定したところ、大気中二酸化窒素濃度の高い中野地区、中央地区に比べ、大気中二酸化窒素濃度の低い青梅地区は、学童の尿中HOP/CRE値が二酸化窒素と同様に有意に低い値を示した(なお、大気中の窒素酸化物は、肺結合組織を損傷して、肺組織中のコラーゲン構成成分であるヒドロキシプロリンの尿中排泄量を増加させるとの報告、更に、この尿中HOP/CREは、家庭内の喫煙者の有無及び暖房用石油ストーブの種類等の影響を受けて変化するとの報告がある。)。

(三) 基礎的実験的研究

(1) ラットに対する二酸化窒素0.3ppm、三か月ないし一八か月間暴露において、限局的で軽微な気管支上皮の肥大傾向や気管支粘膜での突出細胞の減少傾向が三か月及び一八か月で出現した。

(2) ラットに対する二酸化窒素2.0ppm、オゾン0.12ppmの暴露に野外環境への暴露を三〇日間加えた場合において、上皮細胞の肥大性変化、肺胞壁に単核の大型細胞の増加と炎症性細胞の浸潤、膠原線維の増加による肺胞壁の肥厚、肺胞腔内にマクロファージの増加が認められた。

(3) 各種実験的研究と疫学的研究との関連について見ると、二酸化窒素、オゾンが肺胞領域など下部気道のみならず、分泌粘液増加、線毛障害など気管支上皮への作用も認められたことは、咳、痰増加のメカニズムを、免疫低下などとともに結果として大きな意味がある。

12 東京都衛生局による大気汚染保健対策に係る健康影響調査(〈書証番号略〉)

本調査は、東京都が前記複合大気汚染に係る健康影響調査における課題を踏まえ、自動車排出ガスをはじめとした都内の大気汚染についての健康影響を科学的に解明するとともに、健康監視システムの構築等を検討するために、昭和六二年度から平成元年度に亙る大気汚染保健対策を立案し、疫学調査、健康監視モニタリング、基礎実験的研究、健康管理情報の収集及び解析を実施し、その報告を平成三年八月にまとめたものである。

(一) 学童の健康影響調査

本調査は、昭和六二年度から平成元年度の間、一般環境大気測定局における窒素酸化物の過去一〇年間(昭和五〇年度から同五九年度)の累積値を基に、累積値の高い目黒区A小学校及び板橋区B小学校並びに累積値の低い東大和市C小学校を選定し、昭和六二年七月時点で三年生ないし四年生を対象として、ATS―DLD質問票に準拠した呼吸器症状質問票調査、健康についてのアンケート調査、肺機能検査、尿中HOP/CRE測定及び欠席調査を実施した。

右調査結果によると、呼吸器症状調査における小学校別有症率は、男子では有意差が見られないが、女子では東大和市C小学校が全ての症状で低率であり、「喘鳴(grade2)」「喘息様症状(現在+寛解)」及び「喘息様症状(現在)」については、目黒区A小学校が東大和C小学校より有意に高率であった。肺機能については、大気汚染の暴露量が多いと考えられる目黒区A小学校が肺機能値の増加量が最も少ない傾向を示し、東大和市C小学校が最も多い増加量を示した。これらの差は、身長の増加、初回の肺機能値、初回の学年、初回の身長を考慮してもなお見られた。また、尿中HOP/CREは、大気汚染レベルが最も低い東大和市C小学校が最も低い値を示すことが多かったが、大気汚染暴露量が多いと考えられる目黒区A小学校より板橋区B小学校が高値を示した。

(二) 道路沿道の健康影響調査

東京都墨田区の水戸街道、明治通りについて幹線自動車道路端から二〇m以内の地区(以下「墨田沿道」という。)、それに続く二〇mないし一五〇mまでの地区(以下「墨田後背」という。)及び比較的汚染度の低いと考えられる東大和市の一部地域において、三年以上居住している三〇歳以上六〇歳未満の女性及びその子供で一年以上居住している三歳以上六歳未満の小児を対象として、ATS―DLD質問票を用いた呼吸器症状調査等を行うとともに、環境測定並びに墨田沿道約二〇名、墨田後背約二〇名及び東大和一〇名を選び、二酸化窒素フィルターバッジを使用した二酸化窒素の個人暴露濃度測定を実施した。

(1) 環境測定の結果によると、窒素酸化物の濃度勾配(墨田沿道が最も高く、墨田後背、東大和の順に低くなる。)がほぼ一貫して認められ、特に、一酸化窒素はその濃度勾配が顕著であった。

浮遊粒子状物質も同様に濃度勾配が認められた。

個人暴露濃度測定の結果によると、非暖房期では室内濃度に対応して個人暴露濃度に地区間で前記濃度勾配が認められたが、暖房期では室外濃度に対応した濃度勾配は認められなかった。

また、一〇回の測定の内少なくとも四回以上の有効測定値が得られた対象者六三名について、対象者ごとの平均値を求め、その値に基づいて地区別に比較したところ、いずれの測定項目とも墨田沿道、墨田後背、東大和の順に濃度が低下していた。地区間の濃度勾配は室外濃度が最も大きく、室内濃度が最も小さくなっていた。

(2) 呼吸器症状調査の結果によると、成人の地区別有症率は、「持続性せき」「持続性たん」「喘鳴」「息切れ」では三地区間の有症率に墨田沿道、墨田後背、東大和の順に高くなる傾向が認められた。

また、地区間の有症率の右傾向性を見る検定では、交絡因子(年齢、居住歴、職業の有無、喫煙状況、暖房方法、家屋構造)で調整した場合でも、「喘鳴」「息切れ」では有意であり、「持続性たん」では傾向性を示したが有意ではなかった。

小児の地区別有症率は、「持続性ゼロゼロ・たん」のみ三地区間の有症率に墨田沿道、墨田後背、東大和の順に高くなる傾向が認められた。

また、地区間の有症率の傾向性を見る検定では、交絡因子(性、年齢、居住歴、家庭内喫煙状況、暖房方法、家屋構造)で調整した場合でも「持続性ゼロゼロ・たん」については傾向性を示したが有意ではなかった。

13 川崎市における調査

(一) 川崎市における大気汚染と呼吸器疾患調査報告(昭和四四年度調査分)(〈書証番号略〉)

本調査は、「公害にかかわる健康被害の救済措置実施」に先立ち、川崎市医師会が川崎市衛生局より委託を受け、昭和四四年一一月一日から同四五年一〇月三一日までの一年間に亙って実施した調査である。

市内を高度汚染地区(大師・田島)、中等度汚染地区(中央・御幸)及び低汚染地区(中原・高津・稲田)に区分し、合計三八の医療機関から月間外来患者数及び閉塞性呼吸器疾患患者数を提出させ、毎月欠かさずに調査票を提出した二三の医療機関から得られた結果を解析したものである。

その結果は、月別推移では、罹患率と亜硫酸ガスとの直接の相関はみられず、地域別比較では、閉塞性呼吸器疾患四疾病合計及び気管支喘息において大気汚染度に相関が見られたとしている。

しかしながら、本調査については、調査方法として、医療機関を単位として受診患者率を調査しているため、地域代表性につき問題があること、医療機関の記入漏れ月がかなりあったため、当初の計画を変更して国民健康保険請求支払明細書により補正していること、また、結果の解析につき、慢性気管支炎、喘息性気管支炎及び肺気腫の罹患率については年齢による補正を要するので地域別の比較から大気汚染度を解析できないとしながら、同じく年齢の補正を行っていない気管支喘息について比較を行っていること、川崎市以外の他の非汚染地区との比較がなされていないこと等の問題がある。

(二) 「ぜん息日誌」による公害被害認定患者の症状調査及び大気汚染との関連について(昭和四五年度分調査)(〈書証番号略〉)、同(昭和四六年度分調査)(〈書証番号略〉)

本調査は、川崎市医師会が川崎市衛生局の委託を受け、救済法及び同施行令に基づく川崎市内の大気汚染地域のうち、大師・田島地区の健康被害認定患者につき、追跡調査の目的で、昭和四六年二月一日から同年三月三一日までの二か月間において三二七名(昭和四五年度)、昭和四七年二月一日から同年三月三一日までの二か月間において三四七名(昭和四六年度調査)を対象として、「ぜん息日誌」を配布し、毎日の発作や症状の状態を調査し(提出者数は、昭和四五年度が六二例、同四六年度が六七例であった。)、大気汚染及び気象状況と毎日の発作との関連を検討したものである。

その結果は、一日の発作例数と亜硫酸ガス濃度とは、一日ぐらいのずれが認められることがあってもほぼ並行を示すが、浮遊粉塵濃度、気温及び湿度とは全く相関を示さなかったとしてる。

これに対し、バテル人類問題研究センター、保健・人口問題研究センター研究科学者行方令が右調査データに基づき重回帰分析の手法を用いて検討したところ、喘息発作率と二酸化硫黄濃度との間に有意な相関は認められず、逆に、気温の低下との間に有意な相関が認められ、また、浮遊粉塵濃度との間にはプラスの有意な相関とマイナスの有意な相関を示し一貫性のある結果が得られず、湿度との間には有意な相関は認められなかった。ただ、右の解析については、喘息の発作率を四つの時間帯に分けて、発作率の時間帯と同じ時間帯の二酸化硫黄濃度及び浮遊粉塵濃度を対応させているが、発作が起きる時間帯以前の濃度が発作にどの程度影響を与えているかが問題としてある(証人行方令)。

(三) 川崎市における気管支喘息患者実態調査報告

(1) 昭和四七年度調査(〈書証番号略〉)

昭和四七年一〇月一日から同月三〇日までの一か月間、川崎市医師会が同医師会に所属する全医療機関に調査票を配布回収し、調査期間中に受診した気管支喘息患者のうち川崎市に居住するものを対象として調査したものである。

その結果は、硫黄酸化物濃度の高低と患者数の多少とは一致しなかったものの、ほぼ同時期に実施された昭和四七年度の厚生省国民健康調査(調査期間は昭和四七年一一月六日から同月八日までの三日間)と比較すると、川崎全市平均の人口千人当たりの気管支喘息有病率(4.2人)は全国平均(2.2人)の1.9倍、最高の幸区では2.4倍、最低の高津区も1.6倍を示した。

(2) 昭和四八年度調査(〈書証番号略〉)

昭和四八年一〇月一日から同月三一日までの一か月間、川崎市医師会が右昭和四七年度調査と同様の調査を行ったものである。

その結果は、二酸化硫黄濃度の高低と人口千人当たりの気管支喘息有病率の大小とは全く一致しなかったものの、同時期に実施された厚生省国民健康調査と比較すると、川崎全市平均の有病率(4.4人)は、全国平均(1.9人)の2.3倍を示した。

(3) 昭和五四年度調査(〈書証番号略〉)

昭和五四年一〇月一日から同月三一日までの一か月間、川崎市医師会が右昭和四七年度調査と同様の調査を行ったものである。

その結果は、人口千人当たりの気管支喘息有病率と大気汚染物質との相関については単一物質汚染濃度との一致はみられなかったものの、昭和四七年度及び同四八年度の同調査による右有病率とを比較すると、川崎区及び幸区で大幅に高くなっており、また、同五三年度の厚生省国民健康調査と比較すると、川崎全市平均有病率(5.4人)は全国平均(2.1人)の2.5倍を示した。

(4) 昭和五五年度調査(〈書証番号略〉)

昭和五五年度一〇月一日から同月三一日までの一か月間、川崎市医師会が右昭和五四年度調査と同様の調査を行ったものである。

その結果は、川崎市全市の人口千人当たりの気管支喘息有病率は昭和四七年度の同調査以降漸増傾向にあり、また、同五五年度の厚生省国民健康調査と比較すると、川崎全市平均の右有病率(6.2人)は、全国平均(1.9人)の3.3倍を示した。

(5) 本調査は、市内の医療機関を対象として行った受療率調査であって、真の有病率を把握するものでないとともに、対象調査期間が長くなればなるほど受療率は高くなると推認されるところ、厚生省による国民健康調査の対象調査期間が三日間であるのに対し、本調査の対象調査期間は一か月間の調査であることから、両調査結果を比較すること自体に問題がある。

(四) 川崎市における閉塞性呼吸器疾患実態調査報告(昭和四九年度)(〈書証番号略〉)

本調査は、川崎市医師会が川崎市の委託を受け、昭和四九年九月一日から同年一〇月三一日までの二か月間において、同医師会に所属する全医療機関から抽出した二三五機関に日誌形式による調査票を送付して、右医療機関に受診した指定四疾病及びその続発症並びに併発症の患者につき、その間の症状及び受療状況を記入させ、その結果を集計し検討を加えたものである。

その結果は、気管支喘息の頻発患者(二か月間に五〇日以上)に関する限り、量(居住期間)と反応(発作)との関係が成立し、大気汚染の関連では、発作の少なかった日には汚染物質(二酸化硫黄、オキシダント、一酸化窒素、二酸化窒素)は低値で空気がきれいであったが、逆に汚染物質の高値と発作数には相関が見られなかったとした。

但し、本調査結果は、統計分析が全く行われておらず、また、調査期間中に二〇日以上の発作があった患者が汚染が少ないはずの多摩区において最も多くなっていることにつき合理的な説明がなされていない点に問題がある。

(五) 川崎市における小児・喘息並びに喘息様疾患調査報告

(1) 昭和五〇年度分(〈書証番号略〉)

本調査は、川崎市医師会が川崎市の委託を受け、同医師会に所属する小児喘息等を取り扱う可能性があると推定される医療機関に対し、昭和五一年二月一日から同月二九日までの一か月間において受診した一歳以上五歳以下の小児で診断名が気管支喘息あるいは喘鳴を伴う中・下部気道疾患のいずれかである者につき調査票に記入させる方法により行われたものである。

その結果は、公費負担及び公害病認定制度の適用を受けている小児と受けていない小児の比率から見ると、喘息においては全市で公害病被認定児の五ないし六倍、喘息性気管支炎においては二〇倍存在するものと推定し、また、大気汚染公害が従来の沈降煤塵あるいは二酸化硫黄主体の古典的なものから、ここ数年、窒素酸化物、浮遊粉塵(重金属等)をも含めた新しい公害へと移行しつつあるとした。

(2) 昭和五一年度調査(〈書証番号略〉)

本調査は、川崎市医師会が昭和五一年一〇月一日から同月三一日までの一か月間において右昭和五〇年度調査と同様の方法により調査したものである(但し、本調査は七歳未満の小児を対象とした)。

その結果は、川崎市各区相互間の比較において、気管支喘息罹患数と喘息性気管支炎罹患数との和の人口千人当たりの有症率と二酸化硫黄及び二酸化窒素を指標とする大気汚染状況が一致していると認めざるを得ないとした。

(3) 昭和五二年度調査(〈書証番号略〉)

本調査は、川崎市医師会が昭和五二年一〇月一日から同月三一日までの一か月間において右昭和五〇年度調査と同様の方法により調査したものである(但し、本調査は、七歳未満の小児を対象とし、調査項目として交通環境及び疾患の症状を追加した)。

その結果、大気汚染との関連につき、幼児・小児の喘息及び喘息様疾患に対し、硫黄酸化物単独にかわり窒素酸化物を含めた複合汚染の面から対処すべきであるとし、交通環境と小児喘息の有症率との間には相関関係を見出せなかったものの、交通環境の似かよった川崎区及び幸区での症状発現率が極めて類似していること等から小児喘息の症状、特に呼吸器症状と交通環境は何らかの相関があると推定した。

(4) 但し、本調査はいずれも受療率調査であることから、受療機会が均一であるとの担保がなされていないとともに、昭和五一年度分調査結果における区相互間の比較についても、川崎地区においては二酸化硫黄の濃度が他地区に比べてかなり高いにも拘わらず、川崎地区と高津区の気管支喘息及び喘息性気管支炎の有症率をみると殆ど差異がないことも見受けられ、また、複合汚染との指摘についても科学的な根拠が示されていない。

(六)(1) 川崎市大師・田島地区における呼吸器症状有症率について(〈書証番号略〉)

本調査は、川崎市大師地区及び田島地区に居住する住民について、昭和四四年七月一七日から同年八月一一日までの延べ一〇日間において、面接調査の方式により呼吸器症状の有症状況を調査把握し、公害にかかる健康被害の救済措置実施のための基礎資料を入手することを目的に、厚生省が川崎市に委託したもので、調査対象者を調査地域内の世帯で現に公務員がいる世帯の四〇歳以上の男女とし、調査項目はBMRCの呼吸器症状に関する質問票を参考として作成した呼吸器症状に関する質問調査及び簡易肺機能検査をも併せて実施したものである。

右調査結果によると、両地区全体の「持続性せき・たん」の有症率は男7.1%、女2.1%であり、また、右調査においては、大気汚染非汚染地域である茨城県鹿島地区の住民についての報告と比較し、川崎の場合は、鹿島地区に比して「最近の呼吸器疾患」を除いて総体的に有意に高率を示しているとした。

(2) 川崎市中央地区における呼吸器症状有症率について(〈書証番号略〉)

本調査は、川崎市独自の認定地域としていた東海道線以東の川崎区中央保健所管内に居住する住民につき、昭和四六年一〇月九日から同月二六日までの延べ四日間において、面接調査の方式により呼吸器症状の有症状況を調査把握し、救済法の認定地域に指定されるための基礎資料を入手することを目的に、環境庁が川崎市に委託したもので、調査対象者を無作為抽出した調査地域内に三年以上居住する四〇歳以上の男女四〇〇人とし、調査項目はBMRCの呼吸器症状に関する質問票を参考として作成した呼吸器症状に関する質問調査及び肺機能検査を中心として実施したものである。

右調査結果によると、「持続性せき・たん」は男11.4%、女5.1%であり、昭和四四年実施の大師・田島両地区の調査結果と比較し、いずれの症状においても男女ともに中央地区の方が高率を示しているとした。

(3) 昭和四八年度公害健康被害補償法地域指定等基礎調査(呼吸器疾患問診調査)(〈書証番号略〉)

本調査は、幸保健所管内旧御幸地区とこれに隣接する日吉地区に居住する住民について、昭和四九年二月八日から同月二四日までの延べ七日間において、呼吸器症の有症状況を調査把握し、公健法施行に伴う地域指定のための基礎資料とすることを目的に、環境庁が川崎市に委託したもので、調査対象者を無作為に抽出した調査地域内に三年以上居住する四〇歳以上六〇未満の男女各地区四〇〇人とし、調査項目はBMRCの呼吸器疾患に関する面接質問票に基づき環境庁で作成された質問票を用いた問診及び肺機能検査を実施したものである。

右調査結果によると、「持続性せき・たん」は、旧御幸地区において、男14.8%、女3.5%、日吉地区において、五〇歳台につき男5.6%、女10.0%であり、本調査結果を昭和四四年に実施した田島・大師地区、同四六年に調査した川崎区の中央地区と比較して、昭和四四年度調査より同四六年度調査の有症率が高く、本調査では有症率が更に高くなっているとした。

(4) 右各調査(特に、昭和四六年度調査及び同四八年度調査)においては、調査実施時に地域指定のための調査であることが調査地域の住民に周知となっていたため、レスポンス・バイアスが生じた可能性があること、昭和四四年度調査においては、対象者を公務員及びその家族としているため、対象地域住民を代表しているといえるかとの問題が存し、また、右調査結果においては、鹿島地区における調査結果との比較をしているところ、右代表制の問題とともに他の因子を考慮することなく単純に比較することが可能であるか問題のあること、昭和四六年度調査及び同四八年度調査においては、母集団からの対象者の抽出率が低いこと、更に、「持続性せき・たん」有症率と各年度の二酸化硫黄、二酸化窒素及び浮遊粉塵の各濃度を対照すると、必ずしも相関関係が認められないこと等の問題点が存在する。

(七) 川崎市の呼吸器等に関する住民健康調査(〈書証番号略〉)

本調査は、川崎市が、衛生行政上公害病患者のみならず、市民全体の健康管理の立場から指定地域に限らず市内全域にわたり市民の健康状態を調査することを目的として、昭和四七年四月一日から同五二年三月三一日までの五年に亙って、無作為抽出した川崎市に居住する三五歳以上の住民を対象とし、BMRCを準用したアンケート調査及び回答者で一定の項目に該当した者にたいする健康調査を実施したものである。

右調査結果としては、①地区別並びに指定地域及び非指定地域別に分けて検討したところ、川崎区及び幸区の有症率が有意に高かったこと(なお、既往症では、慢性気管支炎につき、川崎区4.6%、幸区(旧御幸)4.0%、幸(日吉)・中原・高津・多摩区(以下「その他の地域」という。)3.1%、気管支喘息につき、川崎区4.1%、幸区(旧御幸)3.8%、その他の地域2.8%であった。)、②居住環境別にみると、各地区とも交通の激しい所に居住すると答えた人は激しくない所に居住すると答えた人に比較し全項目にわたり有症率が高かったこと、③居住年数別には三年以上と三年未満の居住者とでは、各地区とも三年以上の居住者が全般的に訴えが高率であり、五年以上と五年未満の居住者とでは、川崎区において五年以上が明らかに高率であったのに対し、他の地区では全般的にあまり差がみられなかったこと等を挙げている。

但し、右調査には、①調査目的から明らかなように大気汚染との関連性を検討しようというものではないこと、②慢性気管支炎の既往症が前記のとおりであって地区間にそれほどの差がないのに対し、『痰が二年以上、咳が一か月以上』の有症率が、男子につき、川崎区6.0%、幸区(旧御幸)6.1%、その他の地域1.4%、女子につき、川崎区3.0%、幸区(旧御幸)2.4%、その他の地域0.6%で大きな開きがあること(〈書証番号略〉、一〇頁表3―2)からすると、レスポンス・バイアスが生じた可能性があること等の問題がある。

14 個人暴露濃度測定(室内汚染)に関する研究

(一) 長谷川利雄らによる「住居内の空気汚染に関する研究」(〈書証番号略〉)

本研究は、財団法人関西産業公害防止センターの長谷川利雄らが一般家庭の日常生活における室内汚染の実態を把握することを目的として、昭和五一年三月二九日から同月三一月までの三日間、西宮市の鉄筋四階建の一般住宅を調査対象として、各種燃焼器具等を使用してザルツマン法により二酸化窒素濃度を測定し、その結果をまとめたもので、右論文によると、①対流型石油ストーブによる室内(和室六畳間)汚染について、第一日目と第二日目の暖房中の二酸化窒素の平均濃度はそれぞれ0.719ppm、0.664ppmと高濃度で、夜間を含む日平均値でもそれぞれ0.463ppmと0.422ppmであり、当日の屋外濃度が0.060ppmと0.052ppmであったから、対流型石油ストーブの使用により暖房時0.6ppm以上、夜間を含めても0.36ppm以上の二酸化窒素濃度が室内で発生したことになり、暖房器具による室内汚染が著しいことを示した、②各種暖房器具等の二酸化窒素の発生量を比較すると、対流型石油ストーブ六四ml/h、反射型石油ストーブ一六ml/h、ガスストーブ4.2ml/h、ガスコンロ六八ml/hで、ストーブの型式等により二酸化窒素の発生量が異なっていた、③かなり通気性のよい台所でガスコンロを使用した場合、二酸化窒素が最高0.3ppmに達した、④和室六畳間での暖房の影響の入らない条件下でセブンスターを一時間に一四本吸った場合、二酸化窒素濃度はストーブによる暖房時の濃度よりかなり低い値であったが、窒素酸化物中の一酸化窒素の割合が大きく、また、浮遊粉塵濃度は著しく高く、最大目盛り一〇mg/m3を軽くスケールアウトして測定不可能になった。

(二) 伊藤道生らによる「空気汚染による人体の窒素酸化物暴露量に関する研究報告書」(〈書証番号略〉)

右研究は、昭和五二年度環境庁公害防止等調査研究委託により千葉県公害研究所大気第二研究室長伊藤道生らが、主婦の日常生活を念頭に、空気汚染による主婦の窒素酸化物を濃度的、時間的及び量的に可能な限り把握し、大気汚染レベルとの比較及び大気汚染の影響への寄与程度等を考察することを目的として、同五二年一〇月から同五三年二月までの間、東京、千葉、川崎及び大阪の家屋各二戸における台所及びそれに隣接する居間の窒素酸化物濃度の調査並びに多摩ニュータウン貝取団地の住居におけるモデル実験を行ったものである。

右研究結果によると、①室内における二酸化窒素濃度については、非暖房期における二酸化窒素の平均濃度は台所27.2ppb、居間13.3ppbで、いずれも右測定時に対応する環境濃度33.8ppbないし35.9ppbより低い値を示したのに対し、暖房期における二酸化窒素の平均濃度は台所及び居間とも72.6ppbで、右測定値に対応する環境濃度42.6ppbないし42.9ppbと比較すると高い値を示した、②瞬間湯沸器を三〇分程度使用した場合、台所の気密度及び換気扇の使用状況等によって窒素酸化物濃度にかなりの差が生じた、③暖房器具の種類により二酸化窒素の上昇濃度が異なった(例えば、反射型ガスストーブは、対流型ストーブと同一発熱量であるにも拘わらず、二酸化窒素の上昇濃度は対流型の約二分の一に過ぎなかった。)、④居間を締め切った状態で、喫煙者四人が各自約一時間に四本の煙草を吸った場合、窒素酸化物上昇濃度は一酸化窒素が二六〇ppb、二酸化窒素が二七ppbで、二酸化窒素は一酸化窒素の約一〇分の一であった。

(三) 松下秀鶴らの「二酸化窒素被曝量に及ぼす各種生活空間の影響」(〈書証番号略〉、証人前田和甫)

本研究は、国立公衆衛生院の松下秀鶴らが二酸化窒素への個人被暴量に及ぼす各生活空間の寄与の検討を目的として、昭和五八年二月(冬期)、五月(春期)、八月(夏期)及び一〇月(秋期)において、東京都及びその近県に居住する一般事務職等の勤労者及び主婦約四〇人を対象とし、二酸化窒素フィルターバッジを使用して二酸化窒素の個人暴露量、各人の自宅室内、自宅屋外、台所(主婦のみ)、職場室内及び職場屋外の二酸化窒素濃度の各測定調査並びに対象者の生活行動調査を行ったもので、その結果は次のとおり報告されている。

(1) 二酸化窒素の個人暴露濃度については、冬期がその他の季節と著しく異なり、一三ppbないし一三二ppbと大きな変動を示すとともに、平均暴露濃度も37.7ppbで、その他の季節の平均暴露濃度より二倍以上高いことが認められた。このように冬期において個人暴露濃度が高いのは、暖房の影響と冬期の室内換気率が一般に低いためと考えられる。

(2) 冬期における自宅での暖房の種類別に二酸化窒素の自宅室内濃度と個人暴露濃度を調査したところ、自宅室内の二酸化窒素濃度の平均値は、石油ストーブ使用者群で64.0ppb、ガスストーブ使用者群で39.6ppb、電気ストーブ使用者群で25.8ppb、暖房器具未使用者群で14.5ppbとなり、暖房が二酸化窒素の室内濃度に大きく影響していることを示し、また、個人暴露濃度の平均値は、石油ストーブ使用者群で43.6ppb、ガスストーブ使用者群で33.4ppb、暖房器具未使用者群で18.0ppbとなり、個人暴露に対する室内汚染の影響を強く示唆している。

(3) 喫煙者と非喫煙者の二酸化窒素個人暴露濃度の平均値には殆ど差はみられず、二酸化窒素の個人暴露濃度に対する煙草副流煙の影響は認められなかった。

(4) 対象者中同一家庭居住の男女の暴露濃度は高い相関を示した。このことは、男女とも二酸化窒素の個人暴露量に家庭内の二酸化窒素濃度が大きく関与していることを示唆している。

(5) 室内と屋外の二酸化窒素濃度の関係につき、冬期の室内濃度(平均値47.6ppb)は、屋外濃度(平均値21.0ppb)よりかなり高く、標準偏差も屋外濃度のそれより大きくなっており、両濃度の間には相関関係は認められなかった。一方、夏期の室内濃度(平均値14.7ppb)は、屋外濃度(平均値19.1ppb)より低く、それらの標準偏差は室内で3.7ppb、屋外で4.5ppbと小さく、且つ類似していることが認められた。また、春期及び秋期の室内濃度は、冬期と夏期の間に位置し、標準偏差も12.2ppbないし13.5ppbと夏期の値より大きく、冬期のそれより小さかった。

このことから、春期及び秋期の室内濃度に対しては室内汚染源の影響が時として大きく認められる場合もあるが、全体としてはそれほど大きくはなく、室内濃度と屋外濃度はほぼ同等となるものと推定された。

(6) 生活行動時間については、通年平均で、勤労者は一日のうち21.1時間、家庭婦人は21.9時間も室内で生活しており、準室内空間と考えられる乗物内での滞在時間をも含めると、勤労者で22.9時間、家庭婦人で22.3時間となり、一日の殆ど大部分を室内で生活していることを示唆している。

これは、空気汚染の生体影響を詳細に調べるためには、室内空間における汚染状態を的確に把握することを示唆し、また、滞在時間から考えて、各種室内のうち特に自宅と職場の室内汚染状態の把握が必要である。

(7) 各季節の個人二酸化窒素暴露量と自宅室内暴露量、自宅屋外暴露量、職場室内暴露量、職場屋外暴露量及び台所内暴露量(女性のみ)との相関をみたところ、各季節に亙って個人暴露量と統計的に有意な相関を示したものは、自宅室内暴露量であり、春期には職場の室内及び台所内暴露量との間にも有意な相関が認められた。

また、一つの例外を除き、屋外環境での二酸化窒素暴露量と個人暴露量との間には相関性を認めなかった。

(四) 前田和甫らによる「二酸化窒素の個人暴露濃度に関する研究」(〈書証番号略〉、証人前田和甫)

東京大学医学部保健学科疫学教室の前田和甫らは、疫学調査における固定測定局の汚染物質濃度の暴露量代表値としての特性が主要な大気汚染物質の中では特に不明な点が多い二酸化窒素について個人暴露濃度に関する各種の研究を行い、次のとおり報告している。

(1) 実験室内におけるモデル実験

実験室内において、暖房への切替え時期に当たる昭和五三年一一月二六日から同年一二月二〇日までの二〇日間、ガスコンロ及び開放型ガスストーブを使用して、化学発光法窒素酸化物自動測定器により二酸化窒素の個人暴露濃度等を測定した(ガスコンロの使用時間は一日平均約五〇分、窓の開放時間は約四四分、在室時間は約二三時間二〇分、開放型ガスストーブの使用時間は使用した日のみの平均が約九五分であった。)。

その結果によると、二〇日間の二酸化窒素個人暴露濃度の平均は45.6ppb、開放型ガスストーブを使用した日の平均は50.9ppb、使用しない日の平均は35.9ppbであり、二〇日間の実験室内の二酸化窒素濃度の平均につき、燃焼器具を使用していない時は三六ppb、ガスコンロ使用時は一三二ppb、ガスストーブ使用時は一九〇ppbとなり、ガスストーブの使用時間と二酸化窒素個人暴露濃度との間には統計的に高い相関が認められた。

(2) 幹線自動車道沿道婦人断面調査

東京都板橋区、練馬区及び中野区の環状七号線沿道と八王子市の国道一六号線及び国道二〇号線沿道に居住する四〇歳から六〇歳までの女性一九三人を対象として、昭和五四年一一月二七日午後九時から翌二八日午後九時までの間、二酸化窒素フィルターバッジを使用して二酸化窒素個人暴露濃度を測定した。

その結果によると、開放型ストーブ使用の有無別に個人暴露濃度を比較すると、使用群と非使用群の平均値の差は一一ppbであり、統計的に有意差が認められ、また、個人暴露濃度と開放型ストーブ使用時間との間は統計的に有意であった。

(3) 主婦を対象とした断面調査

昭和五四年一二月一〇日と同月一三日に東京都板橋区及び大田区在住の主婦二〇人を対象として、同五五年七月一七日に大田区在住の主婦一八人を対象として、二酸化窒素フィルターバッジを使用して、二酸化窒素の個人暴露濃度、室内濃度(居間)及び室外濃度(ベランダあるいは玄関先)を測定した。

その結果の分析によると、①暖房期において、開放型ストーブの使用により二酸化窒素の個人暴露濃度の上昇が認められたが、厨房での燃焼器具の使用による二酸化窒素の個人暴露濃度の増大は必ずしも明らかではなかった、②二酸化窒素の個人暴露濃度を規定する要因としては二酸化窒素の室内濃度の寄与が最も高かった、③室内濃度を規定する要因は、冬期と夏期では異なり、冬期では開放型ストーブの使用による室内汚染の影響が大きく、夏期では外気の影響が大きかった。

(4) オフィス勤務者調査

昭和五五年九月二四日又は翌二五日に東京都港区所在のビル内のオフィスに勤務する男女五九名を対象として(以下「秋期調査」という。)、同五六年一月一三日又は翌一四日に同様の男女五五人を対象として(以下「冬期調査」という。)、二酸化窒素フィルターバッジを使用して、二酸化窒素の個人暴露濃度、自宅室内濃度、自宅室外濃度、会社の室内濃度及び会社の室外濃度を測定した。

その結果の分析によると、①秋期調査の結果では、会社室外濃度が最も高く、次いで自宅室外濃度、個人暴露濃度の順で、自宅室内濃度と会社室内濃度はほぼ同じ値で低くなっており、冬期調査の結果では、自宅室内濃度が最も高く、次いで個人暴露濃度と会社室外濃度がほぼ等しく、以下自宅室外濃度、会社室内濃度の順となり、②冬期における自宅での暖房状況別に二酸化窒素個人暴露濃度と自宅室内濃度をみると、開放型ストーブ使用群では他の群に比べて平均値が非常に高く、③冬期調査における個人暴露濃度と自宅室内濃度の間の相関係数は0.806でかなり大きくなっていた。

(5) 主婦長期調査

東京都杉並区に居住する主婦一名を対象とし、昭和五五年六月から同五六年八月まで六日ごとに二酸化窒素フィルターバッジを使用して、二酸化窒素の個人暴露濃度、自宅室内濃度(居間)及び自宅室外濃度(玄関先)を測定した(開放型ストーブの使用)。

その結果の分析によると、①ストーブ使用期では個人暴露濃度と自宅室内濃度が上昇しており、非使用期では自宅室外濃度が個人暴露濃度及び自宅室内濃度に比べて殆どの場合高くなっていることが認められ、②調査期間全体の資料についての相関係数をみると、個人暴露濃度と自宅室内濃度の相関係数が非常に高く(相関係数0.814)、ストーブ非使用期においては、個人暴露濃度と自宅室内濃度及び個人暴露濃度と自宅室外濃度が高い相関を示し、ストーブ使用期では、個人暴露濃度と自宅室内濃度の相関係数は非常に高いが、個人暴露濃度と自宅室外濃度の相関はゼロに近かった。

15 フェリスの疫学調査等

(一) ハーバード六都市調査

(1) ステューベンビルにおける研究(〈書証番号略〉)

フェリスらが行ったハーバード六都市調査の対象地区の内大気汚染濃度の最も高かったステューベンビルにおける児童の肺機能と大気汚染物質濃度との関連の調査によると、TSP(全浮遊粒子状物質)二四時間平均最大値三一二μg/m3ないし四二二μg/m3の共存下で二酸化硫黄二四時間平均値四五五μg/m3(0.18ppm)の場合に肺機能の低下がみられた。

ただ、右肺機能の低下は、二〇mlないし四〇ml程度で非常に小さく可逆的変化の範囲であり、右低下が引き続いて不可逆的変化を起こし得るか、その後の侵襲に対して肺の感受性をより高める可能性があるか否かについては確認されていないとした。

なお、右調査の結論としては、TSPと二酸化硫黄の二四時間平均濃度が約〇μg/m3と二七五μg/m3(0.01ppm)の間で上昇するに伴って肺機能の低下が統計的に有意であるともしている。

(2) キャロンドレットにおける調査(〈書証番号略〉)

フェリスらが行ったハーバード六都市調査の対象地区であるセントルイスのキャロンドレットにおいて、一九七六年(昭和五一年)の二酸化硫黄濃度年平均値が一八四μg/m3(0.07ppm)であったが、一九七七年(昭和五二年)に右二酸化硫黄濃度が88.2μg/m3(0.03ppm)へと低下したにも拘わらず、呼吸器症状有症率の変化が認められず、換言すれば、二酸化硫黄一八四μg/m3程度の濃度以下では二酸化硫黄と呼吸器症状の間の有意な相関が認められなかった。

ただ、キャロンドレットにおける一九七五年(昭和五〇年)の二酸化硫黄濃度年平均値は89.6μg/m3(0.03ppm)であって一九七六年(昭和五一年)に比較して低いことからすると、右の一九七六年(昭和五一年)から一九七七年(昭和五二年)における二酸化硫黄濃度の低下のみから右結論を導くことができるかどうか問題のあるところである。

(二) とうもろこし精製所労働者における二酸化硫黄の呼吸器への影響(〈書証番号略〉、証人フェリス)

五か所のとうもろこし製精所の労働者を対象として質問票を使用した調査によると、二酸化硫黄三ppm以下では咳・痰の呼吸器症状に何ら影響はなく、二酸化硫黄3ppmないし3.5ppmを超えると咳・痰の呼吸器症状の有症率が増加し、また、二酸化硫黄0.5ppmから2ppmにかけては三年以上続く喘鳴の増加がみられたが、二ppmを超えた濃度では濃度に関係なく右喘鳴の有症率はほぼ一定であった。

また、右調査において、二酸化硫黄の累積暴露と現在の二酸化硫黄の暴露の影響について考察したところ、二酸化硫黄の累積暴露よりも現在の二酸化硫黄の暴露の方が、暴露労働者における症状の増加に関連しているとした。

しかしながら、右のような職業上の暴露の健康に対する影響については、職業暴露が環境大気で経験するよりもずっと高い濃度であること、職業暴露の対象者は健康な成人であり、ある意味で二酸化硫黄等に対し影響を受け難いためにその職業を続けている者で一般大衆の中で老人あるいは喘息患者等の特に危険の高い集団を除外していること、更に職業暴露が一日八時間週四〇時間程度の間歇的暴露であることを考慮すると、右調査結果を本件のような大気汚染による暴露の問題に適応できるかは問題のあるところである。

三動物実験及び人体負荷実験

1 動物実験(〈書証番号略〉)

(一) 二酸化硫黄

(1) 肺形態学的影響

① サルに対する二酸化硫黄0.14ppm、0.64ppm、1.28ppm、5.12ppmの七八週間暴露において、また、イヌに対する二酸化硫黄5.1ppmの六二〇日間暴露において、少なくとも光顕的には暴露によるような異常は見出されていない。

② ラットに対する二酸化硫黄四〇〇ppmの六週間(三時間/日、五日間/週)暴露において、杯細胞の変化(特に中心部気道における数や大きさの増大や有糸分裂像)が顕著であった。

(2) 肺生理学的影響

① サルに対する二酸化硫黄0.14ppm、0.64ppm、1.28ppm及び5.12ppmの七八週間暴露においては、肺機能(換気力学、換気分布、肺一酸化炭素拡散能、動脈血ガス分圧)に異常は認められていない。

② イヌに対する二酸化硫黄5.1ppmの二二五日間暴露においては肺気流抵抗の上昇と動肺コンプライアンスの低下が、また、六二〇日間暴露においては呼気分布の異常が認められている。

(3) 気道感染抵抗性に関する影響

① ラットに対する二酸化硫黄一〇ppmの二〇日間暴露(六時間/日)においては大腸菌エーロゾル吸入時の肺内殺菌能に変化はない。

② マウスに対する二酸化硫黄五ppmの一か月間〜三か月間連続暴露においては化膿性連鎖球菌による死亡率に有意の変化は認められていない。

③ インフルエンザウイルスに感染させたマウスを二酸化硫黄に七日間暴露したとき、七ppm〜一〇ppmにおいてその肺炎の程度は増強する。

④ ラットに対する二酸化硫黄一ppmの二五日間間欠暴露(七時間/日)において肺クリアランスを遅延させ、イヌに対する二酸化硫黄一ppm一年間間欠暴露(1.5時間/日・五日間)において気道粘液流速を遅延させた。

(4) 気道反応性に対する影響

イヌに対する二酸化硫黄一ppm、二ppm、五ppm及び一〇ppmの一時間暴露において、アセチルコリン反応性を上昇させ、最大効果は二ppm暴露時であり、一〇ppm暴露の効果は最小であった。

(二) 二酸化窒素

(1) 肺形態学的影響

① ラットに対する二酸化窒素4.0ppm、0.4ppm、0.04ppmの九か月、一八か月及び二七か月間暴露において、光顕的に、二酸化窒素4.0ppm暴露群については、九か月目に定型的な形態学的変化、すなわち、気管支上皮の肥大と過形成、杯細胞の増加、線毛上皮の異形成及び気管支肺接合部から肺胞道へかけての細胞浸潤を伴う壁肥厚とクララ細胞の増殖が明らかに認められ、これらは一八か月目に更に進行し、これに加え肺胞道近接肺胞に軽度の壁肥厚と局所的増殖が認められるようになり、二七か月目には気管支肺接合部から近接肺胞領域における線維化と上皮増殖が進行した。しかし、一般の肺胞壁には変化は明らかではなく、肺気腫像も認められていない。これらの変化は二酸化窒素0.4ppmの二七か月間暴露群についても軽度ながら認められたが、二酸化窒素0.04ppm暴露群では認められてない。一方、電顕形態計測的平均肺胞壁厚の増加傾向が、二酸化窒素四ppm暴露群では九か月目から、二酸化窒素0.4ppm暴露群では一八か月目から、二酸化窒素0.04ppm暴露群でもより軽度ながら一八か月目から認められている。なお、二酸化窒素0.04ppm、0.12ppm、0.4ppmの三か月、六か月、九か月及び一八か月間暴露が右実験の再実験として行われたが、光顕的に右結果がほぼ支持された。

② ラットに対する二酸化窒素1.0ppm、0.5ppm、0.3ppmの三か月、六か月、一二か月及び一八か月間暴露において、0.3ppm群では、肺の形態学的変化は三か月、一八か月で疑陽性であるが、全般としては確定的ではなく、一方、0.5ppm群では一八か月後には軽度ながら定型的病変(気管支粘膜上皮の肥大や増殖等)が出現した。

③ ラットに対する二酸化窒素一〇ppm、三ppm、0.5ppm、0.1ppmの一か月間暴露において、全体として濃度依存的に形態計測的平均肺胞壁厚が増加している。

なお、この場合、反応の強さには月齢差が認められ、一月齢から一二月齢にかけては低下しているが、二一月齢では再び強まっている。

④ マウスに対する二酸化窒素0.34ppmの六週間(六時間/日・五日間/週)暴露において、肺胞Ⅱ型細胞数が増加した。

⑤ マウスに対する二酸化窒素0.1ppmの六か月間(ピーク濃度一ppm/二時間を含む。)、イヌに対して二酸化窒素0.65ppmと一酸化窒素0.25ppm、更に二酸化窒素0.15ppmと一酸化窒素1.66ppmの混合ガス六八か月間暴露後、三二か月間ないし三六か月間清浄大気内においた場合、肺気腫変化とみなし得る形態計測的変化が特に前者において認められた。

⑥ マウスに対する二酸化窒素0.5ppmないし1ppmの三か月間(五時間/日・五日間/週)暴露において、特に鼻腔呼吸部上皮に炎症所見や線毛脱落が認められた。

(2) 肺生理学的影響

① ラットに対する二酸化窒素0.8ppmの生涯期間にわたる暴露中に呼吸数が増加している。

② 肺気流抵抗上昇とFRC増加が、ウサギに対する二酸化窒素八ppm〜一二ppmの三か月間暴露において認められているが、モルモットに対する二酸化窒素五ppmの5.5か月(7.5時間/日・五日間/週)暴露、ラットに対する二酸化窒素5.4ppmの三〇日間(三時間/日)暴露及びラットに対する二酸化窒素二ppmの二年間暴露においては認められない。

③ 末梢気道抵抗上昇は、ハムスターに対する二酸化窒素三〇〜三五ppmの七日間〜一〇日間暴露において示されているが、ラットに対する二酸化窒素5.4ppmの三〇日間(三時間/日)暴露では否定的である。

④ ラットに対する二酸化窒素四ppmの三か月間及び二酸化窒素0.4ppmの九か月間暴露において、動脈血酸素分圧の低下が認められている。これらの場合、動脈血二酸化炭素分圧は変化していない。なお、二酸化窒素0.04ppmの九か月間暴露によっては変化は認められていない。

⑤ イヌに対する二酸化窒素0.64ppmと一酸化炭素0.25ppmの混合ガスの長期暴露において、一八か月目には肺機能に異常はなかったが、六一か月目には肺一酸化炭素拡散能と呼気ピーク流量の低下が認められている。これらのイヌは、その後二年間清浄大気内におかれた場合、対照群とは異なり、肺一酸化炭素拡散能の低下傾向と動肺コンプライアンス増加の傾向を示している。

(3) 肺生化学的影響

① ラットに対する二酸化窒素五ppmの一〇日間暴露において肺の過酸化脂肪の増加がTBA法によって認められている。

② ラットに対する二酸化窒素四ppmの九か月間並びに0.4ppm及び4ppmの八か月間暴露において、肺のTBA値の増加と同時に、二酸化窒素0.04ppm、0.4ppm及び4ppmの九か月間及び一八か月間暴露において、呼気エタン濃度に基づく過酸化脂質はdose―dependentに有意な増加を示した。

③ ラットに対する二酸化窒素0.4ppm、1.3ppm及び4ppmの暴露において、肺還元型グルタチオン(GSH)量は四ppm暴露群でのみ一週間目より増加し始め、さらに、二酸化窒素0.04ppm、0.4ppm及び4ppmの九か月間、一八か月間及び二七か月間暴露においてもやはり四ppm群のみで有意な増加が示された。

④ ラットに対する二酸化窒素0.4ppm、1.2ppm及び4ppmの四か月間暴露において、肺GPO活性はいずれの群でも有意ではないが、初期に増加傾向を示し、暴露の長期化につれて低下の傾向を示した。

⑤ マウスに対する二酸化窒素一ppmの一七か月間暴露において、GPO活性は各種臓器で低下しており、この傾向はビタミンE欠食摂取群で顕著であった。

⑥ ラットに対する二酸化窒素0.04ppm、0.4ppm及び4ppmの九か月間及び一八か月間暴露においては、肺GPO活性は、0.4ppm一八か月間、四ppm九か月間及び一八か月間暴露において低下し、グルタチオンS―トランスフェラーゼ活性も0.4ppm及び4ppm一八か月暴露群において低下した。

一方、GR及びG6PD活性は四ppm暴露群において上昇した。

⑦ ラットに対する二酸化窒素四ppmの九か月間、一八か月間及び二七か月間暴露において、肺のリン脂質脂肪酸組成の変化が認められ、二酸化窒素0.4ppm及び0.04ppm暴露群でも同様の傾向が見られている。

⑧ モルモットに対する二酸化窒素0.5ppmと一酸化窒素0.05ppmの混合ガスの一二二日間間欠暴露(八時間/日)においても、肺リン脂質組成変化が認められている。さらに、肺レシチン又はその他のリン脂質画分への14C―酢酸の取込みは、二酸化窒素0.15ppm暴露では変化がなかったが、二酸化窒素0.15ppmとオゾン0.15ppm混合ガスにおいては暴露一週間にわたり低下した。

⑨モルモットに対する二酸化窒素1.1ppmの一八〇日間間欠暴露(八時間/日)でヘキソサミンの減少、シアル酸の増加とともに肺コラーゲン量の減少が見られた。

⑩ イヌに対する二酸化窒素1.21ppm+一酸化窒素0.37ppm又は二酸化窒素0.27ppm+一酸化窒素2.05ppmの五年間暴露において、肺のプロリンヒドロキシラーゼ活性は顕著に増加したが、肺のコラーゲン含量は変わらなかった。

⑪ ウサギに対する二酸化窒素0.25ppmの二四日間〜三六日間間欠暴露(四時間/日・五日間/週)において、肺コラーゲン線維の構造変化が認められているが、これは中止後七日目では元に復している。

⑫ 尿中ヒドロキシプロリン排泄増加は、モルモットに対する二酸化窒素1.1ppmの一八〇日間間欠暴露(八時間/日)において認められ、ラットに対する二酸化窒素0.1ppm〜0.5ppm暴露においても一定期間は認められている。

(4) 気道感染抵抗性に関する影響

①マウスに対する二酸化窒素3.5ppmの二時間暴露又は二酸化窒素1.5ppmの八時間暴露においては肺炎桿菌による死亡率の増大を、二酸化窒素2.0ppmの三時間暴露においては化膿性連鎖球菌感染による死亡率の増大を、また、二酸化窒素2.3ppm一七時間暴露においては吸入黄色ブドウ球菌に対する肺殺菌能の低下をそれぞれ来している。

② リスザルに対する二酸化窒素五ppm及び一〇ppmの一か月間又は二か月間の暴露においては、肺炎桿菌の吸入感染を受けた場合、剖検時における菌の肺内残存例が増加し、また、インフルエンザウイルス感染を受けた場合には対照群には見られなかった死亡例が発生した。

③ モルモットに対する二酸化窒素一ppmの六か月間連続暴露においては肺炎双球菌による、また、マウスに対する二酸化窒素0.5ppmの三か月間連続又は六か月間以上の間欠暴露(六時間/日・五日間/週)においては肺炎桿菌による吸入感染死亡率が増加している。

(5) 免疫に対する影響

① マウスに対する二酸化窒素0.9ppmの四〇日間暴露、また、二酸化窒素0.4ppm、1.6ppm及び6.4ppmの四週間暴露においては、羊赤血球(SRBC)投与時の脾臓におけるPlaque形成細胞(PFC)数では6.4ppmは亢進し、他は抑制を示した。一方、二次反応では、1.6ppmのみが亢進を示した。

② マウスに対する二酸化窒素0.1ppm(0.25ppm、0.5ppm、1.0ppmのピーク濃度を三時間/日付加)及び二酸化窒素0.5ppmの一二か月間暴露においては脾臓における植物性血球凝集素(PHA)反応を来している。

(6) 気道反応性に対する影響

① ヒツジに対する二酸化窒素7.5ppmの二時間暴露において、カルバコールエーロゾルに対する気道反応性は一〇匹中五匹について上昇している。

② モルモットに対する二酸化窒素七ppm〜一四六ppmの一時間暴露において、その直後にはヒスタミンエーロゾルに対する気道反応性が二酸化窒素濃度に比例して亢進している。但し、この反応は二時間後には殆ど認められていない。

(7) 変異原性・催腫瘍性

マウスに対する二酸化窒素0.1ppm、一ppm、五ppm及び一〇ppmに六時間の暴露において、その白血球染色体に染色体型及び染色分体型異常は認められていない。

(三) 粒子状物質

(1) 肺形態学的影響

① サルに対する硫酸エーロゾル4.97mg/m3(MMD0.73μ)及び2.43mg/m3(MMD3.60μ)の七八週間連続暴露においては細気管支上皮の増殖、呼吸細気管支及び肺胞壁の肥厚が認められているが、0.48mg/m3(MMD0.54μ)、0.38mg/m3(MMD2.15μ)の同期間暴露においては影響はないか極めて軽度であった。

② モルモットに対する0.9mg/m3mm(MMD0.49μ)及び0.1mg/m3(MMD2.78μ)の五二週間連続暴露においては特別な異常は見出されていない。

③ サルに対する0.16mg/m3(MMD2.73μ)及び0.46mg/m3(MMD2.63μ)のフライアッシュ一八か月間暴露において、肺内各所へのフライアッシュの沈着又はマクロファージの集合を除けば、光顕的に異常は認められていない。

④ サルに対する硫酸エーロゾル(0.09mg/m3〜0.99mg/m3、MMD0.54μ〜4.11μ)、二酸化硫黄(0.11ppm〜5.29ppm)及びフライアッシュ(0.42mg/m3〜0.55mg/m3、MMD4.10μ〜5.89μ)の二種又は三種混合物の七八週間暴露において、形態学的異常(杯細胞の肥大・増殖、局所的上皮化生)が認められたのは0.9mg/m3〜1.0mg/m3の硫酸エーロゾルを含む条件下のみであり、その他の組合せ条件下では異常が認められていない。

⑤ ラットに対する濃度がほぼ一〇〇μg/m3でsubmicronのニッケル化合物エーロゾルの二か月暴露(一二時間/日・六日間/週)において、酸化ニッケルはマクロファージ増加を、塩化ニッケルは気管支及び細気管支上皮の増生を来し、一方、同一条件下の酸化鉛及び塩化鉛エーロゾル暴露でマクロファージ数はむしろ減少した。

(2) 肺生理学的影響

① サルに対する七八週間連続暴露においては、硫酸エーロゾル4.79mg/m3(MMD0.73μ)及び2.43mg/m3(MMD3.60μ)により換気分布の悪化、呼吸数の増加又は動脈血酸素分布の低下が認められているが、0.48mg/m3(MMD0.54μ)、0.38mg/m3(MMD2.15μ)によっては肺機能に変化は認められていない。

② モルモットに対する0.9mg/m3(MMD0.49μ)、0.1mg/m3(MMD2.78μ)の五二週間連続暴露において、換気力学や一酸化炭素摂取度に異常は観察されていない。

③ イヌに対する0.9mg/m3(九〇%は0.5μ以下)の二二五日間暴露においては、肺一酸化炭素拡散能の低下が、六二〇日間暴露においては、更に加えて肺気流抵抗の上昇や肺気量の減少が認められている。

④ サルに対する(1)④の暴露において、肺機能(換気力学、換気分布、肺一酸化炭素拡散能、動脈血ガス分圧)に異常は観察されていない。

⑤ 各種硫酸塩エーロゾルのモルモットの肺気流抵抗上昇作用は、硫酸を一〇〇とした場合、硫酸亜鉛アンモニウム三三、硫酸第二鉄二六、硫酸亜鉛一九、硫酸アンモニウム一〇であり、硫酸水素アンモニウム、硫酸銅、硫酸第一鉄、硫酸ナトリウムでは極めて弱いか、認められない。

(3) 気道感染抵抗性に関する影響

マウスに対する四mg/m3までの硫酸塩粒子の三時間暴露時において、その後の化膿性連鎖球菌感染による死亡率は量―反応関係をもって増加したが、死亡率を二〇%増加させる濃度は、硫酸カドミウムでは0.2mg/m3、硫酸銅では0.6mg/m3、硫酸亜鉛では1.5mg/m3、硫酸アルミニウムでは2.2mg/m3、硫酸亜鉛アンモニウムでは2.5mg/m3、硫酸マグネシウムでは3.6mg/m3であった。

(4) 免疫に対する影響

マウスに対するシリカ四九三二μg/m3の三九週間暴露及びシリカ四七七二μg/m3の七日間〜三〇〇日間暴露においては、大腸菌エーロゾル投与時の脾臓におけるPFC数及び血清抗体値の低下を来している。五五八μg/m3炭素粒子の一九二日間間欠暴露(一〇〇時間/週)も同様な影響を来している。但し、縦隔リンパ節のPFC数の反応は必ずしも抑制されていない。

(5) 気道反応性に対する影響

① 硫酸エーロゾル四mg/m3〜四〇mg/m3に一時間暴露したとき、強く反応するモルモットとそうでないものが存在し、前者においてのみヒスタミン・エーロゾルに対する気道感受性が暴露後一九時間まで亢進していた。

② ヒツジに対する四mg/m3の九種硫酸塩エーロゾルの四時間暴露において、カルバコールに対する気道反応性は硫酸亜鉛アンモニウムと硫酸亜鉛によってのみ上昇している。

③ 1.9mg/m3硫酸ミストに三〇分間、一四回の暴露とともに経気道アルブミン感作を受けたモルモットはアルブミン感作のみの動物よりアセチルコリン・エーロゾル反応性が亢進している。

(四) 混合暴露等

(1) 肺形態学的影響

① イヌに対する自動車排出ガス(非照射:一酸化炭素九八ppm、炭化水素二八ppm、二酸化窒素0.05ppm、一酸化窒素1.45ppm、照射:一酸化炭素九五ppm、炭化水素二四ppm、二酸化窒素0.94ppm、一酸化窒素0.19ppm、オゾン0.20ppm)、硫黄酸化物(二酸化硫黄0.42ppm、硫酸0.09mg/m3)及び両者混合物の約六八か月間にわたる暴露において、照射排出ガスと硫黄酸化物混合群では近位の気腔拡大が、非照射排出ガス及びこれと硫黄酸化物との混合群では細気管支無線毛細胞増殖がそれぞれ強く認められている。

② マウスに対する排出ガス(一酸化炭素四〇ppm〜六〇ppm、炭化水素五ppm〜八ppm、二酸化窒素+一酸化窒素0.6ppm〜2ppm)の一か月間暴露(三時間/日・五日間/週)において、気管支周囲組織と肺胞壁の浮腫、肺胞壁血管の充血及び末梢気管支上皮細胞の増殖を来している。

③ ラットに対する重油燃焼生成物の生涯暴露において、粒子状物質濃度0.5mg/m3以上で上皮増殖を伴った気管支炎及び汎細気管支炎並びに初期肺気腫像が生じている。

④ マウスに対する米国ロサンゼルス、Riverside地区での二年間の野外暴露においては、急性及び慢性肺臓炎の発生頻度が増加している。

⑤ マウスに対する大阪での約二年間の野外暴露においては、黒色粉塵の沈着、異物多核細胞の出現、鼻粘膜杯細胞や気管支腺の増加及び末梢気管支上皮の増殖が認められている。

(2) 肺生理学的影響

イヌに対する右(1)①の暴露において、六一か月目には非照射排出ガス群及びこれと硫黄酸化物との混合群で残気量の増加、照射排出ガス群及びこれと硫黄酸化物との混合群で呼気気流抵抗の上昇が認められているが、排出ガスと硫黄酸化物を混合してもそれぞれの作用を増強することはなかった。

(3) 気道感染抵抗性に関する影響

① マウスに対するオゾン0.05ppm、0.1ppm及び0.5ppmと二酸化窒素1.5ppm、2.0ppm、3.5ppm及び5.0ppmの三時間間欠暴露時において、化膿性連鎖球菌感染死亡率を見ると、両ガスの作用は相加的であった。また、オゾン0.1ppmの三時間暴露、次いで硫酸エーロゾル0.9mg/m3の二時間暴露を継続するとき、化膿性連鎖球菌感染死亡率は相加的に増加している。

② 自動車排出ガス(照射)については、これまでのところ排出ガス(二酸化窒素0.2ppm〜0.3ppm、一酸化炭素二五ppm、オキシダント0.15ppm)の四時間暴露によるマウスの連鎖球菌感染死亡率の上昇を除けば少ない。

③ マウスに対する二酸化窒素2.0ppmとオゾン0.05ppmの混合ガスの一週間〜四週間間欠暴露(三時間/日・五日間/週)においては、化膿性連鎖球菌の感染死亡率を上昇させている。また、二酸化窒素0.5ppmとオゾン0.1ppmの混合ガスの一か月〜六か月間間欠暴露(三時間/日・五日間/週)後、肺炎連鎖球菌を吸入感染させると、その死亡率は感染後ガスに一四日間再暴露した場合が著しく高かった。

なお、混合ガスに暴露していない二一時間に二酸化窒素0.1ppmに暴露した群と清浄空気に暴露した群とで感染死亡率を比較した場合、暴露三か月間以内では前者の方が低値であった。

④ マウスに対する炭粉表面にSO3を凝縮したもの―acid―coated carbon(H2SO41.4mg/m3+carbon1.5mg/m3)―の間欠暴露(三時間/日・五日間/週)において、インフルエンザウイルス感染による死亡率は、四週間暴露では差は認められていないが、二〇週間暴露では対照群三六%に対し四五%と上昇した。

(4) 免疫に対する影響

マウスに対する(3)④の二〇週間間欠暴露において、SRBC投与に対する脾臓のPFC数は暴露途中に変動はあったが、二〇週目には低下し、しかもその低下はcarbon単独暴露によるそれよりも大であった。

2 人への実験的負荷研究(〈書証番号略〉)

(一) 二酸化硫黄

(1) 肺機能への影響

(呼吸器疾患患者)

① 気管支喘息患者がアトピー患者(アレルゲン皮内反応検査で二つ以上のアレルゲンに陽性反応を示し喘鳴の既往のない者)や正常者に比しより低い濃度への暴露で気道狭窄が起こることが示されている。

② 運動負荷下で経口吸入をさせた場合には、二酸化硫黄に反応を示す患者の一部では0.10ppmの一〇分間の吸入でもSRawの有意な増加が起こることが示されている。

③ 二酸化硫黄0.1ppmでも乾燥冷気下での過換気状態での経口吸入では、乾燥冷気は気道狭窄の効果を高める可能性がある。

(2) 気道クリアランス機構への影響

(正常者)

三二人について五ppmの二酸化硫黄又は二酸化硫黄を含まない空気に四時間暴露後Rhinovirus(はなかぜウィルス)を含む液を鼻腔に接種された者の鼻粘膜の線毛運動の速度を調べたところ、線毛運動速度は、二酸化硫黄に暴露されず、また、感染を受けなかった者では有意な減少が見られなかったのに比し、ウィルスに感染された者も感染されなかった者も二酸化硫黄に暴露された者では五〇%近く減少した。感染されたが、二酸化硫黄に暴露されなかった者では、接種後二日目に減少し始め、三日〜五日目には五〇%近く減少した。

(3) 感染抵抗性への影響

(正常者)

三二人を二グループに分け、五ppmの二酸化硫黄又は汚染のない空気に四時間暴露後Rhinovirusを含む液を鼻腔に接種し、上気道感染率及び鼻洗浄液中のウイルス抗体価を測定したが、有意な差は見られなかった。

(二) 二酸化窒素

(1) 自覚症状への影響

(正常者)

① 臭いは0.12ppm位から認められる。

② 咽頭痛、咳、胸部絞扼感や胸痛は間欠的運動下での二時間暴露では1.0ppm位から認められる。

(呼吸器疾患患者)

③ 二酸化窒素0.5ppmへの二時間暴露においては、一三人の気管支喘息患者の内三人が胸部絞扼感、一人が運動中に呼吸困難、一人が軽度の頭痛、二人が目の刺激感を認め、七人の慢性気管支炎患者の内一人が鼻汁を認めたが、これらの変化が二酸化窒素への暴露によるものかどうかは疑問であるとしている。

④ 二酸化窒素0.2ppmへの間欠的運動下での二時間暴露では、三一人の気管支喘息患者の呼吸器症状を主にした自覚症状スコアの増加が認められたが、この増加は二酸化窒素によるものとは思えないとしている。

(2) 肺機能への影響

(正常者)

① 間欠的運動下での二時間暴露においては、二酸化窒素0.5ppmに暴露された一〇人〜一二人の各種肺機能のうちで一部の指標で暴露濃度・影響関係からみて意義の不確かな変動がみられるようになり、1.0ppmに暴露された一六人では再現性に乏しいが、FVCの減少や一部の者に動肺コンプライアンス(呼吸を行いながら測定する肺の伸度)の減少がみられるようになる。

(呼吸器疾患患者―いずれも気管支喘息患者を対象)

② マスクで二酸化窒素1.0ppmを四時間吸入したときの六人の各種肺機能には変化が認められなかった。

③ 間欠的運動下での二酸化窒素0.5ppmの濃度に二時間暴露された一三人の各種肺機能には変化が認められなかったが、七人の慢性気管支炎患者群を含めた患者グループとしてみると静的コンプライアンス、TLC(全肺気量)、RV(残気量)及びFRC(機能的残気量)の増加が認められたが、これらの変化が二酸化窒素への暴露によるものかどうかは疑問であるとされている。

④ 間欠運動下で二酸化窒素0.2ppmの濃度に二時間暴露された三一人では、有意ではないが呼吸抵抗の増加とFEVの減少が認められた。

⑤ 二酸化窒素0.1ppm濃度に一時間暴露された二〇人の内一三人ではSRaw(特異性気道抵抗)の僅かではあるが有意な増加が、また、同濃度に同時間暴露された一五人では有意ではないが小さな増加が認められた。

(3) 血液生化学的分析値への影響

(正常者)

間欠的運動下で、二酸化窒素一ppmの濃度に2.5時間暴露された一〇人ではアセチルコリンエスタラーゼ活性の有意な低下が、0.3ppmの濃度に二時間暴露された七人では血漿ヒスタミンの有意な増加が見られた。また、二酸化窒素0.2ppmの濃度に二時間暴露された一九人ではGSH(還元型グルタチオン)の有意な増加が見られた。

(4) 気道反応性への影響

(正常者)

① 二酸化窒素五ppmの濃度に二時間暴露では気道反応性の亢進は見られないが、一四時間暴露では亢進が見られる。

(呼吸器疾患患者)

② 間欠的運動下で二酸化窒素0.2ppmに暴露された三一人の気管支喘息患者において、その約三分の二の患者にメサコリン・エーロゾルに対する気道反応性の亢進が見られた。

③ 二酸化窒素0.1ppmに一時間暴露された二〇人の気管支喘息患者において、一三人にカルバコール・エーロゾル吸入に対する気道反応性の亢進が見られたが、更に四人の患者を二酸化窒素0.2ppmに暴露したところ、0.1ppmへの暴露時よりも強い気道反応性の亢進を示したのは一人のみであった。

④ 二酸化窒素0.1ppmに一時間暴露された一五人の気管支喘息患者において、グループとして見るとメサコリン・エーロゾル吸入に対する気道反応性の亢進は見られなかったが、個人別に見ると六人が気道反応性がいくらか亢進していた。

(三) 粒子状物質

(1) 自覚症状への影響

(正常者)

硫酸エーロゾルでは、1.0mg/m3くらいから咽頭の刺激感を認める。

(2) 肺機能への影響

(正常者)

① 硫酸エーロゾルでは、間欠的運動下での二時間暴露では0.4mg/m3くらいから各種肺機能のうちで一部の指標で暴露濃度・影響関係からみて意義の不確かな変動がみられるようになり、0.939mg/m3の濃度に暴露された一一人ではFEV1.0の減少、また、0.98mg/m3の濃度のエーロゾルをマスクで一時間吸入した一〇人では気道のクリアランスの増加が見られた。

② 硝酸塩エーロゾルでは、間欠的運動下で0.295mg/m3の濃度の硝酸アンモニウムに二時間暴露された二〇人では各種肺機能に影響が認められない。

(呼吸器疾患患者)

③ 硫酸エーロゾルでは、間欠的運動下で0.075mg/m3の濃度に二時間暴露された六人の気管支喘息患者の各種肺機能に変化が認められなかったが、個人別に見ると二人がRtの増加を示した。経口吸入では、硫酸エーロゾル0.5mg/m3の濃度を一六分間吸入させられた一五人の気管支喘息患者ではSGawの有意な低下が認められた。

④ 硫酸エーロゾル1.0mg/m3の濃度を一〇分間吸入させられた六人の気管支喘息患者の各種肺機能に有意な変化が認められなかった。

⑤ 硫酸塩エーロゾルでは、0.0156mg/m3の硫酸亜鉛アンモニウムに間欠的運動下で二時間暴露された一九人の気管支喘息の各種肺機能で、いくつかの指標で有意な変化が見られたが、一定の傾向は認められなかった。しかし、個人的に見ると三人にFEVの減少が認められた。

⑥ 間欠的運動下で0.096mg/m3の硫黄第二鉄に二時間暴露された一八人の気管支喘息患者の各種肺機能には有意な変化は認められなかったが、個人的に見ると四人が肺機能において小さいが有意な減少が認められた。

⑦ 間欠的運動下で二時間、0.085mg/m3の硫酸水素アンモニウムに暴露された五人の気管支喘息患者及び0.100mg/m3の硫酸アンモニウムに暴露された五人の気管支喘息患者について各種肺機能で有意な低下を示す変化は認められなかった。

⑧ 経口吸入では、1.0mg/m3の硫酸水素ナトリウム又は硫酸水素アンモニウムを一六分間吸入した一五人の気管支喘息患者では、硫酸水素アンモニウムでSGawとFEV1.0の有意な低下が認められた。

⑨ 硝酸塩エーロゾルでは、0.189mg/m3の硝酸アンモニウムに間欠的運動下で二時間暴露された一九人の気管支喘息患者の各種肺機能について有意な変化は認められなかった。

⑩ 経口吸入では、1.0mg/m3の硝酸ナトリウム又は硝酸アンモニウムを一〇分間吸入した五人の気管支喘息患者では、各種肺機能に有意な変化は認められなかった。

(3) 気道反応性への影響

(正常者)

① 間欠的運動下での、0.2mg/m3の硫酸エーロゾルに暴露された七人又は0.14mg/m3の硝酸ナトリウムに暴露された八人では、アセチルコリン・エーロゾル吸入に対する気道反応性の亢進は見られない。

(呼吸器疾患患者)

② 0.1mg/m3の硫酸エーロゾルを経口吸入で一六分間吸入した一五人の気管支喘息患者の内二人はカルバコール吸入に対する気道反応性の亢進が見られた。

③ 1.0mg/m3の硫酸水素ナトリウム又はアンモニウムを経口吸入で一六分間吸入した一五人の気管支喘息患者ではカルバコール吸入に対する気道反応性の亢進は見られなかった。

第三大気汚染と健康被害との関係についての評価

一硫黄酸化物に係る環境基準についての専門委員会報告(〈書証番号略〉、証人香川順)

1 中央公害対策審議会大気部会硫黄酸化物に係る環境基準専門委員会は、硫黄酸化物の影響と測定方法について検討した結果を昭和四八年三月三一日に次のとおり報告した。

(一) 二酸化硫黄の住民に対する影響につき次の条件を考慮した。

① 病人の症状の悪化が疫学的に証明されないこと。

② 死亡率の増加が証明されないこと。

③ 慢性閉塞性呼吸器症状の有症率の増加が証明されないこと。

④ 年少者の呼吸機能の好ましからざる反応ないし障害が疫学的に証明されないこと。

⑤ 現在までに知り得た知識に基づく限り、二酸化硫黄が人の健康に好ましからざる影響を及ぼすことのないこと。

(二) 参考にした知見は次のとおりである(なお、①ないし③については昭和四三年一月の生活環境審議会環境基準専門委員会報告が注目した知見)。

① 大阪市における調査によれば、亜硫酸ガス濃度の一時間値の二四時間平均値が0.1ppm以上で死亡率の増大をきたす傾向を示し、日平均値あるいは月平均値0.08ppm以上はともに感受性の強い学童の肺機能を低下させ、三日平均値0.05ppm以上で死亡数が増大する傾向が認められた。

② 時間的濃度変化の大きい四日市市においては、年間を通じて日最高値(一時間値)の平均値が0.1ppmで、また一時間値の二四時間平均値の一〇%が0.07ppmを越えると、気道炎症の有症率が二倍以上に増加し、学童の気道性疾患による欠席率が前一週間の平均値が0.09ppmを越えたとき平常時の三倍となる。

③ 地域住民を対象としたBMRC方式による疫学調査によれば、一時間値の年間平均値が約0.05ppmを越える地区では慢性気管支炎の有症率が約五%になり、汚染のまだ生じていない地区と比較すると約二倍に達している。

④ 北九州地区における調査によれば、二酸化鉛法による昭和三五年ないし同四三年に亙る平均値で1.04mg/一〇〇cm2/日(溶液導電率法で0.033ppmないし0.036ppm)の地区においては、0.53mg/一〇〇cm2/日(溶液導電率法で0.017ppmないし0.019ppm)の地区に比べ、学童の喘息様症状の訴え率が二倍に認められた。

⑤ 二酸化硫黄汚染が急激に悪化した場合の過剰死亡についての大阪市における調査によれば、二酸化硫黄濃度六日間平均値が0.12ppmの高濃度汚染がみられたときに、特に循環器系疾患を有する者に死亡率が増大した。

⑥ 兵庫県赤穂市及び大阪府における調査にあっては、四〇歳以上の成人につき、咳と痰が三か月以上毎日出る単純性慢性気管支炎症状有症率は、二酸化鉛法で年平均値1.0mg/一〇〇cm2/日(溶液導電率法で0.032ppmないし0.035ppm)以下の地区では約三%であるが、それ以上の値を示す地区では二酸化鉛法による測定値と有症率との間には正の相関がみられた。

⑦ 全国六か所における煤煙等影響調査にあっては、三〇歳以上の家庭婦人についてのものであるが、右⑥と同じ症状の有症率三%は、二酸化鉛法による値が五か月平均で約0.7mg/一〇〇cm2/日(溶液導電率法で0.022ppmないし0.025ppm)である。

⑧ 四日市市における閉塞性呼吸器疾患の新規患者の発生数(三年移動平均値)とその年の二酸化硫黄濃度の年平均値とは、概ね0.04ppmを越えたところでは濃度と発生患者数は正の相関があり、且つ、一時間平均値0.1ppmを越えた回数が年間概ね一〇%以上測定されたところで、新規患者数は一時間平均値0.1ppmを越えた回数と正の相関が認められた。

(三) 人の健康への影響に関する資料に基づき総合的に判断した結果、地域環境大気中の二酸化硫黄について人の健康を保護する上で維持されるべき濃度条件を次のとおり提案した。

① 二四時間平均一時間値に対し0.04ppm

② 一時間値に対し0.1ppm

2 中央公害対策審議会は、昭和四八年四月二六日、二酸化硫黄の環境基準値として右専門委員会の提案値を答申したが、右答申に際し、本環境基準値は、二酸化硫黄の人の健康への影響を防止する上で十分に安全を見込んだ極めて厳しい濃度条件に設定されるため、本環境基準値を若干越える測定値が得られた場合においても、直ちにそれが健康被害をもたらすものではないことに留意すべきであるとした。

二WHO窒素酸化物に関する環境保健クライテリア(〈書証番号略〉)

WHO(世界保健機構)に設けられている環境保健クライテリア専門委員会は、窒素酸化物単独の影響について検討し、昭和五一年にその概要を次のとおり報告している。

1 当時において報告されていた疫学研究の結果それ自体では二酸化窒素の暴露についての健康影響を評価するための定量的な基礎資料を示し得ないが、その結果は肺への影響が二酸化窒素暴露に関連しているという実験的知見と矛盾していないと評価した。そこで、人の健康保護が図られる暴露限界の指針値を勧告する上で主に動物実験及び人の志願者に対する研究からの資料に頼らざるを得ないとした。

2 二酸化窒素の比較的低濃度における気道抵抗の増加、気管支収縮物質に対する感受性の増加、呼吸器系感染の感受性の増加などの呼吸器系への影響も好ましからざる影響とみなした上、二酸化窒素による短期暴露につき、①動物実験において、約九四〇μg/m3(0.5ppm)を起点とする濃度で呼吸器系に好ましからざる影響を及ぼすと評価したこと、②管理された条件下における人に対する一三〇〇μg/m3ないし三八〇〇μg/m3(0.7ppmないし2.0ppm)の二酸化窒素一〇分暴露で気道抵抗の増加が認められていること、喘息患者に対する一九〇μg/m3(0.1ppm)の二酸化窒素の一時間暴露で化学エーロゾル(カルバコール)の気管収縮効果が増加すること(なお、この結果については追試する必要があるとしている。)から、人に対する好ましからざる影響も動物実験と同程度の二酸化窒素濃度で起こっていることを考慮し、二酸化窒素の短期暴露によって観察された最低の影響レベルとして九四〇μg/m3(0.5ppm)とした。

3 当時の時点において高い感受性を有する人に対する最低の好ましからざる影響のレベルが不明であることと二酸化窒素の高い生物学的活性に注目して、相当な安全係数が要求されるとし、安全係数が恣意的なものであることを認めた上、二酸化窒素の短期暴露に対しての最小の安全係数は三ないし五であるとして、公衆の健康保護が図られる二酸化窒素の暴露限界につき、最大一時間暴露として一九〇μg/m3ないし三二〇μg/m3(0.1ppmないし0.17ppm)で、この一時間暴露は一か月に一度を超えて出現してはならないと提案した。

なお、健康影響の評価に当たり、二酸化窒素の人への長期間暴露による生物医学的影響は公衆の健康の保護という観点から勧告するに足るほどには確かめられていないとして、長時間平均値に関する暴露限界は提案しなかった。

三二酸化窒素の人の健康影響に係る判定条件等について(〈書証番号略〉)

本報告は、中央公害対策審議会が昭和五二年三月二八日に環境庁長官から公害対策基本法九条三項の趣旨により環境基準の基礎となる判定条件等について諮問を受け、同審議会大気部会に二酸化窒素に係る判定条件等専門委員会を設置して検討を行った結果を同五三年三月にまとめたものである。

1 検討の対象

窒素酸化物の人の健康への影響は、個人についてみれば、特殊な場合を除けば、大気汚染とともに、厨房、煙突のない暖房器具等換気不十分な居住条件、喫煙による窒素酸化物汚染にも注目しなければならないところ、窒素酸化物の人の健康への影響のうち環境大気中の二酸化窒素によるものに限定して検討した。

2 健康への影響の程度

地域の人口集団に疾病やその前兆とみなされる影響が見い出されないだけでは十分ではなく、更にそれ以前の段階である健康な状態からの偏りが見い出されない状態、すなわち、観察された影響の可逆性が明らかでないか、あるいは生体の恒常性の保持の破綻、疾病への発展について明らかでない段階を健康な状態からの偏りと考え、大気汚染の影響として、このような状態からの偏りが見い出されない状態についても留意した。また、地域の人口集団は、健康な人々ばかりでなく、病人、老人、乳幼児、妊産婦そして肉体的に弱い人等が多様な生活様式の中で生活しているのであるから、大気汚染に対し、このような感受性の高い集団が含まれていることへの留意は慎重に考慮すべきである。

3 知見に対する評価

現在の環境大気で見出される程度の低濃度領域における生体影響に関する知見は未だ十分満足し得るものは得られていないため、環境大気中の二酸化窒素による汚染と人口集団の健康影響との関係の評価に当たっては、現時点の知見によって解明された部分を明確にするとともに、なお残された不確定さを考慮した上、これまでの生物医学の研究や経験を基礎に総合的に判断を行い、この場合、人に関する利用可能な知見を重要視した。

4 指針の提案

(一) 長期指針について

長期指針について注目した事項は次のとおりである。

① 動物実験の知見から肺の形態学、生理学、生化学的変化が観察される濃度は0.3ppmないし0.5ppmであり、指針はこれ以下の濃度に求められる。

② アメリカ・チャタヌガの疫学調査から、概ね年平均値0.06ppmないし0.08ppmを超える地域では、それ以下の地域に比べ急性呼吸器疾患罹患率の増加が観察される。

③ アメリカには、BMRCに準拠した疫学調査で、0.05ppmを超える地域とそれ以下の二地区間の比較で有症率に差が見い出されていないとの結果がある。しかし、アメリカのBMRC方式の疫学調査は、我国のBMRC方式の疫学調査に比べ、より症状の重いものを捉えていること及びその他の環境条件にも差があることを考えると、年平均値0.05ppmで全く影響がないとまで言い切ることはできない。

④ 我国の末梢気道に着目した疫学調査からは、年平均値0.04ppm程度で一部の感受性の高い者の肺機能の変化が認められるが、これは、正常調節の範囲内の変化であって、健康からの偏りが見い出されない濃度を考察する重要な手がかりである。

⑤ 我国のBMRCに準拠した疫学調査によれば、年平均値0.02ppmないし0.03ppm以上の地域では、持続性せき・たんの有症率との関連が認められている。これらの調査結果は、人口集団の内に観察される非特異症状を、二酸化窒素を大気汚染の指標として着目した場合の解析結果であり、少なくともこれ以下の濃度では二酸化窒素濃度と有症率との関連は観察されないと解することができる。

以上の知見を総合的に考えると、健康からの偏りが見い出されない濃度に対応する指針は、ネガティブな知見が存在する0.05ppm以下、他の汚染物質との共存下で、これ以下では二酸化窒素濃度と持続性せき・たんの有症率の関連が観察されないと推定される濃度である0.02ppmないし0.03ppm以上に求められるところ、正常調節の範囲内であるが、0.04ppmで肺機能変化が認められたという結果も考慮し、安全を見込んで長期暴露に関する指針を年平均値0.02ppmないし0.03ppmを導いた。

(二) 短期指針について

短期指針について注目した事項は次のとおりである。

① 明確な影響が認められるのは、動物実験の知見から0.05ppmであり、指針はこの濃度レベル以下に求められる。

② 人の志願者における研究から、肺機能の変化は、過敏者では1.6ppmないし2.0ppmで認められ、健康人では2.5ppmで観察されるが、0.5ppmで変化が認められない。したがって、肺機能の影響の起こる濃度は、動物実験の知見と考え併せるとき、直接的には指針の濃度レベルを指示していない。

③ 喘息患者の気管支収縮剤に対する反応の増加が0.1ppmないし0.2ppmで認められているが、この変化は発作を引き起こすような悪影響とは考えられず、また可逆的である。したがって、この知見は、過敏者に対する可逆的な変化を捉えている点で短期指針の考察に当たって重要な知見である。

以上の動物実験、人の志願者に対する研究による短期暴露の影響を考察した場合、単一の知見のみから指針を直接的に導き出すことは困難であると考え、動物実験の結果から得られた0.5ppmを起点に人に対する知見を総合的に考察することが必要であるとし、WHOの指針(一時間値0.1ppmないし0.17ppm)、アメリカ・チャタヌガ研究における短期ピーク暴露の寄与に関する考察(0.15ppm以上のピーク濃度の二時間ないし三時間繰り返しが急性呼吸器疾患の発生に寄与している可能性もあるのではないかとする指摘)を考慮して、短期指針である一時間値0.1ppmないし0.2ppmを導いた。

(三) 以上の結果、地域の人口集団の健康を適切に保護することを考慮し、環境大気中の二酸化窒素濃度の指針として、短期暴露については、一時間暴露として0.1ppmないし0.2ppm、長期暴露については、種々の汚染物質を含む大気汚染の条件下において、二酸化窒素を大気汚染の指標として着目した場合、年平均値として0.02ppmないし0.03ppmと提案した。

5 安全率について

現時点で利用可能な二酸化窒素の健康影響に関する知見は十分満足し得るものではないため、明確な影響が確認される資料に安全率を見込む場合があり、安全率につき議論が行われたが、本専門委員会は、指針を導くに当たり利用可能な人に関する資料を重視し、これに考察を加えることによって総合的に判断したため、安全率を利用しなかった。

四WHOの環境保健指針8(〈書証番号略〉、証人香川順)

WHOは、昭和五四年に二酸化硫黄と浮遊粒子状物質に関する指針値等を公表した。

1(一) 指針値は次のとおりである。

(1) 短期暴露(二四時間値)

スモーク(ブリティッシュ・スモーク・シェード・サンプラーにより測定される一〇ミクロン以下の粒子状物質。)一〇〇μg/m3ないし一五〇μg/m3の共存下において、二酸化硫黄一〇〇μg/m3ないし一五〇μg/m3(0.035ppmないし0.053ppm)

(2) 長期暴露(年平均値)

スモーク四〇μg/m3ないし六〇μg/m3の共存下において、二酸化硫黄四〇μg/m3ないし六〇μg/m3(0.014ppmないし0.021ppm)

(二) 右指針値を導く根拠とされた健康影響の見出された最低濃度は次のとおりである。

(1) 短期暴露(二四時間値)

スモーク二五〇μg/m3の共存下において、二酸化硫黄二五〇μg/m3(0.09ppm)

なお、右健康影響は呼吸器疾患を有する者の症状の増悪の可能性である。

(2) 長期暴露(年平均値)

スモーク一〇〇μg/m3の共存下において、二酸化硫黄一〇〇μg/m3(0.035ppm)

なお、右健康影響は一般の人口集団における呼吸器症状の増加及び小児における急性呼吸器疾患の罹患率の増加である。

2 右健康影響が見出された最低濃度を導くための根拠として採用された疫学知見の内後記五のEPAのクライテリア・ドキュメントで採用された知見より低い二酸化硫黄濃度により健康影響が認められたとする知見は以下のとおりであった。

(一)(1) 短期暴露(二四時間値)

① スモーク一四〇μg/m3共存下の二酸化硫黄三〇〇μg/m3(0.11ppm)で換気機能の一時的低下が認められたとするオランダにおけるヴァン・デル・レンデらの調査

② TSP(粒径0.1ミクロンないし100ミクロンの浮遊粒子状物質)で一五〇μg/m3共存下の二酸化硫黄二〇〇μg/m3(0.07ppm)で少数の喘息患者集団における発作率の増加が認められたとする米国におけるコーエンらの調査

(2) 長期暴露(年平均値)

① 二酸化硫黄一五〇μg/m3(0.05ppm)で児童の呼吸器症状の増加が認められたとするイングランド及びウェールズにおけるコリー及びリードの調査

② スモーク一七〇μg/m3共存下の二酸化硫黄一二五μg/m3(0.04ppm)で成人の呼吸器症状の増加が認められたとするポーランドにおけるサウィッキの調査

③ スモーク一四〇μg/m3共存下の二酸化硫黄一四〇μg/m3(0.05ppm)で児童の下気道疾患の増加が認められたとするイギリスにおけるダグラス及びワーラーの調査

④ TSP一〇〇μg/m3ないし二〇〇μg/m3(光散乱法)共存下の二酸化硫黄六〇μg/m3ないし一四〇μg/m3(0.02ppmないし0.05ppm)で成人の呼吸器症状の増加が認められたとする東京におけるスズキ及びヒトスギの調査

(二) なお、右(一)の各知見は、後記EPAのクライテリア・ドキュメントにおいて暴露量の把握あるいは修正変数の処理等につき問題がある旨指摘した上で採用されなかったものである(但し、(2)④の知見は公表されていないため検討の対象とされていない。)。

五米国EPA(環境保護庁)の二酸化硫黄及び粒子状物質に関するクライテリア・ドキュメント(判定条件文書)及びスタッフ・ペーパー(〈書証番号略〉、証人香川順)

クライテリア・ドキュメントとは、米国大気清浄法一〇八条に基づき、内外の動物実験、人への実験的負荷研究及び疫学研究等を検討した上、信頼に値するものを選別して紹介したものであり、また、スタッフ・ペーパーとは、EPA(環境保護庁)内の大気基準局のスタッフが中心となって、クライテリア・ドキュメントのうち重要な知見を影響の質ごとに量・反応関係が判るように整理したクライテリア・ドキュメントの要約及び解説である。そして、昭和五七年に発表された二酸化硫黄及び粒子状物質に関するクライテリア・ドキュメント及びスタッフ・ペーパーで採用された疫学知見及び人体負荷研究は次のものである。

1 短期暴露に関する知見

(一) 人体負荷実験

(1) リンらの研究(〈書証番号略〉)

若年成人喘息患者を対象として途中に中等度の運動負荷を与えた条件下において、自然呼吸である鼻呼吸で0.25ppm及び0.50ppmの二酸化硫黄に一時間暴露させ、暴露前後に気道抵抗等の肺機能測定を行ったところ、運動に帰因できる抵抗の小さいが有意な増加がみられたが、これらの反応の測定値のいずれも二酸化硫黄に帰因できる統計的に有意な変化を示さなかった。なお、右研究に先立って行われた喘息患者を対象として口呼吸で(マウスピースを介して口から直接呼吸させる方法)0.50ppmの二酸化硫黄一時間暴露の人体負荷実験では気道への影響がみられた。

(2) カークパトリックらの研究(〈書証番号略〉)

運動中の喘息患者につき吸入した二酸化硫黄に対する気管支収縮反応に口鼻呼吸がどのような影響を及ぼすかを調べる目的で、六人の被検者を対象として運動負荷を加えながら、口呼吸(マウスピースから吸入)、口鼻呼吸(顔面マスクから吸入)及び鼻呼吸(口をふさいで顔面マスクから吸入)の各場合による0.5ppmの二酸化硫黄に五分間暴露させ、気道比抵抗を比較したところ、口呼吸又は口鼻呼吸では、六人の被検者全員で気道抵抗比が有意に上昇し、また、鼻呼吸では六人中五人で気道抵抗比が有意に上昇した。

口呼吸時に生ずる気道抵抗比の上昇は、口鼻呼吸時の上昇と有意に異ならなかったが、鼻呼吸時に生ずる上昇に比べて有意に大きかった。

この結果、鼻呼吸により二酸化硫黄誘発性の気管支収縮が部分的に防止されたが、運動中に低濃度の二酸化硫黄を口あるいは口と鼻から呼吸すると、喘息患者で有意に気管支収縮が誘発されることを示しているとした。

(二) 疫学研究―ローサーらの研究(〈書証番号略〉)

気管支炎患者を対象として日記形式により病状の変化を記録させ、右病状の変化と二四時間平均値の二酸化硫黄濃度及びスモークとの対応をみたところ、慢性気管支炎患者に有意な反応を生じる最小汚染濃度は、二四時間平均値で二酸化硫黄約五〇〇μg/m3(0.19ppm)及びスモーク約二五〇μg/m3であると評価した。

ただ、ローサーらが行った正常被検者を対象とする実験的調査結果において汚染物質を調合した混合気体を吸入した場合、その影響がすぐに現れることが示唆されることからすると、本研究による右有意な反応は、二四時間平均値による被曝のために生じたと考えるより、むしろその日の最高濃度に短時間さらされたことによる影響を反映するものと思われ、それらの最高の濃度は二四時間値の数倍になると思われるとしている。

2 長期暴露に関する疫学研究―ルンらの研究(〈書証番号略〉)

英国シェフィールドの汚染濃度の異なる四地区の学童を対象として、上気道疾患(粘液膿性鼻分泌物及び年三回以上の風邪により評価)及び下気道疾患(持続性の咳又は頻繁な咳、胸にまで達する風邪及び肺炎並びに気管支炎の病歴により評価)の有病率並びに肺機能と二酸化硫黄及びスモークの各濃度の二四時間値の年平均値の対応関係を調査したところ、二酸化硫黄濃度一八一μg/m3(0.07ppm)から二七五μg/m3(0.11ppm)及びスモーク濃度二三〇μg/m3から三〇一μg/m3(いずれも二四時間値の年平均値)以上になると、上気道疾患及び下気道疾患の有病率が高くなると評価した。また、その後の追跡調査によると、上気道疾患及び下気道疾患の有病率に地域差がみられなくなったが、その間、スモーク濃度は大きく低下したものの、二酸化硫黄濃度はそれ程低下しなかったと報告している。

3 右クライテリア・ドキュメント等における疫学知見の採否の意義

右クライテリア・ドキュメント及びスタッフ・ペーパーにおいては、二酸化硫黄及び粒子状物質に関する疫学研究の評価につき厳格な基準を設定して採否を検討し、その結果、前記の疫学研究等以外のものについては我国における疫学研究を含みいずれも採用されなかった。

しかしながら、クライテリア・ドキュメント等は米国の大気環境基準を導く手続の中で公表されるものであるところ、米国における大気環境基準は、違反者に対して行政罰、民事罰あるいは刑事罰が予定されているものであって、そもそも我国の環境基準とは性格が異なること、そして、クライテリア・ドキュメント等が技術的社会的要因を考慮しない純粋に科学的評価であるとしても、右環境基準の意義の相違から健康影響概念の把え方自体が異なることにより、疫学調査の評価の上でもその基準が異なる可能性があることに注意を払う必要がある。

4 EPAのクライテリア・ドキュメントのセカンド・アデンダム(〈書証番号略〉)

EPAは、昭和五七年のクライテリア・ドキュメント及びスタッフ・ペーパーの公表後に入手可能となった研究・調査を検討し、同六一年にセカンド・アデンダム(補遺)として公表したが、右セカンド・アデンダムには次の知見及び評価が含まれている。

(一)(1) マズンダーらの研究(〈書証番号略〉)

英国ロンドンにおける一日当たりの死亡数とスモーク及び二酸化硫黄濃度との関係を一九五八年(昭和三三年)・一九五九年(同三四年)から一九七一年(同四六年)・一九七二年(同四七年)までの一四年間の冬につき調査し年次重回帰等による解析を行ったところ、右死亡数とスモークとの関連は認められたが、二酸化硫黄との関連は認められなかった。

(2) ベッディらの研究(〈書証番号略〉)

健康で若年成人男性非喫煙者を対象として二時間ずつ濾過した空気、1.0ppm、2.0ppmの各二酸化硫黄を吸入させ暴露前後に肺機能検査を行ったところ、1.0ppm又は2.0ppmの二酸化硫黄暴露後における特異的気道抵抗の増加がみられたが、対象者を増加して1.0ppmの二酸化硫黄に暴露した結果、特異的気道抵抗や他の肺機能に対する変化はこの濃度までは認められなかった。

(3) シャクターらの研究(〈書証番号略〉)

喘息患者及び正常者を対象として中等度の運動負荷を与えながら、二酸化硫黄〇ppmないし一ppmの間の段階的な各濃度に四〇分間暴露させ肺機能検査を行ったところ、喘息患者については、0.25ppmと0.50ppmで肺機能の小さな減少がみられたものの、0.50ppm以下では有意な変化を示さなかったのに対し、0.75ppm以上では肺機能と二酸化硫黄濃度に量・反応関係が認められた。ただ、右肺機能の変化は一時的なもので、実験室大気内には二酸化硫黄が存在しているにも拘わらず、運動中止後一〇分以内には肺機能は基準値近くに戻った。

また、正常者については二酸化硫黄1.0ppm暴露では有意な肺機能の低下を示さなかった。

(4) リンらの研究(〈書証番号略〉)

① 二酸化硫黄に対する感受性が実証されている喘息患者を対象として間欠的に激しい運動負荷を与えながら連続二日、六時間実験室で0.6ppmに暴露させたところ、気管支収縮と下部呼吸器症状が運動中と運動直後にみられたが、右気管支収縮等は二日目の方が一日目よりも僅かながら軽度であった。

② 慢性閉塞性肺疾患患者を対象として間欠的に運動負荷を与えながら二酸化硫黄〇ppm、0.4ppm、0.8ppmに一時間暴露させたところ、二酸化硫黄暴露によると考えられる統計的に有意な生理的変化及び症状は認められなかった。

(二) セカンド・アデンダムでは、右(一)の知見を含めた新たな知見から、ある二酸化硫黄濃度に誘発される反応(典型的な反応としては気管支収縮)は、各喘息患者ごとに異なることが明らかとなり、気道抵抗の群平均に有意な上昇をもたらさない0.25ppm以下の二酸化硫黄に暴露しても、各喘息患者に症候性の気管支収縮が惹起されることがないが、気道抵抗に有意な群平均の上昇を招く0.40ppm以上の二酸化硫黄に(中等度から重度の運動を組み合わせて)暴露すると、一部の喘息患者で実質的に気管支収縮が惹起され、右気管支収縮には、喘鳴及び呼吸器障害の認識を伴うことがしばしばあり、少数例で暴露を中止し薬剤の投与を行わなければならなかった。これらの観察の意義としては、二酸化硫黄に感受性のある喘息患者においては、0.4ppmないし0.5ppm又はそれ以上の濃度の二酸化硫黄に暴露された場合、特にこの場合に少なくとも中等度の運動を組み合わせた場合、運動を中止したり又は薬物の投与を必要とするような臨床的に有意な気管支収縮(症候性の気管支収縮)が現れる危険があるとしている。

六中央公害対策審議会環境保健部会による「大気汚染と健康被害との関係評価等に関する専門委員会報告」(〈書証番号略〉)

中央公害対策審議会は、昭和五八年一一月一二日、環境庁長官から、我国の大気汚染の態様の変化を踏まえ、公健法二条一項に係る対象地域(第一種地域)の今後のあり方について諮問を受けて、環境保健部会において設置された専門委員会において、大気汚染の態様の変化と汚染レベルの現状の評価及び大気汚染と生体影響の関係に関する知見の現状の評価を行い、その上で大気汚染と健康被害の関係を総合的に評価し、同六一年四月に報告したものであり、その概要は次のとおりである。

1 現状の大気汚染と慢性閉塞性肺疾患との関係

(なお、本報告中の「大気汚染」とは「人の作り出した物質が戸外の環境大気に人及び人の生活環境に好ましからざる程度の濃度まで含まれている状態」の意味で使用している。)

(一) 慢性気管支炎の基本症状

慢性気管支炎の基本症状に対応する疫学的指標は持続性せき・たん症状であり、これはかつて我国で広く用いられたBMRC方式に準拠した問診票で、最近ではATS方式に準拠した質問票で使用されている。

(1) 我国で行われた持続性せき・たんを指標とした疫学調査を歴史的に比較すると、昭和三〇年代後半、いわゆるスモッグ時代の調査、同四〇年代後半、すなわち二酸化硫黄の低下傾向の続いている時期の調査、同五〇年代後半、すなわち二酸化硫黄、二酸化窒素、大気中粒子状物質の汚染動向が比較的安定した時の調査の間に次のような傾向の差が見られる。

昭和三〇年代後半の化石燃料の燃焼に伴う硫黄酸化物と大気中粒子状物質が相当高度に存在していた頃の時代に行われた殆どの疫学調査結果は、持続性せき・たんと硫黄酸化物や大気中粒子状物質の濃度との間に、量―反応関係を示唆するようなものも含む強い関連が見られている。

大気汚染対策により硫黄酸化物及び大気中粒子状物質濃度が昭和四〇年代に顕著に減少し、同四〇年代後半の調査においてはほぼ前記の関連が依然見られたものの、その末期においては持続性せき・たん有症率と二酸化窒素との間に有意な相関が認められるようになった。

昭和五〇年代後半に行われた環境庁a調査と環境庁b調査の二つの疫学調査の結果は、その調査規模及び調査地域の大気汚染濃度からして、比較的安定的に推移している我国の大気汚染の現状を全体として反映していると見ることができる。これらの調査は、調査方法は同様であるが、それぞれ独立して行われ、解析対象年齢層等も異なっているため、それぞれの結果を直接対比して比較することはできないが、成人の持続性せき・たんの有症率は、環境庁a調査では、男女とも、喫煙、室内汚染、職歴などの因子を考慮しても人口密度の高い地域に有症率が高く見られ、且つ、概ねどの大気汚染物質との間にも有意な相関が見られ、また、環境庁b調査では、女のみが二酸化窒素と二酸化硫黄との間に有意な相関が見られ、現状の大気汚染が持続性せき・たんの有症率に何らかの影響を及ぼしていると示唆される。しかしながら、環境庁b調査の男の持続性せき・たんの有症率では大気汚染物質との間に有意な相関が認められていない。

なお、動物実験の結果からは、二酸化窒素0.4ppmないし0.5ppm以上の長期暴露下で気道粘液の過分泌を起こす可能性のある形態学的変化の発生が、二酸化窒素0.5ppm以上の長期暴露下で気道感染抵抗性の低下がそれぞれ認められている。

以上から判断して、現状の大気汚染が地理的変化に伴う気象因子、社会経済的因子など大気汚染以外の因子の影響を超えて、持続性せき・たんの有症率に明確な影響を及ぼすようなレベルとは考えられない。

(2) なお、慢性気管支炎の基本病態の一つである気道粘液の過分泌状態との関連で持続性たんの有症率が環境庁の両調査で共通して二酸化硫黄、浮遊粉塵及び二酸化窒素と有意な相関が認められたことが注目される。この咳を伴わない持続性たんの中には気管・気管支以外の分泌物、例えば、鼻汁なども含まれている可能性もあり、健康影響指標としてどのような意義を有するかは今後の検討課題である。

(二) 気管支喘息の基本症状

気管支喘息において、発作性呼吸困難、喘鳴等の臨床症状はかなり特徴的であり、これに対応する疫学的指標はATS方式に準拠した質問票の喘息様症状・現在で代表される。また、持続性ゼロゼロ・たんも児童の気管支喘息や喘息性気管支炎との関連で注目されている。

(1) 児童

児童の喘息様症状・現在については、環境庁の二つの調査に共通した結果としては、児童の喘息様症状・現在の有症率は、男で二酸化窒素と、女で二酸化窒素と二酸化硫黄との間に、持続性ゼロゼロ・たんの有症率は、男で二酸化窒素と二酸化硫黄と、女で二酸化硫黄との間にそれぞれ有意な相関を示した。また、環境庁a調査によると、喘息様症状・現在及び持続性ゼロゼロ・たんの有症率は、人口密度別に三群に分けて検討すると、人口密度の高い地域ほど有意に高い有症率が見られた。更に、この三群を受動喫煙の有無別、暖房器具などによる室内汚染の有無別、家屋構造別などに検討しても、受動喫煙、室内汚染や家屋構造の有意な影響は検出されなかったが、こうした質問の項目は調査実施時点での状況を捉えたものである。

一方、環境庁b調査によると、両親の喘息、本人のじんましんの既往等からみたアレルギー素因の有無別に大気汚染物質の有症率への影響を検討しているが、アレルギー素因ありの群はなしの群に比べ、持続性ゼロゼロ・たんは男女とも、喘息様症状・現在は男で二酸化窒素と二酸化硫黄との相関が有意となる傾向が示されている。また、受動喫煙の有無別、暖房器具などによる室内汚染の有無別、家屋構造別などに層化して検討してみても男女とも持続性ゼロゼロ・たんは二酸化窒素との間に有意な相関が認められることが多かった。

気管支喘息の基本病態である気道過敏症に関しては、実験的にその短期間の持続を証明した報告はあるが、その過敏症はそれほど長く継続しないようである。一方、長期間持続して実験動物が気道過敏症を示すことを検討した研究例はない。

以上から判断して、現状の大気汚染が児童の喘息様症状・現在や持続性ゼロゼロ・たんの有症率に何らかの影響を及ぼしている可能性は否定できないと考える。しかしながら、大気汚染以外の諸因子の影響も受けており、現在の大気汚染の影響は顕著なものとは考えられない。

(2) 成人

成人の喘息症状・現在に関しては、環境庁の両調査とも大気汚染との関連は殆ど認められていない。なお、気管支喘息の有病率は老人期に増加することが知られているが、これに関し、環境庁b調査において、五〇歳以上の女で二酸化硫黄との間に有意な相関が認められている。

以上から判断して、現在の知見から現状の大気汚染が成人の喘息様症状・現在の有症率に相当の影響を及ぼしているとは考えられない。

2 現状の大気汚染と慢性閉塞性肺疾患との関係結論

(一) 通常、現在の大気汚染も、過去の大気汚染の場合と同じく、その殆どは化石燃料の燃焼によるものである。したがって、現在でも我国の大気汚染は、二酸化硫黄、二酸化窒素及び大気中粒子状物質の三つの汚染物質で代表しておいても大きな誤ちを来すことはないと考える。しかし、燃料消費事情、汚染対策、発生源の変化、特に交通機関の構造変化によって、我国の最近の大気汚染は、二酸化窒素と大気中粒子状物質が特に注目される汚染物質であると考えられる。

現在の大気汚染が総体として慢性閉塞性肺疾患の自然史(疾患の発症に至る過程、発症後の経過)に何らかの影響を及ぼしている可能性は否定できないと考える。

しかしながら、昭和三〇年代ないし四〇年代においては、我国の一部地域において慢性閉塞性肺疾患について、大気汚染レベルの高い地域の有症率の過剰をもって主として大気汚染による影響と考え得る状況にあった。これに対し、現在の大気汚染の慢性閉塞性肺疾患に対する影響はこれと同様のものとは考えられなかった。

(二) 我国の大気汚染と慢性閉塞性肺疾患の評価に伴って、次のことに留意すべきである。

(1) 検討の対象としたものは、主として一般環境の大気汚染の人口集団への影響に関するものである。したがって、これよりも汚染レベルが高いと考えられる局地的汚染の影響は考慮を要するであろう。

(2) 従来から、大気汚染に対し感受性の高い集団の存在が注目されてきている。そのような集団が比較的少数にとどまる限り、通常の人口集団を対象とする疫学調査によっては結果的に見逃される可能性のあることに注意せねばならない。

第四本件地域における大気汚染と原告らの本件疾病との関係

一因果関係論

訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり、その立証の程度は通常人が疑を差し挾まない程度に真実性の確信を持ち得るものであるものであることを必要とし、且つ、それで足りるものである(最高裁昭和五〇年一〇月二四日第二小法廷判決・民集二九巻九号一四一七頁)から、本件訴訟においても、本件地域における大気汚染が原告らの本件疾病の発症・増悪という結果を招来したという関係を是認し得る高度の蓋然性が証明される必要があるというべきである。

二本件大気汚染物質と本件疾病との関係

1 二酸化硫黄との関係

前記認定事実等を総合すると、本件地域における二酸化硫黄濃度は、昭和四〇年から本件地域で測定が開始された導電率法による結果に限っても、大師測定局で昭和四〇年から同四二年の各年平均値が0.1ppmを超えるなど極めて高い濃度を示しており、昭和四〇年度から二〇年間にわたり継続して測定している全国の測定局の平均値と比較しても、昭和五〇年代初頭頃まで右平均値をかなり上廻っており、本件地域が二酸化硫黄による全国でも有数の大気汚染地域であったこと、本件地域は公健法により硫黄酸化物を指標とする大気汚染の程度を基準として定められた指定地域(第一種地域)とされていたこと、硫黄酸化物の健康影響に関する疫学調査については、それぞれ問題点を少なからず包含するものではあるものの、昭和三〇年代から同四〇年前半の疫学調査では、概ね二酸化硫黄と持続性せき・たんの有症率との間に関連性が認められ、海外の知見等を評価したWHOの環境保健指針8においては、スモークとの共存下におけるものであるが、二酸化硫黄の短期暴露(二四時間値)0.09ppm、長期暴露(年平均値)0.03ppmを健康影響が見い出された最低濃度である旨評価していること、昭和六一年専門委員会報告は、昭和三〇年代から同四〇年代においては、我国の一部地域で慢性閉塞性肺疾患につき、大気汚染のレベルの高い地域の有症率の過剰をもって、主として大気汚染による影響と考え得る状況にあったと評価していることが認められ、右事実等に徴すると、昭和三〇年代から同四〇年代に相当期間継続して本件地域に居住あるいは勤務し、本件疾病が相当期間の暴露により発症することが否定できないことも考慮して昭和五〇年代前半頃までに慢性気管支炎、気管支喘息及び肺気腫に罹患した者については、本件地域における高度の二酸化硫黄による大気汚染を原因として発症したものであると解するのが相当である。

2 二酸化窒素との関係

現在、大気汚染物質として二酸化窒素が注目され、特に自動車から排出される排気ガスの削減に努力が払われている現状にあることは公知の事実であり、また、前記認定のとおり、大気汚染による二酸化窒素と慢性気管支炎等の疫学指標との間に関連性を認める疫学調査が存在する。しかしながら、右疫学調査を含めた知見を総合して検討した昭和六一年専門委員会報告においては、前記認定のとおり、慢性気管支炎の基本症状である持続性せき・たんの有症率につき、現状の大気汚染が地理的変化に伴う気象因子、社会経済的因子などの大気汚染以外の因子を超えて、持続性せき・たんの有症率に明確な影響を及ぼすようなレベルとは考えられないとし、また、気管支喘息の基本症状である喘息様症状・現在の有症率につき、児童において、現状の大気汚染が児童の喘息様症状・現在や持続性ゼロゼロ・たんの有症率に何らかの影響を及ぼしている可能性は否定できないものの、大気汚染以外の諸因子の影響を受けており、現在の大気汚染の影響は顕著なものとは考えられず、成人においては、現状の大気汚染が成人の喘息様症状・現在の有症率に相当の影響を及ぼしているとは考えられないと評価していることからすると、各評価に微妙な相違はあるものの、現状の大気汚染と本件疾病との関連性を積極的に肯定したものとまでは言い難いこと、右報告においては、現在の大気汚染が総体として慢性閉塞性肺疾患の自然史に何らかの影響を及ぼしている可能性は否定できないものの、二酸化硫黄による大気汚染がかなり改善されたと認められる現状の大気汚染の慢性閉塞性肺疾患に対する影響は昭和三〇年代ないし同四〇年代の大気汚染と同様のものと考えられないと最終的な評価をしていること、そして、中公審の答申においても、前記専門委員会が単に「何らかの影響を及ぼしている可能性は否定できない」とする程度では、民事責任を踏まえた制度として、大気汚染物質の排出原因者の負担において損害の填補を行うことは妥当ではないとしていること(〈書証番号略〉)、右昭和六一年専門委員会報告以後の調査結果も右報告の結論を左右するものは存在しないこと、また、二酸化窒素と二酸化硫黄との相違として、二酸化窒素が燃焼の過程で必ず発生するため、人為活動の行われている殆どの場所が二酸化窒素の発生源となり得る点にあるところ、人の生活行動時間の調査においては、広い意味で室内で生活する時間が多くを占め、室内の暖房方法等によっては室内の二酸化窒素濃度が屋外の二酸化窒素濃度を上回る場合があることを示唆する調査結果も存在すること等の諸事情を総合勘案すると、少なくとも本件訴訟における証拠調べの結果及び平成四年九月における本件訴訟終結の時点における当裁判所にとって顕著な事実に照らし、現状の二酸化窒素による大気汚染と本件疾病の発症・増悪との間に相当な因果関係があるとまで認めることは困難であると考えざるを得ない。

第五原告らの本件疾病の罹患と発症原因

一公健法における本件疾病の認定との関係(〈書証番号略〉)

原告らは、原告らが公健法上の認定を受けている認定患者であることから本件疾病に罹患していることは明らかである旨主張する。

公健法上の認定手続においては、申請者が認定申請に係る疾病について主治医の診断書等を都道府県知事等に提出することにより申請がなされるが、主治医の診断のばらつきを調整・検討するために、都道府県知事等が任命する医学、法律学その他公害に係る健康被害の補償に関し学識経験を有する者一五名以内の委員で構成される公害健康被害認定審査会の意見を聴いて認定の審査が行われる。

右公害健康被害認定審査会では、主治医診断書、主治医診断報告書、医学的検査結果報告書及び検査結果資料を検討し、指定疾病罹患の有無を審査する。また、指定疾病に罹患していると認定されても、認定の有効期間内に治癒する見込みがない場合には、認定疾病により二年ないし三年で認定の更新手続を行わなければならず、認定申請時と同様の審査を受けることになる。

右公害健康被害認定審査会による審査については、審査数が多いことから一件の審査に当てられる時間が少ないこと、主治医診断書が重視されていること等問題点の指摘もなされているが、本件疾病が慢性疾患であって医師の経過観察が患者の症状を把握する上で重要であることからすると、主治医診断書を重視することもやむを得ないものであるし、原告らが更新手続により繰り返し審査を受けていること等の事情に鑑みるならば、原告らが右のような手続により公健法上の認定を受けていることは本件疾病に罹患していると推認するに重要な事実であると解さざるを得ない。

二個別的認定

以下に述べる者以外の原告患者らについては、公健法等による認定どおり本件疾病に罹患し、本件地域における昭和五〇年初頭までの硫黄酸化物による大気汚染と本件疾病に因果関係が存すると認めるのが相当である。

被告らは、右認容原告らの一部につき、他疾病、アレルギー素因、喫煙等が原因であるとして右因果関係を争うが、被告ら提出の反証をもっては、未だ右認定(因果関係の存在)を左右するに足りないというべきである(いわゆる、損害額の認定に及ぼす寄与割合については、これらの事情を充分斟酌した。)。

1 原告出浦智惠子(原告番号一次5番)(以下「原告出浦」という。)

(〈書証番号略〉、原告出浦智惠子)

原告出浦は、大正一二年一一月二四日生まれの女性であり、出生後、東京都内等に居住し、昭和二四年三月から現在まで川崎市川崎区渡田四丁目九番二号に居住している。

そして、原告出浦は、昭和四六年九月、川崎市の規則により気管支喘息に認定、同四九年一一月、公健法により障害等級三級に決定、同五一年、同二級に変更、同五三年一二月、同一級に変更、同五四年一〇月、同二級に変更、同五五年一月、同一級に変更、同六二年九月、同二級に変更、同六三年一〇月、同一級に変更を受けた。

原告出浦は、昭和二五年頃(川崎市に転居後間もなく)から咳、痰及び息切れ等の症状がみられるようになったが、昭和三三年六月に右症状が悪化して呼吸困難を来すようになったことから新川橋病院に受診し気管支喘息の診断を受け、同年九月まで右病院に入院した。その後も昭和五一年以降に五回入院経験がある。

ところで、原告出浦は、幼少時に肺炎及び肋膜炎の既往症があるとともに、その後、肺結核に罹患したことがあり(原告出浦は、右肺結核の罹患を否定し、肺結核ではなく腸結核に罹患したものである旨主張するが、公害被害者認定用調査票〔〈書証番号略〉〕の記載からして右主張は採用できない。)、認定申請時の診断書(〈書証番号略〉)に「胸XPにて左肺野に気管支拡張症像を認む」との記載があるところ、気管支拡張症の内、特発性気管支拡張症が生後まもない頃の肺炎の後遺症によることが多く、また、続発性気管支拡張症が結核等による病変から二次的に気管支が拡張性変化を起こすことがあることに鑑みると、原告出浦は、特発性あるいは肺結核に続発する気管支拡張症に罹患している可能性が高く、気管支喘息に罹患しているとのまでの立証が足りない。

2 原告伊藤公代(原告番号一次25番)(以下「原告伊藤」という。)

(〈書証番号略〉、原告伊藤公代法定代理人伊藤静子)

原告伊藤は、昭和四七年一二月一二日生まれの女性で、出生から昭和四八年一月三〇日まで川崎市川崎区四谷下町九番五号(さつき荘)に居住し、その後、右同日から同市同区同町二〇番八号(いづみ荘)に居住している。

そして、原告伊藤は、昭和四九年七月、救済法により気管支喘息に認定を受け、同四九年一一月、公健法により障害等級二級に決定し、その後、同五〇年一〇月、同三級に、同五四年九月、同級外に変更を受けた。

原告伊藤は、昭和四八年一〇月頃、突然夜中に胸を波打たせるような状態で喘鳴を伴う呼吸困難に陥り、翌朝、近所の向本医院に受診して気管支喘息の診断を受けた。右受診後も喘息発作が起こり、同年一一月頃に各約一週間市立川崎病院に二回入院するに至った。その後、昭和五〇年九月(満一歳)頃には喘息発作及び喘鳴の程度が軽度になり、同五五年六月(満七歳)頃に症状に軽快傾向がみられ、同五七年(満九歳)頃には喘息発作は殆どなく寛解の診断を受けた。そして、昭和六二年九月(満一五歳)頃には一時悪化傾向がみられたが、その後は軽快傾向の診断を受け、昭和五七年以降月に一、二回の通院を継続している。

右症状の経緯からすると、治療が継続しているものの、出生後一〇か月で発病した後、概ね身体の成育とともに軽快傾向がみられるという経過をたどっており、湿疹の既往症があること(〈書証番号略〉)をも考え併せると、アトピー型の小児喘息である可能性が極めて高いというべく、原告伊藤の症状と本件地域の大気汚染に因果関係があるとまでは認め難い。

3 原告阿部喜八(原告番号一次61番)(以下「原告阿部」という。)

(〈書証番号略〉)

原告阿部は、明治四五年三月二七日生まれの男性であり、出生から岩手県二戸郡福岡町、昭和一八年九月から川崎市扇町一二番地、同二八年一二月から川崎市幸区紺屋町五九番地(但し、昭和四四年六月から同五〇年九月までは川崎市高津区下野毛に居住)、同六二年一一月から岩手県二戸市福岡にそれぞれ居住していた。

そして、原告阿部は、昭和五一年四月、公健法により肺気腫に認定を受け、同年六月、障害等級二級に決定し、同五七年二月、同三級に変更となった。

原告阿部は、昭和四八年五月頃から咳と痰の症状が出現し、同時に息切れの症状もみられ、咳が続くと呼吸困難に陥るようになり、同四九年五月に近所の医院に受診し肺気腫の診断を受けた。認定申請時の昭和五一年頃には咳や痰が季節や天候に係わりなく出るとともに労作時に息切れが認められ、夜間に呼吸困難になるという状態であった。その後、昭和五七年頃には咳と痰の症状等に軽快傾向がみられたが、同六〇年八月頃に肺癌に罹患した。そして、平成元年一〇月一三日、肺癌による呼吸不全を原因とした心不全で死亡するに至った。

ところで、原告阿部は、一八歳から六四歳までの間に一日約二〇本の喫煙を継続しており(原告阿部の喫煙状況については、右阿部の妻である阿部ソノの陳述書〔〈書証番号略〉〕には、原告阿部が昭和二四年に胃潰瘍に罹患した際に喫煙を止め、その後、公健法による認定を受ける頃に少し喫煙していた程度である旨の供述があるが、認定申請時における原告阿部本人が保健所調査員へ回答した結果である公害被害者認定調査票〔〈書証番号略〉〕の記載に照らし、右供述部分は採用することができない。)、これによると、右肺気腫の発症後も喫煙をしていることとなり、右喫煙の期間及び本数を勘案すると、原告阿部の肺気腫の罹患は喫煙の影響が極めて高いことが認められる。また、右喫煙状況に発症時期が満六一歳と高齢であることも考え併せれば、原告阿部の肺気腫の罹患と本件地域の大気汚染との間に因果関係を認め難いといわざるを得ない。

4 原告田中孝作(原告番号一次72番)(以下「原告田中」という。)

(〈書証番号略〉、証人田中セツ)

原告田中は、明治三五年一月一四日生まれの男性であり、出生から昭和三年頃まで東京都稲城市東長沼、同三年から同四二年八月まで東京都大田区安方町二〇二番地、同四二年八月から川崎市幸区遠藤町四二番地にそれぞれ居住していた。

そして、昭和五〇年五月、公健法により慢性気管支炎の認定を受け、同年六月、同障害等級三級に決定した。

原告田中は、昭和四八年一一月頃に風をひいたのを契機として咳と痰及び息切れの症状が出現し始め、その後も咳と痰が常時出る状態が継続したところ、同四九年二月頃から呼吸困難がひどくなり同年三月から入院する事態に至った。認定申請時の昭和五〇年頃においては夜に咳と痰及び呼吸困難の発作により夜中まで眠れない状態がみられた。その後、昭和五二年頃から入院回数が多くなったが、症状にはそれほど大きな変化はなかったものの、平成元年頃には慢性気管支炎の急性化等症状に悪化傾向がみられた。そして、平成元年五月二五日、慢性気管支炎を原因とした急性心不全により死亡した。

ところで、原告田中は、二〇歳から七二歳まで一日約二〇本、その後も七五歳頃まで少量ながら喫煙を継続していたことが認められ、これによると、慢性気管支炎発症後も喫煙を継続していたことになる。右喫煙の期間及び本数を勘案すると、原告田中の慢性気管支炎の罹患は喫煙の影響が極めて高いと認められ、原告田中の慢性気管支炎の罹患と本件地域の大気汚染との間に因果関係を認め難いものと解される。

5 亡畑英夫(原告番号一次93)(以下「亡畑」という。)(〈書証番号略〉、原告畑貞子)

亡畑は、大正五年六月二四日生まれの男性であり、出生後、福島県会津若松市(但し、右期間の内一時期北海道あるいは川崎市に居住)、昭和二三年から川崎市川崎区大島一丁目二五番一号に居住していた。

そして、亡畑は、昭和四七年八月、救済法により気管支喘息の認定を受け、同四九年一一月、公健法により障害等級二級に決定し、同五一年一一月、同三級に、同五二年八月、同二級にそれぞれ変更となった。

亡畑は、昭和二二年五月頃から咳と痰及び喘鳴を伴う呼吸困難発作が生じるようになり、昭和二七年六月に気管支喘息で東大病院物療内科へ入院した。その後、昭和三八年頃に脳軟化症で倒れ半身不随となっていたところ、昭和四四年一一月に重積な喘息発作が起こり、右脳軟化症により治療を受けていた川崎市立病院に入院するに至った。その後、昭和五一年頃からは息切れ、喘息発作及び咳と痰のいずれの症状の程度も軽快傾向がみられるようになり、前記昭和五四年頃の入院時には喘息発作は認められないほどであった。昭和五五年四月一五日、肺気腫及び肺線維症による呼吸不全を原因として死亡した。

右認定の症状の経過に照らすと、亡畑の気管支喘息の発症時期は昭和二二年であると認めるのが相当であり、右発症時期からすると、亡畑の気管支喘息の罹患と本件地域の大気汚染との因果関係を認め難いといわざるを得ない。

6 亡齋藤又蔵(原告番号一次95番)(以下「亡齋藤」という。)(〈書証番号略〉、原告齋藤輝久)

亡齋藤は、明治三九年九月二六日生まれの男性であり、出生から終戦頃まで川崎市大師河原、終戦後から暫くの間川崎市川崎区田町一丁目四六五四番地二、その後昭和二五年頃まで川崎市川崎区昭和町、同二五年から川崎市川崎区四谷上町三一九番地、同三八年四月から川崎市川崎区四谷上町一七番六号に居住していた。

そして、昭和四五年一月、救済法により肺気腫に認定され、同四九年一一月、公健法により障害等級一級に決定し、同五〇年一〇月、同特級に変更された。

亡齋藤は、昭和四二年一〇月頃の早朝に呼吸困難に陥り、以後後藤病院に受診した。その後、昭和四三年一〇月頃から大師病院に受診し、当初は気管支喘息の診断を受けたが、前記のとおり肺気腫で認定を受けた。

同年一二月頃に呼吸困難が悪化し最初の入院を経験し、翌四四年には入退院を繰り返すに至った。症状としては、日常的に咳と切れ難い痰が出るとともに息切れもみられるもので、呼吸困難発作は徐々に季節に関係なく一日数回起こるようになっていった。昭和五〇年頃には息切れ及び咳と症状の程度に悪化傾向がみられるとともに同五一年頃には肺機能もかなり低下していたところ、同年八月二六日、入院中の大師病院で死亡した。

ところで、亡齋藤は、二〇歳から六一歳まで一日三〇本程度の喫煙を継続していたことが認められる。右喫煙の期間及び本数を勘案すると、亡齋藤の肺気腫の罹患は喫煙の影響が極めて高いと認められ、亡齋藤の肺気腫の罹患と本件地域の大気汚染との間に因果関係を認め難いものと解される。

7 原告金泳奎(原告番号二次27番)(以下「原告金」という。)(〈書証番号略〉、原告金泳奎)

原告金は、大正元年七月一一日生まれの男性であり、韓国で出生し、その後、昭和一〇年頃から終戦まで大阪、岡山、千葉等、終戦後青森市、静岡市、昭和三六年七月から川崎市川崎区東渡田二丁目一番地、同四六年九月から現在まで川崎市川崎区田島町七番一〇号にそれぞれ居住しているが、昭和五五年頃から毎年長期間韓国に滞在し、同六三年頃からは大半を韓国で過ごしている。そして、昭和五五年七月、公健法により慢性気管支炎二級に認定された。

原告金は、昭和三八年頃から時々咳と痰が出る傾向があったが、同四一年八月頃から咳と痰の症状がひどくなり、安土病院に受診するようになった。

昭和四四年八月頃に息切れの症状がみられ、その後、夜中に咳き込むことが多くなり、昭和五〇年に最初の入院を経験した。認定申請時の昭和五五年頃には前記のとおり韓国滞在中に入院し帰国後も川崎協同病院に入院するが、右入院後は呼吸困難に陥ることはないものの息切れや咳嗽発作がひどい状態が続いていた。その後、昭和五八年頃には常時風邪をひきやすい状態となっていたが、同六〇年頃から症状に悪化傾向がみられ、最近では多い月で二〇日、少ない月は二日程度の割合で通院を継続している。

ところで、原告金は、一五歳から五七歳まで一日四〇本程度の喫煙を継続していたことが認められる。右喫煙の期間及び本数を勘案すると、原告金の慢性気管支炎の罹患は喫煙の影響が極めて高いと認められ、原告金の慢性気管支炎の罹患と本件地域の大気汚染との間に因果関係を認め難いものと解される。

8 原告宋﨎徳(原告番号三次46番)(以下「原告宋」という。)(〈書証番号略〉、原告宋﨎徳)

原告宋は、昭和二四年六月一日生まれの男性であり、出生から川崎市川崎区中島五二番地、昭和三四年一一月から現在まで川崎市川崎区藤崎三丁目九番七号に居住している。

そして、原告宋は、昭和五八年一一月、公健法により気管支喘息に認定され、同五八年一二月、同障害等級三級の決定を受けた。

原告宋は、昭和五八年一月早々、風邪をひいて喉がゼイゼイして川崎協同病院に受診し投薬を受けていたが、同月六日の明け方に突然喘鳴を伴った呼吸困難に陥り、同病院で吸入及び気管支拡張剤の投薬を受けた。そして、川崎協同病院で気管支喘息との診断を受け、右認定申請に至ったものである。

右症状の経過によると、原告宋の気管支喘息の発症時期は昭和五八年であるから、右本件地域における硫黄酸化物による大気汚染と右気管支喘息との因果関係を認めることはできない。

第六章共同不法行為

原告らは、被告ら間に共同不法行為が成立し、被告らは本件大気汚染によって蒙った原告らの健康被害による全損害について賠償する責任がある旨主張する。なお、原告らは、本件訴訟の最終段階において、被告企業との共同不法行為に係る関連共同性の存する範囲として、被告日石化学及び同東燃化学と各石油化学コンビナートを構成するとする川崎臨海部又は横浜市鶴見・神奈川臨海部に位置する東京瓦斯株式会社等一〇企業、更には、被告企業らと関連性を有するとする川崎臨海部又は横浜市鶴見臨海部に位置する日本冶金工業株式会社等九企業に拡大する旨主張するが、右関連共同性の範囲の拡張については、被告らに右主張に対する反論の機会が与えられなければならないところ、本件訴訟手続においては、右主張が本件訴訟の最終段階においてなされ、被告らに充分な反論の機会がなかったことに鑑み、原告らの右主張は訴訟手続上の信義則に照らし認められない。

第一関連共同性

原告らは、共同不法行為の根拠として、主として民法七一九条一項前段を主張し、更に同条後段の類推適用も付加して主張するものと解される(なお、原告らは、同条前段の共同不法行為につき、単なる客観的関連共同で足り、同条後段の共同不法行為につき、関連共同性が不要である旨の主張をし、被告らは、同条前段の共同不法行為につき、主観的関連共同あるいはこれと同視し得る程度の関連共同を必要としている旨主張しているようであるが、いずれも不法行為責任を不当に拡大、あるいは制限するものであり、特に本件のような大気汚染公害については、その不当性は著しく、いずれも採用することはできない。)。

ところで、民法七一九条一項の共同不法行為の関連共同性については、不法行為責任を的確に確定するためには、前段及び後段とも共同の行為が客観的に関連共同していることで足りるが、右客観的関連共同性は、結果に対して社会通念上全体として一個の行為と認められる程度の一体性があるものに限定されるべきである。そして、同条前段及び後段の共同不法行為が成立する場合には、いずれも共同行為者各人が共同不法行為と相当因果関係にある全損害の賠償責任を負うが、同条前段の場合には共同不法行為者の個別事由による減免責の主張立証が許されないのに対し、同条後段の場合には右減免責の主張立証が許されると解されるところ、右減免責の主張立証の許否に照らすならば、同条前段及び後段の共同不法行為の要件である関連共同性における一体性の強弱も必然的に異なるものというべく、すなわち、同条前段の共同不法行為の関連共同性は、共同不法行為者間により緊密な一体性を要するのに対し、同条後段の共同不法行為の関連共同性は、前記社会通念上全体として一個の行為と認められる程度の一体性を有した上で加害行為の一部を負担していることで足りると解するのが相当である。

一民法七一九条一項前段の共同不法行為

1 被告企業ら間の関連共同性

被告企業ら間に前記説示の緊密な一体性が認められるか否かの判断基準としては、被告企業らによる本件大気汚染物質の排出の態様及び原告ら居住地等への到達状況、右大気汚染物質の排出行為の前提となる被告企業らの本件地域における立地状況及び操業状況等、被告企業ら間の生産活動に係る経済的・人的結合状況、被告企業らの本件大気汚染物質の影響への対応等を総合的に勘案すべきものであると解する。

なお、被告東燃、同東燃化学及び同キグナス石油において、硫黄酸化物等の排出行為につき右三社間に関連共同性が存することは当事者間に争いがない。

(一) 排出行為の一体性

原告らは、被告企業らの事業所が本件地域に近接して集中立地した上、昭和三〇年代に時期をほぼ同じくして操業を開始あるいは拡大し、右事情の下において、被告企業らの事業所から排出された大気汚染物質は混ざり合って一体となり、且つ、同時的に本件地域の大気を汚染していることにより緊密な一体性が認められる旨主張する。

しかしながら、被告企業らの事業所は、概ね本件地域東部の臨海部に立地・操業しているものの、原告らが関連共同性の範囲を拡大したことからも明らかなとおり、本件地域には被告企業らの事業所以外にも大気汚染物質を排出する事業所が存在するとともに、硫黄酸化物をはじめとする本件大気汚染物質は、風向・風速等の気象条件により挙動が影響を受けることにより本件地域外において排出された大気汚染物質も本件地域に流入して混然一体となるものであって、被告企業らの事業所から排出された大気汚染物質が一体性を有して原告ら居住地に一様に到達するものではない。

また、原告らの主張する昭和三〇年代における操業の開始あるいは拡大についても、前記認定のとおり、被告企業らの操業等の経緯においては、昭和二〇年代後半頃から同三〇年代に操業を開始し、あるいは拡大した経緯も窺われるものの、右操業の開始あるいは拡大は、戦後における我国の産業界の経済復興としての性格を有するものであって、必ずしも本件地域に立地・操業した被告企業らに限られるものではない。

以上によると、原告らの右主張による被告企業ら間に緊密な一体性があるとまで認めることはできない。

(二) 操業上ないし経済上の一体性

原告らは、被告企業らの事業所が集中立地していることによる集積の利益が基礎となって、各企業間の具体的な結び付きが築き上げられ、相互に操業の拡大と収益の増大がもたらされており、右集積の利益により、被告企業ら間に緊密な一体性が認められる旨主張する。

そこで、原告らが主張する被告企業ら間の具体的関連性を示す主な事実について検討を加える。

(1) 被告日本鋼管を軸とする関連

① 被告三菱石油、同昭和シェル石油及び同東亜石油との関係(〈書証番号略〉、証人中村剛次郎、同田治見昭)

ア 被告三菱石油、同昭和シェル石油及び同東亜石油に対する扇島埋立地の売却等

被告日本鋼管は、昭和四二年秋ころ、被告三菱石油、同昭和シェル石油及び同東亜石油の三社から個別に被告日本鋼管所有の扇島の土地譲渡の申入れを受け、右扇島の土地の一部を譲渡したことがあり、また、昭和四三年度において、被告三菱石油、同昭和シェル石油及び扇島石油基地株式会社の三社から扇島石油タンク、配管及び装置一式を受注した。

イ 被告東亜石油との間のコーカガス取引

被告日本鋼管は、昭和五一年一〇月から同六一年一月までの間、被告東亜石油からパイプラインによりコーカガスの供給を受けていたが、右コーカガスの受入量は被告日本鋼管京浜製鉄所の年間所内エネルギー量の一%以下であった。

② 被告東京電力との関係(〈書証番号略〉)

被告日本鋼管は、被告東京電力から、昭和四八年度において川崎火力発電所の油タンク、また、昭和五一年度以降の東扇島LNG受入基地の建設計画に際し、LNG地下タンク、受入設備及び供給ガス導管等を受注したが、被告日本鋼管においては、右被告東京電力に限らず他の電力関係の各社から工事の受注を受けている。

③ 鋼管化学(後の日本オレフィン化学)との関連(〈書証番号略〉、証人南川万俊)

ア 鋼管化学は、昭和三二年八月、被告日本鋼管の製鉄部門の拡大に伴う副生品であるコークス炉ガスとタールの合理的利用を目的として、同社の一〇〇%出資により設立された。その後、前記のとおり、鋼管化学は、昭和三八年二月に日本オレフィン化学と社名を変更した後、同年五月に昭和油化と対等合併して社名を日本オレフィン化学株式会社とした。

そして、日本オレフィン化学においては、昭和四二年五月に被告日本鋼管出身の全役員が退任し、同年八月、被告日本鋼管は、同社の保有する日本オレフィン化学の全株式を譲渡し、その後、昭和四七年八月に昭和油化株式会社と商号変更し、更に昭和五四年七月に被告昭和電工と合併した。

イ 鋼管化学を通じての被告日石化学との関係(証人南川万俊、同秋山克弘)

鋼管化学は、ポリスチレンのもとのスチレンモノマーの原料であるエチレンの不足分を被告日石化学から昭和三七年四月から約一年間に亙って供給を受けていた。

(2) 被告東京電力を軸とする関連

① 他の被告企業らに対する電力供給及びループ配電(〈書証番号略〉、証人小林料)

電気事業者は、電気事業法により供給区域における電力需要者に対する供給義務があること(同法一八条一項)から、被告東京電力においては、その供給区域内である本件地域に工場・事業所が所在する他の被告企業らからの電力供給の申込みを拒絶することができない立場にあり、他方、他の被告企業らも本件地域において電力供給を受けるには被告東京電力のみから受けざるを得ない関係にあった。

また、被告東京電力は、被告企業らを含む千鳥地区あるいは浮島地区所在の主要工場等との間においてループ配電方式を採用しているが、右ループ配電方式とは、変電所から大口需要先について各需要先を配電線でループ状につなぎ、配電線上の特定箇所で事故が発生しても瞬時に別方向から送電できる方式であって、昭和六二年度では、神奈川県内では一六のループ回線があり、本件地域に限っても、右被告企業らだけではなく地下街等にも右ループ配電方式により電力供給を行っていた。

② 被告JR東日本との関係(〈書証番号略〉、証人中村剛治郎、同小林料)

被告東京電力は、昭和二六年八月から昭和三四年度までの間において電力事情が悪化したため、被告東京電力の委託により国鉄川崎火力発電所が委託発電をしたこと、被告東京電力設立前の日本発送電株式会社当時の昭和一四年度から国鉄との間で相互に余剰電力を融通し、その後も電力振替供給契約を締結して右余剰電力の融通を継続していること、また、被告JR東日本川崎火力発電所は機能検査時において被告東京電力から受電していることが認められるが、右委託発電は電力事情悪化という特殊事情に基づくものであるとともに国鉄のみに委託したものではなく、余剰電力の融通も他の電力会社との間においても締結されており、また、検査時の受電も電力の継続的供給の観点によるものである。

(3) 被告東燃、同東燃化学及び同キグナス石油を軸とする関連

① 被告日石化学との関係(〈書証番号略〉、証人中村剛治郎、同秋山克弘、同高瀬昭夫)

ア 共通の供給先の存在

被告東燃化学と同日石化学の共通の供給先として被告昭和電工、日本オレフィン化学、旭ダウ株式会社などが存する。このように誘導品メーカーである被告昭和電工等が、両社から供給を受ける理由として、安定的に原料の供給を受け得ること及び価格交渉力を得られることが考えられるが、これを被告東燃化学と同日石化学からみれば、同じ供給先を有することにより競争関係にあるわけであるから、右事実から両社に関連性があるとはいえない。

イ エチレン等の相互融通及び委託生産

被告東燃化学と同日石化学との間においては、昭和三六年一〇月に原料、生産品等の相互融通を図り、需要家に対する生産品の円滑な供給を確保するための覚書を作成し、これに基づき、昭和三八年一二月、両社のエチレンプラント装置の定期修理、事故等の場合あるいは各需要先への供給が不足する場合にエチレン、プロピレン及びその他の生産品を相互融通する協定を締結し、これらに基づきエチレン等の相互融通を行ってきた。右相互融通の実績は、昭和三八年から同六三年までの間において、エチレンについては被告日石化学の生産量の三%以下、プロピレンについては同二%以下の程度であった。

また、右のような相互融通は、被告東燃化学と同日石化学との間の特殊なものではなく、エチレンセンター相互において一般的に行われているものである。

また、被告日石化学は、昭和四八年一月、同社の次期エチレンプラントが完成するまでの間、エチレン等の製品が一部不足することから被告東燃化学にエチレンの生産を委託し、これに基づき、昭和四九年五月まで被告東燃化学が委託生産をしたが、右委託生産量は被告日石化学の生産量の三%程度であった。

また、被告日石化学においては、三菱化成、丸善石油化学との間においても同様の生産委託をしたことがあった。

ウ 共有の連絡路の存在

被告東燃化学と同日石化学との間に共有の土地が存するが、右共有地は、出光興産株式会社が一旦取得したものの、後に神奈川県に返還した結果、右両社が昭和四一年一二月にそれぞれ取得したところ、従前の両者用地との関係で飛地となるため、その一部を各自の工場敷地間の連絡通路用として共有にしたものであって、両社間の連絡通路ではない。

② 被告昭和電工との関係(証人大柳昌一)

ア エチレン・プロピレンの供給

被告昭和電工は、エチレンについては、昭和三九年から同五四年の間、プロピレンについては、扇町地区で昭和三八年からプロピレンオキサイド・プロピレングリコールの原料として、千鳥地区で昭和四一年からアクリロニトリルの原料としてそれぞれ被告東燃化学から購入している。

イ 千鳥工場の買収

被告昭和電工は、独自のエチレンセンターとして大分工場を新設したため、昭和五四年一二月、被告東燃化学に対し、同社の千鳥工場を譲渡した。

③ 被告ゼネラル石油との関係(〈書証番号略〉、証人久保田建三、同高瀬昭夫、同雨宮明生)

ア 被告ゼネラル石油の設立経緯等

前記のとおり、被告東燃は、昭和三三年一一月のゼネラル石油(本件被告ゼネラル石油とは別法人、その後、昭和四二年一月、ゼネラル石油精製株式会社と商号変更)の設立に際して本件被告ゼネラル石油(当時の商号はゼネラル物産、昭和四二年一月、現商号に変更)とともにそれぞれ五〇%を出資し、被告東燃の従業員の一部が右別法人であるゼネラル石油の製油所の建設、運転あるいは管理の各部門に転籍した。ただ、右別法人のゼネラル石油においては、その生産計画はゼネラル物産(被告ゼネラル石油)との間の協議により策定され、また、右ゼネラル石油の製品全量をゼネラル物産(被告ゼネラル石油)が引き取って販売するなどの事情に基づくと、実質的には被告ゼネラル石油の子会社といえた。その後、被告東燃は、同社あるいは被告東燃化学の川崎地区における昭和三七年三月の操業前である昭和三六年八月、SVOCに対し右別法人のゼネラル石油の株式全部を譲渡し、その結果、右別法人のゼネラル石油を通した被告ゼネラル石油との資本関係は解消された。

イ 施設等の共同利用等

被告東燃は、川崎工場稼働に際し、被告キグナス石油及び同ゼネラル石油との間において、資本関係があった間において電力を一体利用する共同受電方式及び電気受給に関する協定、油槽、シーバース等の設備賃貸借に関する協定を締結し、被告東燃と同ゼネラル石油は、資本関係が終了した後にも受電設備を共有する形でそれぞれの責任において電力を受ける設備共用受電方式を採用していたり、被告キグナス石油は、昭和三五年九月から同三七年三月までの間、被告ゼネラル石油の桟橋を使用して同社の原油の荷揚げ作業を行ったり、昭和三九年以降、被告東燃の浮島シーバース、扇島シーバースの利用を定める賃貸借の協定を結び、以後、右利用は継続していたが、被告東燃を中心とするいわゆる東燃グループの各社と被告ゼネラル石油との施設等の共同利用関係は、両者間に資本関係があった時期あるいはそれに近接する時期が主である。その他、被告ゼネラル石油が同東燃化学から昭和四三年から同五四年までの間、スチームを購入していたが、それは被告ゼネラル石油の全体の六%にすぎず、また、相互に石油精製の委託関係があるものの、被告東燃以外にも行っており、特に他と異なる関係ではない。

④ 被告東亜石油との関係(〈書証番号略〉)

被告東燃は、昭和三四年一一月から同四〇年一〇月までの間、また、被告キグナス石油は、昭和三七年から同四三年までの間、被告東亜石油の原油を受託精製していた。但し、右被告東燃の受託精製は川崎工場以外の工場が大部分であり、また、そもそも右受委託精製は、委託側としては、自社の製油所のない地域の供給のため輸送費を節約する目的あるいは自社の原油処理能力や定期修理期間中の生産不足分を補う目的で、他方、受託側としては、設備能力に余裕がある場合、稼働率を上げて固定費負担を軽減する目的で行われるもので、石油精製会社間において一般的に行われている取引形態である。

(4) 被告日石化学及び同浮島化学を軸とする関連

① 被告昭和電工との関係(〈書証番号略〉、証人秋山克弘)

ア 被告日石化学が石油化学事業への進出を計画していたころ、被告昭和電工は、エチレンを原料とした高密度ポリエチレンの製造及び副生ガスを利用した硫安あるいは尿素の製造合理化を図り石油化学事業に進出する計画を持っていたが、右技術導入につき通産省から許可を得られなかったことから、昭和三一年一一月、被告日石化学に対しエチレン及び副生ガスの供給を申し込み、被告日石化学は、同三四年六月から右供給を開始した。

なお、被告昭和電工は昭和三二年六月に高密度ポリエチレンの製造目的で昭和油化を設立したため、エチレンの供給は右昭和油化に対してなされた。

右昭和油化設立の際、原料供給の安定性確保のため、被告日石化学に対し低率ではあるものの資本参加の要請があったが、被告日石化学においては設立早々であったこともあって日本石油が右出資要請に応じた。

右被告昭和電工からの供給申込み等により、被告日石化学は、エチレン・ブタジエン計画に基づき、それぞれ資本系統を異にする被告昭和電工、旭ダウ、日本触媒化学工業、古河化学工業及び日本曹達各株式会社に対しエチレンを、旭電化株式会社等に対しプロピレンを、日本ゼオンに対しブタジエンを、被告昭和電工に対し副生ガスをそれぞれ供給することになった。

被告日石化学、右古河化学工業、昭和油化、日本触媒化学工業、日本ゼオン及び旭ダウは、各工場の建設時期等の調整が必要であったことから、昭和三三年春、連絡調整機関として日本石油化学関係会社連絡協議会を結成した。右協議会は、被告日石化学の操業開始とともに自然解消し、現在においては、企業集団としての意志決定機関は存しない。

なお、被告日石化学と同昭和電工との間に資本的な関係あるいは人的関係はいずれもない。

イ 昭和油化との取引経緯

被告日石化学と昭和油化間のエチレンの取引は、被告日石化学操業当初においては、被告日石化学の最大の需要家であった(右取引量は当時の被告日石化学のエチレン総販売量の約三割を占めていた。)が、昭和三七年に被告東燃化学が操業を開始すると、昭和油化は右東燃化学からもエチレンを購入したため、以後、被告日石化学の昭和油化に対する販売シェアは減少していき、次いで、被告昭和電工が昭和三七年に徳山地区にアセトアルデヒド製造設備を作り、同四四年に大分地区に年産一五万トンのエチレン製造装置を完成したことにより、昭和油化とのエチレン取引は更に減少し(昭和四〇年から同五四年までの間の平均取引量は七%程度となった。)、昭和五五年には取引関係がなくなった。

ウ 被告昭和電工との取引経緯

被告日石化学は、同昭和電工に対し、昭和三五年からプロピレンオキサイド、プロピレングリコールの原料として、同四一年からアクリルニトリルの原料としてプロピレンの供給を開始し、右取引は現在も継続している。

なお、右プロピレンの取引量は、取引当初、被告日石化学のプロピレン総販売量の一五%程度であったが、昭和四〇年から同六三年までの期間は八%程度に減少している。

② 被告日本鋼管との関係(証人秋山克弘、同南川万俊)

前記(1)③イの認定のとおり、被告日石化学は、昭和三七年四月から同三八年四月までの間、鋼管化学に対しエチレンを供給していたが、その販売量は約一五〇〇トンで被告日石化学のエチレン総販売量の三%弱程度であった。但し、鋼管化学は、前記(1)③アの認定のとおり、その後、日本オレフィン化学に商号を変更した上、昭和油化と合併したが、被告日石化学は、右合併後の日本オレフィン化学に対してはエチレンの供給を継続している。

(5) 被告昭和電工を軸とする関連

① 被告日本鋼管との関係(証人大柳昌一、同笠井重彦)

ア 被告日本鋼管の子会社である鋼管化学と被告昭和電工が出資し実質的な子会社である昭和油化の合併の経緯については、前記(1)③アの認定のとおりである。

イ 被告昭和電工は、昭和三七年から被告日本鋼管より、当初は鋼管化学を経由して、その後は直接にアンモニア製造用原料としてコークス炉ガスの水素を購入している。

また、被告昭和電工は、昭和三四年から同三六年までの間、被告日本鋼管鶴見製鉄所に対し酸素を供給していた。

ウ 被告昭和電工と同日本鋼管には資本関係及び役員の交流はない。

② 被告東亜石油及び同三菱石油との関係

被告昭和電工は、昭和四二年ころから、被告東亜石油及び同三菱石油よりアンモニア製造用原料等としてナフサを購入しており、被告三菱石油からは昭和四二年から、被告東亜石油からは昭和五六年頃からそれぞれ副生ガスを原料、次いで燃料として僅かであるが購入している。

(6) 被告三菱石油を軸とする関連

① 被告昭和シェル石油との関係(〈書証番号略〉、証人笠井重彦)

ア 東京ガス向けのMEAガス洗浄装置の共同建設

被告三菱石油は、同昭和シェル石油から東京ガスへの都市ガスの原料の副生ガスの販売のため被告三菱石油の構内に配管設備を設置したいという申入れがあったことから、被告三菱石油においても同様に東京ガスにガスを販売することになり、ただ、別個に配管設備を設置することは経済的に得策ではないことから、昭和三九年一〇月、両社が共同でMEAガス洗浄装置(ガス中に含まれる硫黄分をモノエタノールアミンに接触させて除去する装置)及び配管を共同で建設した。その後、被告三菱石油は、新たにガス洗浄装置を建設したため、昭和五五年に被告昭和シェル石油との洗浄装置との共有関係は解消し、東京ガスが燃料を天然ガスに切り替えたため、同五八年以降はガスの供給自体が行われていない。

イ 京浜川崎シーバースの共同建設等

被告三菱石油は、川崎製油所の拡充合理化計画推進の上で、原油タンク等を大幅に増強する必要性があったため、昭和四二年八月、被告日本鋼管から扇島埋立地約五万坪を購入し、同四三年一月から右埋立地に原油及び製品タンクの建設に着手し、同四六年三月に右扇島タンク基地の建設を完成した。

右扇島タンク基地の事務所、コントロール室等につき、被告昭和シェル石油と共同で設置した部分があるが、その運営は別個に行われるものであった。

また、被告三菱石油は、扇島タンク基地の建設と同時期に基地の沖合四〇〇〇mの所に二五万トン級大型タンカーを係留できるブイ式シーバース(京浜川崎シーバース)を被告昭和シェル石油と共同で建設したが、これは川崎の港湾当局の行政指導により単独でシーバースを建設することができなかったことによるものである。

その後、両社は、京浜川崎シーバースを交互に使用しているほか、昭和三九年及び同四六年に石油精製の委託関係があった。

② 被告東亜石油及び国鉄との関係(〈書証番号略〉、証人笠井重彦)

被告三菱石油は、昭和四四年から同四六年まで被告東亜石油との間で石油の受委託関係があり、また、国鉄に燃料油として重油の供給をしているものの、日本石油、出光興産も右供給を行っている。

(7) 被告東亜石油を軸とする関連

① 被告昭和シェル石油との関係(〈書証番号略〉、証人甲斐種千代、河野昌也)

ア 資本的及び人的関係

被告東亜石油においては、昭和四一年四月に伊藤忠商事株式会社が筆頭株主となって以後経営を担当したが、同五四年一二月、被告昭和シェル石油(当時は昭和石油)が同東亜石油の株式を二五%を取得したことから、被告東亜石油の経営権は右伊藤忠商事から被告昭和シェル石油に移り、その後も右昭和シェル石油の持株比率は増加していき、同六〇年一月に35.28%、同六二年四月には42.17%となった。

そして、昭和五五年一月から、被告昭和シェル石油から同東亜石油への役員の派遣が行われ、被告昭和シェル石油の取締役あるいは社員が同東亜石油の取締役となった。

イ 原油受委託精製関係等

被告東亜石油は、昭和五五年四月、被告昭和シェル石油との間で被告東亜石油川崎製油所での受託精製を目的とした原油精製委託契約を締結したが、被告東亜石油川崎製油所においては、右契約に先立って同年一月から受託精製を開始していた。

その後、昭和六二年六月、被告東亜石油川崎製油所と同昭和シェル石油川崎製油所との間に連絡配管が敷設され、両製油所は生産計画等操業上一体的な運営がなされている。

なお、昭和五一年四月に、被告東亜石油が共同石油などと創った東亜共石株式会社と被告昭和シェル石油との間で、原油の長期精製委託契約が締結されたが、これは右東亜共石名古屋製油所における受託精製であったものの、昭和五四年一二月、東亜共石の持株を日本鉱業に譲渡した。

また、被告東亜石油と同昭和シェル石油は、昭和五三年八月、共同で東扇島オイルターミナルを設立し、同五七年八月、両社が所有する東扇島地区の約三〇万m2の用地を利用して貯蔵施設を完成させ、以後共同して使用している。

以上の事実関係に照らすと、昭和四五年頃に至るまでには、被告企業ら間の一部においては、工場敷地の売却関係あるいは工事の受注関係、原料の購入関係あるいは相互融通関係、施設の共同建設あるいは利用関係、更には資本関係がみられるものの、これらの関係は、特に被告企業らに限ったものではなく、更には、一回限りの取引関係であったり、一時期存したものである等いずれも被告企業ら間に緊密な一体性か認められるに足る事実とはいい難い。

(三) 社会資本の独占的利用を通じての一体性

原告らは、被告企業らがその操業のために用地、工業用水、電力、港湾、道路等の社会資本を独占的に利用しており、右社会資本の独占的利用関係により、被告企業ら間に緊密な一体性が認められる旨主張するが、社会資本は、そもそも社会資本の存する地域に属する者が共同で利用することが前提であって、被告企業らが、独占、排他的に利用していないことは明らかで、仮に、被告企業らが共同でより多く社会資本を利用しているとしても、右事実から直ちに、被告企業ら間に緊密な一体性があるとまではいい難い。

(四) 公害対策上の一体性

原告らは、被告企業らが神奈川県や川崎市等の公害規制や公害防止対策に従い、相互に協力して公害対策を行っていることから、右公害対策上の協力を通じて、被告企業ら間に緊密な一体性がある旨主張する。

前記のとおり、我国においては、昭和三七年六月にばい煙規制法が大気汚染防止に係る最初の立法として制定され、工場及び事業所からのばい煙の排出規制を図られることになり、そして、同四二年八月に公害対策基本法が、更に同四三年六月には大気汚染防止法がそれぞれ制定され、右大気汚染防止法における硫黄酸化物についてK値規制方式(排出濃度ではなく着地濃度の規制)の採用等により規制が強化されるに至った。

また、本件地域においても、昭和二六年一二月に神奈川県事業場公害防止条例の公布をはじめとしてその後も神奈川県及び川崎市による規制が行われるとともに、昭和四二年八月に、被告企業の一部を含む川崎臨海地域において立地・操業する二八社により川崎コンビナート公害研究会が組織され、更に同四五年八月には、被告浮島化学を除く被告企業らを含む川崎臨海地域において立地・操業する三七社と川崎市との間で大気汚染防止協定が締結された(右川崎コンビナート公害研究会が組織されたこと及び大気汚染防止協定が締結されたことは当事者間に争いがない。)。

右のような大気汚染物質における国並びに神奈川県及び川崎市による規制の経緯、本件地域内における大気汚染状況に基づき、被告企業らが右汚染状況に対応する行為を行ってきたことに鑑みると、遅くとも昭和四〇年代後半においては、被告企業らは、本件地域における大気汚染状況及び右大気汚染物質の影響等に共通した認識を有した上、これに対して協力して防止対策を採らなければならないという状態にあったといえ、このように、被告企業らが右防止対策を採る事態に至ったことは、つまりは、被告企業らが被告企業らの工場、事業所から排出される汚染物質が合体して原告ら住民の健康に影響を及ぼしていることを当然認識していたということができ、然らずとしても、当然に認識すべきであったということができ、したがって、右認識・対応について、被告企業らに緊密な一体性があると認めるのが相当である。

2 本件道路との関連

(一) 本件道路と道路一覧表(二)記載の道路との関連

原告らは、本件道路と道路一覧表(二)記載の道路(以下「関連道路」という。)との間に一体性がある旨主張する。確かに、例えば、被告企業らに係わる自動車が横羽線を利用する場合、県道東京大師横浜線(産業道路)を一旦通過しなければならない(争いがない。)など本件道路と関連道路との間にその接続関係から道路網が形成されていると評価し得るものの、右のような接続関係は一般的に認められ得るものであり、特に本件道路と関連道路との間に右の関係を超えた一体性があるとまで認めることは困難であると解する。

(二) 被告企業らと本件道路との関係

原告らは、本件道路の整備・拡充が、被告企業らの本件地域における操業開始あるいは拡大に合わせて行われ、被告企業らの事業所が、原材料、製品あるいは労働力等の輸送のために本件道路を利用して大量の自動車を走行させている割合が大きく、両者の結び付きは強固である旨主張するが、本件道路は、いずれも道路法上の道路として一般交通の用に供され、被告企業らに限らず本件地域住民を含む国民の諸種の社会経済活動に不可欠なものであるから、被告企業らと本件道路からの大気汚染物質の排出との間に、社会通念上一個の行為と認められる程度の一体性を認める余地はない。

二民法七一九条一項後段の共同不法行為

1 被告企業ら間の関連共同性

被告企業らは、その立地操業時期は異なるものの、被告浮島化学を除き昭和三〇年代までに本件地域において立地操業し、主として硫黄酸化物等の本件大気汚染物質を排出してきたものであるところ、前記のとおり、本件地域には被告企業ら以外の排出源が存在し、本件地域外の排出源から排出された右大気汚染物質の本件地域内への移入があるとしても、右被告企業らが排出した硫黄酸化物等の本件大気汚染物質の一部が原告ら居住地等に到達し、原告らの本件疾病の発症あるいは増悪に影響を与えたことは否定できないから、右被告企業らの排出行為は、前記説示のとおり、被告企業らの位置関係、原料・製品の供給関係、施設の利用関係などを考えると、緊密な一体性があるとまではいえなくとも、社会通念上一個の行為と認められる程度の一体性は有しているものと解するのが相当である。

2 被告企業らと本件道路との関連

前記一2の説示のとおり、本件道路の性質から被告企業らと本件道路からの大気汚染物質の排出との間に、社会通念上一個の行為と認められる程度の一体性を認める余地はない。

三被告企業らは、昭和四九年度川崎市シュミレーションと同様の手法により同年における各被告企業の排出する硫黄酸化物の到達濃度を主張するが、右昭和四九年においては、前記一の説示のとおり、民法七一九条一項前段の共同不法行為が成立するため、右主張は、同条後段の減免責の主張としては認めることはできない。また、被告企業らの内には、右川崎市シュミレーションと同様の手法により昭和四〇年初頭頃における硫黄酸化物の到達濃度を主張するものがあるが、右川崎市シュミレーションは昭和四九年度におけるものであって条件が異なる昭和四〇年初頭頃の被告各企業の右到達濃度に関する立証としては、未だこれを認めるに足りないものといわざるを得ない。

第七章被告らの責任

第一被告企業らの責任(〈書証番号略〉、弁論の全趣旨)

一大気汚染の危険性に関する社会的認識

我国における公害事件としては、戦前において、①明治二四年頃に足尾銅山からの排水、排煙による農業、漁業上の被害が生じた事件、②明治二六年頃に住友鉱業別子銅山精錬所から排出された媒塵及び亜硫酸ガス等による農作物及び人体に対する被害が生じた事件、③大正二年頃に日立鉱山から排出された亜硫酸ガス等による被害が生じた事件、④明治三九年頃に硫酸等の製造及び銅の精錬を行っていた大阪アルカリ株式会社から排出された亜硫酸ガスによる農作物に対する被害が生じた事件が存していた。

国外における公害事件としては、①大正五年頃にカナダのトレイル所在のカナダ鉱業精錬合同会社から排出された亜硫酸ガスにより米国の農場や森林等に被害が生じた事件(トレイル事件)、②大正五年頃にベルギーのミューズ溪谷付近の工場群から排出された亜硫酸ガス、フッ素化合物及び粉塵により急性呼吸器病患者が急増した事件(ミューズバレー事件)、③米国ペンシルバニア州ドラノ地区所在の鉄鋼及び亜鉛工場等から排出された亜硫酸ガスにより呼吸器病患者が増加した事件(ドラノ事件)、④昭和二七年から同二八年にかけての冬期の英国ロンドンにおいて、亜硫酸ガスにより死亡率が増加した事件(ロンドンスモッグ事件)が存する。

我国においては、戦後、水質汚濁、騒音、大気汚染などの国民生活への影響が問題になり出し、東京都が昭和二四年に工場公害防止条例を制定したのを始め、工業地帯を抱える各都道府県で公害防止条例が制定されるようになったが、そのような状況の下において、厚生大臣は、昭和二九年三月二九日、日本公衆衛生協会に対し、各種公害の許容限界がいかにあるべきかについて諮問し、同三〇年一一月一九日、答申を得た。右答申は、基礎的な調査研究が未だ十分ではないことを認めながらも、我国及び諸外国の研究成果、国際会議の勧告、諸外国の関係法令を参考としながら、騒音、振動、大気汚染、放射能についての許容限界を示した。このうち大気汚染については「ばい煙並びに各種化学物質による空気汚染限度について」として、化学物質のうち、生活環境での二酸化硫黄については0.1ppm、アルデヒドについては0.1ppmを越えてはならないとした。右二酸化硫黄及びアルデヒドの恕限度については、前記ロンドンスモッグ事件及びロサンゼルスにおける測定の際の汚染の実測値を基礎としたものであった。

本件地域においては、大正時代に浅野セメント川崎工場から排出される降灰問題が起こったのを始めとして、昭和一二年頃には川崎、鶴見の工業地帯で煤煙問題が社会問題となっていた。

戦後においては、昭和二五年頃から市民からの大気汚染による被害の苦情が増加し、昭和二六年一一月には川崎市議会に対し、同年七月に被告昭和電工・同日本鋼管からと思われる有毒ガスによって一夜で野菜等が枯死寸前になったことなど農作物へ与える損害あるいは市民への保健衛生に及ぼす悪影響についての請願書が提出されるなどの動きがあり、神奈川県においても、昭和二六年一二月、神奈川県事業場公害防止条例が公布された。その後も、昭和三〇年八月にはガス煤煙により大師地区農作物の被害発生が増大し、川中島・観音町付近でイチジクが三分の一以上落果枯死したが、県農業試験場が科学分析したところによると、枯死したイチジクの葉から硫酸が検出された。

そして、前記認定のとおり、川崎市でも昭和三一年六月に降下煤塵量の測定を開始し、また、同三二年五月には二酸化鉛法による硫黄酸化物の測定が追加され、両汚染物質の定期的測定が行われるようになった。

右測定に関連して、昭和三三年四月の神奈川県京浜工業地帯大気汚染防止対策技術小委員会の大気汚染調査報告書第一報では、大気中に放出される産業廃ガス、交通機関の排気、家庭燃料に起因する廃ガス等はその組成が多種多様であるが、このうち亜硫酸ガスは、あらゆる種類の燃料の燃焼に際して必ず発生するため、大気中の汚染物中に占める量は煤塵とともに最も多いと考えられ、実際に人体その他に実害を与える主役を果たしていると考えられており、亜硫酸ガスの測定は大気の汚染度を知る上の重要な手がかりとなる旨指摘した。

また、横浜市立大学医学部公衆衛生学教室は、昭和三三年一〇月、県衛生部及び市衛生局と協力して、京浜地区における大気汚染状況と喘息の関係を調査するため、横浜・川崎両医師会の協力を得て、一般喘息患者の実態調査を系統的に継続して行うことを決定するなど健康実態調査も実施されるようになった。

二故意責任

原告らは、本件地域に立地し、また、操業を開始(又は再開)していた被告企業らは、遅くとも昭和三〇年代初頭頃までには、自らが大規模な操業によって有害な汚染物質を大量に排出し、それによって本件地域に広汎な大気汚染をもたらし、原告らに広汎な健康被害をもたらすことを認識しながら、何の防止対策も持たずに立地・操業したものであって、その責任態様は故意責任である旨主張する。

しかしながら、前記認定のとおり、遅くとも昭和三〇年代初め頃までには、二酸化硫黄による健康影響等の問題が訴えられ、また、指摘されていたことが認められるものの、被告企業らがその工場・事業所の排出に係る二酸化硫黄による健康被害の程度及びその機序を後記認定の調査義務をまつまでもなく認識していたとまでは認めるに足る証拠はなく、かえって、被告企業らが国及び地方公共団体による規制・指導等を遵守していたことが窺われることにも鑑みると、原告ら主張のように、被告企業らが原告らに広汎な健康被害をもたらすことを認識して排出行為を行ったとまでは認め難いというべきである。

三過失責任

1 注意義務

(一) 調査義務

被告企業らのように、その操業過程により二酸化硫黄等大気汚染物質を大量に排出する企業においては、大気が人類の共有物であり、生活に不可欠なものであることに鑑み、排出する大気汚染物質の性質、近接して大気汚染物質を排出する他の企業等排出施設との関係、周辺住民の居住地との位置関係、大気汚染物質の拡散に影響を与える風向・風速等の気象条件などにつき、操業前あるいは操業継続中に調査研究を尽くし、周辺住民の生命・身体への被害について予見すべき注意義務があるものと解される。

(二) 結果回避義務

被告企業らにおいては、その排出する大気汚染物質により周辺住民の最も保護されるべき生命・身体に被害が生じる危険性が予見できる以上、単に国あるいは地方公共団体による排出規制・指導に従っただけでは結果回避義務を尽くしたということはできず、右生命・身体に被害を及ぼすことのないよう最善の防止対策をとるべき注意義務があるものと解される。

2 本件過失

前記認定のとおり、本件地域においては、被告企業らのうち被告日本鋼管、同東京電力、同昭和電工、同三菱石油、同昭和シェル石油及び国鉄は戦前から立地操業し、被告日石化学、同東燃、同東燃化学、同キグナス石油、同ゼネラル石油及び同東亜石油は昭和三〇年代に操業を開始したものであるところ、昭和三〇年の国勢調査によると、本件地域の人口密度が七二七〇人/km2で全国平均値と比較しても三〇倍余りの人口密集地域であり、既に本件地域で昭和二〇年代半ば頃から市民からの大気汚染による被害の苦情等が増加しており、また、被告企業らの資力・人材からすれば、前記諸外国による大気汚染事件及びその知見、我国における昭和三〇年の日本公衆衛生協会の答申等を参考にして相当の調査研究ができた状況の下においては、戦前から立地していた被告企業らについては、操業の拡大あるいは継続につき、又、戦後に立地した被告企業ら(被告浮島化学を除く。)についても、立地あるいは操業の継続につき、遅くとも昭和三〇年代初頭において、被告浮島化学を除く被告企業らは、その排出する二酸化硫黄により周辺住民の生命・身体に被害が生じることにつき予見可能であったと認められる。

しかるに、被告浮島化学を除く被告企業らは、単に国あるいは地方公共団体による排出規制・指導に従うのみで独自に右企業らが排出する二酸化硫黄の周辺住民の生命・身体への被害に対する調査義務を怠ったものと認められる。

また、被告浮島化学を除く被告企業らは、前記認定のとおり、その後の大気汚染防止対策の実施により二酸化硫黄の排出量を逓減していったことに鑑みると、それまでに右被告企業らが行った防止対策では十分でなかった(新技術の開発・普及のタイム・ラグを考慮したとしても)と認めるのが相当である。

三大気汚染防止法二五条一項の責任

被告浮島化学を除く被告企業らは、大気汚染防止法二五条一項の規定に従い、同法の施行期日である昭和四七年一〇月一日以降の排出行為による損害については、無過失責任を負う。

なお、被告企業らは、右無過失責任の場合においても、単なる結果責任とは異なり、何らかの方法による結果回避の可能性があることを前提としているところ、被告企業らについては本件地域の大気汚染を回避する可能性がなかった旨主張するが、前記説示のとおり、昭和四〇年代以降の被告企業ら大気汚染防止対策の実施により二酸化硫黄の排出量を逓減していったことに鑑みるならば、結果回避可能性はあったと認めるのが相当であり、右主張を採用することはできない。

第二被告国及び同公団の責任

一被告国の被告企業らに関する責任

原告らは、被告国に対し、被告国による①被告企業らの本件川崎臨海工業地帯への集中立地ないし操業の再開及び拡大に関与・加担した責任、②右の立地及びその後における操業の継続・拡大に対し何らの規制権限を行使しなかったことによる責任を主張する。

1 被告国の関与及び加担に関する責任

(一) 川崎港港湾計画(〈書証番号略〉)

原告らは、被告国が実質的主体として川崎港港湾計画を策定し、その主導の下、川崎臨海工業地帯造成計画を具体的に展開していった旨主張する。

川崎市は、昭和三一年、川崎港の港湾管理者として川崎港港湾計画(第一次計画)を策定して運輸大臣に提出し、その後、答申通り決定した旨運輸大臣より市長宛通達があり、右港湾計画は実施に移されることとなった。

ところで、当時の港湾法(昭和四三年法律第一〇一号による改正前のもの)一二条一項二号では、港湾の開発や保全のための港湾施設の建設改良の計画は港湾管理者が作成することとし、同法四八条一項では「運輸大臣は、一般交通の利便の増進に資するため必要があると認めるときは、重要港湾の港湾管理者に対し、港湾施設の設置、建設、改良その他当該港湾の開発に関する計画の提出を求めることができる。」と規定し、同条二項では「運輸大臣は、前項の計画を審査し、当該計画が全国の港湾の開発のための国の計画に適合しないか、又は、当該港湾の利用上著しく不適当であると認めるときは、これを変更すべきことを求めることができる。」と港湾計画の審査及びその内容(港湾の開発利用の観点からの審査)を規定しており、また、港湾計画の実施については、同法一二条一項三号で、港湾計画の実施するために必要な港湾工事をすることは港湾管理者の業務とされており、同法五二条一項によると、「重要港湾又は避難港において、一般交通の利便を増進するため必要がある場合において、国と港湾管理者の協議が調ったときは、運輸大臣は、予算の範囲内で港湾工事を自らすることができる。」こととされていた。

原告らは、昭和二七年に川崎市が策定した川崎港計画案は、四年後の同三一年段階に策定された計画において素材型重化学工業優先の事業計画と質的に変容したが、右変容は被告国の主導によるものであり、また、一般論としても、各港湾だけの計画では相競合するものがあるため、各港湾間の計画の調整が必要であること、公有水面埋立法における国の権限(主要な港湾工事の大部分が認可事項になっている)と港湾整備緊急措置法に基づく計画の決定権が国に存すること及び計画の実現段階である最も重要な資金面について港湾管理者はその大部分を国に依存していることを理由として、被告国は、右港湾計画に大きく関与しているとする。

しかしながら、昭和二七年の川崎港計画案から同三一年段階の港湾計画への変更につき、右変更が、原告ら主張のように質的に変容したとまではいい難いし、これが専ら被告国の主導に基づくものであることまでを認めるに足りる証拠はない。

また、港湾計画の策定の際には港湾間の調整のために国の協力が必要であり、埋立事業につき公有水面法による制約があるとともに、財政面において被告国の負担が大きいことは認められ、この意味では、港湾計画の策定につき被告国の関与を否定することはできないが、前記港湾法の規定を総合勘案すると、原告ら主張のように右港湾計画の策定の実質的主体であるとまでは認めることができない。

(二) 京浜運河の浚渫工事並びに埋立事業(〈書証番号略〉)

原告らは、被告国が京浜運河の浚渫工事を行って、被告企業群の存立基盤(埋立地創設と船舶航路という二重の機能)を作り出した旨主張する。

我国の高度経済成長の下、産業界における石炭から石油へのエネルギー源の転換により石油の需要が急速に伸長することになり、石油業界においても輸送力の増強を図るため油槽船の大型化を促進することになった。

しかしながら、当時の京浜航路は水深マイナス九m程度で、同航路に入航できる船舶が二万トン級までであったことから、右航路を利用する石油精製業者は、企業合理化促進法(以下「促進法」という。)に基づき、同航路を水深マイナス一二mまで浚渫するよう横浜及び川崎の両港港湾管理者に申請した。

そこで、右両港湾管理者は、被告国と協議し、促進法八条四項により被告国の直轄事業(石油施設整備事業)として航路を浚渫することに決定し、事業費総額二四億円(内事業者負担五〇%、被告国負担二五%、港湾管理者負担二五%)、昭和三二年度から同三四年度までの三か年事業として実施され、右浚渫土砂は扇島埋立予定地に放砂されることになった。また、被告日本鋼管は、その頃、水江製鉄所の拡張計画を進めていたが、既に川崎・鶴見両工場の荷役能力は昭和三四年当時においても充分でなく、ピーク時においては他社の埠頭に頼る状態であったため、促進法に基づき被告国の直轄事業(産業関連施設整備事業)として、更に京浜航路の防波堤沿一五〇mを水深マイナス一二mまで浚渫するよう港湾管理者に申請し、右石油施設整備事業と同様に、事業費総額五億四〇〇〇万円(負担割合は前記事業と同様)、昭和三四年度から同三六年度までの三か年事業として実施され、右浚渫土砂は扇島予定地に放砂された。

右認定のとおり、京浜運河の浚渫工事は、被告企業らからの促進法に基づく申請により被告国が直轄事業として行ったものであり、その結果、被告企業らが便益を受けたことは否定できないところであるが、被告国の右行為により被告企業らの排出行為を増大せしめたとまで解することはできず、また、右浚渫土砂による埋立工事が行われたことも、それをもって右浚渫工事により埋立工事が可能になったものとまではいうことができず、いずれも被告国の右行為と被告企業らの排出行為が直接に結び付くものとは認めることができない。

2 被告国の規制権限不行使に関する責任

原告らは、被告国が、被告企業らの操業によって排出される大気汚染物質による影響及びその排出源に対する調査研究を尽くし、その排出によって住民の生命・健康が侵害されることのないように排出規制・防除施設の設置、場合により操業の縮小・停止などを含む適正な措置を採るべき法的義務を負っており、右作為義務の根拠として、遅くとも昭和三〇年代初頭頃においては、被告国の被告企業らの立地・操業に対する積極的関与及び本件地域における公害発生状況等の事情の下における条理、被告国の右積極的関与による先行行為及び行政指導を主張し、また、昭和三七年以降においては、ばい煙規制法による規制権限を主張する。

(一) 排出規制権限の根拠としての条理

被告国の被告企業らに対する排出ないし操業の規制権限の有無は基本的には規制権限を規定する法規を根拠とすべきものである。ところで、原告ら主張のように条理を規制権限の根拠とすることができるかについては、条理の内容自体の判断が困難であり、排出ないし操業の規制が、本来自由な生産活動を直接的に制限するものであるから、右のようにその内容の判断が困難である条理を根拠として右の制限を容認し、そして、右条理による規制の不行使を義務違反と把えることまでは認め難いといわざるを得ない(国民の生命、身体、健康に対して具体的な危険が切迫しており、組織規範上の所掌事務からみて関係者に対して被害回避のための行政指導等をなし得る立場にある行政庁がこの具体的な危険を知り、又は、容易に予見し得る状況にあり、右行政庁が安全性の確保等のための調査をし、右調査に基づいて具体的な規制等の行為をすれば、容易に結果の発生を回避することができ、且つ、右行政庁が右行為をしなければ、他に結果の発生を回避することができない場合であって、国民が右行政庁にそれを期待しているといった極限的な状況下においては、右行政庁には、条理に基づき例外的に右のごとき行為をする法的な権限が生じ、且つ、これをする法的な義務を負うに至るものと解し得る余地もあるが、本件についてみれば、右のごとき極限状況にあったものとは直ちに認め難く、又、行政庁に、国民の各種基本的人権と関わりを持つ生産活動に伴う排出物の規制、ひいては、操業の停止、制限といった直接的な行為を容認することは、条理内容の多義性とも絡み、法的安定性を著しく害することにもなり兼ねないというべく、本件においては、条理を規制権限の根拠とする見解にはにわかに左袒し得ない。)。

(二) 排出規制権限の根拠としての先行行為

前記1の認定説示のとおり、本件地域における川崎港港湾計画あるいは京浜運河の浚渫工事及び埋立事業に被告国が関与していることは否定できないところであり、その結果として、被告企業らの内の一部が立地・操業したものであるが、被告国の右関与と被告企業らの排出行為が直接結び付くとまではいうことができないことからすると、原告ら主張の先行行為を根拠として被告国に被告企業らに対する規制権限を肯定することは認め難い。

(三) 排出規制権限の根拠としての行政指導

行政指導は、行政機関が一定の行政目的を実現するために相手方の同意又は任意の協力を得てその意図するところを実現する事実行為であり、行政指導をするかどうかは行政機関の公益的見地に立った政治的、技術的裁量に委ねられている。ところで、本件のように、被告企業らに対する排出ないし操業の規制権限を規定した法規がない場合において、行政指導の行使義務違反があるといえるためには、少なくとも一定の行政指導をしたならば、相手方においても通常それに従う事情が存することが必要であるが、昭和三〇年代初頭頃において、被告国が被告企業らに対し排出ないし操業の規制、つまりは、操業の停止ないし制限をもたらすような内容の行政指導をなしたならば、被告企業らにおいて右指導に従ったと窺われる事情は必ずしも存せず、右当時において、被告国に行政指導の義務があったとまでは認めることは困難である。

(四) 排出規制権限の根拠としてのばい煙規制法

前記のとおり、昭和三七年六月にばい煙規制法が制定され、被告企業らの工場、事業場等からの大気汚染物質の排出に制限を加える法律が初めて制定された。同法は、厚生大臣及び通産大臣に対し、著しい大気汚染が発生している地域として政令で指定された地域内において、排出基準を煤煙発生施設の種類ごとに定める権限を与え、排出者が違反した場合、都道府県知事が改善命令等を発することができ、更に右改善命令に違反した場合には刑罰を科すことができるものであるが、被告国が強制的に排煙の排出や工場、事業場等の操業を停止させるような規制権限までも付与したものではなく、また、同法の施行により、工場、事業場等の除塵対策が強化され、煤その他の粉塵量が減少し一定の効果がみられたことの諸事情に鑑みると、被告国がばい煙規制法上の権限につき不行使があったとまで認めることは困難である。

二被告国及び同公団の道路に関する責任

二酸化硫黄との関係については、前記認定説示のとおり、本件道路からの二酸化硫黄の排出が認められるものの、被告企業らからの二酸化硫黄の排出量がかなり減少した昭和四九年においても、本件道路からの排出量は被告企業らの一%にも満たず、また、被告企業らの排出行為と本件道路からの排出につき関連共同性が認め難いことも考慮すると、本件道路から排出される二酸化硫黄と原告らの健康被害との間に因果関係を認めることはできない。

また、前記認定説示のとおり、二酸化窒素と原告らの健康被害との間の因果関係を認めることができないから、二酸化窒素につき被告国及び同公団の道路に関する責任も認め得ない。

第八章損害賠償請求

第一原告らの損害賠償請求の方式

原告らは、本件大気汚染公害によって現在までに蒙った全ての被害、すなわち、原告らの蒙ってきた精神的・経済的・家庭的・社会的その他あらゆる面に亙る性質の被害をあるがままに捉え、これを包括したもの(「総体としての被害」)を損害として、死亡者(死亡については直接死因とする。但し、提訴時、起因死亡につき行政訴訟中であった亡土屋敏一を含む。)及び公健法により特級に認定された患者につき金三〇〇〇万円、同法により一級及び二級に認定された患者につき金二〇〇〇万円、同じく三級に認定された患者につき一五〇〇万円(なお、公健法による認定時において未成年者であった者については、成人患者の右各請求基準額から一律五〇〇万円を減額する。)の類型に分類して一律請求し、右金額は、全損害の内から公健法等の行政上の給付金額を控除した損害の更に内金として請求するものである旨主張する。

一一部請求の当否

原告らは、前記のとおり、全損害の内から公健法等の行政上の給付金額を控除した損害の更に内金として請求するものであるとし、原告ら主張の「総体としての被害」の内労働能力喪失による損害及び狭義の慰藉料として、各原告らにつき個別積算試算例を主張する。

しかしながら、原告らの主張する個別積算試算例なるものは、労働能力の喪失として疾病あるいは死亡による逸失利益、同じく疾病あるいは死亡による慰藉料及び葬儀費用のみを積算したものであるところ、その損害の算出方法の適否は別としても、右個別積算試算例は、原告らも認めるように各原告についての損害の全体額を明示したものとは言うことができず、原告らの請求は、いわゆる一部請求と解することができないので、本件においては、後記のとおり、原告らの本件口頭弁論終結時を基準として損害額を認定した上で、行政上の給付金額を控除すべきであると解するのが相当である(したがって、原告らは後に別訴により残額の請求をすることは許されない。)。

二包括請求の当否

被告らは、包括請求(包括的慰藉料請求)が認められるのは、財産的損害の立証が著しく困難であり、又は事実上不可能であると認められた場合に限られ、その財産的損害の立証が期待し得る場合にまで及ぶものでないところ、本件訴訟においては、損害の発生に関し、指定疾病の認定患者につき健康被害の程度を明らかにし、その健康被害による治療費、休業損害及び逸失利益等の財産的損害を明確にすることは、原告らの主張立証責任に徴して当然に期待し得るところであり、その責任遂行を阻む障碍はない旨主張する。

しかしながら、原告らの包括請求方式は、各損害費目による個別積算方式と比較すると、算出根拠が曖昧であり、恣意的に陥り易いことは否定し得ないところであるが、個別積算方式においても、損害の中には金銭評価をすることが困難なものがあるばかりでなく、損害額の算定においても、その算定の基礎に問題の余地が全くないとまでいえないこと等を総合勘案するならば、個別積算方式による請求が困難であり、包括請求方式によることが止むを得ない事情がある場合には、右包括請求方式も適法であると解するのが相当である。

ところで、本件においては、原告らは、本件疾病の発症後長期間に亙って症状が継続して財産的損害あるいは精神的損害が発生しているものであるところ、発症後の症状は必ずしも一定ではなく、悪化あるいは軽快傾向、中にはそれの繰り返しといった症例も窺われ、過去に遡った各時点において、その財産的損害あるいは精神的損害を厳密に主張立証を要求することは原告らに救済の道を閉ざすことにもなりかねない事情が存すると認められ、右事情の下においては、本件において、本件疾病に罹患したことによる健康被害として、財産的損害及び精神的損害を包括して請求することも適法と解するのが相当である。

三類型別一律請求

被告らは、一律請求が許容され得るのは、加害者の行為によって被害者全員が最小限度この程度までは等しく蒙っていると認められる被害があり、このような被害を被害者らに共通する損害として、各自につきその限度で慰藉料として求めるという場合に限られ、本件においては妥当しない旨主張する。

しかしながら、原告らは、死亡原因あるいは公健法の認定等級により類型的に一律請求をするものであるところ、各原告らの蒙った損害は、公健法の認定等級が同じであるとしても、その発症時期、症状の態様及び程度等各原告により差異があり、右認定等級等により必ずしも損害額が画されるものではないが、右等級により最低限類型別の損害額が発生しているものとして一律請求することも適法と解するのが相当である。

第二損益相殺

一損益相殺の可否

原告らは、本件訴訟において、公健法等の行政上の給付金額を控除した損害の内金請求をする旨主張するものの、前記説示のとおり、原告らは各損害の全体額を明らかにしているとはいえないから、右主張を認めることはできず、本件訴訟において原告らが受けた各種の行政上の給付金額を損益相殺すべきであると解するのが相当である。

二損益相殺すべき給付

原告らは、公健法あるいは川崎市の条例等により各種の補償給付を受けているところ、本件訴訟において、精神的損害及び財産的損害を包含した包括的慰藉料を請求するものであるから、各補償給付の性質からして、公健法による障害補償費(第三分冊中の別紙公健法等による各種給付額表記載①)、児童補償手当(同表記載②)、遺族補償費等(同表記載③)、川崎市公害病認定患者療養生活補助費等助成条例による療養生活補助費及び療養手当(同表記載④)、川崎市公害健康被害補償条例による障害補償費(同表記載⑤)、遺族補償金(同表記載⑥)及び療養補償金(同表記載⑦)、過去分補償金(同表記載⑧)、川崎市公害認定患者死亡見舞金支給要綱による死亡見舞金及び川崎市公害病認定患者療養生活補助費等助成条例による弔慰金(同表記載⑨)については、右損害を補填するものというべく、原告らの損害は、右各給付の限度において補填されたものと認められるから、原告らの損害賠償額からこれを控除すべきである。

なお、原告らは、右給付額を一部争うが、右給付額は原告らにおいて概ね明らかにすることが可能であるにも拘わらず、単に争うのみであるので、被告らによる右給付額の推定額を給付額として認めることも止むを得ないと解するのが相当である。しかして、原告らの各給付額は、第三分冊中の別紙公健法等による各種給付額表記載のとおりとなる。

第三損害

一原告らの損害

原告(患者)らの居住歴、職歴、発症時期、入院歴、公健法等の認定関係、病状の経過、他疾病及び喫煙歴等個別的な事情は第四分冊記載の認定のとおりであるところ、各原告らの損害額の算定に当たっては、右個別的な事情に基づき、各原告の罹患した疾病、その発症時期、症状の程度及び経緯、入通院期間並びに職歴、他疾病及び喫煙等本件疾病の症状の程度に与えた諸要因等を総合的に勘案することとし、これによると、その損害額は第三分冊中の別紙損害額表の損害額欄記載のとおりとなる。

そして、前記説示のとおり、右損害額から前記損益相殺すべき給付合計金額(別紙損害額表の給付額欄又は別紙公健法等による給付額表合計欄)を控除することとする(以下右控除後の金額を「残額」という。)。なお、右控除により、原告文鳳祚、同佐々木玲吉、同エドワード・プジョストフスキー、同菅原公明、同皆川勉及び同永山善人については、損益相殺すべき公健法等による給付により、損害はすべて填補されていることになる。

二右残額における被告企業らの責任割合

前記認定説示のとおり、被告浮島化学を除く被告企業ら(以下「被告企業ら」とは被告浮島化学を除くものである。)の排出した二酸化硫黄の本件地域における到達の寄与割合(以下「到達の寄与割合」という。)は、昭和四〇年初頭頃においては少なくとも約四〇%、同四九年においては同様に約一五%と認められるところ、本件のような事案にあっては、右到達の寄与割合をもって被告企業ら排出に係る二酸化硫黄による原告らの本件疾病の発症等に対する寄与割合と解するのが相当である。

そして、右到達の寄与割合は、昭和四〇年初頭頃及び同四九年のみしか明らかではないが、前記認定説示のとおり、本件地域において、昭和二〇年代後半頃から大気汚染による被害の苦情が出ていたこと、被告企業らの到達の寄与割合を最小限に認定していること、被告企業らにおいては昭和四〇年代半ば頃から公害防止対策が本格化したこと及び原告らの本件疾病の発症には一定の暴露期間を要すると考えられること等諸事情を総合的に勘案して、昭和三〇年以降同四八年までに発症した原告らについては、被告企業ら排出に係る二酸化硫黄による原告らの本件疾病の発症等に対する寄与割合を四〇%、昭和四九年以降同五〇年代前半頃までに発症した原告らについては、同様に一五%であると認めるのが相当である(なお、本件においては、大気汚染防止法二五条の二の適用を考慮することは相当ではないと解する。)。

三共同不法行為の成立範囲

右二の説示のように原告らの本件疾病の発症時期を基準として被告企業ら排出に係る二酸化硫黄による本件疾病の発症等に対する寄与割合を勘案することから、被告企業らの共同不法行為の成立する範囲も、原告らの発症時期(但し、本件疾病の発症期間を要することをも勘案する。)と被告企業らの本件地域における操業開始時期を考慮して、昭和三〇年中に発症した原告らについては、被告日本鋼管、同東京電力、同昭和電工、同三菱石油、同昭和シェル石油及び国鉄の債務を承継した被告国鉄清算事業団(以下右六社を「被告企業六社」という。)、昭和三一年以降同三二年中までに発症した原告らについては、右被告企業六社及び被告東亜石油(以下右七社を「被告企業七社」という。)、昭和三三年以降同三五年中までに発症した原告らについては、右被告企業七社及び被告日石化学(以下右八社を「被告企業八社」という。)、昭和三六年以降同三七年中までに発症した原告らについては、右被告企業八社、被告キグナス石油及び同ゼネラル石油(以下右一〇社を「被告企業一〇社」という。)、昭和三八年以降に発症した原告らについては、右被告企業一〇社、被告東燃及び同東燃化学との間に共同不法行為が成立すると解する。

四弁護士費用

原告らは、本件訴訟の提起及び追行につき原告ら訴訟代理人に委任したことは本件記録上明らかであるところ、本件事案の内容、審理経過、認容額等諸般の事情を考慮すると、被告企業らの過失と相当因果関係にある弁護士費用として被告企業らに対して請求できる額は各原告らの認容額の約一割と解するのが相当であり、右弁護士費用としての損害額は前記別紙損害額表記載弁護士費用欄記載のとおりである。

第四消滅時効

被告企業らは、遅くとも、横浜弁護士会公害対策特別委員会が川崎の大気汚染は被告東京電力等のコンビナートの大工場が原因である旨の調査報告書を公表した昭和四九年四月当時既に罹患していた者についてはその時点において、また、それ以後に罹患した者については罹患の時期において、民法七二四条前段に規定する「損害及び加害者」を知ったものというべく、原告らの本件損害賠償請求権は、第五分冊中の別表五の原告別一覧表の「時効完成時」欄に記載のとおり、右の時点から三年の期間の経過により本件訴訟提起前に時効消滅し、仮に、原告らのうちに、右時点において「損害及び加害者」を知り得ない者がいたとしても、本件訴訟が提起された日より遡り三年を超える過去の時点においていずれも公健法による認定申請を行い、右原告別一覧表の「認定時期」欄記載のとおり認定を受け、また、原告らを含む川崎公害病友の会や川崎から公害をなくす会を中心に、被告企業らに対して、公害の撲滅と被害の責任について交渉を求めたこと等の諸事情に照らすならば、認定申請をした時点頃には「損害及び加害者」を知るに至ったといえるので、本件訴訟提起の日より遡り三年を超える過去の時点においては時効が進行し、本件訴訟提起時においては時効が完成していた旨主張する。

しかしながら、原告らの健康被害は、被告企業らの大気汚染物質の排出行為により、発症以後長期に亙り症状の増悪・継続してきたものであるところ、右原告らの健康被害による損害は、各時点ごとに切り放して評価することは極めて困難であり、一個の損害に当たるものと評価すべきであると解するのが相当である。

ところで、被告企業らは、右のとおり、横浜弁護士会公害対策特別委員会による報告あるいは公健法等による認定を受けた日から消滅時効が進行する旨主張するが、民法七二四条前段の「加害者を知りたる時」(大気汚染防止法二五条の四の「賠償義務者を知ったとき」も同様)とは加害者に対する損害賠償が事実上可能な状況の下に、その可能な程度にこれを知った時であると解すべきところ、前記認定説示のとおり、原告らの健康被害を生じせしめた大気汚染物質も全てが被告企業らの排出に係るものに限るものではなく、且つ、原告らの発症の因果関係も科学的な知見等を総合勘案して初めて認められるものであるから、被告企業らが主張する横浜弁護士会公害対策特別委員会による報告あるいはその他の諸事情のみで原告らが加害者あるいは賠償義務者を損害賠償が事実上可能なまでに知ったとまではいえないので、被告企業らの右主張を採用することはできない。

しかしながら、原告らは、本件訴訟を提起した昭和五七年三月一八日の時点においては遅くとも民法七二四条の「加害者」あるいは大気汚染防止法の「賠償義務者」が被告企業らであることを認識していたものと認めるのが相当である。したがって、本件訴訟提起前に死亡した亡浅里真司、亡土屋敬一、亡干場常晴、亡井田次作、亡佐藤栄一、亡玉那覇公栄、亡高橋紀美子及び亡早坂忠夫の相続人である原告らの請求については、本件訴訟提起時である昭和五七年三月一八日から、また、本件訴訟提起後に死亡した亡青木吉二、亡斎藤晴雄、亡木村志げ及び亡中村清造(以上の者については、右同人らの相続人)、原告大村森作、同川上幸作、同服部末太郎、同木村しづ、同木村寅吉、同佐々木綱之、同佐々木ゆき、同田中音治、同布川キセ、同山本正一、同秋谷鉄五郎、同宇井正、同金時光、同志村なつ子、同中澤善之助、同中澤セノ、同吉永ソヤ、同川野一馬、同佐藤榮助、同相馬喜徳郎、同野田正、同櫻田與五郎及び同根岸善治の各請求については、いずれも死亡の日の翌日からそれぞれ消滅時効が進行するものと解する(ただ、これらの請求については、いずれも認容額が請求の趣旨拡張前の金額の範囲内であるから、右各債権につき消滅時効により消滅することはない。)。

第九章差止請求

一原告らの差止請求は、①被告企業らに対して、各事業所において操業することにより、原告ら居住地等において、二酸化硫黄、二酸化窒素及び浮遊粒子状物質につき請求の項記載の数値を超える汚染となる排出行為をしないこと、②被告国及び同公団に対して、本件道路を自動車の走行の用に供することにより、原告ら居住地等において、二酸化窒素及び浮遊粒子状物質につき請求の項記載の数値を超える汚染となる排出行為をしないことをそれぞれ求めるものである。

二ところで、二酸化硫黄、二酸化窒素及び浮遊粒子状物質の大気汚染物質は、気体あるいは微細な物質であって捕捉することが困難であるとともに、時々刻々変化する気象条件等により、原告ら居住地等における右物質の濃度が大きく変化するものであるから、被告らあるいは強制執行に当たる執行機関が、原告らの居住地等において請求の項記載の違反状態が生じたか否かを認識することが極めて困難であり、また、仮に、請求の項記載の違反状態を測定あるいは認識することができたとしても、右各物質が被告企業らの事業所あるいは本件道路のみから排出されるものに限られるものではなく、被告企業らの事業所あるいは本件道路から排出された物質とその他の排出源から排出された物質とを区別する手段もないことからすると、右違反状態が被告らの排出行為等によるものであるか否かを判断することもまた事実上困難であることに照らすと、原告らの右請求の項の実現は不可能というべきである。

また、原告らの求める差止請求における請求の項は、二酸化硫黄等の大気汚染物質の濃度が原告らの居住地において一定数値以下となる一定の事実状態(結果)を作出することを求めるものであるが、右状態を作出するための方法又は態様は各種多様のものが考えられるところであるから、被告らにおいてどのような方法又は態様をなすべきかが明確ではないというべきである。

右の点につき、原告らは、本件のような公害訴訟という紛争関係の性質からして、被告らのいかなる行為の禁止を求めたら、あるいはいかなる行為の実施を求めたら、原告らの権利侵害という結果を排除し、若しくは防止できるのかが明確でなく、また、被害者である原告らにはそれを確知することを期待できないものであることが明白であるから、危険の存在ないし発生源及び侵害の結果を特定することで足りる旨主張するが、訴訟物ないし訴訟上の請求という手続上の問題が、紛争の性質により左右されるとはいえないし、前記説示のとおり、硫黄酸化物等大気汚染物質が被告らの排出行為のみに係るものではないことからすると、原告らの主張の前提である発生源が確定しているものではないから、原告らの右主張は採用することができず、その意味で未だ本案判決の対象となる訴訟物ないし訴訟上の請求が特定していないと解すべきである。

三以上によると、原告らの本件差止請求は、不適法としていずれも却下を免れ得ない。

(裁判長裁判官根本久 裁判官小松峻 裁判官橋本眞一)

被告企業事業所一覧表

会社名

事業所の所在地

①日本鋼管

(1) 扇島地区

川崎市川崎区扇島一― 一

(2) 川崎既存地区

同 市同 区南渡田一― 一等

②東京電力

(1) 川崎火力発電所

同 市同 区千鳥町五― 一

(2) 鶴見火力発電所

同 市同 区大川町四― 一

(3) 東扇島火力発電所

同 市同 区東扇島

③東燃

川崎工場

同 市同 区浮島町七― 一

④東燃化学

(1) 川崎工場

同 市同 区浮島町七― 一

(2) 千鳥工場

同 市同 区千鳥町三― 一

⑤キグナス石油精製

川崎工場

同 市同 区浮島町三― 一

⑥日本石油化学

(1) 川崎工場

同 市同 区夜光町二―三― 一

(2) 浮島工場

同 市同 区浮島町一〇― 一〇

⑦浮島石油化学

浮島工場

同 市同 区浮島町一〇― 一〇

⑧昭和電工

(1) 川崎工場

同 市同 区扇町五― 一

(2) 千鳥工場

同 市同 区千鳥町二―三

⑨ゼネラル石油

川崎製油所

同 市同 区浮島町六― 一

⑩三菱石油

(1) 川崎製油所(扇町地区)

同 市同 区扇町一二― 一

(2) 川崎製油所(扇島地区)

同 市同 区扇島一―二

⑪昭和シェル石油

(1) 川崎製油所(扇町地区)

同 市同 区扇町一八― 一

(2) 川崎製油所(扇島地区)

同 市同 区扇島一―三

⑫東亜石油

川崎製油所

同 市同 区水江町三― 一

⑬東日本旅客鉄道

川崎発電所

同 市同 区扇町八―三

道路一覧表(一)(本件道路)

道路名

起点・経由地・終点

イ 国道一号線

東京都中央区を起点、大阪市を終点とし、

本件地域内においては、幸区小向仲町から同区柳町を経由する。

ロ 国道一五号線

東京都中央区を起点、横浜市を終点とし、

本件地域内においては、川崎区本町二丁目から同区池田町を経由する。

ハ 国道一三二号線

川崎港千鳥橋詰を起点、川崎区宮前町を終点とする。

ニ 国道四〇九号線

川崎市を起点、木更津市を経由地として、成田市を終点とする。

本件地域内においては、幸区鹿島田から川崎区浮島町を経由する。

ホ 神奈川県道高速

横浜羽田空港線(横羽線)

横浜市中区を起点とし、本件地域内においては、

川崎区浅田四一丁目から終点の同区殿町一丁目までである。

道路一覧表(二)(関連道路)

道路名

起点・経由地・終点

ヘ 県道東京大師横浜線

(産業道路)

川崎区大師河原一丁目を起点とし、同区浅田四丁目を経由する。

ト 県道川崎港線

(元県道大師河原幸線)

幸区幸町二丁目を起点とし、川崎区浮島町先を終点とする。

チ 県道川崎府中線

(府中県道)

川崎区宮前町を起点とし、多摩区菅を終点とし、幸区鹿島田を経由する。

但し、幸区幸町二丁目から鹿島田方向の部分は、国道四〇九号線と

重なるので、本件で問題とする固有の県道部分は、川崎区宮前町から

幸区幸町二丁目までの一二九八mである。

リ 県道扇町川崎停車場線

川崎区駅前を起点とし、同区扇町を終点とする。

ヌ 県道鶴見溝の口線

幸区小倉一六八七から同区北加瀬を経由する。

ル 県道川崎町田線

川崎区日進町から幸区柳町を経由する。

ヲ 市道皐橋水江町線

川崎区境町二一を起点とし、同区水江町五を終点とする。

ワ 市道南幸町渡田線

川崎区元木一丁目を起点とし、同区鋼管通四丁目を終点とする。

請求金額目録

括弧内は拡張前の請求金額

原告番号

原告

損害額

弁護士費用

合計金額

備考

(一次訴訟) (遅延損害金起算日 昭和五七年五月二六日)

1

大村森作

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

(二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

2

相原タカ

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

3

青木トミ子

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

亡青木吉二承継人

(二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

単独相続

4

浅里朋己

一〇〇〇万円

二〇〇万円

一二〇〇万円

5

出浦智恵子

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

6

伊藤豊秋

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

8

苅部孫四郎

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

9

川上幸作

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

10

倉持マチ

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

11

黒澤鉄三郎

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

12

黒沢トシ

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

13

佐野トミ

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

14

渋谷ヤエ

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

16

須藤フミ

三〇〇〇万円

六〇〇万円

三六〇〇万円

17

丹治ヤス

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

18

土屋登

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

19

露木勇

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

20

服部末太郎

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

21

文鳳祚

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

22

前原徳治

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

23

浦郷公恵

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

24

阿蒜愛子

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

25

伊藤公代

一五〇〇万円

三〇〇万円

一八〇〇万円

26

岩沢久子

一五〇〇万円

三〇〇万円

一八〇〇万円

27

金井ふさ子

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

28

河合秀夫

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

29

木村しづ

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

30

木村寅吉

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

31

小林ミヨ

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

32

佐々木綱之

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

(二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

33

佐々木玲吉

一五〇〇万円

三〇〇万円

一八〇〇万円

34

佐々木ゆき

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

(二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

原告番号

原告

損害額

弁護士費用

合計金額

備考

35

佐藤實

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

36

菅原きよ

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

37

田中音治

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

(二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

38

浜田美千代

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

39

深沢キク江

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

40

布川キセ

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

(二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

41

宮下良雄

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

42

山本正一

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

43

山本リヨ子

一五〇〇万円

三〇〇万円

一八〇〇万円

44

秋谷鉄五郎

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

(二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

45

阿部ふみ子

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

46

色川キヨ

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

47

岩沢芳子

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

48

宇井正

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

(二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

49

エドワード・

ブジョストフスキー

一五〇〇万円

三〇〇万円

一八〇〇万円

50

金時光

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

51

斎藤晴子

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

亡斎藤晴雄承継人

(二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

単独相続

52

柴原寿恵子

一五〇〇万円

三〇〇万円

一八〇〇万円

53

志村なつ子

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

54

菅原公明

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

55

中澤善之助

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

(二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

56

中澤セノ

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

(二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

57

新妻トシ

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

58

前橋カノ

一五〇〇万円

三〇〇万円

一八〇〇万円

59

横田ヤエ

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

60

吉永ソヤ

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

(二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

61

阿部喜八

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

62

太田一彦

一五〇〇万円

三〇〇万円

一八〇〇万円

63

川野一馬

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

64―1

木村一郎

一五〇〇万円

一五〇万円

一六五〇万円

亡木村志げ承継人

(一〇〇〇万円

二〇〇万円

一二〇〇万円)

相続分二分の一

64―2

五十嵐浩子

三七五万円

三七万五〇〇〇円

四一二万五〇〇〇円

亡木村志げ承継人

(二五〇万円

五〇万円

三〇〇万円)

相続分八分の一

64―3

木村光一

三七五万円

三七万五〇〇〇円

四一二万五〇〇〇円

亡木村志げ承継人

(二五〇万円

五〇万円

三〇〇万円)

相続分八分の一

64―4

木村耕三

三七五万円

三七万五〇〇〇円

四一二万五〇〇〇円

亡木村志げ承継人

(二五〇万円

五〇万円

三〇〇万円)

相続分八分の一

64―5

木村直司

三七五万円

三七万五〇〇〇円

四一二万五〇〇〇円

亡木村志げ承継人

(二五〇万円

五〇万円

三〇〇万円)

相続分八分の一

67

坂上一子

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

68

佐藤榮助

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

69

佐原久子

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

70

相馬喜徳郎

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

(二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

71

滝沢正雄

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

72

田中孝作

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

(一五〇〇万円

三〇〇万円

一八〇〇万円)

73

馬場ミツ子

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

74―1

増子玲子

一五〇〇万円

一五〇万円

一六五〇万円

亡中村清造承継人

(一〇〇〇万円

二〇〇万円

一二〇〇万円)

相続分二分の一

74―2

石黒弘子

一五〇〇万円

一五〇万円

一六五〇万円

亡中村清造承継人

(一〇〇〇万円

二〇〇万円

一二〇〇万円)

相続分二分の一

75

長沢ます

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

76

野田正

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

(二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円)

77

野田美津子

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

78

野中八重子

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

79

皆川勉

一五〇〇万円

三〇〇万円

一八〇〇万円

80

我妻正一

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

81

永山善人

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

82

池田輝子

一五〇〇万円

一五〇万円

一六五〇万円

83

大橋昭二

二〇〇〇万円

二〇〇万円

二二〇〇万円

84

柄沢富士子

一五〇〇万円

一五〇万円

一六五〇万円

85

齋藤彦一

二〇〇〇万円

二〇〇万円

二二〇〇万円

86

櫻田與五郎

二〇〇〇万円

二〇〇万円

二二〇〇万円

87

高世富子

二〇〇〇万円

二〇〇万円

二二〇〇万円

原告

番号

原告

損害額

弁護士費用

合計金額

備考

89

根岸善治

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

(二〇〇〇万円

二〇〇万円

二二〇〇万円)

90

鈴木サツ

二〇〇〇万円

二〇〇万円

二二〇〇万円

91―1

浅里忠夫

一五〇〇万円

一五〇万円

一六五〇万円

亡浅里真司相続人

相続分二分の一

91―2

平政子

一五〇〇万円

一五〇万円

一六五〇万円

亡浅里真司相続人

相続分二分の一

92

土屋ツル

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

亡土屋敏一相続人

単独相続

93―1

畑貞子

一〇〇〇万円

一〇〇万円

一一〇〇万円

亡畑英夫相続人

相続分三分の一

93―2

畑和夫

六六六万六六六六円

六六万円

七三二万六六六六円

亡畑英夫相続人

相続分九分の二

93―3

畑英宗

六六六万六六六六円

六六万円

七三二万六六六六円

亡畑英夫相続人

相続分九分の二

93―4

木下世津子

六六六万六六六六円

六六万円

七三二万六六六六円

亡畑英夫相続人

相続分九分の二

94―1

干場よし

一〇〇〇万円

一〇〇万円

一一〇〇万円

亡干場常晴相続人

相続分三分の一

94―2

江川康敬

一〇〇〇万円

一〇〇万円

一一〇〇万円

亡干場常晴相続人

相続分三分の一

94―3

干場和子

一〇〇〇万円

一〇〇万円

一一〇〇万円

亡干場常晴相続人

相続分三分の一

95―1

斎藤キミヨ

一〇〇〇万円

一〇〇万円

一一〇〇万円

亡斎藤又蔵相続人

相続分三分の一

95―2

斎藤勝

四〇〇万円

四〇万円

四四〇万円

亡斎藤又蔵相続人

相続分一五分の二

95―3

下条恵美子

四〇〇万円

四〇万円

四四〇万円

亡斎藤又蔵相続人

相続分一五分の二

95―4

城間綾子

四〇〇万円

四〇万円

四四〇万円

亡斎藤又蔵相続人

相続分一五分の二

95―5

斎藤輝久

四〇〇万円

四〇万円

四四〇万円

亡斎藤又蔵相続人

相続分一五分の二

95―6

古谷晶子

四〇〇万円

四〇万円

四四〇万円

亡斎藤又蔵相続人

相続分一五分の二

96―1

井田テル子

一五〇〇万円

一五〇万円

一六五〇万円

亡井田次作相続人

相続分二分の一

96―2

井田祐子

一五〇〇万円

一五〇万円

一六五〇万円

亡井田次作相続人

相続分二分の一

97

佐藤志津子

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

亡佐藤榮一相続人

単独相続

98―1

玉那覇トミ

一〇〇〇万円

一〇〇万円

一一〇〇万円

亡玉那覇公栄相続人

相続分三分の一

98―2

玉那覇栄徳

六六六万六六六六円

六六万円

七三二万六六六六円

亡玉那覇公栄相続人

相続分九分の二

98―3

矢野エミ子

六六六万六六六六円

六六万円

七三二万六六六六円

亡玉那覇公栄相続人

相続人九分の二

98―4

諏訪節子

六六六万六六六六円

六六万円

七三二万六六六六円

亡玉那覇公栄相続人

相続分九分の二

99

高橋ミツ子

三〇〇〇万円

三〇〇万円

三三〇〇万円

亡高橋紀美子相続人

単独相続

100―1

早坂良子

一〇〇〇万円

一〇〇万円

一一〇〇万円

亡早坂忠夫相続人

相続分三分の一

100―2

大和田礼子

五〇〇万円

五〇万円

五五〇万円

亡早坂忠夫相続人

相続分六分の一

100―3

早坂由美子

五〇〇万円

五〇万円

五五〇万円

亡早坂忠夫相続人

相続分六分の一

100―4

早坂誠治

五〇〇万円

五〇万円

五五〇万円

亡早坂忠夫相続人

相続分六分の一

100―5

早坂直美

五〇〇万円

五〇万円

五五〇万円

亡早坂忠夫相続人

相続分六分の一

(二次訴訟) (遅延損害金起算日 昭和五八年一二月二八日)

21

牛山喜與司

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

27

金泳奎

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

29

藤田仁子

一五〇〇万円

三〇〇万円

一八〇〇万円

62

岩田綾子

一〇〇〇万円

二〇〇万円

一二〇〇万円

(三次訴訟) (遅延損害金起算日 昭和六〇年四月二日)

7

早川きぬ子

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

46

宋﨎徳

一五〇〇万円

三〇〇万円

一八〇〇万円

48

石川晃

一〇〇〇万円

二〇〇万円

一二〇〇万円

61

荻野公子

二〇〇〇万円

四〇〇万円

二四〇〇万円

97

福原シマ子

二〇〇〇万円

二〇〇万円

二二〇〇万円

公健法等による各種給付額表

(備考)

①公健法による障害補償費 ②同法による児童補償手当 ③同法による遺族補償費等

④川崎市公害病認定患者療養生活補助費等助成条例による療養生活補助費又は療養手当

⑤川崎市公害健康被害補償条例による障害補償費 ⑥同条例による遺族補償金

⑦同条例による療養補償金 ⑧過去分補償金

⑨川崎市公害認定患者死亡見舞金支給要綱による死亡見舞金及び

川崎市公害病認定患者療養生活補助費等助成条例による弔慰金

番号

合計

(一次訴訟)

1

大村森作

24,547,300

18,070,900

0

5,288,400

188,000

0

0

0

1,000,000

0

2

相原タカ

10,942,520

10,938,520

0

0

0

0

0

4,000

0

0

3

青木吉二

21,521,990

9,763,790

0

11,758,200

0

0

0

0

0

0

4

浅里朋己

5,127,330

2,922,330

1,333,000

0

68,000

0

0

104,000

700,000

0

6

伊藤豊秋

18,046,000

16,234,000

0

0

312,000

0

0

0

1,500,000

0

8

苅部孫四郎

15,652,400

15,648,400

0

0

0

0

0

4,000

0

0

9

川上幸作

12,167,850

12,167,850

0

0

0

0

0

0

0

0

10

倉持マチ

12,353,450

11,250,450

0

0

103,000

0

0

0

1,000,000

0

〈以下省略〉

損害額表

(円)

番号

損害額

給付額

残額

被告負担額

弁護士費用

被告負担総額

(一次訴訟)

1

大村森作

41,400,000

24,547,300

16,852,700

6,741,080

674,000

7,415,080

2

相原タカ

25,000,000

10,942,520

14,057,480

5,622,992

562,000

6,184,992

3

青木吉二

36,800,000

21,521,990

15,278,010

6,111,204

611,000

6,722,204

4

浅里朋己

9,800,000

5,127,330

4,672,670

1,869,068

187,000

2,056,068

6

伊藤豊秋

33,000,000

18,046,000

14,954,000

5,981,600

598,000

6,579,600

8

苅部孫四郎

26,300,000

15,652,400

10,647,600

4,259,040

426,000

4,685,040

9

川上幸作

26,300,000

12,167,850

14,132,150

5,652,860

565,000

6,217,860

10

倉持マチ

25,800,000

12,353,450

13,446,550

5,378,620

538,000

5,916,620

11

黒澤鉄三郎

25,800,000

18,799,450

7,000,550

2,800,220

280,000

3,080,220

12

黒沢トシ

20,000,000

11,580,970

8,419,030

3,367,612

337,000

3,704,612

13

佐野トミ

23,800,000

13,183,660

10,616,340

4,246,536

425,000

4,671,536

14

渋谷ヤエ

26,300,000

12,977,250

13,322,750

5,329,100

533,000

5,862,100

16

須藤フミ

45,000,000

13,603,600

31,396,400

12,558,560

1,256,000

13,814,560

17

丹治ヤス

27,500,000

11,519,750

15,980,250

6,392,100

639,000

7,031,100

18

土屋登

31,400,000

20,104,150

11,295,850

4,518,340

452,000

4,970,340

19

露木勇

24,500,000

19,903,450

4,596,550

689,483

69,000

758,483

20

服部末太郎

22,500,000

12,033,300

10,466,700

4,186,680

419,000

4,605,680

21

文鳳祚

28,100,000

49,825,400

22

前原徳治

21,300,000

9,442,640

11,857,360

4,742,944

474,000

5,216,944

23

浦郷公恵

21,300,000

13,484,400

7,815,600

3,126,240

313,000

3,439,240

24

阿蒜愛子

23,300,000

8,006,560

15,293,440

6,117,376

612,000

6,729,376

26

岩沢久子

15,000,000

8,590,030

6,409,970

2,563,988

256,000

2,819,988

27

金井ふさ子

25,000,000

13,376,700

11,623,300

4,649,320

465,000

5,114,320

28

河合秀夫

25,000,000

23,034,040

1,965,960

786,384

79,000

865,384

29

木村しづ

24,800,000

10,384,800

14,415,200

5,766,080

577,000

6,343,080

30

木村寅吉

23,100,000

10,654,400

12,445,600

4,978,240

498,000

5,476,240

31

小林ミヨ

20,000,000

11,127,750

8,872,250

3,548,900

355,000

3,903,900

32

佐々木綱之

43,200,000

24,007,100

19,192,900

7,677,160

768,000

8,445,160

33

佐々木玲吉

15,000,000

15,312,330

34

佐々木ゆき

32,200,000

15,798,030

16,401,970

6,560,788

656,000

7,216,788

35

佐藤實

34,700,000

20,162,350

14,537,650

5,815,060

582,000

6,397,060

36

菅原きよ

20,000,000

10,851,430

9,148,570

1,372,286

137,000

1,509,286

37

田中音治

45,000,000

27,383,600

17,616,400

7,046,560

705,000

7,751,560

38

浜田美千代

21,300,000

7,449,280

13,850,720

5,540,288

554,000

6,094,288

39

深沢キク江

22,000,000

12,496,890

9,503,110

3,801,244

380,000

4,181,244

40

布川キセ

50,600,000

15,691,900

34,908,100

13,963,240

1,396,000

15,359,240

41

宮下良雄

25,800,000

17,293,600

8,506,400

3,402,560

340,000

3,742,560

42

山本正一

26,300,000

15,220,960

11,079,040

4,431,616

443,000

4,874,616

43

山本リヨ子

13,500,000

8,800,880

4,699,120

1,879,648

188,000

2,067,648

44

秋谷鉄五郎

40,800,000

21,844,500

18,955,500

7,582,200

758,000

8,340,200

45

阿部ふみ子

21,300,000

11,844,800

9,455,200

1,418,280

142,000

1,560,280

46

色川キヨ

29,700,000

21,433,300

8,266,700

3,306,680

331,000

3,637,680

47

岩沢芳子

23,800,000

8,697,860

15,102,140

6,040,856

604,000

6,644,856

48

宇井正

41,400,000

12,000,000

29,400,000

4,410,000

441,000

4,851,000

49

エドワード・ブジョストフスキー

15,000,000

15,268,330

50

金時光

25,000,000

12,095,300

12,904,700

5,161,880

516,000

5,677,880

51

斎藤晴雄

48,000,000

24,564,900

23,435,100

9,374,040

937,000

10,311,040

52

柴原寿美子

15,000,000

8,056,380

6,943,620

2,777,448

278,000

3,055,448

53

志村なつ子

38,000,000

11,079,500

26,920,500

10,768,200

1,077,000

11,845,200

54

菅原公明

18,800,000

20,751,040

55

中澤善之助

43,200,000

28,511,200

14,688,800

5,875,520

588,000

6,463,520

番号

損害額

給付額

残額

被告負担額

弁護士費用

被告負担総額

56

中澤セノ

40,800,000

23,792,000

17,008,000

6,803,200

680,000

7,483,200

57

新妻トシ

22,500,000

14,039,720

8,460,280

3,384,112

338,000

3,722,112

58

前橋カノ

15,500,000

7,947,380

7,552,620

3,021,048

302,000

3,323,048

59

横田ヤエ

19,500,000

6,875,850

12,624,150

5,049,660

505,000

5,554,660

60

吉永ソヤ

41,400,000

14,109,250

27,290,750

4,093,613

409,000

4,502,613

62

太田一彦

14,900,000

4,849,160

10,050,840

4,020,336

402,000

4,422,336

63

川野一馬

25,000,000

7,604,260

17,395,740

6,958,296

696,000

7,654,296

64

木村志げ

36,800,000

19,458,050

17,341,950

6,936,780

694,000

7,630,780

67

坂上一子

22,000,000

11,774,250

10,225,750

4,090,300

409,000

4,499,300

68

佐藤榮助

25,000,000

6,000,000

19,000,000

7,600,000

760,000

8,360,000

69

佐原久子

22,500,000

10,052,960

12,447,040

4,978,816

498,000

5,476,816

70

相馬喜徳郎

32,200,000

27,034,800

5,165,200

2,066,080

207,000

2,273,080

71

滝沢正雄

21,300,000

16,936,150

4,363,850

1,745,540

175,000

1,920,540

73

馬場ミツ子

23,300,000

12,969,050

10,330,950

4,132,380

413,000

4,545,380

74

中村清造

32,200,000

12,161,006

20,038,994

8,015,598

802,000

8,817,598

75

長沢ます

30,000,000

10,710,150

19,289,850

7,715,940

772,000

8,487,940

76

野田正

36,000,000

22,749,240

13,250,760

5,300,304

530,000

5,830,304

77

野田美津子

23,800,000

8,034,790

15,765,210

6,306,084

631,000

6,937,084

78

野中八重子

25,800,000

9,413,090

16,386,910

6,554,764

655,000

7,209,764

79

皆川勉

14,300,000

15,830,500

80

我妻正一

21,300,000

17,544,280

3,755,720

1,502,288

150,000

1,652,288

81

永山善人

19,500,000

25,931,040

82

池田輝子

13,500,000

8,244,480

5,255,520

2,102,208

210,000

2,312,208

83

大橋昭二

23,800,000

19,748,300

4,051,700

1,620,680

162,000

1,782,680

84

柄沢富士子

10,500,000

7,148,640

3,351,360

1,340,544

134,000

1,474,544

85

齋藤彦一

32,400,000

28,022,750

4,377,250

1,750,900

175,000

1,925,900

86

櫻田與五郎

20,000,000

10,937,390

9,062,610

3,625,044

363,000

3,988,044

87

高世富子

18,800,000

13,260,540

5,539,460

2,215,784

222,000

2,437,784

89

根岸善治

50,400,000

31,411,600

18,988,400

7,595,360

760,000

8,355,360

90

鈴木サツ

15,000,000

6,961,260

8,038,740

1,205,811

121,000

1,326,811

91

浅里真司

27,600,000

12,000,000

15,600,000

2,340,000

234,000

2,574,000

92

土屋敏一

15,500,000

6,000,000

9,500,000

3,800,000

380,000

4,180,000

94

干場常晴

27,600,000

12,342,000

15,258,000

6,103,200

610,000

6,713,200

96

井田次作

29,900,000

19,057,300

10,842,700

4,337,080

434,000

4,771,080

97

佐藤栄一

31,200,000

30,751,600

448,400

67,260

7,000

74,260

98

玉那覇公栄

43,200,000

22,629,800

20,570,200

8,228,080

823,000

9,051,080

99

高橋紀美子

36,800,000

12,000,000

24,800,000

9,920,000

992,000

10,912,000

100

早坂忠夫

43,700,000

27,689,550

16,010,450

6,404,180

640,000

7,044,180

(二次訴訟)

21

牛山喜與司

23,300,000

17,339,980

5,960,020

2,384,008

238,000

2,622,008

29

藤田仁子

12,000,000

9,196,300

2,803,700

1,121,480

112,000

1,233,480

62

岩田綾子

9,800,000

2,636,060

7,163,940

1,074,591

107,000

1,181,591

(三次訴訟)

7

早川きぬ子

16,300,000

8,537,910

7,762,090

1,164,314

116,000

1,280,314

48

石川晃

12,500,000

5,634,530

6,865,470

2,746,188

275,000

3,021,188

61

荻野公子

27,500,000

10,109,240

17,390,760

6,956,304

696,000

7,652,304

97

福原シマ子

21,300,000

14,242,100

7,057,900

2,823,160

282,000

3,105,160

1 原告大村森作(原告番号一次1番)(〈書証番号略〉、証人大村昭)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治三七年七月二日生

昭和六一年一二月一日死亡(死亡時八二歳)

(三) 居住歴

① 静岡県庵原郡蒲原町で出生・居住の後、大正六年に横浜市に居住

② 昭和八年一〇月から同一〇年四月まで川崎市川崎区池田町に居住

③ 昭和一〇年五月から同三三年一一月まで川崎市川崎区渡田町二丁目三一番地に居住

④ 昭和三三年一二月から同五一年二月まで川崎市川崎区小田一丁目九番一三号に居住

⑤ 昭和五一年二月から同五三年一一月まで川崎市川崎区浜町三丁目六番三号に居住

⑥ 昭和五三年一二月から死亡時まで横浜市神奈川区羽沢町七一五番地の七に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三〇年(五〇歳)頃

② 初診日

昭和三四年頃に杉医院で受診

③ 入院歴

昭和三七年六月から同年九月まで川崎市立川崎病院、同五九年七月頃から四八日間及び同六〇年一月五日から同年六月一一日まで大師病院に入院

(六) 認定関係

① 昭和四八年三月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

③ 昭和五〇年一〇月 同一級に変更

④ 昭和五一年一一月 同二級に変更

⑤ 昭和五二年八月 同一級に変更

(七) 病状の経過等

昭和二七年頃から咳、続いて同三〇年頃から痰が出るようになり、昭和三七年六月頃から呼吸困難とともに咳と痰の悪化により前記のとおり川崎市立川崎病院に入院した。

昭和四八年四月二四日から大師病院に通院するようになったが、当時は一年を通じて咳と痰が出て一回痰が出ると調子の良い時は二時間位良好となるものの、咳が始まると発作様にひどくなる状態であった。

そして、昭和六一年一二月一日、横浜市神奈川区羽沢町の自宅で死亡した(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

他の疾患

既往症として、肺炎(昭和一九年頃)、気管支炎(同二五年頃)、続発症・合併症として、肺気腫(昭和三七年頃)

併発症・随伴症として、冠不全、糖尿病(昭和四九年頃)

2 原告相原たか(原告番号一次2番)(〈書証番号略〉、原告相原たか)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正一二年一〇月二七日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和二一年まで埼玉県北葛飾郡に居住

② 昭和二一年から現在まで川崎市川崎区桜本二丁目三六番二号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四七年一〇月(四八歳)

② 初診日

不詳(川崎協同病院における初診日は昭和五一年七月二二日)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和五一年八月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五一年九月 同障害等級三級に決定

③ 昭和五二年八月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四七年一〇月頃から咳、続いて同四八年一月頃から痰及び息切れの症状が現れ始め、その後、特に冬季において喘息様発作があり、右発作により失禁することもあった。

昭和五一年七月から川崎協同病院に受診し、当時は夕食後に咳及び痰の症状が出る状態であった。

以後月に三回ないし一八回通院しているが、症状には大きな変化はない。

(八) その他

他の疾患

併発症・随伴症として、白癬(昭和五四年頃)、高脂血症(昭和五六年頃)

3 亡青木吉二承継人原告青木トミ子(原告番号一次3番)(〈書証番号略〉、原告青木トミ子)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正六年一月二五日生

昭和六一年四月二八日死亡(死亡時六九歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和一三年頃まで栃木県下都賀郡石橋町に居住

② 昭和一三年頃から同二〇年頃まで従軍(中国)

③ 昭和二〇年頃から同二三年九月まで川崎市川崎区旭町に居住

④ 昭和二三年一〇月から死亡時まで川崎市川崎区浜町三丁目七番八号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四五年(五三歳)頃

② 初診日

昭和四八年六月一七日(四ツ角病院)

③ 入院歴

二回(但し、詳細は不詳)

(六) 認定関係

① 昭和五〇年一〇月 公健法により慢性気管支炎に認定(但し、「禁煙のこと」が付帯条件)

② 昭和五一年一月 同障害等級三級に決定

③ 昭和五一年一一月 同一級に変更

④ 昭和五三年九月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四五年三月頃から咳が出始め、同五〇年頃から特に夜間に咳・痰の症状が悪化し呼吸困難になることがあった。

昭和五三年頃から月に二〇日以上川崎協同病院(昭和五一年以前の名称は四ツ角病院)へ自転車で通院していた。また、同五六年頃において、自宅で呼吸困難に陥り救急車で病院へ搬送されることもあった。

そして、昭和六一年四月二八日、川崎協同病院への通院途中において呼吸困難の発作に見廻われ、右病院に救急車で搬送されたが、同日死亡した。直接死因は急性心不全である(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

続発症・合併症として、肺気腫(昭和五九年頃)

併発症・随伴症として、高血圧症(昭和五〇年頃)

② 喫煙歴

昭和一四年(二二歳)頃から同五一年頃まで一日六本程度の喫煙

4 原告浅里朋己(原告番号一次4番)(〈書証番号略〉、証人平政子)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和四五年七月一四日生

(三) 居住歴

① 東京都昭島市で出生

② 昭和四五年一一月から同五六年七月まで川崎市川崎区中島二丁目九番六号ひかり荘に居住

③ 昭和五六年七月から現在まで川崎市川崎区中島一丁目五番三号コーポ大常五〇五に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四六年七月(一歳時)頃

② 初診日

昭和四六年七月頃(川崎臨港病院)

③ 入院歴

昭和四六年七月に川崎臨港病院への約一〇日間の入院を初めとして同年中に右臨港病院あるいは健保川崎中央病院に二週間程度四回入院し、翌四七年においても川崎市立川崎病院に入院した。

小学校時の入院歴の詳細は不詳であるが二回程度入院し、その後、昭和五八年(中学校入学時)の夏頃に川崎市立川崎病院に五日間入院した。

(六) 認定関係

① 昭和四七年一二月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級級外に決定

③ 昭和五〇年一〇月 同三級に変更

④ 昭和五四年九月 級外に変更

⑤ 昭和五五年七月 同三級に変更

⑥ 昭和五七年八月 級外に変更

⑦ 昭和五七年一一月 同二級に変更

⑧ 昭和五八年八月 同三級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四六年七月(一歳)頃から喘息発作が起こり始め、前記のとおり、同年頃には二週間程度の入院を繰り返した。そして、一歳から三歳頃及び小学校入学前において症状が最も悪化し、深夜に呼吸困難の発作が頻繁に起こり、右発作時にはチアノーゼ症状がみられることもあった。

その後、前記のとおり、小学校時にも入院することがあったが、小学校高学年には町内会の野球チーム、中学校及び高校では柔道部に所属することができた。

また、高校入学後、携帯用の吸入器と吸入用の気管支拡張剤(アロテック)を自己の判断で使用することができるようになり、その後は重い発作に見廻われることが少なくなり、通院も右処方を受けるのが主であった。

ただ、現在においても月に五回程度夜間に発作が起こることがある。

(八) その他

① アレルギー素因

昭和四七年四月のアレルゲン・プリックテストにより卵・チーズに対して陽性であったこと、その後のハウスダストに対する皮内反応が再度に亙って陽性であること、湿疹の既往症があること等からしてアレルギー素因があるものと認められる。

② 他の疾患

既往症として、気管支炎、肺炎

5 原告伊藤豊秋(原告番号1次6番)(〈書証番号略〉、原告伊藤豊秋)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正二年一〇月一日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和一一年まで長野県伊那市(当時上伊那郡)に居住

② 昭和一一年から同一四年まで横浜市鶴見区に居住

③ 昭和一四年二月から同一九年まで川崎市川崎区浜町四丁目二番地に居住

④ 昭和一九年二月から同二〇年一〇月まで東京(軍隊で「帝都警備」の任に当たる)

⑤ 昭和二〇年一〇月から同三七年まで川崎市川崎区浜町四丁目二番地に居住

⑥ 昭和三七年から同四四年三月まで川崎市川崎区観音町一丁目八七番地に居住

⑦ 同年四月から現在まで川崎市川崎区藤崎三丁目三番七号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三四年(四五歳)頃

② 初診日

昭和三四年三月(会社診療所及び三藤医院)

③ 入院歴

昭和四六年七月八日から同年九月二日まで太田病院に入院したのを始め、同五〇年七月四ツ角病院に、同五三年八月二九日から同年一〇月六日まで大師病院に、同五四年一二月二五日頃から同五五年二月五日まで川崎協同病院に、同六三年四月一六日から同年六月一五日まで大師病院にそれぞれ入院した。

(六) 認定関係

① 昭和四六年一二月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級一級に決定

③ 昭和五〇年九月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和三四年三月頃から風邪を起因として咳が止まらない状況が続いたため初めて受診した。

その後も通院を継続したが、昭和四六年七月八日に呼吸困難に陥り、同日前記のとおり最初の入院をしたが、右入院時には重症の呼吸困難とチアノーゼ症状がみられた。

その後の症状としては、夜中から明け方にかけての喘息発作及び喘鳴を伴う呼吸困難がひどく、また、息切れによる歩行に困難も生じている。

昭和五二年頃から発作重積時にソルコーテフ(ステロイド剤)の注射を受け、更に昭和五八年にはケナコルトの処方を受けた(但し、現在はステロイド剤の使用はしていない。)。

右ステロイド剤の副作用による糖尿病等を合併している。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、蕁麻疹

続発症・合併症として、ステロイドによる糖尿病(昭和五一年頃)、ステロイド高血圧症(同五五年頃)

併発症・随伴症として、緑内障(昭和五一年頃)

② 喫煙歴

喫煙歴はあるものの、詳細は不詳

6 原告苅部孫四郎(原告番号一次8番)(〈書証番号略〉、原告苅部孫四郎)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正八年一二月一七日

(三) 居住歴

① 出生から昭和九年まで茨城県真壁郡下妻町に居住

② 昭和九年から同一一年まで東京に居住

③ 昭和一一年から同一三年まで茨城県真壁郡下妻町に居住

④ 昭和一三年から同一六年三月まで川崎市川崎区鋼管通三丁目に居住

⑤ 昭和一六年三月から同二一年五月まで従軍(当時の満州、南方に出征)

⑥ 昭和二一年五月から同年一〇月まで川崎市川崎区鋼管通三丁目に居住

⑦ 昭和二一年一〇月から同二二年三月まで川崎市川崎区大島四丁目に居住

⑧ 昭和二二年三月から川崎市川崎区鋼管通二丁目一五番二号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四〇年(四五歳)頃

② 初診日

昭和四〇年三月頃(日本鋼管病院)

③ 入院歴

昭和四〇年三月に日本鋼管病院に約一週間入院したのを始め、同四二年一一月に同病院に約一週間、同四八年には同病院に各約一週間四回、同五一年五月一〇日から四ツ角病院に一一日間、同五四年に川崎協同病院及び大師病院に三二日間(大師病院においては教育的な入院)、同六一年一月に川崎協同病院に五日間それぞれ入院した。

(六) 認定関係

① 昭和五一年六月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五一年七月 同障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四〇年三月頃から咳が出始めるとともに喉の狭窄感・喘鳴が生じて初めて入院し、その際に気管支喘息と診断された。

その後も入院に至らない程度の発作が五日に一度位起こり、川崎協同病院で注射・投薬(ネオフリン)の処方を受けていたが、右発作は昭和四五、六年頃が最も悪化した状態であった。

また、昭和四八年には喘息発作、呼吸困難が頻繁に生じたことから前記のとおり同年に四回入院することになった。

昭和五四年から大発作時にプレニドン(ステロイド剤)を使用するようになり、同六三年頃には時にケナコルトを併用するようになった。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、気管支炎

続発症・合併症として、肺気腫(昭和六一年頃)

併発症・随伴症として、胃潰瘍(昭和五四年頃)、肺炎(同六三年頃)

② 喫煙歴

二一歳から五六歳まで一日一〇本ないし二〇本の喫煙とともに、家族にも喫煙歴あり

7 原告川上幸作(原告番号一次9番)(〈書証番号略〉、原告川上幸作)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正六年二月一五日生

平成三年六月四日死亡(死亡時七四歳)

(三) 居住歴

① 大正六年二月長崎県南松浦郡北魚目村で出生

② 大正一二年から昭和八年まで朝鮮に居住

③ 昭和八年から同一五年まで五反田、大森、蒲田などに居住

④ 昭和一五年から同一九年四月ころまで川崎市川崎区渡田二丁目(当時は一丁目の表示)に居住

⑤ 昭和一九年七月から同二〇年まで海軍に入隊し鹿児島県に配属

⑥ 一時横浜に居住

⑦ 昭和二五年一二月二五日から死亡時まで川崎市川崎区渡田二丁目四番七号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四八年(五六歳)頃

② 初診日

昭和五三年六月(伊藤医院)

③ 入院歴

昭和五四年二月一日から川崎協同病院に約四〇日間入院したのを始め、同五六年にも同病院に二回入院したが、その後の入院歴の詳細は不詳である。

(六) 認定関係

① 昭和五三年六月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五三年八月 同障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四八年頃から咳、痰が出て、胸部圧迫感のある呼吸困難の発作が起こり始め、同五二年頃には更に痰がひどくなり、喘鳴を伴うようにもなった。

そして、昭和五三年六月に伊藤医院で気管支喘息の診断を受けた。当時は就床時あるいは起床時に呼吸困難の発作が起き易く、ひどい時は夜中二時間ごとに右発作が起こったが、右発作は二か月に一回程度であった。

昭和五四年二月の入院時においては呼吸困難により当初意識を失う状態であった。

昭和五六年以降、咳、痰等の症状に特に変化はなかったが、平成元年頃から呼吸困難の発作が以前より頻繁に起こるようになっていた。

平成三年六月四日、肺癌、肺炎及び気管支喘息を原因とする呼吸不全により死亡した。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、気管支炎、蕁麻疹

続発症・合併症として、左下葉気管支拡張症変化(昭和五七年頃)、肺気腫(同五九年頃)

併発症・随伴症として、糖尿病、下肢動脈瘤(昭和五七年頃)、高血圧症

② 喫煙歴

二〇歳から六〇歳までの間一日一〇本から一五本

8 原告倉持マチ(原告番号一次10番)(〈書証番号略〉、原告倉持マチ)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正二年八月二五日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和一三年二月一二日まで東京都足立区に居住

② 昭和一三年二月一三日から同一五年九月二日まで川崎市川崎区桜本二丁目三七番地に居住

③ 昭和一五年九月三日から同二〇年四月まで川崎市川崎区桜本二丁目八番七号に居住

④ 昭和二〇年五月から同年一一月まで東京都足立区に居住

⑤ 昭和二〇年一二月から現在まで川崎市川崎区桜本二丁目八番七号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四三年(五二歳)頃

② 初診日

昭和四三年八月頃(平安医院)

③ 入院歴

昭和五三年一月から同年三月頃までの六八日間川崎協同病院へ入院

(六) 認定関係

① 昭和四八年六月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四三年初め頃に風邪をひき咳及び痰が治まらない状態が続いたところ、同年八月、就寝した後に咳込み呼吸困難となる発作が起こり、翌朝平安医院に受診した。

そして、平安医院に通院して注射及び投薬の治療を受けたが、当時は殆ど毎日のように発作が起こる状態であり、その後、四ツ角病院(川崎協同病院)へ通院するようになり、発作は昭和五三年(入院時)頃には一か月に一〇回程度となっていたが、右発作時には特に咳の症状が重くゴホンゴホンとドラム缶を転がすような音がするものであった。

昭和五五年一月頃、ケナコルトの筋肉注射を受けた。

現在では発作は一か月に一回程度になっている。

(八) その他

① 他の疾患

続発症・合併症として、ステロイド性胃潰瘍(昭和六一年頃)

併発症・随伴症として糖尿病(昭和四九年頃)、変形性脊椎症(同五一年頃)

② 喫煙歴

二七歳(昭和一六年)から五三歳(昭和四二年)まで一日七本及び昭和六一年頃には喫煙歴あり

9 原告黒澤鉄三郎(原告番号一次11番)(〈書証番号略〉、原告黒澤鉄三郎)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正一〇年三月二五日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和一五年二月まで秋田県鹿角郡尾去沢町に居住

② 昭和一五年三月から同二一年五月まで軍隊生活

③ 昭和二一年六月以降一時秋田県の郷里に居住

④ 昭和二二年頃から東京都大田区に居住

⑤ 昭和二三年一一月から同二八年六月まで川崎市川崎区東小田町一二四番地に居住

⑥ 昭和二八年六月から同五六年二月まで川崎市川崎区東渡田一丁目六〇番地(現在の田島)に居住

⑦ 昭和五六年二月から同年一一月まで横浜市戸塚区へ一時転居

⑧ 昭和五六年一一月から現在まで川崎市川崎区田島町六番一四号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三三年頃(三八歳)頃

② 初診日

昭和三三年頃

③ 入院歴

昭和四四年一二月から六〇日間太田病院に入院(但し、肺炎治療を含む)

(六) 認定関係

① 昭和四八年一月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和三〇年頃から咳及び痰が出始めるようになり、同四〇年頃から太田病院に通院していたが、昭和四四年一二月頃に肺炎を併発したこともあって前記のとおり同病院に入院した。

当時の状態は、特に朝方において咳が間断なく継続し吐き気も催すとともに粘り気のある痰が出るものであった(当時は肺気腫の診断も受けていた。)。

その後、症状に特に変化はなかったものの、昭和六一年頃から息切れの症状が悪化している。

(八) その他

① 他の疾患

併発症・随伴症として、高血圧症(昭和五八年頃)、肺結核(同六三年頃)

② 喫煙歴

喫煙歴はあるものの、詳細は不詳

10 原告黒沢トシ(原告番号一次12番)(〈書証番号略〉、原告黒沢トシ)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

明治四三年四月一一日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和五年まで栃木県那須郡鳥山町に居住(一時期宇都宮市内の姉宅に寄宿)

② 昭和五、六年の間東京都港区青山に居住

③ 昭和七年から同一二年まで栃木県那須郡鳥山町に居住

④ 昭和一二年から同一六年まで東京都港区赤坂に居住

⑤ 昭和一六年から同一七年まで栃木県那須郡鳥山町に居住

⑥ 昭和一七年から同一九年まで横浜市中区末吉町に居住

⑦ 昭和一九年から同二七年まで福島県小名浜市に居住

⑧ 昭和二七年六月から同三五年八月まで川崎市川崎区大島町二丁目四一番地に居住

⑨ 昭和三五年八月から現在まで川崎市川崎区大島三丁目二四番一〇号(番地変更前は同区大島町三丁目四六番地)

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四七年(六二歳)頃

② 初診日

昭和四七年五月二八日(四ツ角病院)

③ 入院歴

昭和五一年九月に川崎協同病院に一九日間、同五八年七月二三日から同年九月二日までの間同病院に(但し、上気道感染に起因する心不全によるもの)、平成元年に大師病院に約二〇日間(但し、入院病名は不詳)各入院

(六) 認定関係

① 昭和四七年六月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

③ 昭和五六年七月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四六年一一月頃から咳と痰が出始めるようになり、同四七年五月に風邪を起因として咳及び痰が出て喘鳴を伴う呼吸困難となり四ツ角病院に受診した。

当時は呼吸困難の発作が一〇日に一回位の割合で起こっていたが、昭和四七年頃から右発作がより頻繁に起こるようになった。そして、昭和五一年九月の入院時には夜中に発作が起こり呼吸困難が治まらない状態が続いた。

(八) その他

① 他の疾患

昭和一六年(三一歳)頃に肋膜炎に罹患、同二九年(四四歳)に乳癌の手術を受けて同手術や放射線治療による後遺症の存在、昭和三五年頃から(陳旧性)心筋梗塞、心臓弁膜症、心不全等の心臓病に罹患、昭和四三年頃まで肺結核の治療を受け同四七年六月まで経過観察中の状態にあった。

② 喫煙歴

三〇歳(昭和一五年)から六一歳(昭和四六年)まで一日六、七本、その後、昭和五二年頃にも同程度の喫煙歴あり

11 原告佐野トミ(原告番号一次13番)(〈書証番号略〉、原告佐野トミ)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正一二年六月二四日

(三) 居住歴

① 出生から昭和一七年(結婚)まで神奈川県橘樹郡馬絹町に居住

② 昭和一七年から同一九年まで川崎市幸区塚越に居住

③ 昭和一九年から同二五年まで神奈川県橘樹郡馬絹町に居住

④ 昭和二五年から同三〇年八月まで川崎市川崎区大島に居住

⑤ 昭和三〇年八月から同三九年一二月まで神戸市長田区林町に居住

⑥ 昭和三九年一二月から同四一年六月まで川崎市幸区古市場に居住

⑦ 昭和四一年六月から現在まで川崎市川崎区大島一丁目一〇番九号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四七年(四八歳)頃

② 初診日

昭和四七年四月三日(四ツ角病院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和四七年五月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

③ 昭和五一年一〇月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四五年頃から風邪をひいたときに咳と痰が出るようになったが、やはり風邪をこじらせていた同四七年二月に喘鳴を伴う発作が夜中に起こり、その後、四ツ角病院に受診して気管支喘息との診断を受けた。右喘息発作は夜中から明け方に起こり、最初に咳が出て喘鳴を伴う呼吸困難の状態に陥るもので右状態が一時間位継続した。

昭和四七年頃には右発作は週に一回程度のことが多かったが、その後は徐々に発作の頻度が増え、それに伴い通院回数も増加している。

(八) その他

① 他の疾患

続発症・合併症として、胃腸炎(昭和四九年頃)、高尿酸血症(同五五年頃)

② 喫煙歴

二二歳から四七歳までの間一日五本ないし一〇本程度の喫煙

12 原告渋谷ヤエ(原告番号一次14番)(〈書証番号略〉、原告渋谷ヤエ)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

明治四五年三月一〇日生

(三) 居住歴

① 出生から小学校六年まで東京市京橋に居住

② 昭和二〇年三月まで東京都江東区亀戸などに居住

③ 昭和二〇年三月から同二八年頃まで茨城県猿島郡吾霞村に居住

④ 昭和二八年頃から同四九年七月まで川崎市川崎区桜本に居住(なお、桜本内において一回転居)

⑤ 昭和四九年七月から現在まで同川崎区浜町三丁目七番七号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三九年(五二歳)頃

② 初診日

昭和四六年八月一九日(四ツ角病院)

③ 入院歴

昭和四七年三月に四ツ角病院に入院したのを始め、右以降同五一年までの入院歴は不詳であるが、同五一年に三回、同五五年に一回、同五七年に二回、同五九年に四回、同六〇年から同六二年までの間年に各一回、同六三年に二回、平成二年に一回それぞれ四日間ないし三五日間川崎協同病院に入院

(六) 認定関係

① 昭和四六年九月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和三九年頃から咳、痰及び息切れの症状が出始め、昭和四六年頃に右症状が悪化したため四ツ角病院に受診し肺気腫を伴う慢性気管支炎と診断された。

昭和四一年頃から咳込みがひどく呼吸困難発作が起こるようになり、同四四年頃には一旦咳が出ると夜中まで継続し、右呼吸困難発作が頻繁に起こり、その頃には少し体を動かしただけでも息切れするようになった。

現在もほぼ毎日川崎協同病院に通院し吸入を受けている。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、心臓疾患

続発症・合併症として、気管支喘息(昭和六二年頃)

併発症・随伴症として、糖尿病(昭和四九年頃)、肩関節周囲炎(同五二年頃)

② 喫煙歴

二五歳(昭和一〇年)頃から多い時には一日一五本(現在も二、三本ながら喫煙中)

13 原告須藤フミ(原告番号一次16番)(〈書証番号略〉、原告須藤フミ)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正一〇年一一月一日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和一八年まで横須賀市に居住

② 昭和一八年から同二〇年頃まで国分寺に居住

③ 昭和二〇年頃から同三〇年三月まで都内、多摩等を転々とする

④ 昭和三〇年三月から同三五年三月まで川崎市川崎区小田栄町に居住

⑤ 昭和三五年三月から同六一年一二月まで川崎市川崎区桜本に居住

⑥ 昭和六一年一二月から現在まで川崎市中原区上小田中に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四三年(四六歳)頃

② 初診日

昭和四八年六月一八日(大師病院)

③ 入院歴

昭和六三年三月から久地病院に約七か月間入院、平成元年三月から同病院に入院後、同二年二月に聖マリアンナ医科大学病院に転院して約二か月入院

(六) 認定関係

① 昭和四八年七月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級特級に決定

③ 昭和五〇年一〇月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四二年一二月頃から風邪をひいて咳及び痰が出る状態が続くようになり、その後、同四七年秋頃にひどく咳込み呼吸困難となる発作に見廻われた。咳と痰の症状は季節的には秋から冬にかけて悪化することが多く、咳は一日中連続的に、痰も一日一五回位出る状態であり、また、発作が起きると喉が締まる感じがして、右発作は長い時は半日位、短い時でも三〇分から一時間位継続する。そして、昭和六一年頃から特に息切れ及び発作等の症状が悪化している。

前記の聖マリアンナ医科大学病院への転院はかなり重篤な発作が生じたことによるものである。

(八) その他

① 他の疾患

続発症・合併症として、肺気腫(昭和六一年頃)

併発症・随伴症として高血圧症(昭和五〇年頃)

② 喫煙歴

二三歳(昭和二〇年)頃から六七歳(昭和六三年)頃まで一日少なくとも五本以上の喫煙(当初はフィルタなしの紙巻タバコ)

14 原告丹治ヤス(原告番号一次17番)(〈書証番号略〉、原告丹治ヤス)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正一四年一〇月五日

(三) 居住歴

① 出生から昭和二七年まで福島市丑子内町に居住

② 昭和二七年から同二八年一〇月二〇日まで福島市栄町一一番地に居住

③ 昭和二八年一〇月二〇日から現在まで川崎市川崎区田島町七番一五号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三〇年(三〇歳)頃

② 初診日

不詳

③ 入院歴

昭和五一年三月から馬島医院に三〇日間、同五二年(月は不詳)に同病院に一五日間、同年一一月から川崎協同病院に約三か月間、同五三年三月末から同病院に一一〇日間入院

(六) 認定関係

① 昭和五一年四月 公健法により気管支喘息二級に認定

(七) 病状の経過等

昭和三〇年頃から咳、痰及び息切れの症状が出始め、同三四、五年頃には風邪をひき易く、その際息苦しい状態になった。その後、症状は悪化し、寒い日の主に朝方に呼吸困難の発作が起こることが多くなり、更に昭和五〇年頃には呼吸困難が一層悪化するとともに発作も季節にかかわりなく頻発した。

前記のとおり昭和五一年から同五三年の間に四回入院したが、右当時の症状が最も悪化していた。

昭和五七年からステロイド剤の投与を受け、現在は一か月に一〇日ないし二〇日の通院を継続している。

(八) その他

他の疾患

続発症・合併症として、気管支拡張症(昭和五三年頃)、肺気腫(平成元年頃)

併発症・随伴症として、糖尿病(昭和六〇年頃)

15 原告土屋登(原告番号一次18番)(〈書証番号略〉、原告土屋登)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正六年三月五日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和一二年まで山形県内に居住

② 昭和一二年一二月から同一四年一二月まで朝鮮の咸興に居住

③ 昭和一四年一二月から同一五年八月まで山形県内に居住

④ 昭和一五年九月から同一六年七月まで川崎市川崎区内(扇町、浜町、鋼管通)に居住

⑤ 昭和一六年七月から同一八年八月まで満州国の緩陽に居住

⑥ 昭和一八年八月から同一九年五月まで川崎市川崎区大島町に居住

⑦ 昭和一九年五月から同二三年四月まで川崎市川崎区内(渡田、扇町、桜本など)に居住

⑧ 昭和二三年四月から現在まで川崎市川崎区桜本二丁目一五番八号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四四年(五二歳)頃

② 初診日

昭和四五年二月四日(日本鋼管病院)

③ 入院歴

昭和四五年二月から同年三月まで日本鋼管病院、昭和四九年八月から同五〇年三月まで長野県岡谷市所在の岡谷塩嶺病院、昭和五〇年一一月から同五一年八月まで四ツ角病院にそれぞれ入院

(六) 認定関係

① 昭和四六年一〇月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一二月 公健法により障害等級一級に決定

③ 昭和五〇年九月 同二級に変更

④ 昭和五〇年一二月 同一級に変更

⑤ 昭和五二年一二月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四四年一一月頃から咳、痰及び息切れの症状が出始め、同四五年二月に日本鋼管病院に受診し気管支喘息と診断された。症状としては、咳と痰が毎日のように出るとともに、かなり重積な喘息発作が起こることがあり、それに至らない発作についても呼吸困難となるため通院してインタール吸入を受けていた。

昭和五二年頃からはプレドニン及びケナコルトのステロイド剤を時に使用している。

最近では咳及び痰は減少しているものの、胸苦しさが増加し、現在も一か月に二〇日前後通院している。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、肺炎、肋膜炎

続発症・合併症として、ステロイド性糖尿病、高血圧症(昭和五二年頃)、肺気腫(同五四年頃)

併発症・随伴症として、胃潰瘍(昭和五一年頃)

② 喫煙歴

二一歳から二二歳まで一日一〇本の喫煙

16 原告露木勇(原告番号一次19番)(〈書証番号略〉、原告露木勇)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和一六年九月二一日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和三九年頃まで神奈川県平塚市小鍋島二六一二番地に居住

② 昭和三九年頃から同四六年五月二三日頃まで神奈川県中郡二宮町に居住

③ 昭和四六年五月二四日頃から現在まで川崎市川崎区渡田新町三丁目四番一三号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和五〇年(三三歳)頃

② 初診日

詳細は不詳

③ 入院歴

昭和五九年四月二〇日から同年五月二日までの間、同年六月二五日から同年七月七日までの間、同六〇年一月二六日から同年二月五日までの間、同年五月に四日間、同六三年七月一二日から同月二七日までの間いずれも医療法人社団慶友会第一病院に入院

(六) 認定関係

① 昭和五三年一月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五三年三月 同障害等級二級に決定

③ 昭和五六年一〇月 同三級に変更

④ 昭和六〇年三月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和五〇年一月頃から咳及び痰が出るようになったが、同五一年三月頃に咳及び痰の症状がひどくなり、喘鳴を伴う呼吸困難の発作に見廻われた。

その後、右発作が月に一回程度の割合で起こったため、昭和五二年八月に黒坂医院に受診し気管支喘息と診断された。

呼吸困難の発作は、特に季節の変わり目及び冬季、一日の内では明け方に頻度が高く、重篤な発作の場合は一週間続くことがある。

現在は月に四、五回通院している。

(八) その他

他の疾患

併発症・随伴症として、胃潰瘍・慢性胃炎(昭和六〇年頃)

17 原告服部末太郎(原告番号一次20番)(〈書証番号略〉、証人服部ハマ)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治三九年九月二三日生

昭和六二年一一月七日死亡(死亡時八一歳)

(三) 居住歴

① 大正一三年九月まで出生地の(現在の)新潟県十日町市八箇に居住

② 大正一三年九月から同一五年頃まで東京都墨田区に居住

③ 大正一五年頃から昭和五年七月まで新潟県十日町市に居住

④ 昭和五年七月から同二〇年まで東京都江東区に居住

⑤ 昭和二〇年から同二六年まで新潟県中十日町市に居住

⑥ 昭和二六年から同二八年七月まで川崎市川崎区伊勢町三六番地に居住

⑦ 昭和二八年七月から死亡時まで川崎市川崎区藤崎三丁目四番二〇号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四一年(五九歳)頃

② 初診日

昭和四一年六月頃(野田医院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和四八年七月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四〇年頃から冬によく風邪をひき咳がしつこく出て痰がつかえるような傾向がみられたが、同四一年六月、咳及び痰の症状とともに喘鳴を伴う呼吸困難となったため、野田医院に受診した。

昭和四五年六月、明け方に急に呼吸困難の発作に見廻われ、この頃から発作時に息切れを伴い、右呼吸困難の発作が月に一回程度起こった。そして、その頃に大師病院で気管支喘息と診断された。

その後、昭和四八年七月二一日にも喘鳴を伴う重篤な発作が起こり、右以降の発作の回数は月に数回に増加した。右重篤な発作時には起座呼吸を呈し時には意識を失うこともあった。

昭和五〇年頃からは慢性気管支炎も合併したが、同五三年頃においては喘息様発作は減少し、慢性気管支炎の症状が増悪し主症状となっていた。

昭和六二年一一月七日、肺癌(罹患は昭和六二年)を原因とする腎不全で死亡した。

(八) その他

① 他の疾患

続発症・合併症として、ステロイド性胃潰瘍(昭和四九年頃)、慢性気管支炎、肺気腫(同五二年頃)

併発症・随伴症として高血圧症(昭和五二年頃)、肺結核(遅くとも同五六年頃)

② 喫煙歴

一八歳から六六歳まで一日一〇本、その後も本数は減少したものの、七歳(昭和五三年)頃まで喫煙

18 原告文鳳祚(原告番号一次21番)(〈書証番号略〉、原告文鳳祚)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和一〇年一二月一四日

(三) 居住歴

① 出生から昭和五三年頃まで川崎市川崎区池上町七番二号に居住

② 昭和五三年頃から現在まで川崎市川崎区池上町四―一九に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四〇年(二九歳)

② 初診日

不詳

③ 入院歴

昭和五二年九月一九日から同年一〇月八日までの間、昭和五四年一二月二六日から同五五年一月二八日までの間、昭和五六年一一月一一日から同年一二月二五日までの間いずれも川崎協同病院に入院

(六) 認定関係

① 昭和四七年一二月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級一級に決定

③ 昭和五一年、同五六年、同六一年に二級の認定されたが、間もなく改定請求により一級に変更

(七) 病状の経過等

昭和三九年に電柱のペンキ塗装作業中に感電して意識を失い、横浜市所在の吉田病院に入院したが、その後、横浜市鶴見区所在の佐々木病院に転入院して肺結核の治療を受けた。

右佐々木病院入院中の昭和四〇年四月頃から咳、痰及び息切れ等の症状が発現し始め、同四四年九月に四ツ角病院で慢性気管支炎の診断を受けた。症状としては、咳と痰の頻度が高く、夜中に二〇分ないし三〇分ごとに咳き込んで息苦しくなるとともに痰も相当量出るものである。

通院回数も昭和五一年頃から同六一年頃までは月に二〇回以上になることもあったが、最近は月に五、六回程度となっている。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、蕁麻疹

続発症・合併症として、気管支喘息(昭和四九年頃)、瀰慢性汎細気管支炎(同五七年頃)、肺線維症(同六一年頃)、陳旧性肺結核(昭和六三年頃)

併発症・随伴症として、アルコール性肝炎(昭和五六年頃)、胃炎(同六一年頃)

② 喫煙歴

一九歳頃から一日六本程度、現在も一日二本程度の喫煙

19 原告前原徳治(原告番号一次22番)(〈書証番号略〉、原告前原徳治)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治四三年一二月一日生

(三) 居住歴

① 昭和七年四月まで出生地の群馬県勢多郡東村に居住

② 昭和七年四月から同一三年二月まで川崎市川崎区内(元木町、上並木町、池田町及び浅田町)を転々

③ 昭和一三年二月から現在まで川崎市川崎区大島四丁目一三番一号に居住(但し、昭和一九年四月から同二一年二月の間は従軍により中国で生活)

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四五年(五九歳)頃

② 初診日

昭和四五年頃(山田医院)

③ 入院歴

昭和五〇年一月一六日から同年二月二七日までの間及び同年九月九日から同年一〇月三日までの間いずれも日本鋼管病院、昭和五〇年一二月九日から同五一年二月七日までの間日本鋼管病院及び日産厚生会玉川病院に入院(日産厚生会玉川病院への入院以外の各入院は自然気胸及び気管支喘息によるもので、日産厚生会玉川病院への入院は自然気胸の手術を受けるためのものである。)

(六) 認定関係

① 昭和五〇年四月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五〇年五月 同障害等級二級に決定

③ 昭和五二年五月 同三級に変更

(七) 病状の経過等

昭和三六年三月頃から咳及び痰が出る傾向があったが、同四五年頃に至ると右咳及び痰の症状が顕著となり近所の開業医(山田医院)に受診した。

昭和五〇年一月の自然気胸治療のための入院前後から息切れ及び呼吸困難の症状が加わり、日本鋼管病院において気管支喘息との診断を受けた。前記入院後の症状は胸が苦しく咳と痰が毎日出て呼吸困難の発作も二日に一度の割合で起こるものであった。

昭和五二年頃からは症状に改善傾向がみられ発作回数が減少している。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、気管支炎

続発症・合併症として、前記自然気胸

併発症・随伴症として、高血圧症(昭和五二年頃)

② 喫煙歴

二〇歳から六四歳まで一日二〇本の喫煙

20 原告浦郷公恵(原告番号一次23番)(〈書証番号略〉、原告浦郷公恵)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和二年九月四日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和三二年一月まで出生地である東京都大田区六郷に居住(但し、戦時中の約三年間新潟県に疎開)

② 昭和三二年一月から同四三年まで川崎市川崎区浜町三丁目八番(数年間)、同二丁目一七番地(妹亀山和子宅)に居住

③ 昭和四三年から平成元年四月まで川崎市川崎区大島四丁目一五番七号(自営小料理店二階)に居住

④ 平成元年四月から現在まで川崎市川崎区鋼管通一丁目一四番五号コーポ浅間一階三号室に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四五年(四三歳)

② 初診日

昭和四五年一〇月五日(川崎臨港病院)

③ 入院歴

昭和四五年一〇月五日から同年一二月二〇日頃までの間及び昭和四七年八月二九日から約三か月半川崎臨港病院、昭和四八年一一月九日から約一か月半四ツ角病院、昭和五一年暮れに一三日間及び昭和五七年四月一三日から同年五月八日まで大師病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四八年九月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四五年一〇月五日に呼吸困難の発作が起こり、救急車で搬送されて前記最初の川崎臨港病院への入院となった。

右入院後の症状としては、重発作が毎月一回以上起こり、特に一年を通じて季節の変わり目や梅雨時に多く、右発作時には痰が詰まったような感じになるとともに喘鳴を伴う呼吸困難に陥る状態であり、昭和四七年頃からはステロイド剤を使用している。

現在は、軽発作も含めて月に五、六回の発作が起こる状態で一か月に一〇日以上の通院を継続している。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、高血圧症

② 喫煙歴

二〇歳から四三歳まで一日三〇本の喫煙

21 原告阿蒜愛子(原告番号一次24番)(〈書証番号略〉、原告阿蒜愛子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和二二年二月一七日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和三六年三月頃まで山形県米沢市に居住

② 昭和三六年三月から同年六月頃まで愛知県蒲郡市に居住

③ 昭和三六年六月頃から同四一年頃まで山形県米沢市に居住

④ 昭和四一年頃から同四三年六月まで山形県長井市に居住

⑤ 昭和四三年六月三日から二週間横浜市鶴見区寛政町に居住

⑥ 昭和四三年六月から同四六年一月まで川崎市川崎区小田五丁目に居住

⑦ 昭和四六年一月から同四七年五月まで川崎市川崎区渡田に居住

⑧ 昭和四七年五月から同四八年六月まで川崎市川崎区中島に居住

⑨ 昭和四八年六月から現在まで川崎市川崎区四谷下町三丁目四番に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四八年頃

② 初診日

昭和四七年頃(浦田医院)

③ 入院歴

昭和四八年一〇月一四日から同年一一月一四日までの間太田病院へ入院

(六) 認定関係

① 昭和五〇年七月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五〇年九月 同障害等級二級に決定

③ 昭和五五年四月 同三級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四六年一二月頃から咳と痰の症状が出現し始め、同四七年頃には四季を問わず咳き込むようになった。そして、昭和四八年頃から気管支を締め付けられるような感じの呼吸困難の発作が起こるとともに息切れが出現し、同年一〇月に咳込みと呼吸困難の発作が一、二週間繰り返して生じたため前記太田病院に入院した。

昭和五三年六月からステロイド剤を使用するようになったが、同五六年頃から症状に軽快傾向がみられた。

現在は、発作が起こりそうな時には吸入薬のメジヘラーイソを使用するとともに、夏から秋にかけて一時通院日数が増加するもののその他は一か月に五日程度大師病院に通院して酸素吸入等を受けている。

22 原告岩沢久子(原告番号一次26番)(〈書証番号略〉、原告岩沢久子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正七年一月七日

(三) 居住歴

① 出生から大正一二年まで神奈川県横須賀市に居住

② 大正一二年から昭和四年頃まで川崎市東三丁目(現在の川崎区伊勢町)に居住

③ 昭和四年頃から同二九年まで川崎市川崎区宮本町に居住

④ 昭和二九年四月一四日から同三〇年六月まで川崎市川崎区池田町一一九番地に居住

⑤ 昭和三〇年六月頃から現在まで川崎市川崎区伊勢町八番九号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三七年(四四歳)

② 初診日

昭和四〇年三月(小屋医院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和四六年一二月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

(七) 病状の経過等

昭和三七年四月頃、風邪気味であったところ、夜明け頃より呼吸困難の発作に見廻われ起座呼吸を呈した。

その後もしばしば呼吸困難の発作が起こったが、更に喘鳴を伴い始め、昭和三八年頃からは発作後に咳や痰も出るようになった。昭和四〇年頃には発作の回数が増加し週に平均一回、多い時には一日に数回呼吸困難の発作が生じ、同年三月に小屋医院に受診し気管支喘息の診断を受けた。昭和四七年一月、夜中に呼吸困難となり医師の往診を受けたこともあった。昭和五二年頃から喘息発作は減少し軽快傾向となったが、秋あるいは冬に軽度の発作が起こることがあり、現在も月に二ないし四回の通院を継続している。

(八) その他

他の疾患

併発症・随伴症として、高血圧症(昭和五五年頃)

23 原告金井ふさ子(原告番号一次27番)(〈書証番号略〉、原告金井ふさ子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正一〇年九月二八日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和二三年まで埼玉県大里郡妻沼町に居住

② 昭和二三年から同三一年まで東京都品川区南品川に居住

③ 昭和三一年から同三七年まで東京都品川区荏原に居住

④ 昭和三七年から現在まで川崎市川崎区伊勢町一〇番一号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四二年(四五歳)頃

② 初診日

昭和四二年頃(高橋医院)

③ 入院歴

昭和五一年八月頃に一三日間大師病院(但し、喘息発作時の対処方法の教示を受ける教育的入院措置)

(六) 認定関係

① 昭和四六年九月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四二年秋頃から咳と痰の症状がみられるようになり、同年冬頃に喘鳴を伴う呼吸困難の発作が起こり始めた。

昭和四五年頃には発作が起こらない時期があったものの、その後、同四六年頃には症状が最も悪化し、全く呼吸ができなくなるような重発作が月に平均一〇日以上、多い時は二〇日以上起こり、その後頃から息切れも生じた。重発作時には起座呼吸を呈し、更にひどい発作時には失禁することもあった。咳及び痰も発作前後によく出た。

その後、症状には変化はなく、平成元年頃には重篤な発作が起こることがあり、現在も月に四、五回通院している。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、気管支炎

続発症・合併症として、咽頭炎(昭和四九年頃)、慢性気管支炎(同五一年頃)

② 喫煙歴

二二歳(昭和一八年)頃から五〇歳(同四六年)頃まで一日一五本程度、五三歳(昭和四九年)頃に五本程度の喫煙

24 原告河合秀夫(原告番号一次24番)(〈書証番号略〉、原告河合秀夫)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和四年九月二三日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和一七年まで川崎市南河原(現在の幸区幸町四丁目)に居住

② 昭和一七年から同二〇年まで東京都南多摩に居住

③ 昭和二〇年から同三六年まで川崎市幸区中幸町四丁目に居住

④ 昭和三六年から同三七年まで横浜市港北区太尾町に居住

⑤ 昭和三七年一一月から現在まで川崎市川崎区東門前一丁目一三番一二号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四三年(三八歳)

② 初診日

昭和四四年九月頃(大師病院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和四七年二月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

③ 昭和五一年一一月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四三年三月頃から咳及び痰の症状が出現し始め、同四四年九月頃に息切れが生じるようになるとともに、特に明け方になると喘鳴を伴った発作が起こり、その頃に大師病院に受診して気管支喘息の診断を受けた。当時は、喘息発作が春頃に多く出現し、痰のからんだ咳が主に季節の変わり目によく出る傾向があった。

その後、昭和五〇年頃からは息切れ、喘息発作及び咳と痰の症状いずれも悪化し、喘息発作は季節に関係なく起こるようになり、発作時には呼吸困難、時にはチアノーゼ状態を呈することもあった。

また、昭和五七年頃に症状の悪化傾向がみられ、メジヘラを常時携帯して発作が起こりそうな時に使用する状態で現在も月に四、五回の通院を継続している。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、気管支炎、蕁麻疹

② 喫煙歴

二五歳(昭和二九年)から三五歳(昭和三九年)までの間多い時で一日三〇本程度の喫煙

25 原告木村しづ(原告番号一次29番)(〈書証番号略〉、証人木村ひろ)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

明治三七年一二月二五日生

昭和六〇年二月五日死亡(死亡時八〇歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和一六年まで出生地の東京都大田区羽田に居住

② 昭和一六年四月から同二〇年八月まで川崎市川崎区東門前二丁目八番地に居住

③ 昭和二〇年八月から死亡時まで川崎市川崎区昭和一丁目二番四号に居住(但し、職歴②のとおり箱根における住込みあり)

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四六年(六六歳)頃

② 初診日

昭和四五年頃(和田内科医院)

③ 入院歴

昭和五六年二月頃から約二か月間中央保険病院、同五九年二月二二日から死亡時まで宮川病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四九年六月 救済法により慢性気管支炎及び気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

③ 昭和五一年一一月 同一級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四四、四五年頃から風邪をひいてもすぐに直らなくなり咳と痰の症状が続くことがあったが、同四六年二月頃から右痰及び咳の症状に加えて喘鳴が強くなり呼吸困難の発作が出現し始めた。

また、昭和四八年六月頃から息切れの症状がみられるようになったが、昭和四九年頃には就寝時及び起床時に一時間から二時間位喘鳴を伴う咳が継続して呼吸困難となる状態を示したが、更に同五〇年三月頃には痰のからむ咳が毎日出るようになった。

昭和五五、六年頃からは寝たきりの状態が多くなり、昭和五八年頃から呼吸困難及び喘息様発作に悪化傾向がみられた。

そして、昭和五九年二月から前記のとおり入院したが、同六〇年二月五日、肺癌を直接原因として死亡した。

(八) その他

① 他の疾患

併発症・随伴症として肺癌(昭和五九年頃)

② 喫煙歴

二七歳から六九歳まで一日一〇本程度の喫煙

26 原告木村寅吉(原告番号一次30番)(〈書証番号略〉、証人木村千穂)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正三年五月二五日生

昭和五八年二月二八日死亡(死亡時六八歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和一三年まで横浜市西区、神奈川県横須賀市に居住

② 昭和一三年から同一四年まで川崎市幸区幸町に居住

③ 昭和一四年から同一八年頃まで川崎市川崎区東門前に居住

④ 昭和一八年頃から死亡時まで川崎市川崎区伊勢町二五番九号に居住

⑤ 昭和五一年五月から同五二年三月まで山梨県に転地療法のため滞在

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四四年(五四歳)頃

② 初診日

昭和五〇年二月六日(大師病院)

③ 入院歴

昭和五四年九月一一日から同年一一月までの間、昭和五六年一月から四一日間に各大師病院、昭和五七年一二月二三日に大師病院に入院し翌二四日に川崎協同病院に転院してから死亡時まで入院(他に後記のとおり転地療養による入院歴あり)

(六) 認定関係

① 昭和五〇年一二月 公健法により慢性気管支炎及び肺気腫に認定

② 昭和五一年二月 同障害等級一級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四四年一一月頃から咳と痰の症状が出現し始め、同四六年頃から息切れの症状が加わり、同五〇年二月から大師病院に通院して肺理学療法、気管支拡張剤、去痰剤及び鎮咳剤等の投薬、時には吸入療法を受けていた。

そして、昭和五一年五月から山梨県巨摩郡の鰍沢病院へ転地療養のため入院したが、右入院時には発作あるいは咳と痰の症状は改善をみたものの、息切れについては会話又は着物の着脱時にも息切れが生じる程度の状態であった。

右退院後には再び症状が悪化し、昭和五四年九月には気管支肺炎を併発して入院するなどの経過を経た上、同五五、六年頃からは就寝中にしばしば呼吸困難発作が生じるようになった。

そして、昭和五七年一二月二三日に激しい呼吸困難発作に見廻われ、右以降入院を継続していたが、昭和五八年二月八日、脳血管障害を直接原因として死亡した。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、高血圧症(昭和四一年頃から治療)、心臓障害

続発症・合併症として、肺性心(傾向)(昭和五二年頃)

② 喫煙歴

二一歳から六一歳まで一日二〇本の喫煙

27 原告小林ミヨ(原告番号一次31番)(〈書証番号略〉、原告小林ミヨ)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正四年七月三〇日生

(三) 居住歴

① 出生から高等小学校卒業時まで栃木県塩谷郡北高根沢村に居住

② 高等小学校卒業後昭和一四年四月まで東京に居住

③ 昭和一四年四月から同年一〇月まで川崎市に居住

④ 昭和一四年一一月から同二二年一〇月まで栃木県塩谷高根沢村に居住

⑤ 昭和二二年一一月から同二五年一一月まで川崎市川崎区川中島に居住

⑥ 昭和二五年一二月から現在まで同川崎区伊勢町五番四号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三五年(四四歳)頃

② 初診日

昭和三五年一〇月頃(川崎市立病院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和五〇年五月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五〇年六月 同障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和二三年頃から鼻や喉に痛みが感じられたため、近所の耳鼻咽喉科に通院していた(その後も日本鋼管病院耳鼻咽喉科に通院)。

昭和三五年九月に就寝中突然呼吸困難に陥り近所の医院で受診したが、その後も右症状が続いたため、同年一〇月に川崎市立病院に受診し気管支喘息の診断を受けた。

その後、昭和四四年頃に症状が最も悪化し、咳及び痰の症状とともに喘鳴を伴う呼吸困難の発作が月に一〇回程度起こる状態で、更に同四五年頃には息切れが生じるようになった。

昭和五三年頃にはステロイド剤(ケナコルト)を使用し軽快傾向もみられたが、その後の症状は変わらず、現在も月に四、五日の通院を継続している。

(八) その他

他の疾患

既往症として、心臓疾患

併発症・随伴症として、心筋障害(昭和五〇年頃)、高血圧症(同五一年頃)

28 原告佐々木綱之(原告番号一次32番)(〈書証番号略〉、証人佐々木幸子)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治四二年一一月一二日生

昭和五九年一月二三日死亡(死亡時七四歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和一九年まで川崎市川崎区塩浜に居住

② 昭和一九年から同五九年死亡時まで川崎市川崎区四谷下町二一番五号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四六年(六一歳)頃

② 初診日

昭和四六年頃(高橋外科医院)

③ 入院歴

昭和五七年五月から三か月間、同年九月から二か月半、昭和五八年一〇月から死亡時までの間いずれも大師病院に入院

(六) 認定関係

① 昭和四八年三月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級一級に決定

③ 昭和五一年一〇月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和三〇年に脳梗塞の発作で倒れ、以後、その後遺症として左不全片麻痺及び構語障害を有することとなった。

ところで、昭和二五年頃から咳と痰の症状がみられたが、同四六年頃から咳き込んで痰がなかなか切れないような状態となったため、前記脳梗塞のリハビリのため通院していた高橋外科病院で右治療を受けていたが、症状は変わらず、同四八年三月に右医院で慢性気管支炎の診断を受けた。症状としては、特に季節の変わり目や梅雨時に咳込みの状態が悪化し、咳き込み始めると痰がからむため呼吸困難に陥る状態となり、咳と痰の症状は昭和五〇年から同五二年の間が最も悪化していた。

そして、昭和五八年一〇月から入院を継続していたが、右入院中の昭和五九年一月二三日、慢性気管支炎を原因とする呼吸不全により死亡した(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、高血圧症

続発症・合併症として、慢性胃炎(昭和四九年頃)、肺気腫瘍(昭和五〇年頃)

② 喫煙歴

一六歳(大正一四年)頃から六三歳(昭和四八年)頃まで一日三本程度の喫煙

29 原告佐々木玲吉(原告番号一次33番)(〈書証番号略〉、原告佐々木玲吉)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和七年一一月二二日生

(三) 居住歴

① 川崎市川崎区富士見町で出生し、その後、横浜市西区、東京都江東区、横浜市西区、宮城県登米郡登米町に順次転居して居住

② 昭和二二年頃から同二六年頃まで川崎市川崎区大師河原に居住

③ 昭和二六年頃から同三四年二月まで同川崎区出来野に居住

④ 昭和三四年二月から同三六年三月まで大阪府堺市浜寺に居住

⑤ 昭和三六年四月から現在まで川崎市川崎区出来野四丁目二番地に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四四年(三六歳)頃

② 初診日

昭和四八年六月一〇日(大師病院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和四八年七月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四四年頃から冬になると毎朝咳と痰が出るようになったが、同四八年六月、冬からの右症状が依然改善されなかったため大師病院に受診し慢性気管支炎の診断を受けた。症状としては、咳と痰が常時出る状態であり、昭和五一年頃から息切れの傾向もみられたが、その後は症状に特に変化はない。

通院については、昭和五一年頃及び同五四年頃等においては通院が一回もない月が数か月あり、同五五年六月には治療が一時中断されることもあった。

現在は月に四回程度通院を継続している。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、蕁麻疹

② 喫煙歴

二六歳頃から四〇歳頃まで一日三、四本程度、その後、四二歳頃まで一日一、二本程度の喫煙

30 原告佐々木ゆき(原告番号一次34番)(〈書証番号略〉、原告佐々木ゆき)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正九年一二月七日生

平成三年一二月二六日死亡(死亡時七一歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和一六年まで宮城県亘理郡に居住

② 昭和一六年から同一九年五月まで横浜市磯子区に居住

③ 昭和一九年五月から同二〇年五月まで東京都大田区に居住

④ 昭和二〇年五月から同二五年五月まで東京都品川区に居住

⑤ 昭和二五年五月から死亡時まで川崎市川崎区殿町二丁目六番七号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三八年一〇月(四二歳)頃

② 初診日

昭和三八年一一月一四日(いすゞ病院)

③ 入院歴

昭和三八年一一月に一一日間、同三九年三月に約一か月間、同年五月に半月間及び同五二年一一月頃から同五三年一月一三日までの間各いすゞ病院に入院、昭和五四年頃に二回合計六四日間、同六〇年一〇月七日から同年一一月九日の間、同六一年九月二四日から同年一二月二四日の間、同六二年一月八日から同年二月八日までの間、同六二年六月一二日から同年七月二五日までの間、同六三年三月三一日から同年四月二三日までの間、同六三年一一月二日から同月二五日までの間、平成元年二月八日から同年三月一一日までの間、同二年二月五日から同年五月一日までの間及び同二年七月二五日から同年九月二二日までの間川崎中央病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四七年一〇月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級級外に決定

③ 昭和五〇年一〇月 同三級に変更

④ 昭和五四年九月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和三八年一〇月頃に風邪をひきその症状が長引いていたところ、翌一一月頃になると、咳と痰とともに喘鳴と呼吸困難の症状が出現し、同月一四日にいすゞ病院に受診して気管支喘息の診断を受け、最初の入院を経験した。退院後も呼吸困難の発作が生じたため、同年には入退院を繰り返すことになった。

その後もいすゞ病院に通院していたが、昭和五二年一一月、明け方に喘息発作による呼吸困難に陥りいすゞ病院に入院し、その頃からケナコルトの注射を受けていた。発作時の状態は喘鳴とともに咳込みが継続しひどい時には失禁をすることもあった。

その後、昭和五五年頃には喘息発作に悪化傾向がみられ、前記のとおり同六〇年頃からは入院を繰り返していたが、平成三年一二月二六日に死亡した(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

他の疾患

既往症として、蓄膿症、蕁麻疹、肋膜炎(昭和一二年頃)、昭和四三年頃から同五三年頃まで肺結核の治療継続

併発症・随伴症として胃下垂(昭和五四年頃)、低血圧症(同六一年頃)

31 原告佐藤實(原告番号一次35番)(〈書証番号略〉、原告佐藤實)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正九年一二月五日生

(三) 居住歴

① 出生から尋常小学校卒業時まで新潟県直江津市安国寺に居住

② 尋常小学校卒業後昭和一八年頃まで東京都台東区浅草、同新宿区牛込町に居住

③ 昭和一八年頃に一時川崎市(詳細不明)に居住

④ 昭和一九年頃三か月間出征(ソウル)し、その後昭和三二、三年頃まで埼玉県児玉郡美里町に居住

⑤ 昭和三二、三年頃から同三七年まで川崎市川崎区元木町に居住

⑥ 昭和三七年五月から同四七年九月まで川崎市川崎区池上新町四一五番地に居住

⑦ 昭和四七年九月から同五四年二月まで川崎市川崎区台町一五番一一号に居住

⑧ 昭和五四年二月から同五八年一〇月まで川崎市川崎区大師町五番一〇号に居住

⑨ 昭和五八年一〇月から現在まで川崎市川崎区大師町一四番一号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四五年(四九歳)頃

② 初診日

昭和四五年頃(大師病院)

③ 入院歴

昭和四五年一二月から同四六年一月頃まで約二〇日間、昭和五四年九月から同年一一月までに五六日間、昭和五六年一二月から同五七年三月までに六八日間、同五七年三月から同年五月までに五八日間、同五九年一一月から同年一二月までに三三日間、同六〇年六月から同年一〇月までに一〇六日間大師病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四七年一一月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

③ 昭和五〇年一〇月 同一級に変更

④ 昭和五二年八月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和三五年頃から咳、痰及び息切れの症状がみられたものの特に治療を受けることもなく過ごしていたところ、同四五年春頃から夜中に週に一回程度の割合で呼吸困難の発作が起こるようになり、その頃、近所の病院を経て大師病院に受診し気管支喘息の診断を受け、しばらく通院した後、同年一二月に最初の入院を経験した。

その後も夜中あるいは明け方に喘息発作が起こる状態であったので週に一回程度の割合で通院を継続していたが、昭和五五年頃から喘息発作等につき悪化傾向がみられ、同五八年頃からはステロイド剤(プレドニン)の投薬を受けるようになった。

昭和六一年一月に退院して以降現在までほぼ毎日大師病院に通院して吸入療法を受けるとともに二か月に一回程度ケナコルトの注射を受けている。

(八) その他

禁煙歴

二一歳から五〇歳まで一日二〇本の喫煙

32 原告菅原きよ(原告番号一次36番)(〈書証番号略〉、原告菅原きよ)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正四年一〇月一七日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和二〇年頃まで東京都江東区深川に居住

② 昭和二〇年頃から同二二年まで宮城県遠田郡富永村に居住

③ 昭和二二年から同二八年まで東京都南多摩郡稲城町に居住

④ 昭和二八年一二月から同三八年七月まで川崎市川崎区江川町及び同区大師河原に居住

⑤ 昭和三八年七月から現在まで川崎市川崎区田町一丁目五番一〇号月泉荘に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和五〇年(五九歳)頃

② 初診日

昭和四九年頃(鈴木医院)

③ 入院歴

昭和五七年九月二四日から同年一〇月二一日までの間、同五九年六月一七日から同年九月一五日までの間及び同六一年七月二六日から同年九月八日までの間大師病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和五〇年四月 公健法により慢性気管支炎に認定

② 昭和五〇年五月 同障害等級三級に決定

③ 昭和五一年四月 同二級に変更

④ 昭和五二年五月 同三級に変更

⑤ 昭和五三年四月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四六年頃から風邪をひき易く、直り難い傾向があったところ、同四七年一一月頃から咳と痰の症状が出現し始め、鈴木医院に受診していた。

その後、昭和四九年夏頃に肺炎に罹患したこともあり、右咳と痰の症状が継続し息切れの症状もみられ、昭和五〇年三月に鈴木医院で喘息性気管支炎との診断を受けた。症状としては、咳と痰が出て、咳込みが激しくなると痰が絡み付いて呼吸困難となることもあった。

その後、昭和五三年頃に咳と痰及び息切れの症状の程度が一時悪化することがあり、また、昭和五七年頃にも咳と痰の症状に一時悪化傾向がみられた。最近では二日に一回程度の通院を継続して吸入及び注射等を受けている。

(八) その他

① 他の疾患

併発症・随伴症として、膀胱炎(昭和五一年八月頃)、便秘症(昭和五四年頃)、偏頭痛(昭和五五年頃)

② 喫煙歴

五〇歳頃から一、二年若干量の喫煙

33 原告田中音治(原告番号一次37番)(〈書証番号略〉)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治四三年四月二〇日生

昭和六一年二月九日死亡(死亡時七五歳)

(三) 居住歴

① 出生から山口県萩市に居住し、昭和六年頃軍隊に入隊し歩兵として中国で軍隊生活

② 昭和九年頃から川崎市内(扇町)に居住

③ 昭和一五年四月から同六一年(死亡)まで川崎市川崎区東門前二丁目五番二八号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四三年(五八歳)頃

② 初診日

昭和四三年(向本医院)

③ 入院歴

昭和五五年一月から同年二月までに五一日間、同年五月から同五六年六月まで約一三か月間、昭和五七年三月から同年一〇月までの間及び同年一二月下旬以降死亡時まで数か月を除いて大師病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四六年三月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

③ 昭和五五年九月 同一級に変更

④ 昭和六一年二月 同特級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四三年頃から呼吸困難の症状が出現し、その頃に向本医院に受診し気管支喘息及び肺気腫の診断を受けた。

その後一時受診を中断したものの、昭和四六年一月頃から再び向本医院に受診し治療を受けたが、その頃の症状としては、咳と痰の症状がひどく、呼吸困難及び息切れの症状もみられ大工仕事等もできない状態であった。

その後、慢性気管支炎も合併し、昭和五二年頃には右慢性気管支炎症状が増悪して悪化傾向となり、同五五年頃から長期の入院を繰り返すようになった。

また、昭和五八年頃からはステロイド剤(プレドニン)を継続的に使用するようになったが、同五九年には更に悪化傾向がみられ、昭和六一年二月九日、肺気腫及び気管支喘息を直接原因として死亡するに至った(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、肺結核、肺気腫、蕁麻疹

続発症・合併症として、慢性気管支炎、肺気腫(昭和五二年頃)、肺性心(昭和五九年頃)

② 喫煙歴

二一歳から六〇歳まで一〇本程度の喫煙

34 原告浜田美千代(原告番号一次38番)(〈書証番号略〉、原告浜田美千代)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和二四年四月二六日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和四〇年三月まで山形県東根市に居住

② 昭和四〇年四月から同四六年二月頃まで横浜市南区に居住

③ 昭和四六年二月から同四八年一〇月まで川崎市川崎区観音二丁目二番地八に居住

④ 昭和四八年一一月から同五〇年一一月まで川崎市川崎区藤崎三丁目四番八号に居住

⑤ 昭和五〇年一一月から同五三年一〇月まで横浜市緑区に居住

⑥ 昭和五三年一〇月から同五六年一月まで川崎市川崎区桜本一丁目一三番一一号に居住

⑦ 昭和五六年一月から同六〇年七月まで川崎市川崎区観音二丁目一〇番一五号に居住

⑧ 昭和六〇年七月から現在まで川崎市川崎区観音一丁目一一番一六号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四八年(二四歳)頃

② 初診日

昭和五〇年七月七日(大師病院)

③ 入院歴

昭和五〇年一〇月下旬頃約二週間及び同五六年七月二〇日から同月三〇日まで川崎協同病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和五〇年九月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五〇年一一月 同障害等級三級に決定

③ 昭和五一年九月 同二級に変更

④ 昭和五三年八月 同三級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四八年六月頃から夜間に咳き込んで呼吸困難となる症状が出現し始め、同五〇年七月初旬頃には咳とともに喘鳴を伴う呼吸困難の発作が起き起座呼吸を呈するようになったため、大師病院に受診したところ気管支喘息の診断を受けた。その後の大師病院への通院により症状が一旦軽快したものの、同年九月に呼吸困難の発作が起きて、前記最初の入院に至り、退院後、喘息治療のために一時横浜市緑区に転居した。

その後、昭和五三年頃には症状に軽快傾向もみられたが、第三子を妊娠していた同五六年頃、喘息発作が悪化し前記二回目の入院を経験した。

昭和五七年には家庭用吸入器の使用により重発作が起こらないようにコントロールすることも可能になった。しかし、昭和五九年頃からは発作重積時にステロイド剤(ソルコーテフ)を時に使用することがあり、同六〇年頃には症状に悪化傾向がみられた。

現在では月に一ないし四回の通院を継続している。

(八) その他

他の疾患

既往症として、蕁麻疹

35 原告深沢キク江(原告番号一次39番)(〈書証番号略〉、原告深沢キク江)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正七年五月五日生

(三) 居住歴

① 川崎市川崎区堀之内で出生、その後川崎市川崎区本町(旧町名東)に居住

② 昭和二三年から同四六年七月まで川崎市川崎区日ノ出一丁目九番一号青山荘に居住

③ 昭和四六年七月から同五一年五月まで川崎市川崎区昭和二丁目五九番地に居住

④ 昭和五一年五月から現在まで川崎市川崎区四谷下町二〇番七号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四〇年(四七歳)頃

② 初診日

不詳

③ 入院歴

昭和五一年九月に一三日間、平成二年五月に約一か月間大師病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四八年一一月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

③ 昭和五〇年一〇月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和一八年頃から咳と痰の症状がみられたものの、同四〇年頃からは右咳と痰の症状が増悪し始め、夜間あるいは明け方に咳き込み痰が切れない状態となり、息切れの症状も出現した。

その後、昭和四八年頃には年中核と痰の症状が持続するようになり、同年一〇月に大師病院に受診して慢性気管支炎の診断を受けた。症状としては、痰が喉に引っ掛ると痰を切るために体全体で吐き出すように咳をするため咳き込んで呼吸困難になり、時には失禁をすることも度々あった。

その後の症状には殆ど変化はないが、昭和六〇年頃から月に一〇日以上通院することが多くなっている。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、高血圧症、気管支炎、肺炎、蕁麻疹

② 喫煙歴

二七歳(昭和二〇年)頃から五五歳(昭和四三年)頃まで一日二〇本程度(当初は刻み煙草を喫煙)

36 原告布川キセ(原告番号一次40番)(〈書証番号略〉)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

明治三五年四月二二日生

平成二年七月二九日死亡(死亡時八八歳)

(三) 居住歴

① 出生から大正九年一二月まで川崎市川崎区四ツ谷上町に居住

② 大正九年一二月から死亡時まで川崎市川崎区昭和二丁目七番五号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四三年(六六歳)

② 初診日

昭和四四年九月二〇日(大師病院)

③ 入院歴

昭和五一年一二月に一三日間、同五五年四月に一九日間、同五八年一〇月から同年一一月までに三一日間、同六〇年一二月に二四日間、同六一年六月に一〇日間、同年一二月から同六二年一月までに三八日間、同六三年一月に三日間、同年三月に一五日間及び同年六月から七月に三二日間大師病院に各入院(但し、感染症による症状の増悪を原因とする入院を含む)

(六) 認定関係

① 昭和四六年三月 救済法により肺気腫に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四〇年頃から特に冬に咳と痰の症状がみられ始め、同四三年一〇月頃には咳が止まらなくなって息苦しい状態になるとともに息切れの症状も出現した。

その後も寒くなると咳や痰が毎日出て、呼吸困難の発作も毎月起こるようになったため、昭和四四年九月、大師病院に受診し肺気腫の診断を受けた。

そして、障害等級二級の認定を受けた昭和四九年以降の症状としては、咳が長時間継続し、痰がなかなか切れない状態であった。

その後、昭和五二年頃には症状に軽快傾向もみられたが、同五八年頃からは気道感染もあって症状が悪化し、前記のとおり入院を繰り返す状態になり、平成二年七月二九日に死亡するに至った(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、気管支炎

続発症・合併症として慢性気管支炎(昭和五〇年頃)

② 喫煙歴

六〇歳から六四歳まで一日五、六本程度の喫煙

37 原告宮下良雄(原告番号一次41番)(〈書証番号略〉、原告宮下良雄)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正四年一二月一四日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和八年まで札幌市北一八条西一八丁目無番地に居住

② 昭和八年から同一〇年まで中国東北部(旧満州)に居住

③ 昭和一〇年から同一三年まで札幌市北一八条一八丁目無番地に居住

④ 昭和一三年から同二〇年まで中国東北部(旧満州)に居住

⑤ 昭和二〇年から同二三年までシベリア抑留

⑥ 昭和二三年から同三五年まで札幌市北一八条西一八丁目無番地に居住

⑦ 昭和三五年一〇月から同四〇年七月まで川崎市川崎区大師河原四一一〇番地に居住

⑧ 昭和四〇年七月から現在まで川崎市川崎区昭和一丁目二番四号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四〇年(四九歳)頃

② 初診日

昭和四〇年六月(小林内科医院)

③ 入院歴

昭和四三年九月に一四日間、同四七年七月に一二日間及び同四九年九月に七日間川崎中央病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四八年五月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四〇年六月頃、急に喘鳴を伴う呼吸困難の発作が起こり、その際には小林内科医院の小林医師の往診により回復したものの、その後、毎年春先から秋頃にかけて喘息発作が起こるようになった。

その後、前記のとおり二回の入院を経験したが、昭和四八年四月頃から軽い発作が毎日起こり、また、重篤な発作の場合には咳に続いて喘鳴を伴う呼吸困難が起こり嘔吐あるいは失禁することもあった。

昭和五二年七月頃からはステロイド剤を使用することになったが、同五九年頃には症状に悪化傾向がみられた。最近では、自宅で吸入する他二日に一回の割合で通院している。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、蕁麻疹

続発症・随伴症として、高血圧症、高脂血症(昭和六一年頃)

② 喫煙歴

二〇歳(昭和一〇年)から五〇歳(昭和四〇年)まで一日一〇本ないし一五本の喫煙

38 原告山本正一(原告番号一次42番)(〈書証番号略〉)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正四年七月九日生

平成三年七月一日死亡(死亡時七五歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和三五年頃まで鳥取県に居住

② 昭和三五年頃から同四三年一〇月まで東京都大田区馬込に居住

③ 昭和四三年一〇月から死亡時まで川崎市川崎区川中島一丁目二三番二〇号第二菊水荘に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四五年(五四歳)頃

② 初診日

昭和四八年二月二〇日(大師病院)

③ 入院歴

昭和五二年に一三日間、同五九年七月から少なくとも五二日間及び平成二年一一月一四日から死亡時まで大師病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四九年一月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

③ 昭和五一年一一月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四五年頃から気になるような咳が出現し始め、同四八年九月頃には切れ難い痰の症状も目立って多くみられるようになり、その後、特に一〇月から三月頃にかけて一日四、五回喘鳴を伴う呼吸困難の発作が起こることがあった(昭和四八年二月から大師病院に受診)。

昭和五〇年頃から咳と痰及び発作の症状が悪化し、同五二年に前記のとおり最初の入院を経験したが、この頃には咳込みのため寝付きが悪くなることが多くなった。

その後も月に四、五日の通院を継続し(昭和六一年頃からは月に一〇日以上通院する月も時にあった。)、症状にさほど変化はなかったが、前記のとおり平成二年一一月一四日から大師病院に入院し、同三年七月一日、慢性腎不全を原因とする心不全により死亡するに至った。

(八) その他

喫煙歴

一四歳から六二歳までの期間において、五八歳頃までは一日一〇本程度、五八歳頃からは一日五本程度の喫煙

39 原告山本リヨ子(原告番号一次43番)(〈書証番号略〉、原告山本リヨ子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正一四年三月三一日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和二四年頃まで秋田県雄勝郡羽後町貝沢に居住

② 昭和二四年頃から同四三年一〇月まで愛知県一宮市大字高田に居住

③ 昭和四三年一〇月から現在まで川崎市川崎区川中島一丁目二三番二〇号第二菊水荘に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四四年(四四歳)頃

② 初診日

昭和四五年二月一三日(大師病院)

③ 入院歴

昭和五一年六月から同五二年五月までの間に九日間大師病院に入院

(六) 認定関係

① 昭和四七年四月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四四年一二月頃から風邪を起因として咳の症状が出現し、翌四五年二月から大師病院に受診するようになった。

その後、昭和四六年二月頃から痰がよく出るようになり、同年四月頃からは息切れの症状もみられた。そして、昭和四七年頃には風邪をひき易く絶えず咳と痰の症状が出て、夜中の咳込みにより眠れないことが多い状態であった。

以後、月に四、五回の割合で通院して吸入等を受けていたが、昭和六二年八月頃から喘息呼吸困難発作が増加して症状に悪化傾向がみられ、同六三年三月頃からは月に二〇日以上通院している。

(八) その他

他の疾患

既往症として、高血圧症

併発症・随伴症として高血圧症(認定以前から)

40 原告秋谷鉄五郎(原告番号一次44番)(〈書証番号略〉、証人秋谷ミヤ)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正五年一〇月三日生

昭和五八年三月二六日死亡(死亡時六六歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和九年頃まで千葉県印旛郡白井町名内五六七番地に居住

② 昭和九年頃から同一〇年八月頃まで各地を転々と居住

③ 昭和一〇年八月頃から同二〇年五月頃まで川崎市川崎区浅田町一丁目二五番地に居住

④ 昭和二〇年五月から同二四年頃まで兵役(千葉県房総)

⑤ 昭和二四年頃から同二九年七月頃まで神奈川県下各地を転々

⑥ 昭和二九年七月から同四七年五月まで川崎市川崎区小田五丁目二五番一号二葉荘に居住

⑦ 昭和四七年五月から死亡時まで川崎市川崎区小田五丁目一〇番七号みゆき荘に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四二年(五〇歳)頃

② 初診日

昭和四四年頃(四ツ角病院)

③ 入院歴

昭和五二年五月一二日から少なくとも同年一一月八日までの間三ツ池病院、同五四年九月頃から同年一一月頃までに六七日間川崎市立井田病院、同五七年四月二一日から(期間は不詳)大師病院、同年秋頃から死亡時まで山梨県南巨摩郡所在の鰍沢病院(転地療養)に各入院(他に入院歴あるものの、その詳細不詳)

(六) 認定関係

① 昭和五二年九月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五二年一一月 同障害等級一級に決定

③ 昭和五三年一〇月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四二年秋頃から咳と痰及び息切れの症状が出現し始め、同四四年頃から四ツ角病院に受診した。

その後、昭和四六年頃から呼吸困難発作が生じ始め、起座呼吸を呈するようになった。右重篤な発作時には、仰向けに寝ていられずに身を起こして布団の上に座り肩を上下させて息をし冷汗をかいて青ざめた顔になるという状態であった。

昭和五〇年九月に肺結核に罹患した(右肺結核罹患前に気管支肺炎にも罹患)が、同五二年五月、重い咳と喘鳴を伴った呼吸困難の発作を生じ、気管支喘息及び肺結核の合併症として前記のとおり三ツ池病院へ入院した。

その後、昭和五五年頃からケナコルトの注射を受けるようになったが、同五六年頃から症状に悪化傾向がみられ、その頃、苦痛のため自殺未遂を図ったことがあった。

昭和五八年三月二六日、転地療養先の鰍沢病院で肺嚢胞、気管支喘息及び慢性心不全を原因とする呼吸不全で死亡した(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として心臓疾患

併発症・随伴症として肺結核(前記のとおり)

② 喫煙歴

二七歳から五七歳まで一日一五本の喫煙

41 原告阿部ふみ子(原告番号一次45番)(〈書証番号略〉、原告阿部ふみ子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正一五年二月二八日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和一六年頃まで群馬県に居住

② 昭和一六年頃から東京都居住

③ 昭和二四年(婚姻時)から同二七年一〇月まで東京都品川区西品川五丁目九八五番地に居住

④ 昭和二七年一〇月から現在まで川崎市川崎区小田二丁目一八番五号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四九年(四八歳)頃

② 初診日

不詳

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和五〇年五月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五〇年五月 同障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四七年夏頃から咳の症状が出現し、同四九年六月頃から痰及び息切れの症状と喘鳴を伴った呼吸困難発作がみられるようになり、夜中に咳と痰が出て呼吸困難に陥って苦しくて不眠状態が続いていた。

昭和五〇年四月に四ツ角病院に受診するまで病院を転々として投薬等を受けていたが、四ツ角病院において気管支喘息の本格的な治療を受けるようになった。右以降同病院に通院していたが、同五三年頃から同五六年頃までステロイド剤(発作継続する時にはケナコルト)を使用していた。

その後、昭和六二年頃から息切れ及び発作の症状に悪化傾向がみられ、その頃には二日に一回の割合で通院する月もあったが、最近は月に一〇日前後通院している。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、心臓疾患、高血圧症、気管支炎

併発症・随伴症として、高脂血症(昭和五二年頃)

② 喫煙歴

二四歳から四九歳まで一日四本(多い時で一〇本)程度の喫煙

42 原告色川キヨ(原告番号一次46番)(〈書証番号略〉、原告色川キヨ)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正一一年五月一日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和二〇年まで横浜市北区新羽町に居住

② 昭和二〇年から同二一年頃まで川崎市川崎区小田に居住

③ 昭和二一年頃から横浜市北区小机町に居住(期間不詳)

④ その後昭和三二年頃まで東京都品川区中延に居住

⑤ 昭和三二年八月から現在まで川崎市川崎区小田二丁目一八番三号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四七年(四九歳)

② 初診日

昭和四七年九月(星内科胃腸医院)

③ 入院歴

昭和五七年冬頃(期間不詳)、同六〇年七月頃までに四一日間、同年一一月に一〇日間、同六一年二月から同年五月までの間に四回各三日ないし八日間、同六三年七月から八月に一二日間及び平成元年七月に約一か月間川崎市立井田病院に各入院(その他の入院歴は不詳)

(六) 認定関係

① 昭和五〇年二月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五〇年四月 同障害等級一級に決定

③ 昭和五一年三月 同二級に変更

④ 昭和五四年一二月 同一級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四五年春頃から咳と痰の症状が出現し始め、その頃は話そうとすると息が詰まって声が出なくなるという状態であった。

その後、昭和四八年一一月頃から喘鳴を伴った呼吸困難発作が生じるようになり、同四九年六月頃からは息切れの症状もみられた。

昭和五〇年頃の症状は、二日に一回の割合で毎朝咳が立て続けに出て呼吸困難になって時には嘔吐することがあり、呼吸困難発作が起こった時には寝ていられずに布団を積み重ねて寄り掛かり発作が治まるのを待つといった状態であった。

昭和四七年九月に通院を開始して以降、月に七、八日程度の通院を継続していたが、昭和五七年頃に肺炎を併発して最初の入院を経験した。

その後、昭和六〇年頃から息切れの症状に悪化がみられ、昭和六一年頃に対症療法として一時ケナコルトを使用したことがあった。また、昭和六一年頃から自宅に酸素濃縮器を設置して酸素療法を行っている。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、蓄膿症(手術歴あり)

続発症・合併症として、呼吸不全、肺性心(昭和六〇年頃)

併発症・随伴症として、浮腫(昭和五〇年頃)、心筋障害(同五二年頃)、冠不全(同五四年頃)

② 喫煙歴

一九歳から五三歳まで一日一〇本程度の喫煙

43 原告岩沢芳子(原告番号一次47番)(〈書証番号略〉、原告岩沢芳子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正九年五月七日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和二〇年五月まで大阪市此花区に居住

② 昭和二〇年五月から同年一一月まで大阪市西区に居住

③ 昭和二〇年一二月から同二二年六月まで東京都南多摩郡稲城町に居住

④ 昭和二二年七月から同二四年五月まで横浜市鶴見区市場町に居住

⑤ 昭和二四年から現在まで川崎市川崎区浅田三丁目八番二四号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四七年(五二歳)

② 初診日

昭和四八年六月(柴田医院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和四八年一〇月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

③ 昭和五〇年一〇月 同三級に変更

④ 昭和五一年四月 同二級に変更

⑤ 昭和五三年一一月 同三級に変更

(七) 病状の経過等

昭和三七年一二月頃から咳が出始め、同四一年一二月頃からは痰も出るようになった。

その後、昭和四七年頃から咳と痰が出る回数が多くなり(同年二月頃には血痰が出ることもあった。)、同四八年六月に柴田医院に受診し気管支喘息の診断を受けた。症状が悪化した場合には、季節にかかわりなく特にどんよりとした天候時に三分おき位に咳が出て、痰も一日中出ることがあり、また、咳嗽発作は夜中や明け方によく起こり、右発作時にはテーブルにうつ伏せになって胸の辺りを押さえるような格好で発作が治まるのを待つ状態であった。

その後の症状には目立った変化はないが、最近も月に六、七回の通院を継続している。

(八) その他

① 他の疾患

併発症・随伴症として高血圧症(昭和六〇年一一月)

44 原告宇井正(原告番号一次48番)(〈書証番号略〉)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治四四年一月一三日生

昭和五八年一一月七日死亡(死亡時七二歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和四三年一二月まで北海道奥尻郡奥尻町に居住

② 昭和四三年一二月から同四五年一月まで川崎市川崎区小田四丁目二〇番二〇号に居住

③ 昭和四五年一月から同五四年七月まで川崎市川崎区浅田一丁目二番一六号に居住

④ 昭和五四年七月から死亡時まで川崎市川崎区小田四丁目二番一号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和五〇年(六三歳)頃

② 初診日

昭和四九年頃(菊地病院)

③ 入院歴

昭和五四年一月一八日から同年二月一九日までの間菊地病院、同日転院して同年六月までの間大師病院に入院、その他時期不詳ながら川崎協同病院に入院歴あり

(六) 認定関係

① 昭和五四年二月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五四年四月 同障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四九年二月頃から咳と痰が出現し始め、同五三年九月頃から息切れとともに喘鳴を伴った呼吸困難発作が生じ起座呼吸を呈するようになった。

昭和五四年一月一〇日頃から寝床に入り二時間程すると咳き込んで胸が喘鳴により苦しくなり寝たり起きたりを繰り返すという状態が四、五日続き、前記最初の入院を経験することになった。その後も週に一回程度の割合で夜中に重積な呼吸困難発作が生じ、翌朝通院して治療を受けるという状態を繰り返していた。また、自宅でも吸入器を使用して発作を抑えるようにするとともに、遅くとも昭和五四年頃からはステロイド剤の投与を受けていた。

そして、昭和五八年一一月七日、夜中の三時頃から発作が生じ、朝五時頃に次男の車で川崎協同病院へ行ったが、その直後に死亡するに至った(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

続発症として、(ステロイド性)高血圧症(昭和五四年頃)

② 喫煙歴

三〇歳から六三歳まで一日一〇本ないし一五本の喫煙

45 原告エドワード・ブジョストフスキ(原告番号一次49番)(〈書証番号略〉、原告エドワード・ブジョストフスキ)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和七年六月五日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和三五年五月までフランスのサンス市に居住

② 昭和三五年六月から同三七年一二月までイタリアのローマ郊外に居住

③ 昭和三八年一月から同四〇年三月まで主に横浜市中区山手町に居住(カトリック山手教会の司教館)

④ 昭和四〇年三月から同四二年まで神奈川県横須賀市大津町に居住(大津カトリック教会)

⑤ 昭和四二年四月から同四五年まで静岡県浜松市成子町に居住(成子教会)

⑥ フランスに一時帰国後、昭和四六年六月から現在まで川崎市川崎区浅田四丁目八番一三号に居住

⑦ その後、フランスに一時帰国の時期あり

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四七年(四〇歳)頃

② 初診日

昭和四七年六月(大峯病院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和四九年六月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一二月 公健法により障害等級三級に決定

(七) 病状の経過等

前記のとおり昭和四六年に川崎に居住を開始した頃から風邪をひき易くなり、同四七年六月頃から耳、喉及び鼻が痛み、咳と痰の症状がみられ大峯病院に受診した。

その後、昭和四九年二月頃に三九度の発熱が一週間程継続することがあったが、右以降咳と痰の症状が強まり、同年六月に大師病院に受診して慢性気管支炎の診断を受けた。症状としては、冬や季節の変わり目の寒い時等に咳と痰の症状がみられ、当初は弱い咳であったが、その後は朝方に特にひどく咳き込むことがあり、また、呼吸困難発作も生じた。

昭和五一年以降は、咳と痰の症状には変化がないが、呼吸困難発作は殆ど起こらなくなった。最近では月に一回程度通院している。

46 原告金時光(原告番号一次50番)(〈書証番号略〉、証人金東姫)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治三九年九月二五日生

昭和六二年一一月一一日死亡(死亡時八一歳)

(三) 居住歴

① 出生から大正一三年頃まで朝鮮に居住

② 大正一三年頃から昭和三七年頃まで大阪市生野区に居住

③ 昭和三七年頃から同四〇年四月まで川崎市川崎区中島町二丁目四二五番地に居住

④ 昭和四〇年四月から死亡時まで川崎市川崎区渡田山王町二六番七号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四一年(五九歳)頃

② 初診日

昭和四五年二月一八日(大師病院)

③ 入院歴

昭和五六年に三六日間、同六一年二月から同年四月までに八〇日間、同年一〇月から同六二年一月までに八九日間、同六二年一〇月末から死亡時までの間川崎協同病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四六年五月 川崎市の規則により慢性気管支炎

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四一、二年頃から咳と痰の症状がみられ、特に痰が頻回に出るようになった。その後も右症状が継続したが、昭和四八年頃からは息切れが目立ち始めるとともに呼吸困難発作も発現し、夜間に急に呼吸困難となって苦しむことがあった。また、痰が一日数十回も出ることがあり、就寝時には枕元に痰を入れる瓶を用意しておき、外出時にも痰を入れる小瓶をいつも携行するほどであった。

昭和五三年頃から咳と痰の症状の程度に悪化傾向がみられることもあったが、その後、昭和六二年頃になると自宅で酸素療法を行うなどしていたが、去痰力が低下し殆ど寝たきりの状態であったところ、入院中の同年一一月一一日、慢性気管支炎による膿胸及び肺炎を原因とする呼吸不全により死亡した。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、胃下垂

続発症・合併症として、肺気腫、肺性心(いずれも昭和六〇年頃)

併発症・随伴症として、肺癌(昭和四九年頃に診断を受け、以後放射線治療等を受け、昭和六二年頃から合併)、放射性肺炎(昭和五三年頃)、大動脈閉鎖不全症等(昭和五六年頃)、慢性肺炎(昭和五八年頃)

② 喫煙歴

二〇歳から六四歳まで一日七本ないし一〇本程度の喫煙

47 亡斎藤晴雄承継人原告斎藤晴子(原告番号一次51番)(〈書証番号略〉、原告斎藤晴子)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正三年三月一一日生

昭和五七年八月二九日死亡(死亡時六八歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和一四年頃まで群馬県群馬郡群馬町に居住

② 昭和一四年頃から同一八年秋頃まで東京都品川区大井町に居住

③ 昭和一八年秋頃から同二一年まで兵役(中国東北部)

④ 昭和二一年から同二二年まで群馬県群馬郡群馬町に居住

⑤ 昭和二二年から同二四年一月まで川崎市高津区に居住

⑥ 昭和二四年一月から死亡時まで川崎市川崎区渡田山王町二三番一二号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四四年(五四歳)頃

② 初診日

昭和四四年一月(日本鋼管病院)

③ 入院歴

昭和四四年一月から二月まで約一か月間日本鋼管病院、同五二年五月一〇日から同年六月一一日までの間、同五四年二月一九日から同五月二六日までの間、同五五年二月一九日から同年三月一二日までの間、同年五月二〇日から同年一二月一二日までの間、同五六年五月一一日から同年六月一一日までの間、同年一〇月一六日から同年一一月一四日までの間及び昭和五七年(月日不詳)に死亡時まで川崎協同病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和五二年六月 公健法により慢性気管支炎に認定

② 昭和五二年八月 同障害等級一級に決定

③ 昭和五三年五月 同二級に変更

④ 昭和五四年六月 同一級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四四年一月始め頃、咳と痰の症状がみられるようになり、通勤途中において息切れと呼吸困難の発作が生じて日本鋼管病院に受診し慢性気管支炎の診断を受け即日入院することになった。その後、近所の病院で通院していたが、昭和五二年五月、咳と痰による発作が激しくなり再び入院を経験した。

昭和五四年になると、息切れ、発作及び咳と痰の症状の程度がいずれも悪化し、特に息切れがひどくなり体を動かすと息切れする状態となり、それ以降、前記のとおり入院を繰り返すとともに自宅においても酸素療法を行っていた。そして、昭和五七年八月二九日、入院中の川崎協同病院において、慢性気管支炎と肺気腫の合併症による慢性呼吸不全及び肺性心を原因として死亡するに至った(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

続発症・合併症として、肺性心、肺気腫(昭和五二年頃)

② 喫煙歴

二〇歳から六三歳まで一日一〇本程度の喫煙

48 原告柴田寿恵子(原告番号一次52番)(〈書証番号略〉、原告柴田寿恵子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正八年八月二三日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和一四年頃まで静岡県富士郡田子浦村前田に居住

② 昭和一四年頃から同一五年六月頃まで東京都新宿区西大久保に居住

③ 昭和一五年六月から同一八年まで川崎市川崎区渡田山王町一九番一号に居住

④ 昭和一八年から同二一年頃まで静岡県沼津に居住

⑤ 昭和二一年頃から同五八年八月まで川崎市川崎区渡田山王町一九番一号に居住

⑥ 昭和五八年八月から同五九年一〇月まで川崎市川崎区宮前町八番一五号に居住

⑦ 昭和五九年一〇月から現在まで三浦市南下浦町上宮田一五二八番地七九に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四二年一二月(四八歳)頃

② 初診日

昭和四五年九月一一日(藤井医院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和四七年一〇月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四二年一二月初め頃に風邪をひいて寝ていたところ、夜中に咳が止まらなくなり喘鳴が生じ喘息発作が起こった。その後、毎年春と秋頃に月に二回程度喘息発作が起こって中等度の呼吸困難に陥るようになり、昭和四四年一〇月頃からは痰と息切れの症状もみられた。

そして、昭和四五年九月上旬頃、夜中に喘息発作が生じて藤井医師の往診を受け、以後、発作時に藤井医師の往診を受けるようになった。

その後、昭和五一年頃まで喘息発作がよく起こっていたが、同年一二月頃から伊東内科クリニックに通院し、喘息発作時あるいは息切れ時に喘息用の吸入式エアゾールを使用するようになって重積な発作は殆どなくなり症状にも軽快傾向がみられた。現在も近所の開業医に毎週一回通院を継続している。

(八) その他

他の疾患

続発症・合併症として、慢性心不全(昭和四九年頃)

49 原告志村なつ子(原告番号一次53番)(〈書証番号略〉、原告志村なつ子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

明治四〇年五月一九日生

平成三年一〇月二八日死亡(死亡時八四歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和五年まで東京都江東区猿江に居住

② 昭和五年から同一二年まで東京都品川区荏原に居住

③ 昭和一二年から同二一年まで東京都江東区猿江に居住

④ 昭和二一年から同三五年頃まで川崎市川崎区四谷上町に居住

⑤ 昭和三五年頃から同三七年頃まで東京都大田区に居住

⑥ 昭和三七年頃から同四〇年頃まで川崎市幸区塚越に居住

⑦ 昭和四〇年頃から同四六年一〇月まで川崎市川崎区富士見二丁目五番二一号(東京電力寮)に居住

⑧ 昭和四六年一〇月から同四九年三月まで川崎市川崎区小田二丁目二番二号松原荘に居住

⑨ 昭和四九年三月から死亡時まで川崎市川崎区小田四丁目七番三号角田荘に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四四年(六二歳)頃

② 初診日

昭和四九年二月頃(小田中央病院)

③ 入院歴

昭和四九年一二月頃から同五〇年四月頃までの間及び同五一年一一月頃から同五二年七月頃までの間大嶺病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四九年一一月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五〇年三月 同障害等級一級に決定

③ 昭和五二年九月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四四年八月頃から咳が、同四五年一月頃から痰がそれぞれ出るようになったが、同四七年一一月頃には息切れ及び喘鳴を伴った呼吸困難発作が出現し始めた。

昭和四九年頃には最も症状が悪化し、昼夜を問わず最初に咳が出てそのうちに喘鳴を伴った呼吸困難に陥り畳をかきむしって苦しむような状態が一時間以上続くことがあった。そして、この頃に近所の医院の受診を経て、同年一〇月、大嶺病院に受診し気管支喘息の診断を受けた。

その後、前記のとおり二度入院するが、右退院後も明け方と夜中に喘息発作が起き呼吸困難になることがあり、昭和五八年以降においても平均二日に一回の割合で通院を継続し吸入と注射を受けていた。

その後、昭和六二年頃には症状に軽快傾向もみられたが、平成三年一〇月二八日、死亡するに至った。

(八) その他

他の疾患

続発症・合併症として、慢性気管支炎(昭和五四年頃)

50 原告菅原公明(原告番号一次54番)(〈書証番号略〉、原告菅原公明)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和五年九月二五日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和二六年頃まで大分県豊後高田市に居住

② 昭和二六年頃から同三七年頃まで横浜市鶴見区下野谷町に居住

③ 昭和三七年頃から同五三年頃まで川崎市川崎区小田二丁目一五番六号中川荘に居住(但し、昭和四一年一〇月頃から同四二年四月まで一時仙台市に居住)

④ 昭和五三年六月から現在まで同川崎区京町二丁目二番二九号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四六年(四一歳)頃

② 初診日

昭和五〇年一二月(舛田外科医院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和五一年三月 公健法により慢性気管支炎に認定

② 昭和五一年四月 同障害等級三級に決定

③ 昭和五三年二月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四六年頃から咳が出始め、同四八年頃には痰及び息切れの症状もみられるとともに月に一、二回喘鳴を伴った呼吸困難発作が起こり起座呼吸を呈するようになった。

昭和五〇年一二月頃から舛田外科医院へ受診し慢性気管支炎の診断を受け通院していたが、同五二、三年頃には咳き込んでなかなか痰が切れず、呼吸困難発作の回数も増加した。症状としては、咳と痰は常時出るが、特に暖かい所から寒い所へ出た時等温度差が生じた場合に痰が切れずに咳き込み、また、呼吸困難発作も右のように温度差が生じた時や明け方起床時に起きる場合が多い。

その後、昭和五七年頃から咳と痰の症状に悪化傾向がみられ、最近も月七ないし九回程度通院を継続している。

(八) その他

① 他の疾患

続発症・合併症として、気管支拡張症(昭和六三年頃)、また、前記症状の経過からして気管支喘息を合併している可能性が高い。

併発症・随伴症として、右膝関節炎(昭和五一年頃)、肝障碍(同六二年頃)

② 喫煙歴

二〇歳から四四歳まで多い時で一日二〇本

51 原告中澤善之助(原告番号一次55番)(〈書証番号略〉)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治三七年七月二二日生

平成二年二月三日死亡(死亡時八五歳)

(三) 居住歴

① 出生から大正五年まで群馬県渋川市に居住

② 大正五年から昭和一〇年まで東京都港区青山などに居住

③ 昭和一〇年から同一五年一一月まで川崎市川崎区大師河原一五二四番地に居住

④ 昭和一五年一一月から同二〇年六月まで東京都港区西麻布に居住(但し、昭和一六年八月から同一八年八月まで兵役で中国東北部に配属)

⑤ 昭和二〇年六月から同三五年七月まで岩手県九戸郡種市村に居住

⑥ 昭和三五年七月から死亡時まで川崎市川崎区小田一丁目二〇番二二号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四六年(六七歳)頃

② 初診日

昭和四六年頃(黒坂医院)

③ 入院歴

昭和四六年一〇月(期間不詳)及び同四七年一〇月(期間不詳)に馬島病院、同四八年一一月から(期間不詳)東邦医大病院、同四九年一一月頃(期間不詳)、同五一年八月から同五二年七月までの間三回合計九八日間、同五四年一一月二二日から死亡時まで長期間馬島病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四九年一一月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一二月 同障害等級二級に決定

③ 昭和五二年一二月 同一級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四六年八月頃から咳と痰の症状が出現し始め、その後、息切れ及び喘鳴を伴った呼吸困難発作も生じるようになった。認定申請時の昭和四九年頃の症状は、ほぼ一年中呼吸困難の発作がみられたが、特に毎年秋口、一日では明け方に喘息発作が起こることが多く、右喘息発作時は突然咳が出て呼吸困難に陥り寝ていることができずに起き上がり起座呼吸する状態であり、また、少しの労作でも息切れが生じていた。

昭和五二年頃から同五八年頃までステロイド剤の投与を受けていたが、同五四年一一月頃からは長期の入院生活を繰り返すようになり、昭和六三年頃には症状が悪化し、平成二年二月三日、気管支喘息による慢性閉塞性呼吸不全を原因とした急性心不全で死亡した(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、心臓疾患、肺炎

続発症・合併症として、心不全(昭和四七年六月)、アレルギー性鼻炎(昭和五四年六月頃)、肺炎(昭和五五年頃)

併発症・随伴症として、冠不全肝腫大(昭和五七年頃)、狭心症(昭和六二年頃)等

② 喫煙歴

一二歳頃から七〇歳頃まで一日一五、六本の喫煙

52 原告中澤セノ(原告番号一次56番)(〈書証番号略〉、原告中澤セノ)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

明治四四年一〇月一五日生

平成三年六月二九日死亡(死亡時七九歳)

(三) 居住歴

① 出生から大正三年まで岩手県九戸郡種市村居住

② 大正三年から同一三年まで東京都豊島区巣鴨、同荒川区尾久に居住

③ 大正一三年から昭和一〇年まで川崎市川崎区大師河原(中澤太郎方)に居住

④ 昭和一〇年から同一五年一一月まで川崎市川崎区大師河原一五二四番地に居住

⑤ 昭和一五年一一月から同二〇年六月まで東京都港区西麻布に居住

⑥ 昭和二〇年六月から同三五年七月まで岩手県九戸郡種市村に居住

⑦ 昭和三五年七月から死亡時まで川崎市川崎区小田一丁目二〇番二二号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四四年(五八歳)頃

② 初診日

昭和四五年一〇月(黒坂医院)

③ 入院歴

昭和四五年一二月頃に約二週間黒坂医院、同五四年一一月二二日から同年一二月頃までの間及び昭和五五年一〇月九日から死亡時まで長期間馬島病院に入院

(六) 認定関係

① 昭和四六年一〇月 川崎市の規則により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

③ 昭和五五年八月 同一級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四四年頃から咳と痰及び息切れの症状がみられるようになり、同四五年一〇月頃から呼吸困難発作が生じるようになった。

認定申請時の昭和四六年頃の症状は、咳と痰が毎日出てひどく咳き込むことが時々あり、重積な呼吸困難発作が月一回起こるとともに息切れのため疲れ易い状態であった。

昭和五四年一一月頃から心筋梗塞を併発して主に右心筋梗塞治療のために前記のとおり入院したが、右併発により極めて悪化した心肺機能不全状態となり、心筋梗塞後の発作に対してステロイド剤の投与を受けた。

その後も年間を通じて重積発作状態で、前記のとおり昭和五五年一〇月頃から入院継続を余儀なくされ、同六二年頃からは悪化傾向もみられた。そして、入院中の平成三年六月二九日に死亡するに至った(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、蓄膿症

併発症・随伴症として、心筋梗塞(前記のとおり)、虚血性心疾患(昭和五七年頃)、狭心症(昭和六二年頃)

② 喫煙歴

三〇歳から六〇歳まで一日四、五本の喫煙

53 原告新妻トシ(原告番号一次57番)(〈書証番号略〉、原告新妻トシ)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正一五年三月一〇日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和三二年まで福島県いわき市に居住

② 昭和三二年一〇月から同三三年まで川崎市川崎区大師中町に居住

③ 昭和三三年から同三五年まで川崎市川崎区大島五丁目二五番地に居住

④ 昭和三五年から同四七年九月まで川崎市川崎区塩浜二丁目五番三号真和荘に居住

⑤ 昭和四七年九月二四日から現在まで川崎市川崎区小田四丁目一番四号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四五年(四四歳)頃

② 初診日

昭和四五年頃(太田病院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和四六年四月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

③ 昭和五〇年一〇月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四四年暮れに風邪をひき、翌四五年一月頃に咳(少なくとも当初は乾性の咳)と痰が出て息苦しくて横になって眠ることもできない状態となった。その後の喘息発作の症状は、急に息苦しくなって喉の奥が止められるような感じとなり、喘鳴を伴いながら呼吸困難に陥るもので、右程度の喘息発作は昭和五五年頃まで月に一〇回から二〇回以上の割合で起こることもあった。また、喘息発作が起こらない時も息切れに悩まされ通院あるいは買い物時に支障を来した。

その後、症状に大きな変化はないが、最近でも月に七日ないし九日の割合で通院し吸入を受けている。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、気管支炎、坐骨神経痛

続発症・合併症として、咽頭炎(昭和四九年頃)

② 喫煙歴

一八歳から四五歳まで一日三、四本の喫煙

54 原告前橋カノ(原告番号一次58番)(〈書証番号略〉、原告前橋カノ)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正八年五月三日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和一五年まで神奈川県相模原市に居住

② 昭和一五年から同一九年まで東京及び横浜に居住

③ 昭和一九年から同二三年一二月まで神奈川県相模原市に居住

④ 昭和二三年一二月から現在まで川崎市川崎区小田四丁目三〇番二号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三九年(四五歳)頃

② 初診日

昭和四〇年頃

③ 入院歴

昭和五一、二年の一月から二月までの四〇日間(川崎市立井田病院)(但し、治療目的不詳)

(六) 認定関係

① 昭和四九年八月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

(七) 病状の経過等

昭和三九年から翌四〇年にかけての冬に咳が出始め、その後に痰の症状もみられるようになった。

認定申請時の昭和四九年頃の症状は、咳の症状がひどく痰も頻繁に出るとともに息切れも生じる状態となり、その後も風邪をひくと病状が悪化し、毎日のように夜中に咳が出て苦しく吸入をしても治まらず明け方まで続くという繰り返しであった。

その後の症状には大きな変化はないが、昭和六〇年頃から咳き込むと失禁するようになり、同六三年頃から常時オムツを当てたままの生活となった。

最近でも月に五ないし七日の割合で通院を継続し飲み薬と吸入の処方を受けている。

(八) その他

他の疾患

併発症・随伴症として、抑うつ症(昭和四九年頃)、胃炎(同六一年頃)

55 原告横田ヤエ(原告番号一次59番)(〈書証番号略〉)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

明治三五年六月二日生

(三) 居住歴

① 昭和四一年五月までの居住歴は詳細は不明なるも、東京都内の病院に住込み等転々

② 昭和四一年五月から同五七年頃まで川崎市川崎区日進町一七番地一に居住

③ 昭和五七年頃から同五八年三月まで川崎市川崎区渡田三丁目一六番三号若松荘に居住

④ 昭和五八年三月から現在まで伊勢原市子易一二五四番地の四伊勢原老人ホームに居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四七年(七〇歳)頃

② 初診日

昭和四九年三月三〇日(大師病院)

③ 入院歴

昭和五七年一〇月二二日から同五八年三月二五日までの間第一病院に入院(但し、慢性気管支炎その他の治療目的)

(六) 認定関係

① 昭和四九年一二月 公健法により慢性気管支炎に認定

② 昭和五〇年一月 同障害等級二級に決定

③ 昭和六一年一〇月 同三級に変更

④ 昭和六三年一月 同級外に変更

(七) 病状の経過等

昭和四七年六月頃から咳が出始め、その後に痰の症状も出現し痰がからんだ咳が日常的に出るようになった。

昭和四八年六月頃から息切れの症状もみられ、同四九年三月に大師病院に受診し慢性気管支炎の診断を受けた。

昭和五二年頃には咳と痰及び息切れの症状に加えて、季節の変わり目、梅雨や冬の寒い日などの早朝に咳き込んで呼吸困難に陥ることが時々あり、長い時は一時間近く苦しめられることがあった。

その後、前記のとおり昭和五七年一〇月から入院を経験するが、退院後の昭和五八年頃から咳と痰の症状等に軽快傾向がみられ、同五九年頃からは通院も殆どなくなり、同六一年頃には寛解となった。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、心臓疾患、高血圧症、肋膜炎、蕁麻疹

続発症・合併症として、心筋障害症、高血圧症(昭和五二年頃)

併発症・随伴症として、腎盂腎炎、尿管結石症(昭和五二年頃)、心不全、冠不全(同五三年頃)

② 喫煙歴

三〇歳から六〇歳まで一日三本程度の喫煙

56 原告吉永ソヤ(原告番号一次60番)(〈書証番号略〉)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正三年五月二四日生

昭和六二年四月三〇日死亡(死亡時七二歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和一四年頃まで新潟県小千谷市岩間木に居住

② 昭和一四年頃から同一八年頃まで東京都大田区蒲田に居住

③ 昭和一八年頃から同三二年二月まで群馬県邑楽郡千代田村に居住

④ 昭和三二年二月から死亡時まで川崎市川崎区小田二丁目七番五号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和五〇年(六〇歳)

② 初診日

昭和五〇年三月一二日(黒坂医院)

③ 入院歴

昭和五二年九月から同五三年八月までに二回合計四八日間、同五五年八月から同五六年七月までに二九日間、同六〇年八月から同年九月までに一七日間協同病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和五一年一月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五一年一月 同障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和五〇年三月頃から咳と痰及び息切れの症状が出現し始め、同年一二月頃には断続的に咳が出て同時に痰の量も多くなり、毎晩夜中に痰がからんだ咳が出て喘鳴を伴った呼吸困難に陥る状態となった。

昭和五三年頃からステロイド剤(プレドニン等)を使用するようになったが、同五五年頃には全般的に症状の悪化傾向がみられ、同五九年頃にはステロイド剤の使用量が増加し、この頃には月に八、九日の割合で通院していた。

その後も前記のとおり入院を経験するが、昭和六二年四月三〇日、病院への搬送中気管支喘息による急性呼吸不全を原因として死亡した(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

他の疾患

既往症として、肋膜炎

続発症・合併症として、ステロイド依存喘息(昭和五四年)、ステロイド高血圧(同五七年頃)

併発症、随伴症として高血圧症(昭和五一年頃)

57 原告太田一彦(原告番号一次62番)(〈書証番号略〉、原告太田一彦、証人太田トモエ)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和四一年一二月九日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和四四年六月(二歳六月)まで川崎市幸区中幸町四丁目二九番に居住

② 昭和四四年六月から同四八年七月(七歳七月)まで川崎市多摩区登戸新町一二〇番地玉水荘に居住

③ 昭和四八年七月から現在まで川崎市幸区河原町一番地河原町団地二―一二二一に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四二年六月(生後六月)

② 初診日

昭和四二年六月頃(大山小児科)

③ 入院歴

昭和四五年一〇月約一四日間高津中央病院、同四六年一〇月に約一四日間および同四七年一〇月に約一四日間大貫病院、同四九年九月には六日間及び同年一〇月一〇日から三日間小向医院、同五〇年三月二八日から同五三年三月までの間川崎市立井田病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四九年一一月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月(七歳一一月) 同障害等級二級に決定

③ 昭和五一年一月(九歳一月) 同一級に変更

④ 昭和五二年一〇月(一〇歳一〇月) 同二級に変更

⑤ 昭和五四年一〇月(一二歳一〇月) 同三級に変更

⑥ 昭和五六年九月(一四歳九月) 同級外に変更

⑦ 昭和六一年一〇月(一九歳一〇月) 同三級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四二年六月(生後六月)頃から喘鳴を伴い時に息苦しそうに咳き込むようになり、その後も軽い発作が生じて布団の上に起き上がるといった症状が出現し、その頃、前広小児科に受診して喘息の診断を受けた。

昭和四四年六月(二歳六月)頃に初めて重積な喘息発作が起こったが、その頃には中程度の発作も頻繁に起こり、発作時にはチアノーゼを呈していた。

その後、前記のとおり川崎市多摩区登戸に転居するものの、右症状には変化はなく、認定申請時の昭和四九年には呼吸困難がひどくなり、小学校も年間一〇〇日程度欠席するような状態であった。

昭和五〇年二月頃には意識を失う程の発作に見廻われることがあり、同年三月から前記のとおり川崎市立井田病院内の青空学園に入園した。

その後、時に小発作があるものの症状に軽快傾向がみられ、昭和五三年四月から通常の小学校に戻ることができるまでになった。しかし、昭和六〇年九月頃以降時に小発作が起こり、運動後に呼吸困難に陥る状態もみられ、同年一〇月頃には通院が二〇日を超えていた。

その後も平均して月に二、三日の割合で通院を継続している。

(八) その他

他の疾患

既往症としてアレルギー性鼻炎(一歳)

続発症・合併症としてアレルギー性鼻炎(昭和六一年頃)

58 原告川野一馬(原告番号一次63番)(〈書証番号略〉、証人内野美代子)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治四一年七月三〇日生

昭和五九年九月二七日死亡(死亡時七六歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和三七年五月まで北海道三笠市に居住

② 昭和三七年五月から同四二年一月まで川崎市川崎区出来野に居住

③ 昭和四二年一月から同四六年一二月まで川崎市川崎区昭和町一丁目一八番地に居住

④ 昭和四六年一二月から同四八年七月まで川崎市川崎区昭和町一丁目二八番地(立花荘)に居住

⑤ 昭和四八年七月から死亡時まで川崎市幸区河原町一番地河原町団地二―一〇五に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四四年(六一歳)頃

② 初診日

昭和四七年一〇月五日(大師病院)

③ 入院歴

昭和五一年八月から同五二年七月までに一三日間大師病院、同五五年一二月二三日から同五六年一月二七日までの間川崎協同病院、昭和五九年八月一七日から死亡時までの間大師病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四八年一一月 川崎市の規則により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

③ 昭和五一年一月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四三年四月頃から咳と痰の症状が出て頻繁に風邪をひくようになっていたところ、同四七年一〇月に風邪をひいて喉が痛く咳き込むなどの症状がみられたため大師病院に受診し扁桃炎および急性気管支炎の診断を受けた。

その後も咳と痰の症状が継続し、同四八年一月に慢性気管支炎の診断を受けた。

昭和四八年頃には咳と痰が激しくなり胸が苦しく眠れないこともあり、息切れもみられるようになった。咳と痰は朝方と夜に出ることが多く、痰が切れない時には呼吸困難に陥ることがあり、昭和五六年頃からは月に一回位右呼吸困難が起こったが、通院は月に四、五日の割合であった。

そして、昭和五九年九月二〇日に入院中の病院の二階の窓から転落し、同月二七日、脳梗塞を原因とする急性呼吸不全により死亡した。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、肺炎、心疾患

② 喫煙歴

二〇歳から六五歳まで一日六、七本の喫煙

59 亡木村志げ承継人原告木村一郎外(原告番号一次64番)(〈書証番号略〉、原告木村一郎)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正五年四月二五日生

昭和五七年四月六日死亡(死亡時六五歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和一三年一二月頃まで茨城県真壁郡真壁町等に居住

② 昭和一三年一二月から戦時中の疎開まで東京都大田区大森に居住

③ 戦時中から昭和二六年一二月まで茨城県新壁郡新壁町に居住

④ 昭和二六年一二月から同四五年四月まで川崎市川崎区四谷下町一七番四号に居住

③ 昭和四五年四月から死亡時まで川崎市幸区塚越二丁目一五九番一一号塚越団地三一〇に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三四年(四三歳)頃

② 初診日

昭和三四年一一月(産業道路診療所)

③ 入院歴

昭和四四年一二月二八日から同四五年一月一一日までの間大師病院、昭和五一年六月に一七日間中島中央病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四五年二月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和三四年一一月に突然呼吸困難になり、産業道路診療所に受診するようになった。その頃の症状は、特に夜間寝始めた時、夜中あるいは起床時に咳と痰が出て咳き込んで苦しくなることが多く、息切れもみられた。

昭和四三年九月からは大師病院に受診し気管支喘息の診断を受けたが、前記のとおり慢性気管支炎で認定された。その後、呼吸困難の発作が月に一回以上起き、特に季節の変わり目に重積な呼吸困難が生じて、右症状が一時間以上継続することがあった。右呼吸困難の際には喘鳴を伴うことがあり、失禁や嘔吐もみられた。

その後は症状に大きな変化はみられず、月に四日ないし七日の割合で通院していたが、昭和五六年頃には月に一一日通院することもあった。

そして、昭和五七年四月六日、気管支喘息を原因として死亡した(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

他の疾患

既往症として、肺結核(昭和三〇年頃右胸郭成形術)

続発症・合併症として、肺性心(昭和四九年頃)、気管支喘息(昭和五四年頃)

併発症・随伴症として、冠不全(昭和五〇年頃)、冠硬化(昭和五三年頃)、高血圧症(昭和五四年頃)

60 原告坂上一子(原告番号一次67番)(〈書証番号略〉、原告坂上一子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和一〇年一月一一日生

(三) 居住歴

① 出生から疎開まで川崎市川崎区大島に居住

② 疎開後昭和三三年頃まで千葉県夷隅郡等に居住

③ 昭和三三年頃から同三九年一〇月まで高知市に居住

④ 昭和三九年一〇月から同四〇年一二月まで川崎市幸区古市場一八四〇番地に居住

⑤ 昭和四〇年一二月から同五八年頃まで川崎市幸区古市場二丁目八二番地(作楽荘)に居住

⑥ 昭和五八年頃から平成元年二月まで川崎市幸区北加瀬一二一一番地(福島荘)に居住

⑦ 平成元年二月から現在まで川崎市幸区古市場一丁目四四番地(沼田荘)に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四七年(三七歳)頃

② 初診日

昭和四七年頃

③ 入院歴

昭和五八年一二月に四一日間東横病院、昭和六二年三月から同年四月に一四日間川崎協同病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和五〇年四月 公健法により慢性気管支炎に認定(付帯条件として禁煙)

② 昭和五〇年五月 同障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四七年四月頃から咳と痰、息切れ及び呼吸困難の症状がみられるようになり、近所の医院に受診後昭和五〇年三月から川崎セツルメント診療所に受診し慢性気管支炎の診断を受けた。その頃の症状としては、咳と痰が特に明け方や夜中にひどく出て、朝方にはなかなか痰が切れずに二、三時間咳と痰が続くことがあり、また、喘鳴を伴った呼吸困難に陥ることがあった。

その後、昭和五六年頃に一時悪化傾向がみられたが、同五八年一二月に肺炎を併発して入院を経験した。

昭和六二年頃から時々ステロイド剤を使用している。最近も月に四、五回通院し酸素吸入や注射を受けているが、平成二年暮頃から痰がひどく出る状態もみられた。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、肺結核(昭和三〇年に罹患し同三二年に肺右上葉部切除手術)

合併症(併発症)として気管支喘息の可能性

併発症・随伴症として低血圧症(昭和五〇年頃)

② 喫煙歴

二六歳頃から四〇歳頃まで一日五、六本、その後も五二歳まで一日四、五本の喫煙

61 原告佐藤榮助(原告番号一次68番)(〈書証番号略〉)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治三二年七月七日生

昭和五八年六月一一日死亡(死亡時八三歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和三年五月頃まで福島県伊達市川俣町に居住

② 昭和三年五月頃から同一三年まで川崎市川崎区砂子町に居住

③ 昭和一三年から同三〇年二月まで川崎市幸区戸手本町一丁目四八番地に居住

④ 昭和三〇年二月から同四六年七月まで川崎市幸区紺屋町一二番地に居住

⑤ 昭和四六年七月から同五〇年九月まで川崎市幸区小向西町二丁目九番地に居住

⑥ 昭和五〇年九月から同五一年九月まで川崎市幸区小向西町三丁目五八番地に居住

⑦ 昭和五一年九月から死亡時まで川崎市幸区小向西町三丁目二二番地に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四三年(六八歳)頃

② 初診日

昭和四三年頃(近所の医院)

③ 入院歴

昭和四九年七月に二〇日間(入院先不明)、昭和五八年初め頃から死亡時までの間川崎市立井田病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和五〇年五月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五〇年六月 同障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和二六年頃から咳が出ることがあったが、同四三年二月頃に痰のからんだ咳が出始め、その頃から喘鳴を伴う呼吸困難発作がみられて起座呼吸を呈するようになった。なお、昭和四〇年四月頃には息切れの症状も出現していた。

その後、昭和四九年四月頃から特に症状が悪化し、就寝直後又は夜間に痰が切れずに喘鳴が続いて寝ていることができず、起き上がって発作の治まるまで寄り掛かって我慢するような状態が生じ、右のような呼吸困難発作が月に五、六回起こっていた。

昭和五〇年五月から戸手病院に週に一、二回の割合で通院し注射と投薬を受けていたが、同五三年頃からはステロイド剤(セレスタミン漸減療法)も使用した。その後、症状には大きな変化はなかったが、昭和五七年頃には軽快傾向がみられた。

そして、川崎市立井田病院入院中の昭和五八年六月一一日、脳血栓を原因として死亡した。

(八) その他

① 他の疾患

続発症・合併症として、慢性湿疹(昭和五五年)、肺炎(同五八年頃)

併発症・随伴症として、動脈硬化性高血圧症(高血圧症は昭和四〇年頃から継続して治療)、冠不全(同五一年頃)、心筋梗塞(疑)(同五五年頃)等

② 喫煙歴

二〇歳から七五歳まで一五本ないし二〇本の喫煙

62 原告佐原久子(原告番号一次69番)(〈書証番号略〉、原告佐原久子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和一二年三月二八日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和二〇年まで東京都世田谷区三宿に居住

② 昭和二〇年から同二二年まで長野県および兵庫県加古川市に居住

③ 昭和二二年から同四二年一二月まで東京都港区西麻布に居住

④ 昭和四二年一二月から現在まで川崎市幸区古市場二丁目九四番地に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四八年(三六歳)頃

② 初診日

昭和四八年頃(近所の医院)

③ 入院歴

昭和五三年一月頃に八日間関口医院、同五六年五月頃に一〇日間川崎中央病院、同五七年秋頃に一〇日間(入院先不明)、同五八年一一月頃から四六日間川崎中央病院、平成元年一一月頃に約一〇日間(入院先不明)各入院

(六) 認定関係

① 昭和五〇年一二月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五一年一月 同障害等級三級に決定

③ 昭和五二年一月 同二級に変更

④ 昭和五二年一一月 同三級に変更

⑤ 昭和五八年二月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四八年三月頃から咳と痰が出始め、そのうちに喘鳴及び息切れの症状も出現し、同四九年一〇月頃からは呼吸困難発作が生じるようになった。

その後も昭和五〇年九月頃になると呼吸困難発作が激しくなり、同年一一月に太田病院で気管支喘息の診断を受けた。その頃は喘息発作が特に秋から冬にかけて頻繁に発生して呼吸困難となり前屈姿勢で我慢する状態であった。

昭和五七年頃に悪化傾向がみられ、同五九年頃からは重積発作時にステロイド剤(セレスタミン等)を使用したが、その後も症状に悪化傾向がみられた。現在でも季節の変わり目に喘息発作の回数が多く、右発作時には呼吸困難に陥り失禁を伴うことがあり、重積発作は月に数回程度起こる状態で外出時には吸入器を携帯している。

(八) その他

他の疾患

続発症・合併症として、アレルギー性鼻炎(昭和五四年頃)

併発症・随伴症として、子宮筋腫(昭和五七年頃、同五八年九月頃に子宮筋腫摘出手術)、高血圧症(同五九年)

63 原告相馬喜徳郎(原告番号一次70番)(〈書証番号略〉、証人相馬章子)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和三年七月二七日生

昭和六四年一月一日死亡(死亡時六〇歳)

(三) 居住歴

① 当時の東京府北豊島郡長崎町で出生し、昭和一八年四月頃まで埼玉県児玉郡美里村に居住

② 昭和一八年四月頃から同二一年頃まで川崎市川崎区水江町に居住

③ 昭和二一年頃から同三〇年頃まで愛知県守山市他工事現場数か所に居住

④ 昭和三〇年頃から同三二年頃まで川崎市幸区小倉に居住

⑤ 昭和三二年頃から同三四年七月まで横浜市鶴見区矢向七五六番地に居住

⑥ 昭和三四年七月から死亡時まで川崎市幸区塚越四丁目三三三番地に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三〇年(二七歳)頃

② 初診日

昭和三〇年九月頃(浅井医院)

③ 入院歴

昭和三五年一〇月に約一週間済生会病院に入院

(六) 認定関係

① 昭和四八年二月 川崎市の規則により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和三〇年九月頃から咳と痰、息切れ及び喘鳴を伴った呼吸困難の症状がみられるようになり、浅井医院に受診し気管支喘息の診断を受け通院を継続した。

昭和三六年頃には塵肺に罹患し、同三八年頃には右塵肺により約一か月間関東労災病院に入院した。その後、昭和四八年二月に肺炎に罹患し、右罹患を契機として症状に悪化傾向がみられ、痰を伴った咳が一日中絶え間なく出て、呼吸困難発作も数日ごとに起き、重積な発作の場合には意識が朦朧となることもあった。

遅くとも昭和五二年頃からステロイド剤(リンデロン)を使用し、発作の回数は少なくなる傾向があったが、その後、発作時にはメジヘラを頻繁に使用するようになった。

その後、昭和六三年一〇月には急性肺炎に罹患して東横病院に入院したが、同六四年一月一日、気管支喘息を原因とした急性心不全により死亡するに至った(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

他の疾患

既往症として、気管支炎、肺炎、気管支拡張症

合併症として、塵肺

64 原告滝沢正雄(原告番号一次71番)(〈書証番号略〉)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治三八年九月二四日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和二年一一月まで新潟県直江津市に居住

② 昭和二年一一月から同二〇年四月まで川崎市川崎区鋼管通一丁目一七番地に居住

③ 昭和二〇年四月から現在まで川崎市幸区古市場二丁目一〇九番地に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三五年(五六歳)頃

② 初診日

昭和三五年頃

③ 入院歴

昭和五二年一月から同年七月まで一六三日間、同年九月二日から同五三年四月までの間及び同五八年に八日間鈴木医院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四七年六月 川崎市の規則により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和一七年頃から咳、また同二五年頃から痰の出現傾向がみられたところ、同三五年頃になって息切れと季節の変わり目あるいは冬に喘鳴を伴った呼吸困難が生じるようになった。

昭和四七年頃には咳が年中出るとともに余り季節にかかわりなく呼吸困難発作が生じるようになり、一回呼吸困難発作が生じると二、三時間症状が継続することがあり、階段の昇降又は長距離の歩行で息切れがひどくみられた。

その後、昭和五一年末の冬頃に再び症状が悪化して前記のとおり翌五二年一月から入院するに至るが、その頃からステロイド剤(プレドニン)を使用するようになった。

現在は月に四、五日の割合で通院を継続している。

(八) その他

① 他の疾患

続発症・合併症として、蕁麻疹(昭和五〇年頃)、心不全(同五二年)、冠不全(同五三年)

併発症・随伴症として、脳軟化症(昭和五九年頃)、パーキンソン症候群(同六〇年頃)

② 喫煙歴

一八歳から四五歳まで一日二〇本、その後も七一歳頃まで僅かながら喫煙歴あり

65 原告馬場(旧姓島澤)ミツ子(原告番号一次73番)(〈書証番号略〉)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和三年三月二〇日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和一五年頃(小学校卒業)まで川崎市川崎区伊勢町に居住

② 昭和一五年頃から同三〇年二月まで川崎市大師西町七〇番地に居住

③ 昭和三〇年二月から同三一年五月まで川崎市川崎区浜町に居住

④ 昭和三一年五月から平成元年九月まで川崎市幸区塚越二丁目二六〇番地に居住

⑤ 平成元年九月から現在まで川崎市幸区南加瀬一丁目一四番一四号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四四年(四一歳)頃

② 初診日

昭和四四年頃(小川外科医院)

③ 入院歴

昭和五七年頃約一か月間及び同六〇年三月二三日から約四週間各宮川病院に入院

(六) 認定関係

① 昭和四八年七月 川崎市の規則により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級級外に決定

③ 昭和五一年一月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四二、三年頃から風邪をひき易くなっていたところ、同四三年一一月頃から咳が一年中出るようになり痰の症状もみられた。

昭和四七年頃から喘鳴を伴った呼吸困難発作が起こり、同四八年七月に高村診療所で気管支喘息の診断を受けた。当時の症状としては夜から明け方に咳が出始めると止まらなくなって痰を喀出することができず呼吸困難に陥ることが月に五、六回の割合で起こった。

昭和五二年頃からステロイド剤(主にベータメサゾン間歇使用)を使用するようになったが、同四五年頃には喀痰量が増加し咳漱発作が漸増して毎日認められる状態であった。

その後、症状に大きな変化はないが、最近でも月に一、二回の割合で重積な発作が起こることがあり、自宅における吸入とともに通院を継続している。

(八) その他

① 他の疾患

続発症・合併症として、右心障害、慢性気管支炎(昭和五三年頃)、肝腫大(同五七年)

併発症・随伴症として、自律神経失調症、低血圧症(昭和五三年)、眩暈発作(同六〇年)

② 喫煙歴

三一歳から四五歳まで一日五本程度の喫煙

66 亡中村清造承継人原告増子玲子外(原告番号一次74番)(〈書証番号略〉、証人角田伸子)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治三七年五月四日生

昭和五七年八月一九日死亡(死亡時七八歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和八年頃まで北海道室蘭市船見町に居住

② 昭和八年頃から同二〇年頃まで川崎市幸区中幸町一丁目一六一番地に居住

③ 昭和二〇年頃から同二八年頃まで茨城県北相馬郡利根町に居住

④ 昭和二八年頃から同二九年一一月まで川崎市幸区に居住

⑤ 昭和二九年一一月から同三二年七月まで川崎市川崎区浅田町四丁目一三番地に居住

⑥ 昭和三二年七月から死亡時まで川崎市幸区紺屋町六番地に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四八年(六七歳)頃

② 初診日

昭和四八年七月(近藤医院)

③ 入院歴

昭和五一年一一月から同五二年一〇月までに五日間及び同五三年九月二日から同月一六日までの間各近藤医院に入院(他の入院歴の詳細は不明)

(六) 認定関係

① 昭和四八年七月 川崎市の規則により気管支喘息に認定

②昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四〇年頃から時々喘息発作がみられ、同四五年頃には息切れの症状も出現していたところ、同四八年四月頃から朝夕に咳と痰が出て喘鳴を伴う呼吸困難の発作が生じるようになった。右昭和四八年頃の発作は短い時でも三〇分位で長い時は二時間位継続し枕を抱え背中を丸くして我慢する状態で、この頃は自宅で吸入器を使用するとともに週に一回通院して吸入を受けていた。

その後、昭和五二年頃にはステロイド剤を使用したが、症状は悪化傾向を示した。

昭和五三年九月には重積発作を起こして前記のとおり入院するに至ったが、この頃には年中発作が生じて胸の苦しさを訴えていた。

そして、昭和五七年八月一九日、呼吸困難に陥り医師の往診を受けたが、気管支喘息を原因とした急性心不全により死亡した(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、心臓病

併発症・随伴症として、慢性胃炎、両上下肢湿疹(昭和五四年頃)

② 喫煙歴

一九歳から六九歳まで三〇本ないし四〇本の喫煙

67 原告長沢ます(原告番号一次75番)(〈書証番号略〉、原告長沢ます)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正六年三月二日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和一五年二月まで群馬県勢多郡黒保根村(幼少時まで)、同県新田郡笠懸村岩宿に居住

② 昭和一五年二月から同一六年まで川崎市川崎区追分(数か月間)、同区四谷上町に居住

③ 昭和一六年から同一七年二月まで京浜急行産業道路駅付近の特殊鋼の寮に居住

④ 昭和一七年二月から同三二年二月まで川崎市川崎区観音町一丁目八四番地に居住

⑤ 昭和三二年二月から同五九年八月まで川崎市幸区戸手二丁目九二番地に居住

⑥ 昭和五九年八月から現在まで川崎市幸区遠藤町三二番地に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四五年(五三歳)

② 初診日

昭和四三年頃(草野医院)

③ 入院歴

昭和四五年八月一一日から同年一一月二五日までの間、同四六年一月二一日から同年三月三一日までの間、同四八年一一月二一日から同四九年二月一九日までの間、同五〇年六月一一日から同年七月一二日までの間、同五二年に二回(期間不明)、同五六年に八日間、同五八年二月一九日から一〇六日間及び平成二年(期間不明)に鈴木医院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和五一年八月 公健法により慢性気管支炎に認定

② 昭和五一年九月 同障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和三二年頃から呼吸困難になることがみられたところ、同四五年四月頃から咳と痰、息切れ及び喘鳴を伴った呼吸困難発作が出現し始め、右発作は年に三、四回程度起こっていた。同年八月頃には毎晩呼吸困難発作が起こった上、貧血の症状や胃腸病等も併発したことから全身状態が悪くなり、以後、入院を繰り返すようになった。

その後、昭和五四年頃からは重発作の頻度が減少したが、月に七日ないし一二日の割合で通院を継続していた。

そして、昭和五七年頃には咳と痰及び息切れの症状は時々認められたものの、発作が生じない期間もみられ、月に四、五日の割合で通院することが多くなった。

(八) その他

他の疾患

続発症・合併症として、気管支喘息(昭和五一年頃)、心不全(同五二年頃)

併発症・随伴症として、慢性胃炎(昭和五八年頃)等

68 原告野田正(原告番号一次76番)(〈書証番号略〉、原告野田ミツ子《平成三年九月一六日付》)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正五年二月三日生

昭和五八年六月二三日死亡(死亡時六七歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和三七年一一月まで長崎市中小島町に居住(一時半年程名古屋市に居住)

② 昭和三七年一一月から同四八年七月まで川崎市幸区古川町一〇八番地(昇置荘)に居住

③ 昭和四八年七月から死亡時まで川崎市幸区河原町一番地河原町団地二―六〇五に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四三年(五一歳)頃

② 初診日

昭和四七年頃(関医院)

③ 入院歴

昭和四八年頃約四〇日間及び同五五年三月一六日から四一日間各川崎幸病院、同五七年三月から四月までに三四日間関医院、同五八年二月頃から死亡時までの間(一時数日の退院あり)川崎幸病院に各入院(昭和五二年から同五三年までの入院歴不明)

(六) 認定関係

① 昭和四七年六月 川崎市の規則により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

③ 昭和五一年九月 同二級に変更

④ 昭和五二年九月 同気管支喘息・肺気腫二級に変更

⑤ 昭和五七年九月 同気管支喘息・肺気腫一級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四二、三年頃から風邪をひいた後もなかなか治癒せず咳と痰、息切れの症状とともに喘鳴を伴った呼吸困難発作がみられ起座呼吸を呈するようになった。

その後、昭和四五年頃までは呼吸困難の重発作は年に一回程度であったが、同四七年頃には右発作が月に一回起こることもあり関医院に三日毎に通院していた。

昭和五二年頃からはステロイド剤(プレドニン)を使用するようになり、発作自体はみられない時期があるなど一時軽快傾向もみられたが、同五五年頃になると呼吸困難発作が著明となり、前記のとおり同年三月一六日に緊急入院を要する状態となった。

昭和五六年頃には就寝一時間後の呼吸困難発作が習性になるほどの状態に陥り、同五七年頃には症状に悪化傾向がみられて入退院を繰り返した。

そして、前記のとおり昭和五八年二月に入院し一時退院するものの、再度入院して気管切開等の手術を受けるが、同年六月二三日、呼吸不全により死亡するに至った(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、蕁麻疹

続発症・合併症として、肺気腫(昭和四九年頃)、肺性心(同五五年頃)

併発症・随伴症として、肝機能障害、毛髪部湿疹(昭和五五年頃)

②喫煙歴

二〇歳頃から五六歳頃まで一日一五本、その後も六五歳頃まで三本ないし七本程度の喫煙

69 原告野田ミツ子(原告番号一次77番)(〈書証番号略〉、原告野田ミツ子《平成四年四月一八日付》)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正一一年九月一七日生

(三) 居住歴

① 福岡県甘木市で出生し、幼少時から昭和七年頃まで福岡県田川市に居住

② 昭和七年頃から同三七年一一月まで長崎県中小島町に居住

③ 昭和三七年一一月から同四八年七月まで川崎市幸区古川町一〇八番地(昇置荘)に居住

④ 昭和四八年七月から現在まで川崎市幸区河原町一番地河原町団地二―六〇五に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四六年(四九歳)頃

② 初診日

昭和四六年頃

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

①昭和四九年一一月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 同障害等級三級に決定

③ 昭和五一年一二月 同二級に変更

④ 昭和五六年九月 同三級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四六年頃に風邪をひくとなかなか治り難くなる傾向があったが、同年一二月頃から咳と痰や息切れの症状とともに喘鳴を伴った呼吸困難の発作がみられるようになった。そして、昭和四九年一〇月頃には夕方から喘鳴が始まり急に息の穴が小さくなるような感じで呼吸困難に陥り起座呼吸を呈して眠れない状態となることもあり、同年一一月に近藤医院に受診し気管支喘息の診断を受けた。

その後、昭和五七年頃には一次軽快傾向も示したが、同五九年頃には特に喘息発作に悪化傾向がみられた。また、昭和五五年頃から発作重積時にステロイド剤を使用することもあった。症状悪化時には重積発作が月に一回以上起こって一五分から三〇分継続した。

最近においても三か月に一回程度重発作が起こり、自宅で吸入を行うとともに月に六日の割合で通院を継続している。

(八) その他

喫煙歴

二九歳から五二歳まで一日二本程度の喫煙

70 原告野中八重子(原告番号一次78番)(〈書証番号略〉、原告野中八重子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和八年一〇月一九日生

(三) 居住歴

① 出生から中学校卒業時まで埼玉県南埼玉郡河合村に居住

② 中学校卒業後から昭和三五年九月まで東京都北区に居住

③ 昭和三五年九月から同三七年八月まで川崎市川崎区中島二丁目三八五番地(安座間喜保方)に居住

④ 昭和三七年八月から同四八年七月まで川崎市川崎区中島二丁目五七四番地(比嘉方)に居住

⑤ 昭和四八年七月から現在まで川崎市幸区河原町一番地河原町団地二―一〇九に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三五年(二七歳)頃

② 初診日

昭和三九年頃(野田内科眼科医院)

③ 入院歴

昭和三九年九月から同年一一月までの間川崎市立病院に入院

(六) 認定関係

① 昭和四六年一一月 川崎市の規則により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

③ 昭和五〇年一〇月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和三五年頃から息切れと喘鳴を伴った呼吸困難発作が生じるようになったが、同三九年秋頃には喘息発作により入院するに至った。右入院以降毎月あるいは二、三か月に一回程度の割合で重発作が起こっていたが、前記野田医院への通院加療により一時は軽快傾向もみられた。

その後、認定申請時の昭和四九年頃には年に三、四回重発作を起こすが、その余の期間は平常の状態であった。ただ、右重発作時には脂汗が出て意識が朦朧となって手足が冷たくなり重ねた布団に覆いかぶさるようにして三〇分から長い時は二時間位我慢することがあった。

その後、上気道炎を併発すると強い発作が起こることもあったが、概ね症状には変化はなかったものの、昭和五二年頃から重発作時にステロイド剤を使用するようになった。最近では月に六日程度通院を継続して注射と投薬を受けている。

(八) その他

他の疾患

既往症として、肺炎

併発症・随伴症として、慢性胃炎(昭和六三年頃)

71 原告皆川勉(原告番号一次79番)(〈書証番号略〉、原告皆川勉)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和一五年一一月二五日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和三四年三月まで岩手県西磐井郡花巻町に居住

② 昭和三四年三月から同三六年八月まで北海道室蘭市、仙台市に居住

③ 昭和三六年八月から同三八年一二月まで川崎市川崎区桜本町二丁目三六番地(日本鋼管社員寮)に居住

④ 昭和三八年一二月から同三九年九月まで川崎市川崎区中島二丁目四一九番地に居住

⑤ 昭和三九年九月から同四二年一〇月まで川崎市川崎区藤崎町二丁目四九番地に居住

⑥ 昭和四二年一〇月から同四八年七月まで川崎市川崎区中島二丁目六番八号に居住

⑦ 昭和四八年七月から現在まで川崎市幸区河原町一番地河原町団地二―九五八に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四六年(三〇歳)頃

② 初診日

昭和四八年六月三〇日(山本医院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和四八年七月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四六年六月頃に風邪をひいて咳と痰が止まらないことがあったが、それ以降風邪をひくと喘鳴とともに息苦しくなることが時々みられるようになった。そして、昭和四八年六月三〇日の夜就寝中に呼吸困難発作が起こり前記山本医院に受診したところ気管支喘息の診断を受け、翌日、川崎市立病院でも同様の診断を受けた。その頃は、毎日のように就寝後息苦しくなることがあり、月に一回位はタクシーで病院へ行き注射を受けることがあった。

昭和五一年頃から同五四年頃までは通院回数も月に一、二回程度に減少し、同五五年頃には軽快傾向がみられた。

その後の症状に大きな変化はないが、最近でも夜になると喘鳴を伴った軽発作が起こることがあり、月に四回程度の通院を継続している。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、気管支炎、アレルギー性鼻炎

② 喫煙歴

二〇歳から三二歳まで一日四〇本、三二歳頃(昭和四八年七月)頃に一時禁煙するも、四五歳頃まで五本ないし一〇本の喫煙

72 原告我妻正一(原告番号一次80番)(〈書証番号略〉、原告我妻正一)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和六年五月八日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和三七年四月まで宮城県刈田郡に居住

② 昭和三七年四月から同四〇年頃まで川崎市川崎区浜町に居住

③ 昭和四〇年頃から同四五年頃まで川崎市川崎区渡田新町に居住

④ 昭和四五年頃から同四八年七月まで川崎市川崎区鋼管通一丁目二三番六号(土屋方)に居住

⑤ 昭和四八年七月から現在まで川崎市川崎区河原町一番地河原団地二―一二〇六に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四六年(四〇歳)頃

② 初診日

昭和四六年三月頃

③ 入院歴

昭和五〇年及び同五一年に数日間川崎幸病院に入院

(六) 認定関係

① 昭和五〇年一一月 公健法により気管支喘息・慢性気管支炎に認定(付帯条件として禁煙)

② 昭和五〇年一二月 同障害等級二級に決定

③ 昭和五九年八月 同三級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四一年頃から時々咳き込んだり痰が出る傾向がみられたところ、同四六年三月頃から咳と痰が一か月も続けて出るとともに喘鳴を伴った呼吸困難発作が月に三、四回出現し始めた。

その後、昭和四七年頃には咳き込みと呼吸困難発作により半年間自宅で寝たり起きたりの生活をしていたが、一時回復して前記のとおり道路工事の警備員に従事することができたものの、同五〇年九月頃、右道路工事の警備中に激しく咳き込み胸が苦しい状態になり、以後三年間自宅で療養することになった。当時の症状は、毎日のように夜中に咳き込んで息苦しくなり、重発作が生じて救急車で川崎幸病院に搬送され治療を受けることもあった。

昭和五三年頃からステロイド剤を継続的に使用するようになり、その頃から症状に軽快傾向がみられた。

最近では月に四、五回の通院を継続しているが、喘息発作が一週間に一、二回みられることがある。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、肋膜炎(昭和三六年頃)

② 喫煙歴

二二歳から四五歳まで多い時で一五本程度の喫煙(当初は両切りフィルターなしの煙草を喫煙)

73 原告永山善人(原告番号一次81番)(〈書証番号略〉、原告永山善人)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和一〇年九月一四日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和二七年夏頃まで福島県岩瀬郡天栄村に居住

② 昭和二七年夏頃から同三九年二月まで横浜市磯子区磯子町二丁目に居住(履物店に住込み)

③ 昭和三九年二月から同四〇年四月まで横浜市南区月野町三六番地に居住

④ 昭和四〇年四月から同四八年一二月まで川崎市川崎区桜本二丁目三七番地に居住

⑤ 昭和四八年一二月から現在まで川崎市多摩区王禅寺二〇一四番地に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四四年(三三歳)頃

② 初診日

昭和四六年四月三日(四ツ角病院)

③ 入院歴

昭和五六年四月四日から同年五月九日までの間川崎協同病院(但し、胆石治療目的も含む)

(六) 認定関係

① 昭和四六年九月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

③ 昭和五〇年九月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四三年九月頃から咳と痰が殆ど一日中止まらない状態となり、特に喀痰量が多かった。昭和四五年秋頃からは息切れの症状もややみられるようになり、同四六年四月に四ツ角病院で慢性気管支炎の診断を受けたが、その頃には咳き込んで呼吸困難に陥り動けなくなる状態になることもあった。

その後、昭和五二年頃から咳と痰、同五三年頃から息切れの各症状の程度に悪化がみられた。そして、風邪をひいて咳と痰の症状が悪化したためと胆石症の治療のため前記のとおり昭和五六年四月に入院するが、その後の症状には大きな変化はなく、むしろ症状の程度(特に息切れ)は軽度になる傾向にある。ただ、最近においても季節にかかわりなく咳と痰の症状がみられ、月に一〇日程度の割合で通院を継続し吸入及び投薬等を受けている。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、心肥大(昭和四五年頃に指摘を受ける)

併発症・随伴症として、湿疹(昭和五三年頃)、胆石症(前記のとおり)

② 喫煙歴

昭和五一年頃一時一日五本程度の喫煙

74 原告池田輝子(原告番号一次82番)(〈書証番号略〉、原告池田輝子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和一九年一月三〇日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和二〇年五月まで横浜市神奈川区子安通りに居住

② 昭和二〇年五月から同三七年三月まで和歌山海草郡初島町に居住

③ 昭和三七年三月から同四一年六月まで横浜市鶴見区東寺尾に居住

④ 昭和四一年六月から同四二年四月まで川崎市川崎区川中島一丁目七番地に居住

⑤ 昭和四二年五月から同年一〇月まで川崎市川崎区伊勢町九四番地に居住

⑥ 昭和四二年一一月から同四五年一二月まで川崎市川崎区川中島一丁目一〇番一一号(名月荘)に居住

⑦ 昭和四五年一二月から同四八年八月まで川崎市川崎区観音二丁目一四番一〇―四〇一号(東京電力社宅)に居住

⑧ 昭和四八年八月から同五六年五月まで横浜市鶴見区東寺尾四丁目一二番三号(東京電力社宅)に居住

⑨ 昭和五六年五月から現在まで横浜市神奈川区子安台二丁目八番三二号ダイヤパレス子安台二〇一号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四六年(二六歳)頃

② 初診日

昭和四六年一月(大師病院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和四八年七月 救済法により慢性気管支炎に認定

② 昭和五〇年一二月 公健法により障害等級三級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四三年一〇月頃から咳が出始めていたところ、同四五年一二月頃から咳と痰の症状がひどくなり右症状が常時みられるようになった。

認定申請時の昭和四八年頃には喉にいがらっぽい感じが絶えずあり会話をしていても喉が痛くなる状態であった。その後も咳と痰の症状が継続していたが、薬剤に対する過敏症もあったことから昭和四八年頃から同五三年頃まで藤木医院で針灸と漢方の治療を受け、大師病院には多くて月に二回程度通院するも通院の全くない時期もあり、同五七年八月頃には大師病院における治療が一時中断されることもあった。

昭和六一年頃から息切れの症状の程度にやや悪化もみられたが、症状に大きな変化はなかった。

(八) その他

他の疾患

既往症として、蓄膿症、蕁麻疹

75 原告大橋昭二(原告番号一次83番)(〈書証番号略〉、原告大橋昭二)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和二年一月二九日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和二四年六月まで宮城県角田市に居住

② 昭和二四年六月から同二九年三月まで川崎市中原区新城(日本鋼管社宅)に居住

③ 昭和二九年三月から同四五年六月まで川崎市川崎区藤崎四丁目三三番二〇号に居住

④ 昭和四五年六月から同五三年一〇月まで横浜市鶴見区馬場五丁目九番一二号に居住

⑤ 昭和五三年一〇月から現在まで横浜市鶴見区北寺尾七丁目一一番一〇号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四五年(四三歳)頃

② 初診日

昭和四五年一〇月(日本鋼管病院)

③ 入院歴

昭和四五年一〇月に約一か月間等同五〇年六月までに七回日本鋼管病院、昭和五〇年七月一七日から同年一一月八日までの間、同五一年七月八日から同月二四日までの間及び同年九月一一日から同五二年一月九日までの間四ツ角病院(その後川崎協同病院に名称変更)、同五二年一月一〇日から同月二二日までの間大師病院、同五二年四月一五日から同年六月九日までの間、同五六年一一月五日から同月二五日までの間、同五七年一月三〇日から同年二月二〇日までの間、同五八年七月八日から同月三〇日までの間、同五九年一〇月四日から同年一一月二四日までの間、同六〇年一月九日から同月一九日までの間及び同六一年八月一九日から同月二三日までの間川崎協同病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和五〇年九月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五〇年一〇月 同障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四五年一〇月頃から一週間から一〇日間近く継続して咳と痰が出るとともに階段の昇降でも一、二回休憩を取らなければならない程の息切れの症状がみられた。そして、その頃、帰宅途中に呼吸困難発作に陥り日本鋼管病院に受診し気管支喘息の診断を受けるとともに同病院に入院し、右以降昭和五二年頃まで毎年入退院を繰り返すようになった。

認定申請時の昭和五〇年頃には喘鳴を伴った呼吸困難発作が年に七回位起こり、右発作時には言葉も発することもできず座り込んで手を床に付いて約二時間耐えることもあった。

遅くとも昭和五二年頃から継続してステロイド剤(プレドニン、ケナコルト等)を使用している。

その後、昭和五二年頃から症状に軽快傾向がみられたものの同五六年頃から前記のとおり再び入退院を繰り返すようになった。

最近で咳の症状に改善がみられるが、重発作は月に一、二回起きることがあり、月に五日ないし七日の割合で通院を継続するとともに自宅で吸入エアゾール及びメジヘラを使用している。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、高血圧症、肺炎(昭和四〇年)

続発症・合併症として、ステロイド糖尿病(昭和五〇年頃)、肺気腫(同五四年頃)

併発症・随伴症として、高血圧症(昭和五〇年頃)、高尿酸血症(同五六年頃)

②喫煙歴

一時禁煙の時期もみられるものの、二〇歳から少なくとも三六歳まで一日一〇本程度の喫煙

76 原告柄沢富士子(原告番号一次84番)(〈書証番号略〉、原告柄沢富士子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和五年九月二一日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和一〇年頃まで神奈川県藤沢市に居住

② 昭和一〇年頃から同一九年まで東京都葛飾区に居住

③ 昭和一九年から同二一年頃まで埼玉県寄居町に居住

④ 昭和二一年頃から同二九年頃まで埼玉県児玉郡神川村に居住(洋服店住込み)

⑤ 昭和二九年頃から同三三年一一月まで埼玉県与野市に居住

⑥ 昭和三三年一一月から同五一年一一月まで川崎市幸区古市場二丁目一一四番地に居住

⑦ 昭和五一年一一月から現在まで川崎市宮前区野川二二二九南台団地三―二〇六に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四五年(四〇歳)頃

② 初診日

昭和四五年頃(関口医院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和五〇年一一月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五〇年一一月 同障害等級三級に決定

③ 昭和五四年九月 同級外に変更

④ 昭和五四年一一月 同再請求で三級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四〇年頃から春先や秋口に鼻水やくしゃみが出るようになっていたところ、同四五年頃から風邪をひくとなかなか治まらなくなり、咳と痰及び息切れの症状が出現するとともに喘鳴を伴った呼吸困難発作が起こり、その頃、関口医院に受診し気管支喘息の診断を受けた。

認定申請時の昭和五〇年頃には夜中になると咳と痰がひどくなるため睡眠不足の状態で呼吸困難の発作年に五、六回程度起こっていた。

その後、昭和五三年頃には喘息発作が全くみられない期間もあって症状に軽快傾向がみられた。

昭和五六年ころには特に鼻水とくしゃみが継続的に出るとともに春先と秋口に喘息発作が出現し、また、同六三年頃から症状に悪化傾向がみられ、最近も月に平均四、五回の通院を継続している。

(八) その他

他の疾患

既往症として、気管支炎、蕁麻疹

続発症・合併症として、アレルギー性鼻炎(昭和五二年頃)

併発症・随伴症として、若年性高血圧症(昭和五四年頃)、本態性高血圧症(同五五年頃)、慢性胃炎(同五八年頃)

77 原告斎藤彦一(原告番号一次85番)(〈書証番号略〉、原告斎藤彦一)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正五年一月一一日

(三) 居住歴

① 出生から昭和一二年頃まで長野県木曽郡楢川村に居住

② 昭和一二年頃から同一九年まで横浜市鶴見区向井町に居住

③ 昭和一九年から回二三年まで長野県木曽郡楢川村に居住

④ 昭和二三年から同二九年まで横浜市鶴見区向井町に居住

⑤ 昭和二九年から現在まで横浜市鶴見区平安町二丁目一三番地の一二に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三六年(四五歳)頃

② 初診日

昭和三七年頃(杉医院)

③ 入院歴

昭和五八年五月から同年八月までに八九日間及び同六一年三月から同年四月までに三四日間汐田病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和五〇年四月 公健法により気管支喘息に認定

(付帯条件として禁煙)

② 昭和五〇年五月 同障害等級二級に決定

③ 昭和五四年一月 同一級に変更(指示事項として禁煙)

④ 昭和五五年二月 同二級に変更

⑤ 昭和五五年一〇月 同改訂請求により一級に変更

⑥ 昭和五八年一一月 同二級に変更

⑦ 昭和五九年一二月 同改訂請求により一級に変更

(七) 病状の経過等

昭和三二年頃から継続して咳が出る症状が出現するようになっていたところ、同三六年頃に息苦しくなる状態がみられ当時の勤務先である東洋製鋼を欠勤することがあった。

その後、通院を継続していたが、喘鳴を伴った呼吸困難発作が生じて起座呼吸を呈するようになり、重発作時には気管支が締め付けられるような感じで息を吐くことができず呼吸困難に陥り、息ができないため体が震え唇が紫色になることもあった。また、認定申請時の昭和五〇年頃には軽発作は毎日起こっていた。

昭和五三年頃以降ステロイド剤(プレドニン等)の投与を受けるようになり、その頃、喘息発作の症状等に一時軽快傾向がみられたが、同五四年頃には特に息切れの症状が悪化を示した。

その後、昭和五八年五月には呼吸困難発作に陥り前記のとおり最初の入院に至ったが、その頃には毎日のように喘息発作が起こっていた。

最近においても月に一三日程度位通院を継続している。

(八) その他

① 他の疾患

続発症・合併症として、肺気腫(昭和五八年頃)

併発症・随伴症として、肝障害(昭和五八年頃)

② 喫煙歴

二〇歳から五〇歳まで一日六本程度、以後六五歳頃まで若干量

78 原告櫻田與五郎(原告番号一次86番)(〈書証番号略〉、証人櫻田榮子)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正九年三月三一日生

平成元年一二月五日死亡(死亡時六九歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和二五、六年頃まで秋田県藤里町等に居住

② 昭和二五、六年頃に神奈川県に転居(詳細は不明)

③ 昭和二九年から同三二年頃まで横浜市鶴見区に居住

④ 昭和三二年頃から同三六年頃まで川崎市幸区北加瀬九五〇番地に居住

⑤ 昭和三六年頃から同三八年九月頃まで横浜市鶴見区仲通に居住

⑥ 昭和三八年九月から同四四年一〇月まで川崎市幸区大宮町四〇番地(国鉄構内宿舎)に居住

⑦ 昭和四四年一〇月から同四九年六月まで川崎市幸区大宮町三〇番地(国鉄アパートD棟一三号)に居住

⑧ 昭和四九年六月から死亡時まで川崎市中原区市ノ坪五八一番地一市ノ坪住宅一〇一に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四三年(四九歳)頃

② 初診日

昭和四四年一〇月(太田病院)

③ 入院歴

昭和四四年一〇月から同年一一月までの間及び同四六年一月から二月までの間太田病院、同四九年三月一三日から少なくとも同年一一月三〇日までの間(期間及び入院先不明、但し、肝炎及び気管支喘息の治療目的)、同五一年一〇月から同五二年七月までに四回合計約二〇〇日間鹿島田病院、同五四年九月一八日から死亡時まで長期間生田病院(但し、主な治療目的は脳動脈硬化性精神障害等で気管支喘息の治療も併せて行っていたもの)各入院

(六) 認定関係

① 昭和四八年二月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

③ 昭和五〇年一二月 同三級に変更

④ 昭和五一年一一月 同二級に変更

⑤ 昭和五五年二月 同三級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四三年一〇月頃から咳と痰、息切れ及び喘鳴を伴った呼吸困難発作が生じるようになり、同四四年一〇月に重発作が起こって前記のとおり太田病院に入院することになった。

昭和四七年一〇月には夜中に発作が起こり翌日赤羽病院に受診したところ発作のため失神する事態になったこともあった。

認定申請時の昭和四八年頃は重積な発作はないものの、ほぼ毎日夜中に喘鳴を伴った軽発作が起こっていた。

その後、昭和五一年一〇月から同五二年七月頃まで入退院を繰り返したが、同五四年九月頃からは一時小康状態もみられたものの、同五五年九月頃からは時々喘息発作が起きるようになった。

右昭和五四年九月から死亡時まで長期間入院生活を送ることになるが、前記のとおり主に慢性アルコール中毒あるいは脳動脈硬化性精神障害によるものであった。そして、平成元年一二月五日、急性心不全により死亡した。

(八) その他

① 他の疾患

併発症・随伴症として、慢性肝炎(昭和四九年頃)、冠不全(同五〇年頃)、慢性アルコール中毒症(同五三年頃)、脳動脈硬化症(同五七年頃)、脳動脈硬化性精神障害(同六〇年頃)等

② 喫煙歴

一七歳から五七歳まで多い時で一日一〇本程度の喫煙

79 原告高世富子(原告番号一次87番)(〈書証番号略〉、原告高世富子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和一四年四月二三日生

(三) 居住歴

① 北海道小樽市で出生するが、その後間もなくから昭和三〇年四月まで山形県に居住

② 昭和三〇年四月から同四二年三月まで川崎市川崎区渡田三丁目一四番一〇号(芝電気工業に住込み)に居住

③ 昭和四二年三月から同四九年九月まで川崎市川崎区渡田三丁目一一番三号に居住

④ 昭和四九年九月から現在まで横浜市戸塚区飯島五二七飯島団地六街四棟二〇四号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三九年(二五歳)頃

② 初診日

昭和三九年一〇月頃(石井医院)

③ 入院歴

昭和五五年に一〇日間星内科胃腸科病院に入院

(六) 認定関係

① 昭和四七年三月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年二月 公健法により障害等級三級に決定

③ 昭和五〇年一〇月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和三九年一〇月頃に咳がひどく出て喘鳴を伴った呼吸困難発作が起こり、その頃、石井内科に受診し気管支喘息の診断を受けた。また、その頃から痰や息切れの症状もみられた。その後も呼吸困難発作が起きて寝込んでしまうような状態があったが、長女を出産した直後の昭和四四年一〇月頃に重発作が生じた。

そして、認定申請時の昭和四七年頃には、呼吸困難発作は特に四月とか一〇月といった季節の変わり目に生じることが多く平均月に二、三回の割合で起こっていた。

昭和四八、九年頃に一時症状に改善の傾向もみられたが、同五五年頃には喘息発作の症状が悪化を示し、通院日数も増加し月に一〇日以上通院することが多くなった。

また、昭和五二年頃からステロイド剤の投与を間歇的に受けることがあった。最近においては症状には大きな変化はないものの、月に二〇日以上の通院をする時期もある。

80 原告根岸善治(原告番号一次89番)(〈書証番号略〉、証人根岸テル)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治三九年一月二九日生

昭和六三年五月一四日死亡(死亡時八二歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和二九年頃まで群馬県邑楽郡郷谷村に居住

② 昭和二九年頃から同三七年頃までの間に順次川崎市川崎区観音町、同区池上町、同区上殿町一丁目二〇番八号に居住

③ 昭和三七年から同四八年まで川崎市川崎区日ノ出町二丁目一五番一六号に居住

④ 昭和四八年から死亡時まで川崎市多摩区生田三丁目一六番地川崎市市営住宅五号棟一〇四号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三八年(五八歳)頃

② 初診日

昭和四一年頃

③ 入院歴

昭和五二年一月頃から四一日間、同五四年五月から同五五年四月までに二回合計一一八日間、同五七年五月から同五八年四月までに四回合計一四九日間、同年五月六日から期間不明、同年九月から同年一〇月までに三八日間及び同年一二月から同五九年五月までに一五六日間大師病院、同年一一月から同六〇年五月まで一六一日間、同年一二月から同六一年三月までに七八日間、同年一一月から同六二年三月までに八七日間久地病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四五年三月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

③ 昭和五〇年一〇月 同一級に変更

④ 昭和六二年六月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和三八年八月頃に急に息苦しくなり咳と痰の症状が出現し、それ以降しばしば呼吸困難発作が起こり起座呼吸を呈するようになった。

その後、昭和四五年二月頃には夜寝る前に咳が出て五日に一回の割合で呼吸困難発作が起こっていた。右発作が起きると喘鳴により会話もできなくなり体の前後に布団を積み重ねてその上に屈んで座り何時間も我慢することがあった。

昭和五二年頃から継続的にステロイド剤の使用を受けるようになったが、その頃から喘息発作時の症状も重くなり、前記のとおり長期の入院を繰り返すようになった。

その後、昭和五八年頃には息切れ及び咳と痰の症状に悪化傾向がみられ、喘息発作も毎日のように起こるようになった。そして、昭和六三年五月一四日、慢性呼吸不全増悪により死亡した(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

続発症・合併症として、肺気腫(昭和五四年頃)

併発症・随伴症として、胆石症(昭和五八年頃)

② 喫煙歴

認定以前に喫煙歴あり(詳細不明)

81 原告鈴木サツ(原告番号一次90番)(〈書証番号略〉、原告鈴木サツ)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和一五年一月二五日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和三〇年まで秋田県山本郡藤里町に居住

② 昭和三〇年から同三八年九月まで東京都江東区深川、同葛飾区綾瀬、埼玉県三郷に居住

③ 昭和三八年九月から同四〇年六月まで川崎市川崎区浅田三丁目三三番地に居住

④ 昭和四〇年六月から同五六年一二月まで川崎市川崎区浅田四丁目一四番五号に居住

⑤ 昭和五六年一二月から現在まで横浜市鶴見区朝日町二丁目八七番一二号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和五〇年(三五歳)頃

② 初診日

昭和五〇年一〇月頃(大嶺医院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和五一年一〇月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五一年一二月 同障害等級二級に決定

③ 昭和五三年八月 同三級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四七年二月頃から咳が出る傾向にあったが、同五〇年一〇月には喘鳴を伴った呼吸困難発作が起きて起座呼吸を呈するようになり、また、その頃から痰や息切れの症状もみられた。

昭和五一年一〇月二〇日の朝方に呼吸困難発作が起き、川崎協同病院で酸素吸入と点滴を受け、その際気管支喘息の診断を受けた。右昭和五一年頃には月に一〇回位呼吸困難発作に見廻われ、特に夏、秋あるいは季節の変わり目に多く起きた。

その後、北原診療所と熊谷医院に通院して投薬等を受け(右熊谷医院には現在まで月に四、五日の割合)、現在まで症状に大きな変化はない。

(八) その他

他の疾患

既往症として、心疾患

併発症・随伴症として、高血圧症(昭和五七年頃)等

82 亡浅里伸司(原告浅里忠夫外)(原告番号一次91番)(〈書証番号略〉、原告平政子)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和四八年六月七日生

昭和五四年八月一〇日死亡(死亡時六歳)

(三) 居住歴

出生から死亡時まで川崎市川崎区中島二丁目九番六号(ひかり荘)に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和五一年四月(二歳一〇月)頃

② 初診日

昭和四九年

③ 入院歴

昭和五一年一〇月に二日間、その後二、三回短期間及び昭和五四年七月二七日から死亡時まで川崎市立病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和五三年九月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五三年一〇月 同障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四九年(一歳)頃から喉がゼーゼーといい始め風邪をひくと右喘鳴がひどくなる状態がみられたところ、同五一年四月(二歳一〇月)頃には痰のからむような重い咳をすることが多くなり、呼吸困難の発作も月に六回位起きるようになった。そして、昭和五一年一〇月に重篤な発作が起こって前記のとおり入院することとなった。発作は昼夜限らず起こり、一旦起こると一日中苦しむ状態が継続することもあり、症状が悪化すると鼻先や唇にチアノーゼ症状がみられることもあった。

その後、昭和五四年夏頃になると発作が頻繁に起こるようになっていたところ、同年七月二七日明け方から発作が起こり始め、一日の内に何度も通院した後、救急車で川崎市立病院へ搬送中に意識不明の状態となり、以後入院をするが、同年八月一〇日、気管支喘息を直接死因として死亡した(直接死因として取り扱い)。

83 亡土屋敏一(原告土屋ツル)(原告番号一次92番)(〈書証番号略〉、、原告土屋ツル)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正三年一〇月七日生

昭和五五年八月二〇日死亡(死亡時六五歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和一一年頃まで静岡県下田市に居住

② その後、外国航路あるいは国内航路の貨物船の船員として洋上生活を送ることが多かった

③ 昭和四〇年三月から同四六年一〇月まで川崎市川崎区大島上町一二番二号(田村荘)に居住

④ 昭和四六年一〇月から同四七年二月まで川崎市川崎区本町二丁目一〇番一八号に居住

⑤ 昭和四七年二月から死亡時まで川崎市川崎区大島四丁目四番五―三〇六に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四七年(五七歳)頃

② 初診日

昭和四七年四月頃(山田病院)

③ 入院歴

昭和五四年一月二九日から大師病院に入院後同年三月三〇日に川崎協同病院に転院し合計約六か月間入院

(六) 認定関係

① 昭和五〇年九月 公健法により肺気腫に認定

② 昭和五〇年一〇月 同障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四七年四月頃から咳と痰が出るようになり、同四八年八月頃からは息切れの症状がみられ、同年一二月頃からは喘鳴を伴った呼吸困難発作も起こるようになった。

昭和五〇年一月から同年二月頃にかけて呼吸困難発作が頻繁に起こったため勤務先を休職して自宅療養し、その後一時期復職したものの、症状悪化により同年七月頃には退職するに至った。右の頃においては毎日のように喘鳴を伴った呼吸困難発作が起こるとともに痰が切れない状態であった。

昭和五〇年九月に四ツ角病院で慢性気管支炎の診断を受けたが、認定では肺気腫で認定された。

その後、昭和五四年一月に肺炎から膿胸を併発し前記のとおり入院した。

右退院後は月に二〇日程度の割合で中島中央病院へ通院していた。そして、昭和五五年八月二〇日、心肥大症による鬱血性心不全を原因として死亡した。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、肺結核(昭和一五年二月から同二四年六月まで国立湊病院、同二五年に六か月間横須賀(海軍)病院に各入院し、昭和三八年頃には抗結核剤による治療、更に昭和四七年頃から経過観察中)

続発症・合併症として、肺性心(昭和五二年頃)、反回神経麻痺(同五三年頃)、肺炎・膿胸(同五四年一月頃)

併発症・随伴症として、高脂血症、期外収縮(昭和五〇年頃)、高血圧(同五二年頃)等

② 喫煙歴

二三歳から五八歳まで一日一〇本ないし一五本の喫煙

84 亡干場常晴(原告亡干場よし外)(原告番号一次94番)(〈書証番号略〉、原告干場和子)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治四〇年三月九日生

昭和五三年一〇月五日死亡(死亡時七〇歳)

(三) 居住歴

① 出生から小学校卒業まで長野県上田市に居住

② 小学校卒業後昭和一〇年頃まで東京都に居住

③ 昭和一〇年一月から同四四年一〇月まで川崎市川崎区小田二丁目七番一五号に居住

④ 昭和四四年一〇月から死亡時まで川崎市川崎区桜本二丁目三九番二―二〇七に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三六年(五四歳)頃

② 初診日

昭和四二年頃(四ツ角病院)

③ 入院歴

昭和五一年六月頃一三日間四ツ角病院及び同五三年九月二三日から死亡時までの間川崎協同病院に入院

(六) 認定関係

① 昭和四六年一〇月 救済法により肺気腫に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和三一年頃から咳が出現し始めていたところ、同三六年頃から痰、息切れ及び呼吸困難発作の症状も加わるようになった。

その後、前記のとおり昭和三九年頃には仕事を継続することができなくなった。そして、認定申請時の昭和四六年頃は咳が出て吸気時に息苦しく喉が常時ゼーゼーし、月に四回位呼吸困難に陥ることがあった。また、駅の階段を昇るのが困難で同年代の人と一緒に歩くと息切れがするような状態であった。

昭和四九年頃からは月に二〇日以上通院することが多く、通院時には吸入を受けていた。

その後、昭和五三年頃から息切れの症状の程度に悪化傾向がみられていたところ、同年九月に呼吸困難発作等症状が重篤化したため救急車で川崎協同病院に搬送され、一旦帰宅したもののその日の内に入院し気管支を切開して人工呼吸するなどの処置を受けたが、同年一〇月五日、気管支喘息による呼吸不全及び循環不全(肺気腫が原因)を原因とする十二指腸潰瘍穿孔により死亡するに至った(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、肺炎、心不全等心臓病等

続発症・合併症として、気管支喘息(昭和五三年頃)、急性心筋梗塞(同五三年頃)

併発症・随伴症として、高血圧症(昭和四九年)

② 喫煙歴

二八歳頃から六四歳まで一日一〇本、その後一時禁煙期間もあるものの七〇歳頃まで一日三、四本程度の喫煙

85 亡井田次作(原告井田テル子外)(原告番号一次96番)(〈書証番号略〉、原告井田テル子)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正二年一月三〇日生

昭和五六年五月一日死亡(死亡時七〇歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和一五年頃まで群馬県勢多郡新里村に居住

② 昭和一五年頃から同二三年まで横浜市鶴見区小野に居住

③ 昭和二三年から同二六年八月まで横浜市鶴見区潮田に居住

④ 昭和二六年八月から死亡時まで川崎市川崎区小田四丁目一三番七号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四六年(五八歳)頃

② 初診日

昭和四二年頃(太田病院)

③ 入院歴

昭和四二年六月から同年七月までの間太田病院、同五〇年九月に約半月間太田病院、昭和五五年九月二九日から同五六年四月四日までの間川崎臨港病院、同年四月二九日から死亡時までの間太田病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和五三年五月 公健法により肺気腫に認定

② 昭和五三年六月 同障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四〇年二月頃から息切れの症状がみられ、同四五年二月頃には咳と痰の症状が出現するようになった。そして、昭和四六年頃には仕事中に息切れがみられたり、自宅から自転車で一〇分程の職場までの間に息切れのため三、四回休憩を取らなければならない状態となった。

その後も右のような息切れの症状が継続していたところ、昭和五〇年九月に太田病院で肺気腫の診断を受けた。

その後、昭和五五年九月に風呂に入ろうとしたところ呼吸困難に陥り前記のとおり川崎臨港病院に入院するに至るが、その頃から症状が悪化した。右入院中にはお茶の湯気を吸い込んだり、歩いてつまずいたりしただけで呼吸困難となりひきつけを起こした状態になることがあり、痰が詰まることから機械で吸引することもあった。

昭和五六年四月二九日、前日からの呼吸困難発作の頻発が継続して前記のとおり太田病院に入院するが、同年五月一日、肺気腫を原因とした心不全により死亡した(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、心不全(昭和四一年頃に約一か月間太田病院入院)、高血圧症(昭和三九年頃から千葉医院で治療継続)及び冠動脈硬化症

併発症・随伴症として、一過性脳虚血発作(昭和五六年頃)

② 喫煙歴

二一歳から五四歳まで一日二〇本程度の喫煙

86 亡佐藤栄一(原告佐藤志津子)(原告番号一次97番)(〈書証番号略〉)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和六年九月二〇日生

昭和五五年八月一一日死亡(死亡時四八歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和三二年頃まで川崎市川崎区小田に居住

② 昭和三二年頃から同三四年三月まで横浜市南区弘明寺町に居住

③ 昭和三四年三月から死亡時まで川崎市川崎区本町二丁目五番地二に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

慢性気管支炎 昭和四九年(四三歳)頃

気管支喘息 同年頃

② 初診日

昭和四九年頃(新川橋病院)

③ 入院歴

昭和五二年一〇月四日から同五三年七月までの間及び同五四年四月から死亡時までの間新川橋病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和五三年二月 公健法により慢性気管支炎及び気管支喘息に認定

② 昭和五三年三月 同障害等級一級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四三年一月頃から軽い咳が出始め、同四六年頃には夜間に咳き込むことがあったので東芝中央病院に受診したところ当時は気管支炎との診断を受けたが、その後、昭和四九年四月頃には痰も出るようになった。

昭和四九年五月に脳卒中で倒れ神奈川県厚木市所在の七沢病院で機能訓練を受けていたが、右病院退院後の同年一〇月頃から息切れとともに喘鳴を伴う呼吸困難発作がひどくなり始めた。その頃から新川橋病院に受診し慢性気管支炎及び気管支喘息の診断を受けた。

その後の症状は、咳が出る時には間断なく出て咳き込み、痰も咳が激しい時に一緒に出るとともに喘鳴を伴った呼吸困難発作が一日から三日に一回起こって右発作が三〇分以上続いた。そして、前記のとおり昭和五四年四月から再度の入院を経験するが、入院中も酸素吸入を受ける状態が続くことがあり、右入院中の昭和五五年八月一一日、気管支喘息により死亡するに至った(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

①他の疾患

既往症として、高血圧症、蓄膿症

併発症・随伴症として、脳卒中後遺症、心筋障害(昭和五三年頃)

② 喫煙歴

二〇歳から四二歳まで一日三〇本程度の喫煙

87 亡玉那覇公栄(原告玉那覇トミ外)(原告番号一次98番)(〈書証番号略〉、証人玉那覇珠紀)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

明治四一年四月一〇日生

昭和五五年一一月七日死亡(死亡時七二歳)

(三) 居住歴

① 出生から昭和四〇年五月まで沖縄県中頭郡中城村に居住

② 昭和四〇年五月頃から同四四年秋頃まで川崎市麻生区下麻生に居住

③ 昭和四四年秋頃から同四五年九月まで神奈川県逗子市に居住

④ 昭和四五年九月から同四七年八月まで川崎市幸区都町六番地に居住

⑤ 昭和四七年八月から死亡時まで川崎市幸区河原町一番地九―一〇五に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四七年(六四歳)頃

② 初診日

昭和四九年一月(米田医院)

③ 入院歴

昭和五一年五月に一回(期間及び入院先不明)、同五五年一〇月一日から死亡時までの間川崎幸病院に入院(他の入院歴の詳細不明)

(六) 認定関係

① 昭和四九年四月 川崎市の規則により気管支喘息に認定

② 昭和五〇年一月 公健法により障害等級一級に決定

③ 昭和五一年一月 同二級に変更

④ 昭和五二年一〇月 同一級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四一年頃から咳が、同四五年頃から痰が出る傾向がみられたところ、同四七年一一月頃から喘鳴を伴った呼吸困難発作が起きるようになり、また、歩行時に息切れの症状が出現し始め、その頃、勤務先を退職した。当初は自宅で療養していたが、昭和四九年一月から米田医院に受診し気管支喘息の診断を受け週に一、二回の通院を継続していた。

認定申請時の昭和四九年頃には特に春秋等季節の変わり目に症状が増悪し月に二、三回喘鳴を伴う呼吸困難発作が起きていた。右呼吸困難発作時には話すこともできずにゼイゼイいって胸を押えて我慢する状態となり、その際には唇が紫色になることもあった。

その後、昭和五二年頃は息切れ、喘息発作及び咳と痰の各症状の程度に悪化を示していたところ、同五五年一〇月一日、前日からの呼吸困難発作のため救急車で川崎幸病院に入院したが、入院中の同年一一月七日、死亡するに至った(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

続発症・合併症として、気管支拡張症(昭和五〇年頃)、心機能障害(同五〇年頃)

② 喫煙歴

二五歳から五〇歳まで一日一〇本程度の喫煙

88 亡高橋紀美子(原告高橋ミツ子)(原告番号一次99番)(〈書証番号略〉、原告高橋ミツ子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和一五年八月二一日生

昭和四六年一〇月一五日死亡(死亡時三一歳)

(三) 居住歴

① 出生から後記青梅市疎開まで東京都大田区蒲田に居住

② 戦時中東京都青梅市に居住(疎開)

③ 戦後から同二五年まで川崎市川崎区小田に居住

④ 昭和二五年から同三二年頃まで川崎市川崎区渡田に居住

⑤ 昭和三二年頃から同三五年一二月まで川崎市幸区東古市場五三番地に居住

⑥ 昭和三五年一二月から同四五年一一月まで川崎市川崎区桜本二丁目二八番地に居住

⑦ 昭和四五年一一月から死亡時まで川崎市宮前区東有馬四丁目五番地一五―四〇一に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三六年(二一歳)頃

② 初診日

昭和三六年頃

③ 入院歴

昭和四四年二月に約一か月間(但し、肺炎併発によるもの)川崎臨港病院、同年一〇月三〇日から同年一一月七日までの間四ツ角病院に各入院

(六) 認定関係

昭和四五年一月 救済法により気管支喘息に認定

公健法による障害等級制度発足前に死亡

(七) 病状の経過等

五歳(昭和二〇年)頃から喘鳴が認められ小学生の時に喘息の診断を受けたことがあった。

その後、昭和三六年頃から咳と痰が出るようになり(当時は気管支炎との診断を受けていた)、その頃から三年に約一回の割合で特に夏に咳と痰の症状がひどく喘息発作が起こり一週間位継続することがあった。そして、前記のとおり昭和四四年二月に肺炎を併発して入院するが、同年九月頃から症状が悪化して勤務先を休職するに至った。

認定を申請した昭和四五年頃においては重積な喘息発作が年に二回位起こり、右発作時には呼吸困難に陥り顔面蒼白となって冷汗を出し起座呼吸を呈する状態となった。

前記のとおり昭和四五年一一月に転居するものの症状に改善はみられず、翌四六年一〇月二五日、自宅で激しい発作が起こり有馬病院に救急車で搬送されるが、呼吸困難により死亡した(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

他の疾患

既往症として、肺炎(前記のとおり)

89 亡早坂忠夫(原告早坂良子外)(原告番号一次100番)(〈書証番号略〉、原告早坂良子)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和一二年二月一五日生

昭和五二年一二月一三日死亡(死亡時四〇歳)

(三) 居住歴

出生から死亡時まで川崎市高津区坂戸四六四番地

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四四年(三二歳)頃

② 初診日

昭和四四年頃(高津中央病院)

③ 入院歴

昭和四八年三月、同年七月及び同年九月に各三週間並びに同年一一月一五日から同年一二月までに四〇日間、同四九年一月二日から同年二月八日までの間川崎中央病院、その後、一時山梨県の鰍沢病院(転地療養)に各入院

(六) 認定関係

① 昭和四九年二月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和五〇年一二月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和四四年頃から季節の変わり目になると明け方近くに息苦しくなる症状がみられ、その頃から咳と痰、息切れ及び喘鳴を伴う呼吸困難発作が出現し始め、高津中央病院に受診したところ気管支喘息の診断を受けた。

その後、昭和四八年三月頃から症状が悪化して前記のとおり同年には四回の入院を繰り返すことになった。当時の発作は季節にかかわりなく重発作になることが多く、早朝急に息苦しくなって呼吸困難に陥り、布団の上で枕を抱え背中を丸めてやっと息をしている状態で唇が紫色に変わることもあった。

その後、前記のとおり転地療養を経て昭和五二年頃には症状に軽快傾向がみられて同年一〇月頃に復職するものの、同年一一月一六日に腸閉塞で入院治療することになり、右腸閉塞は改善したが、同年一二月一三日、右入院中に重症喘息発作が起こり呼吸不全により死亡した(直接死因として取り扱い)。

(八) その他

① 他の疾患

続発症・合併症として、慢性気管支炎(昭和四九年頃)

② 喫煙歴

二二歳から三六歳まで一日一〇本程度の喫煙

90 原告牛山喜與司(原告番号二次21番)(〈書証番号略〉、原告牛山喜與司)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

大正五年一二月七日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和六年まで長野県埴科郡松代町に居住

② 昭和六年から同一六年七月まで東京都台東区御徒町に居住(この間昭和一三年から同一四年五月まで兵役〔中国東北部〕)

③ 昭和一六年七月から再度兵役(中国東北部)後、同二一年三月から同二三年九月までシベリア抑留

④ 昭和二三年一〇月から同二四年一一月まで川崎市川崎区扇町に居住

⑤ 昭和二四年一一月から同三〇年一二月まで川崎市川崎区藤崎一丁目四番地に居住

⑥ 昭和三〇年一二月から現在まで川崎市川崎区殿町二丁目六番二九号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四三年(五一歳)頃

② 初診日

昭和四四年頃(向本医院)

③ 入院歴

昭和四四年六月二六日から同年八月一八日までの間日本鋼管病院に入院

(六) 認定関係

① 昭和四七年三月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和五〇年一月 公健法により障害等級三級に決定

③ 昭和五〇年九月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四三年一月頃、夜中に急に呼吸困難に陥る症状が出現し、その後、同四四年一月頃に風邪をひいたがすぐに直らず、その頃から痰も出始めるとともに喘鳴を伴った呼吸困難発作が起こり起座呼吸を呈するようになった。

そして、昭和四四年六月二六日の夜中に喘息発作がきて前記のとおり入院する事態となった。

右退院後は症状は軽快し、認定申請時の昭和四七年頃は痰は出るものの咳は出ず、呼吸困難発作もみられなかった。しかし、昭和五〇年頃から再び呼吸困難発作が起こり始め、朝方ひどい時には呼吸時に笛を吹いているような音がするほどになり一週間に一、二回呼吸困難発作が起こることもあり、また、同五五年頃にも悪化傾向がみられた。

その後は症状に大きな変化はなく、月に二回の通院を継続している。

(八) その他

① 他の疾患

併発症・随伴症として、高血圧症(昭和五〇年頃)、糖尿病(同五二年頃)

② 喫煙歴

二〇歳から五〇歳まで一日一五本程度の喫煙

91 原告藤田仁子(原告番号二次29番)(〈書証番号略〉、原告藤田仁子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和一四年九月一日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和三七年一月まで茨城県真壁郡大和村に居住

② 昭和三七年一月から同四二年三月まで川崎市桜本町一丁目三三番地に居住

③ 昭和四二年三月から現在まで川崎市川崎区小田二丁目一一番一三号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三八年(二三歳)頃

② 初診日

昭和三八年四月頃(四ツ角病院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和四六年四月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

(七) 病状の経過等

昭和三八年四月頃から咳と痰が出るようになり、その頃から四ツ角病院に通院するものの、その後も症状が悪化し、同年一二月頃には喘鳴を伴った呼吸困難発作が生じ始め右四ツ角病院で気管支喘息の診断を受けた。喘息発作時の症状は最初に咳が出て息苦しくなり始め、寝ていると苦しいので起き上がってうつ伏せになり歯を食いしばって畳にかじりついて耐える状態が続くものであって、認定を受けた頃からは右発作が起きそうな時にはメジヘラを使用するようになった。

その後、昭和五二年頃からステロイド剤の投与を受けるが、同五八年頃には特に喘息発作に悪化傾向がみられ、その頃から一、二か月に一回ケナコルトの注射を受けるようになった。最近でも月に四、五日の割合で通院を継続している。

(八) その他

他の疾患

既往症として、蓄膿症、小児期から喘息

続発症・合併症として、肺性心(昭和五七年頃)、胃症状(同六二年頃)

併発症・随伴症として、低血圧症(昭和四九年頃)

92 原告岩田綾子(原告番号二次62番)(〈書証番号略〉、証人岩田邦子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和四八年八月一五日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和五〇年三月まで川崎市幸区戸手本町一丁目五〇番に居住

② 昭和五〇年三月から現在まで川崎市幸区河原町一番地河原町団地一二―一一〇三に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四九年一一月(一歳三月)頃

② 初診日

昭和四九年一一月頃(小島医院)

③ 入院歴

なし

(六) 認定関係

① 昭和五一年一月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五一年一月 同障害等級三級に決定

③ 昭和五八年九月 同級外に変更

④ 昭和六三年六月 同三級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四九年一〇月(一歳二月)頃から痰の絡むような咳が出始め、同年一一月頃には喘鳴を伴う呼吸困難発作が起きて起座呼吸を呈するようになり、その頃には気管支喘息の診断を受けた。

認定申請時の昭和五〇年頃には特に冬季に喘息発作が起きることが多く、右発作が月に二回程度生じていた。

その後、昭和五三年(五歳)頃には殆ど毎月のように喘息発作が起こり、時にはステロイド剤を使用していたが、一旦発作が起こると二、三日連続して発作が続くことがあった。しかし、同年六月からインタール吸入療法を開始すると発作が軽減されるようになり、以後症状に軽快傾向がみられた。

そして、昭和六一年(中学生)頃になると時々喘鳴があるものの喘息発作はなくなり寛解と診断され、同六三年(中学生)にはインタールの使用も必要なくなった。ただ、最近においても時に息苦しさを訴えることがあり月に二回程度の通院を継続している。

(八) その他

他の疾患

既往症として、アレルギー性鼻炎(昭和五〇年一月頃)

93 原告早川きぬ子(原告番号三次7番)(〈書証番号略〉、原告早川きぬ子)

(一)性別  女

(二) 生年月日等

大正一五年一一月一一日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和二四年六月頃まで宮城県栗原郡鴬沢町等に居住

② 昭和二四年六月頃から同二六年まで群馬県安中市に居住

③ 昭和二六年から同四五年一〇月頃まで宮城県栗原郡鴬沢町に居住

④ 昭和四五年一〇月から同四六年五月まで川崎市川崎区桜本二丁目二六番地(東英荘)に居住

⑤ 昭和四六年五月から現在まで川崎市川崎区桜本二丁目三八番九号(松田荘)に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和五四年(五三歳)頃

② 初診日

昭和五五年三月(川崎協同病院)

③ 入院歴

昭和五七年九月九日から同年一〇月二日までの間及び同五八年頃二日間川崎協同病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和五六年三月 公健法により気管支喘息三級に認定

(昭和五六年三月五日に申請するも、同年三月二四日、認定審査会で否認され、その後、同年五月二六日、異議申立てに基づき認定審査会で右記決定)

② 昭和五八年一月 同二級に変更

(七) 病状の経過等

昭和五〇年頃から時折咳と痰の症状がみられたが、特に治療を受けることはなく過ごしていたところ、同五四年一二月頃から咳と痰の症状に加えて喘鳴を伴った息苦しさが続くようになり、同五五年三月に川崎協同病院に受診し、当初は気管支結核の診断の基に治療を受けていた。

その後、同年秋頃から明け方に喘鳴を伴う呼吸困難発作が起き、右発作時には上体を起こして壁に寄り掛かって耐えるという状態がみられるようになった。

昭和五七年八月末頃から喘鳴と痰の症状が悪化して前記のとおり入院するに至り、同五八年頃からはステロイド剤の使用も受けることがあった。

その後は症状に大きな変化はないが、昭和五八年頃から自宅で毎日朝と就寝時に吸入をするとともに最近でも月に一七、八日の通院を継続している。

(八) その他

他の疾患

既往症として、肺結核(昭和三五年頃)、腎臓結核(同四三年に診断の結果六か月間入院して右腎摘出手術を受け、その後約一年間投薬治療を受ける)

併発症・随伴症として、気管支結核(昭和五七年頃)、陳旧性肺結核(同五九年頃)

94 原告石川晃(原告番号三次48番)(〈書証番号略〉、原告石川晃)

(一) 性別  男

(二) 生年月日等

昭和四四年三月二六日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和五二年頃まで川崎市川崎区川中島一丁目二三番一三号川七アパートに居住

② 昭和五二年頃から現在まで川崎市川崎区川中島一丁目二三番九号石渡荘に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和四八年(四歳)頃

② 初診日

昭和四八年頃(観音病院)

③ 入院歴

昭和六〇年一一月に六日間、同六二年一〇月に三日間及び平成二年六月二五日から同年七月一日の間川崎協同病院に各入院(その他の入院は不明)

(六) 認定関係

① 昭和四八年九月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一一月 公健法により障害等級三級に決定

③ 昭和五三年八月 同等級外に変更

④ 昭和五四年九月 同三級に変更

(七) 病状の経過等

昭和四四年六月(生後三月)頃から喘鳴を伴った呼吸困難発作が生じることがあったところ、同四八年頃から数回にわたって右呼吸困難発作が起こって当初観音病院に受診したが、その後、大師病院に転院し同病院で喘息性気管支炎の診断を受けた。

右昭和四八年頃には月に三回位喘鳴を伴う呼吸困難発作が起こっていた。その後も通院を継続して昭和五二年頃からインタールの吸入を開始したが、同五五年頃も月に一回は発作が起こって呼吸困難に陥ることがあった。

翌昭和五六年頃からは軽快傾向がみられたものの、同五九年頃には喘息発作の症状が悪化を示し、同六二年には前記のとおりの入院することもあった。最近においては、通院日数が多い月もあるが、ほぼ月に平均二日程度の通院を継続している。

(八) その他

他の疾患

既往症として、蕁麻疹

95 原告荻野公子(原告番号三次61番)(〈書証番号略〉、原告荻野公子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

昭和一三年六月一七日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和二四年頃まで埼玉県、北九州市門司区、静岡県等に居住

② 昭和二四年頃から同三一年頃まで東京都江東区、同新宿区等に居住

③ 昭和三一年から同四九年一月まで川崎市幸区古市場一丁目五二番地、同区戸手町一丁目四六番地、川崎市川崎区池田町一丁目一二番一三号(五月荘)、川崎市川崎区南町一一番地一七(安富方)等に居住

④ 昭和四九年一月から同五二年頃まで川崎市川崎区南町七番地七(斉藤ふみ方)に居住

⑤ 昭和五二年頃から同五六年頃まで川崎市川崎区南町五番地八(小笠原方)に居住

⑥ 昭和五六年頃から同六〇年まで川崎市川崎区南町一一番地一一(大崎方)に居住

⑦ 昭和六〇年から現在まで川崎市川崎区貝塚二丁目八番二号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三二年(一九歳)頃

② 初診日

昭和三四年頃

③ 入院歴

昭和四八年六月に約二週間馬島病院(右入院以前にも入院歴あるも時期等不明)、昭和五〇年七月頃に約一か月間大師病院、同年一〇月頃少なくとも二八日間四ツ角病院、同五二年五月から同五三年四月まで一回一三日間大師病院に各入院

(六) 認定関係

① 昭和五〇年九月 公健法により気管支喘息に認定

② 昭和五〇年一〇月 同障害等級二級に決定

③ 昭和六三年一一月 同三級に変更

(七) 病状の経過等

昭和三〇年頃から咳と痰の症状が出現するようになり、同三二年頃に喘鳴を伴った呼吸困難発作が起き起座呼吸を呈し始め、その後頃から病院に受診するようになった。

昭和四七年頃から症状が悪化してその後前記のとおり入院を繰り返した。症状は、常時喉がいがらっぽく喘鳴があり、朝方頃に咳が出て呼吸困難に陥り息苦しい状態が長い時で一日中継続することがあり、重積な発作時には意識が朦朧とすることもあった。

前記昭和五〇年の大師病院入院時には手足を動かしただけで苦しくなる状態であった。その後、気管支喘息の症状自体には大きな変化はないものの、昭和三五年頃から同五九年一二月までステロイド(プレドニン)の処方を受けるとともに自ら市販のプレドニンを購入して使用するようになり、その結果、同四〇年頃から右ステロイド剤の副作用が現れ始め、ステロイド剤による肥満、膝関節症、骨粗鬆症、大腿骨頭壊死等となった。

(八) その他

① 他の疾患

既往症として、気管支炎、肺炎、肋膜炎、肺結核(昭和三六年頃に罹患し同三八年まで湘南サナトリウムに入院加療)

続発症・合併症として、ステロイドによる肥満、低副腎皮質機能(昭和五五年頃)、脊椎オステオポローゼ、膝関節症(同六〇年頃)、ステロイド骨粗鬆症、ステロイド性大腿骨頭壊死(同六一年頃)

② 喫煙歴

二〇歳から三六歳まで一日六〇本程度、その後も量は減少したものの四七歳まで喫煙

96 原告福原シマ子(原告番号三次97番)(〈書証番号略〉、原告福原シマ子)

(一) 性別  女

(二) 生年月日等

大正九月八日七日生

(三) 居住歴

① 出生から昭和一〇年頃まで栃木県下都賀郡岩船町新里に居住

② 昭和一〇年頃から同二〇年まで東京都に居住

③ 昭和二〇年五月から同四六年四月まで川崎市川崎区渡田東町三丁目七〇番地二に居住

④ 昭和四六年四月から現在まで横浜市磯子区中原一丁目八番一―三一〇号に居住

(四) 職歴〈省略〉

(五) 発症時期等

① 発症時期

昭和三八年(四四歳)頃

② 初診日

昭和三八年頃(千葉医院)

③ 入院歴

昭和四五年三月三日から一回(期間不明、検査目的)、同六二年六月一五日から二六日間、同年一一月頃(期間不明)虎の門病院、同五七年頃約二か月間磯子病院、同六二年二月から同年三月までに一二日間長浜病院に各入院(潰瘍性大腸炎の治療目的をも含む)(その他の入院歴の詳細不明)

(六) 認定関係

① 昭和四五年三月 救済法により気管支喘息に認定

② 昭和四九年一二月 公健法により障害等級二級に決定

(七) 病状の経過等

昭和三五年頃から咳と痰が出始めていたところ、同三八年頃には息切れ及び喘鳴を伴った呼吸困難発作がみられるようになった。

そして、昭和四〇年頃には布団を干していて息苦しくなり歩くこともできない状態となったこともあった。

昭和四二年三月頃から虎の門病院に通院し減感作療法及び継続的なステロイド剤の投与を受け、同四五年頃には喘息発作についてはかなり軽快していた。

その後、ステロイド剤の使用を一時行わなかったこともあったものの、昭和五五年頃から再びステロイド剤(プレドニン、ケナコルト等)を使用するようになり、重症の発作が月に五回以上生じていた時期もあったが、遅くとも昭和六〇年頃からは軽快傾向となった。ただ、その後も重発作が起きて前記のとおり入院することもあり、最近でも夜間に発作が起こることがある。

(八) その他

他の疾患

既往症として、右湿性胸膜炎(昭和三五年頃)

併発症・随伴症として、多発性肺動脈狭窄症、潰瘍性大腸炎(昭和五二年頃)、陳旧性肺結核症、呼吸不全(同六二年頃)

別表1二酸化硫黄の年平均値の経年変化〈省略〉

別表2二酸化窒素年平均値の経年変化〈省略〉

別表3浮遊粒子状物質又は浮遊粉じん年平均値の経年変化〈省略〉

別表4イオウ酸化物濃度推移状況〈省略〉

別表5二酸化いおう年平均濃度の推移〈省略〉

別表6日平均値最高濃度の経年変化〈省略〉

別表78日平均値濃度出現割合〈省略〉

別表9いおう酸化物濃度の環境基準対比〈省略〉

別表10時間値最高濃度の経年変化〈省略〉

別表11二酸化窒素年平均値の推移〈省略〉

別表12日平均値最高の経年推移〈省略〉

別表131日平均値の2%除外値〈省略〉

別表14二酸化窒素濃度の環境基準対比〈省略〉

別表151時間値最高の経年推移〈省略〉

別表16二酸化窒素年平均値の経年推移〈省略〉

別表17二酸化窒素一時間値の最高値〈省略〉

別表18二酸化窒素一時間値の一日平均値の最高値〈省略〉

別表19浮遊ふんじん年平均値濃度の経年推移

光散乱法による浮遊ふんじん濃度一時間値最高の経年推移〈省略〉

別表20ろ過捕集法による浮遊粉じん濃度の経年推移〈省略〉

別表21浮遊粒子状物質濃度の年平均推移〈省略〉

別表22浮遊粒子状物質の日平均値最高の経年推移〈省略〉

別表23浮遊粒子状物質の一時間値最高の経年推移〈省略〉

別表24浮遊粒子状物質の環境基準対比〈省略〉

別表25京浜製作所扇島地区公害対策設備概要〈省略〉

別表26日本石油化学(株)・浮島石油化学(株)の立地および製造設備の変遷〈省略〉

別表27被告企業らの硫黄酸化物排出量(Ⅰ)〈省略〉

別表28東京電力の石炭・重油使用量〈省略〉

別表29被告企業らの硫黄酸化物排出量(Ⅱ)〈省略〉

別表30東電・日本鋼管石炭・重油・鉄鉱石使用量〈省略〉

別表31昭和シェル石油の重油使用量〈省略〉

別表32被告企業らの硫黄酸化物排出量(Ⅲ)〈省略〉

別表33被告企業らの窒素酸化物排出量〈省略〉

別表34東電窒素酸化物排出

昭和石油ら7社窒素酸化物排出量〈省略〉

別表35昭和五二年度自動車NOx排出係数

昭和四九年度自動車NOx排出係数〈省略〉

別表36昭和52年度道路別NOx排出量一覧〈省略〉

別表37昭和49年度道路別NOx排出量一覧〈省略〉

別表38昭和40年度道路別NOx排出量一覧〈省略〉

別表39昭和60年度道路別NOx排出量一覧〈省略〉

別表40昭和四九年度自動車SO2排出係数〈省略〉

別表41昭和49年度道路別SO2排出量一覧〈省略〉

別表42昭和52年度道路別SO2排出量一覧〈省略〉

別表43昭和60年度道路別SO2排出量一覧〈省略〉

別表44昭和40年度道路別SO2排出量一覧〈省略〉

別表45被告煙源の諸元(煙突実高別平均値)〈省略〉

別図1主要都市におけるいおう酸化物濃度の経年変化(年間平均値)〈省略〉

別図2二酸化硫黄濃度〈省略〉

別図3日本鋼管(株)粗鋼生産量の推移〈省略〉

別図4石油精製工程概略図〈省略〉

別図5石油化学製造工程概略図〈省略〉

別図6大気汚染測定場所一覧〈省略〉

別図7被告及び訴外工場事業所分布図(昭和59年度)〈省略〉

別図8原告らの居住地(移転を含む)と道路との位置関係(1)〜(8)〈省略〉

別図9イオウ酸化物が高濃度になる風向範囲(夏)

イオウ酸化物が高濃度になる風向範囲(冬)〈省略〉

別図10イオウ酸化物が高濃度になる風向(夏季)

イオウ酸化物が高濃度になる風向(冬季)〈省略〉

別図11大気汚染濃度分布(夏期平均)

大気汚染濃度分布(冬期平均)〈省略〉

別図12SO2等濃度線(夏期平均)〈省略〉

別図13SO2等濃度線(冬期平均)〈省略〉

別図14自動車排出ガスによる風下方向のNOx濃度分布〈省略〉

別図15NOxの距離減衰〈省略〉

別表一表-1市内施設別汚染物質排出量及び使用熱量

表-2市内地区別汚染物質排出量及び使用熱量〈省略〉

別表二地域別発生源別SO2寄与濃度及び寄与率〈省略〉

別表三被告13社の硫黄酸化物到達濃度及び寄与率(昭和49年)〈省略〉

別表四被告13社の硫黄酸化物到達濃度及び寄与率(昭和41年度)〈省略〉

別表五原告別一覧表〈省略〉

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